1 若宮戸の河川区域

若宮戸24.63kの氾濫地点

手前の河道側から画面奥の仮堤防方向への氾濫により、幅30m、深さ6mの押堀ができた

 

Aug., 13, 2022

 

「勝訴」?

 

 2022(令和4)年7月22日の水戸地裁判決を報じた新聞社や放送局は、「勝訴」の札を掲げる原告団長を囲んで、数人の原告と代理人弁護士が笑顔で拍手している様子を映していたのですが、判決の主文(1–2頁)は右のとおりでした(以下、判決からの引用は画像として取り込まれたpdfの各頁のスクリーンショットでおこない、頁表示も含めることとします)。

 ウェブサイト「call4」で公開されている判決文では、原告氏名と賠償額がすべて墨消しになっているので内訳など詳細は不明ですが、記事によれば、32人の原告(31個人と1法人)のうち国家賠償認容判決を得たのは9人、賠償認容額は請求総額約3億5800万円に対して約3920万円でした。原告の人数にして3割未満、訴額では1割少々ですから、どう頑張っても「一部勝訴」の札くらいだったでしょうが、その用意がなかったのかもしれません。

 しかし、その「一部勝訴」部分についても、話は単純ではありません。

 原告代理人は、訴状で浸水被害の原因として、若宮戸(わかみやど)地点の溢水(いっすい)、三坂(みさか)地点の破堤(はてい)、八間堀川(はちけんぼりがわ)の大生(おおの)地点の破堤の3点を挙げ、それらについて国土交通省の河川管理の違法性を主張していました。このうち八間堀川については判決には一切言及がありませんから、結審前に取り下げていたようです(八間堀川に関する誤認については別項参照)。


 残る2地点のうち、三坂については大東(だいとう)水害訴訟最高裁判決の論理により門前払い同然の扱いをされ、のこる若宮戸についてのみ国(国土交通省)による河川管理上の違法行為責任、具体的には河川法上の「河川区域」設定の誤りが認定されたということのようです。しかし、判決内容を検討するとその部分にも重大な瑕疵があり、今後の控訴審・上告審のことを考えると「勝訴」だと喜んでいる場合ではない状況です。

 まず、この若宮戸における違法行為責任とそれによる浸水被害の認定に関する、水戸地裁民事第1部の判断について検討します。

 

曖昧な「本件砂丘」

 判決は若宮戸の河畔砂丘 river bank dune について、どのように定義し、具体的にどのように論じているのかを見てゆきます。

 判決は「主文」と「事実及び理由」から成ります(「事実」と「理由」を峻別しないでどんぶり勘定?にしてしまう「新様式判決」は、鬼怒川訴訟のように客観的事実が膨大で多岐にわたる場合、原告・被告双方が提出した「事実」を網羅的・体系的に記述するのには不適当のようです。しかもそこに「理由」部分が組み込まれているため、記述が錯綜してわかりにくくなります)。その「事実及び理由」の「第2 事案の概要」の「2 前提事実(当事者間に争いがないか、括弧内に掲げた証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)」の(4)(11頁)に、右上のとおり示されています。

 「B社」によって掘削されたRidge2の約200m区間のことです(Ridgeの意味など若宮戸河畔砂丘の全体と内部構造については「⥥若宮戸における河川管理史」をご覧いただくこととし、ここでは再論しません)。標高について「21.36mないし24.21m」と数値が示されています。「当事者間に争いがないか、括弧内に掲げた証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実」というのですが、その出所は示されていません。判決35頁以下の測量結果の数値(甲14−16)とも異なります。

 とはいえ容易にわかるように、国土交通省関東地方整備局「『平成27年度9月関東・東北豪雨』に係る洪水被害及び復旧状況等について」(2015年11月18日、http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000636288.pdf)の23頁の図の数値です。(この折れ線グラフの各点の数値の根拠である測線上の位置と測定値については、別ページ参照。)




 すなわち「掘削前の地盤高」図の、破線で囲まれた範囲の、2014年の掘削前の値「21.36」と「24.21」です。上流側範囲外の数値「24.22」は除外しています。ということは、「本件砂丘」はこの掘削された範囲だけを指すということです。よりにもよってこのような真相隠しのために関東地方整備局が繰り出した最悪の文書から引用することはあるまいに、と思うのですが、同じ若宮戸河畔砂丘の24.63kにおける大規模溢水を無視・隠蔽してきた原告・被告両当事者の姿勢に引きずられた結果ともいえ、本裁判の基本的な問題点がはやくも露呈しているのです。

 次に「本件砂丘」の語が現れる「第3 当裁判所の判断」の「1 認定事実」の記述です(36−37頁)。「本件砂丘」は、26.0kから24.5kまでであり、さきほどの11頁の記述とはまったく異なっています。

 上流側(26k)と下流側(24.6k)で堤防に接続していたという点は、このあと検討します。


 「第3 当裁判所の判断」の「3 争点⑴」の記述です(47頁)。

 「本件砂丘」の上流側端が26.0kで、下流側端が24.5kであるというのは、さきほどの36-37頁と同じです。

 さらに、ここでも、下流側の端部から0.1km手前の24.6kで「堤防と接していた」としています。「本件砂丘」は、下流端ではなく、その0.1km手前で「堤防と接していた」というのです。いったん「堤防に隣接」したあと、さらに0.1km「本件砂丘」が続いているということのようです。図も写真もありませんし、こんな奇妙奇天烈は到底理解不可能です。このあと検討します。


 

 3か所の記述を見ました。

 若宮戸河畔砂丘を「砂丘」と呼称しています。原告の「砂丘林」、被告の「自然堤防」「砂堆(さたい)」などの、誤った呼称は採用しませんでした。しかし、「河畔砂丘」と正しく呼ぶことはとうとうせず、「砂丘」でお茶を濁しています。いくら当事者主義だとはいっても、高校の「地理」で習う一般教養レベルの地理用語を正確に用いないのはいかがなものかと思います。

 47頁のこの後の記述中に「実態的に堤防のような役割を果たしている地形(自然堤防)」と、国土交通省が誤った用語をもちいているのを無批判に踏襲する記述があります。一応、全体としては「自然堤防」は回避したものの、不徹底です。よくわかっていないのです。

 こういう中途半端なことをするくらいですから、肝心の「本件砂丘」の範囲を記した部分で、齟齬が生ずるのです。

 これは問題の端緒にすぎません。「本件砂丘」は一旦「堤防に接続」したあとも0.1km続くという理解不能な形状なのです。この混乱の原因・理由を探ることで、水戸地裁における裁判全体の問題性があきらかになります。

 

「山付き堤」の誤解

 この「0.1km」には本質的問題が潜んでいます。

 判決47−48頁は、続けて、「堤防に隣接する土地」について言及します。ここで常に誤用される用語「山付堤」(「山付き堤」)が登場するので、話が混乱します(この件については別ページで詳述しました)。

 「山付き」とは、或る形態の堤防を指す用語です。すなわち、「山」に付いている(=「山」に接続している)堤防です。河川に沿う「山」が、河川水の流出・氾濫を防いでいるので、そこに敢えて堤防を作る意味はなく、そこまで延びてきた堤防が、「山」に取り付いた地点で終端(始端と言っても同じです)になっている、そのような堤防という趣旨です。「山」には、まさしく山のほか、更新世段丘(洪積台地)、河畔砂丘などがありますが、まさか自然堤防 natural levee ということはありません。自然堤防では、標高が低すぎて通常時はともかく洪水となるとその流出・氾濫を防ぐことはできないわけですから。

 河畔砂丘と自然堤防を混同すると、このようなことがまったく理解できないことになります。


 

 「山」に接続する堤防が「山付き堤」です。それなのに、「山」の方を「山付き堤」と呼んだのでは、支離滅裂でまったく意味が通じません。判決は、原告代理人が甲第30号証として提出した『よくわかる河川法』の記述にしたがっているわけですが、この書籍は国土交通省の職員が執筆したものです。原告代理人の弁護士・被告指定代理人の訟務検事・裁判所の判事が揃って間違った言葉づかいに疑問を持たず、迂闊にも使用しているわけです。その3者の間では話が通じる?のでしょうが、読み手の国民を困惑させる失態です。「山付き堤」は法令用語ではありませんし、厳密なテクニカル・タームでもなく、同業者?が身内で慣用してきた業界の隠語なのでしょう。こんな錯誤が許されるわけはありません。

 

若宮戸河畔砂丘の人為的地形改変

 

 以下、若宮戸河畔砂丘における堤防との接続状態について、具体的に検討します。

 このことについては、別項(「若宮戸における河川管理史」1–11頁)で詳細に検討したことを前提にしますので、あらかじめ一覧いただきたいと存じます(画像の出典なども示してあります)。若宮戸河畔砂丘の内部構造(ridge〝畝〟の概要)、上流側・下流側堤防との位置関係、河川法上の「河川区域」の例など要点を抜き書きし、さらにそれらに各時期の背景画像を重ね合わせたものをいくつか示します。

 人為的地形改変について総合的・全体的に見ようという訳ではありません。上流側・下流側それぞれで、「山付き堤」たる堤防と「山」たる若宮戸河畔砂丘との接続状況を確認し、その接続如何が氾濫を防御するうえで機能を発揮したのか否か、その帰結を通観します。若宮戸河畔砂丘について、25.35k一帯の太陽光発電所地点からの氾濫だけしか見ないことが短慮であることが浮き彫りになります。

 

◎ 明治初期の陸軍作成の「迅速測図」に描かれた若宮戸河畔砂丘

 以後のすべての地形図より精確です。最近の国交省発注による測量図は、砂丘全体が半分以上破壊されてしまったあとのものです。本来の状態の若宮戸河畔砂丘の内部構造が表現されている地図は、これが唯一です。

 

◎ 迅速測図に描かれたridge〝畝〟構造を抽出する

緑が東側の最大の〝畝〟であるRidge1(破線はT.P. = 30m の等高線)、黄がRidge1から分岐しそれに次ぐ規模のRidge2、青がRidge3、紫が小規模なRidge4。多少の歪みを航空写真・測量図により補正ずみ。ridge〝畝〟の用語は当サイト独自。

 

◎〝畝〟構造に、距離標示等を描き加える

河道の距離標示(線分の両端が距離標石位置)、おおまかな4区分(距離標示の500mごとに上流側の第1クォーターから第4クォーターまで)、河川法改正後の1966(昭和41)年に建設大臣が告示した河川区域(赤実線)、下館河川事務所の「管理基平面図」の「河川区域」(告示と食い違う赤破線)

 

◎ そこに「河川区域」案を描き加える

 大臣告示による河川区域境界線をRidge3型(赤挟み白)としたうえで、原告代理人が主張した河川区域境界線をRidge2型(赤鋏み黄)、河川法改正時に設定すべきであった境界線をRidge1型(赤挟み緑)として描き加えたもの。

 判決は、国が設定すべきであった河川区域として、一応Ridge2型を想定しているようです。

 

◎ さらに上下流堤防を描き加える

 判決が、「本件砂丘」が「接続」しているという上流側の堤防(1935〔昭和10〕年完成の鎌庭捷水路〔かまにわ・しょうすいろ〕の左岸堤防、上流側青破線)と、下流側の堤防(1952〔昭和27〕年完成の左岸堤防、青実線)という2つの「山付き堤」を描き加えたもの。

 

 以上のridge構造、距離標示、告示された「河川区域」と別案、河畔砂丘に接続する堤防を、各時期の航空写真に重ね合わせてみます。これだけでも、「河川区域」3類型の妥当失当が、ある程度はわかります。

 

◎ 迅速測図と重ね合わせる

もちろんこの頃は、河川法上の「河川区域」の概念はありませんし、鬼怒川では大半の区間には堤防はありません。

 

◎ 1961(昭和36)年7月

 鎌庭捷水路左岸堤防は26.0k手前で若宮戸河畔砂丘に接続しています(黄矢印)。当然、Ridge1の方が標高が高かったわけで、これが「山付き堤」です。(ただし、後に接続地点の〝畝〟が掘削されて堤防天端より低くなってしまいます。)

 第4クォーターは、耕地化目的のためにアジア・太平洋戦争前にすでに掘削低平化され(特にRidge1だったところに注目)、そのために1938(昭和13)年水害が起きたようです。やっと1952(昭和27)年に堤防が築かれました。

 その堤防はRidge2を嵩上げする形で築造されたのですが、24.5k付近(赤矢印)で60度向きを変え24.63kで(橙矢印)Ridge1に接続しました。

 

◎ 1964(昭和39)年5月

 寄州(side bar)で大規模な採砂がおこなわれていますが、まだ若宮戸河畔砂丘本体の掘削低平化ははじまっていません(一部〔「Ridge1型」ラベルの上、上で述べた上流端、24.5k地点近く〕で伐採が行われていて、掘削もおこなわれている可能性があるのを除く)。若宮戸河畔砂丘の掘削は1964年の東京オリンピックのためのものだった、というのは事実に反します。

 上下流端でRidge1に「山付き堤」が接続している状態です。しかし、翌年の河川法改正の時点で建設大臣は、橙矢印と黄矢印を結ぶ「Ridge1型」の河川区域境界線を設定しませんでした。

 

◎ 1967(昭和42)年3月

 河川法改正の翌年末(1966年12月)に図のRidge3型の線形で河川区域境界線が告示されました。それから3か月で写真のとおり第2クォーターのRidge1があらかた掘削されてしまいます。主目的は砂の販売です。掘削は河川区域告示を見越して、その前から始まっていたかもしれません。

 注目すべきは、Ridge2の「*」地点です。この標高の高い地点はまだ手がつけられていません。

 ◎ 1968(昭和43)年8月

 それから1年5か月です。第1クォーターのRidge1の〝尾根〟部分と東側、第2・第3クォーターのRidge1がほぼすべて掘削低平化されました。かなりのハイペースです。上のRidge2の「*」地点も掘削低平化されてしまいました。こうして、「*」地点を失ったRidge2の東側斜面が、第1クォーターから第3クォーターの堤防の60度屈曲部まで、ほぼ一直線に続くことになります。

 この時点で、Ridge2の削り残された25.35k前後区間はかなり低くなり、計画築堤高や計画高水位を大きく下回ることになりました。そして、2015年9月10日の、計画高水位を下回ったものの22mに達する洪水により大氾濫が起きたのです。

 

◎ 2014(平成26)年3月

 土地を新たに購入した県外の地主(「B社」)が、残っていたRidge2の25.35k付近を差し渡し200mにわたって掘削低平化している最中の衛星写真です。森林法による届出をおこなわずに森林を伐採したうえで(別ページで詳述)、標高20m以下に整地しているところです。

 

◎ 2015(平成27)年2月

 すでに「B社」の太陽光発電所が完成しています。7か月後に氾濫がおきることになります。

 

◎ 2015(平成27)年10月9日

 氾濫は、25.35k地点と24.63k地点の2か所で起きています。9月10日から1か月経過し、そのふたつの氾濫地点に大型土嚢積みの仮堤防が設置された段階です。もとの河畔砂丘の東側(「Ridge1型」境界線案の画面下方)に大量の砂が流出堆積しています。河川区域3類型のラベルの左端あたりが2か所からの流出の境界です。24.63k地点の氾濫もかなり大規模だったことが窺い知れます。(次ページで検討します。)

上流側の堤防と河畔砂丘の接続状況

 

 上流側の「山付き」状況については、別ページ(「4 Ridge3型大臣告示の検討」)で詳細に検討した結論を記します。

 鎌庭捷水路が開削(1935〔昭和10〕年通水)された際に新造された堤防は、若宮戸河畔砂丘に「山付き」になっていた(下図の黄矢印)。すなわち、堤防は天端高(約25m)より標高の高い砂丘のridge(Ridge1)に接していた。その状態が1960年代なかばの河川区域の告示図に砂丘の北端部分の標高「・26.1」と記録された。その後砂丘北端が河川区域境界線を挟んで掘削され堤防天端より低くなった。その状態が2003年度の測量図に記録された。

 

下流側の堤防と河畔砂丘の接続状況

 

 下流側の「山付き」状況については、同じページ(「4 Ridge3型大臣告示の検討」)で詳細に検討した結論を記します。

 下流側の堤防は、設計はアジア・太平洋戦争(1937〔昭和12〕年–1945〔昭和20〕年)期におこなわれていた可能性が高いが、築堤工事は戦後になってからおこなわれ、完成したのは1952〔昭和27〕年である。この堤防は、若宮戸河畔砂丘のRidge1に「山付き」になっていた(上図の橙矢印、下図の橙丸)。すなわち、堤防は天端高(22.453m、2003年度の測量図の数値)より標高の高い若宮戸河畔砂丘のRidge1(下図の緑線)に接していた

 その後、Ridge1は1960年代後半に一部を残して掘削されたが、この「山付き堤」が接続していた地点はおそらく墓地だったために掘削を免れて現在も残っている。

 

 

 下の写真は、上図中のカメラ位置(📸、水害直後は押堀になっていたが、埋め戻され堤体土の置き場・ブレンド場になっている)からこの接続地点を撮影したものです。右に見えるのが1952年堤防の川表側法面で、画中央の墓地はこの「山付き堤」が接続しているRidge1部分です。今はこのように孤立した小山になっていますが、1960年代なかばまでは、徐々に標高を上げながら上流側(左方)26.0k付近まで続いていました(若宮戸全域に築堤後の2018年6月18日、樹木に隠れているのは17km彼方の筑波山)。

 測量図からもわかることですが、水平に撮影した写真なので、「山付き堤」である1952年堤防の天端より、「山」であるRidge1の方が標高が高いのが一目瞭然です。当然の事実です。

下流側の堤防と河畔砂丘の接続状況についての勘違い

 

 ここからが中心的論点です。

 この下流側の堤防は、若宮戸河畔砂丘のRidge124.63k(さきほどの図の橙丸地点)で接続する「山付き堤」です。ところが、ほとんどの場合、Ridge224.5k付近(さきほどの図の赤丸地点)で接続する「山付き堤」であると誤解されているのです。

 さきほどの1966年の河川区域告示の図で、その赤丸部分を見てみます。大臣告示には、等高線が一切描かれていないうえ、ところどころにしか標高が記されていないのですが、1952(昭和27)年に築堤された堤防の60度屈曲部にはどういうわけか集中的に標高が記されています(まるで「山付き堤」ではないことを明らかにするためであるかのように!)。天端高として23.5m、24.1mのふたつ(赤楕円)、堤外側すなわち河川区域になるRidge2地点に20.7mと20.8mのふたつ(橙楕円)です。堤防天端の方が、それが接続?しているRidge2より、3m前後も高いのです。「山付き堤」の方が、それが接続している「山」より高い、などということはありません。そのようなものを「山付き堤」などと呼んではなりません。

 ただし、0.7mと20.8mが最高標高だというのではないようです。とすると、どうしてこの0.7mと20.8mの2地点について摘記したのかよくわからないのですが。

 

 2003年度の測量図です。40年近い時間的経過のうちに地盤沈下が進行したようですが、それでも堤防天端はRidge2より明らかに高いのです。1966年の告示図のように堤防直下の標高は記されていませんが、20m・21mの等高線が引かれているので、地形と標高差は一目瞭然です。どうみても「山」に「山付き堤」が接続している状態ではありません。画面右に、並行して河川区域境界線が引かれている市道東0280号線が、Ridge2を切り通して横断していますが、その切り通しがなかったとしても、Ridge2が堤防天端高を上回ることはありません。

24.63kの氾濫による押堀と堤防洗掘

 

 24.63kでの氾濫の機序は次のとおりです(「⥥若宮戸の河畔砂丘 4 24.75kの氾濫」と「⥥若宮戸における河川管理史 7 Ridge2型河川区域案の検討1」で検討したことの概要です)。

 下流方向(第4クォーター)から河畔砂丘(だったところ)を遡上してきた洪水は、水管橋をくぐって標高18m少々の低平な牧草地を満たした後、18.43mの青四角c地点、さらに19.18mの青四角d地点から市道東0280号線の切り通し部に入り、午前6時ころに青hの19.979m地点付近から陸田へ「ちょろちょろ」(目撃者の言葉通り)と流れ込みました(青実線矢印)。やがて洪水位が上昇すると、市道東0280号線と堤防の60度屈曲点の間のRidge2が水没して本格的な流入が始まり、ついには巨大な押堀(10月9日のグーグルの航空写真だと長さ約90m・幅約30m、深さは国交省発表によれば6m)を形成して、数万㎥の砂を噴き上げながら大氾濫を起こしました。氾濫流は60度屈曲部の川表側法面も洗掘しました(青破線矢印)。

 

 上の写真(2015年11月19日)は巨大押堀の河道側半分で、氾濫水は左から入り、Ridge2を深く掘り下げて、右方向へ流れました。手前岸は、仮堤防建造に際して整地してありますが、押堀の対岸は一切手が入っていません。対岸のロープ張りが高くなっているあたりで、断面から橙色のチューブが垂れ下がっているのは、市道東0280号線の路盤に埋設されていた送電線です。

 下の写真(同日)は巨大押堀の流出先側。陸田の粘土質の地盤(砂地のままでは稲田にはなりません)が下から捲きあげられて破れた破断面が見えています。画面右奥は盛土の上に大型土嚢を3段積みしてカバーをかぶせた仮堤防です。高さ5mほどあり、上流側の25.35k区間の3段積み仮堤防の2倍の高さがあります。ここの氾濫水の水深がいかに深かったかわかります。

 下の写真は、堤防の60度屈曲部の表法面の洗掘地点に充填された土嚢です(2015年12月18日、奥に見えるトラス構造物は鬼怒川水管橋、直下に24.5k距離標石)。

 さきほどの巨大押堀を見た後だとたいしたことはないように見えますが、堤体土が数百立方メートルも抉られています。もうすこしで破堤する危険性がありました。(右のグーグルの航空写真〔2015年10月9日〕にも、屈曲点の川表側の木陰に白く土嚢積みが写っています。)

 手前の砂の斜面は、仮堤防工事のための斜路を造成した盛土です。この下も洗掘されていたでしょう。

 

 仮堤防工事がはじまったばかりのグーグルの航空写真です(多方向から撮影した画像からの合成画像ですが、CGによる「虚像」ではなく実写画像です)。さきほどの10月9日の衛星写真だと、樹木と押堀の水面の区別がつきづらいのですが、これは押堀の水面がよくわかります。

 25.35k地点の仮堤防が完成し、機材と人手を24.63kに投入して仮堤防の工事が始まった直後です(25.35k仮堤防が完成した2015年9月17日の数日後)。さきほどの堤防の斜路が作られ、仮堤防の基礎部分の盛土工事が始まったばかりです。途中の切れ目は、右側の陸田の先まで噴き上げられて堆積している砂を、押堀の「右岸」側に運んで整地するための通路です。砂は外から運び込むまでもなく、現地調達です。重機が整地作業をしている様子が写っています。このあと、おそらく下流側堤防天端を通って千個近い大型土嚢を運び込み、基礎盛土の上に3段に積み上げるのです。

 測量図を重ね合わせます。

 この段階で押堀の水面は、幅約30m、長辺約80mです。9月10日の氾濫時の洪水位は、この時点の水面の水位より当然高かったのです。氾濫水の流入幅は、上流側は21mの等高線の手前、下流側はさきほどの屈曲点の洗掘箇所までの約90mに及んだはずです(白両矢印)。

 中間付近に22.21mの地点があり、このあたりの最高水位は約21.8mのようですから、すこしは頭がでていたかもしれませんが、その分を差し引いたとしても、かなりの流入幅です。また、その幅90mのうち、押堀部分は国交省発表で深さ6mとされています(ただし、基準面が不明です)。

 氾濫水量は実測など到底不可能ですから、推計するしかありません。氾濫水量は流出地点の断面積に比例するものとしてシミュレーションするようです。これだけの幅と押堀の深さからして、この24.63k地点からの氾濫水量は膨大だったに違いありません。これ以上の検討は次ページでおこないます。

 黄線は「Ridge2型河川区域境界線案」です。仮に、このように河川区域境界線を設定してあったとしても、そんなものは紙のお札を貼り付けた「封印」も同然で、洪水に対しては何の意味もありません。この地形では氾濫を押しとどめることはできないのは明らかです。

 

 以下の3枚は、河川区域境界線がそれに沿って引かれていた市道東0280号線の地上写真です(2015年10月26日)。

 市道東0283号線との交差点から、市道東0280号線がRidge2を横断する「切り通し2」を写したものです。切り通しの崖面の高さは1m少々です。遠くの人影は、下館河川事務所の案内で現地を見物しているどこかの視察団で、押堀の対岸にいます。

 

 上の写真で道の右側奥に見えている太い樹木の手前です。「立入禁止」の札をぶら下げて、切り通し地点(先ほどの図の「切り通し2」)の真ん中あたりに渡されていた虎ロープが落ちてしまっています。向こうに虎ロープを2段に張ってある杭の向こうが、押堀の崖っ淵です。

 この付近の標高は20mくらいですから、2m近く冠水したはずです。

 

 崖っ淵の手前の虎ロープ越しに押堀と対岸を撮影しています。押堀の対岸、真正面に見える橙チューブは、市道東0280号線の路盤に埋設されている送電線です。此岸はもとの路盤面ですが、彼岸は仮堤防建造に先立って、かなりの砂を入れて整地してあります(現地調達でしょう)。紅白鉄塔の手前の緑色が堤防の川表側法面、左の白シートが仮堤防で、このふたつが、Ridge1に「山付き堤」として取り付いています。仮堤防の終端付近に小さく墓石が見えます(さきほどの2018年6月18日の同地点の写真参照)。

 

 先にも見た写真ですが、上の地点を対岸から見たところです(2015年11月19日)。黄丸が市道東0280号線の断面の崖っ淵です。そこから飛び出している橙チューブは、市道東0280号線の路盤に埋設してあった送電線です。

 黄丸の崖っ淵は、流失した「切り通し1」と、先の写真の「切り通し2」の間の地点で、このとおり、南東側(下流側、画面左側)は下り斜面になっています。午前6時ころに左の牧草地を満たした洪水がここから路面に上昇し、手前の流失した「切り通し1」を通って、河川区域境界線を横切って陸田へと「ちょろちょろ」と流れ込んだのです。

 さらに水位が上がると、氾濫水の主流は画面左の押堀の始点から流入するようになります。最初の流入口からすこし離れた地点が氾濫流の主な流入口になったのです。市道東0280号線の切り通しがなかったとしても、溢水開始時刻が少し遅れただけで、氾濫は起きたと考えられます。市道東0280号線の切り通しが24.63kの大氾濫の原因ではない、ということです。

「山付き堤」をめぐる判決の昏迷

 「Ridge2型河川区域境界線案」を実行していたとしても、この氾濫は回避されなかったことは明らかです。60度屈曲点から市道東0280号線の北側までのRidge2の標高は22mをかなり割り込んでいて、計画築堤高はもちろん計画高水位にも及ばないどころか、計画高水位以下だった2015年9月10日の洪水でさえ、防げなかったのです。形式上そこを河川法第1条にいう「三号地」に指定してあったとしても、ここでの氾濫は不可避でした。

 

 判決47ページの「下流側の端である左岸24.6km地点は〔……〕下流の堤防と接していたから、『堤防に隣接する土地』と認められる」という事実認定は、誤りです。

 「実態的に堤防のような役割を果たしている地形(自然堤防)として挙げられ」というのは、ここで「自然堤防」という誤った用語を用いている点ですでに失当ですが、そうと指示することなく国交省作成の文書(甲第17号証)の記述を無批判に援用していて、形式的にも内容的にも不適切です。

 「山付堤」の呼称も先述のとおり誤用です。

 「現況堤防高が計画高水位を上回るとされ」というのは無堤区間について「堤防高」を論ずる国交省の悪習に引き摺られたのでしょうが、趣旨も根拠も不明です。

 「若宮戸地区が山付堤であったことや被告が本件砂丘に堤防としての役割を認めていたことが否定されるものではない」というのも、事実と被告の判断とが一緒くたになっていて失当です。

 かくのごとき、ほとんど意味不明の言明を「したがって」で受ける48ページの結論、すなわち、「本件砂丘は、『地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地』に当たると認められる」という文は、数多くの錯誤の上に組み立てられた、いかなる理由根拠もない支離滅裂な命題です。


 「本件砂丘」の範囲は「左岸24.5kmないし26km」であるとしながら、「下流側の端である左岸24.6km」が「下流の堤防と接していた」というのは、つぎのような事項を指しているのです。すなわち、「本件砂丘」の範囲は「左岸24.5kmないし26km」であるというのは、Ridge2の下流端が下図の赤矢印地点、つまり堤防の60度屈曲点である24.5kであるという趣旨でしょう。一方「下流側の端である左岸24.6km」が「下流の堤防と接していた」というのは、Ridge1が下図の橙矢印地点で堤防に連なっているという趣旨でしょう。そして、橙矢印では堤防が「山付き」しているのに、そうと断言していないのに対し、赤矢印では堤防は「山付き」しているのではないのに、「山付き」していると誤断しているのです。

 


 「一部勝訴」部分の「主文」を導出した「事実及び理由」の錯誤を指摘しているわけですが、全面敗訴とすべきだったという趣旨ではありません。

 全面勝訴とすべきだったのですが、そのためには裁判所は妥当な「事実及び理由」を立論構成しなければならないのです。そうはならず、裁判所がかくも錯誤に満ちた「事実及び理由」しか書けない原因は、「山付き堤」という用語について日本語文法をわきまえない、「山」と「山付き堤」との標高関係という本質的事項に無頓着である、高等学校程度の知識を欠き「自然堤防」の語を誤用する等々、一般常識を欠いている裁判所判事の能力資質の水準にあるというほかありません。数十件の裁判を抱えていては、「求釈明」を繰り出して原告被告の立証努力を促して真相を明らかにする、そんな余裕もないのでしょう。しかし、そうであればこそ、あれこれの見えすいた詭弁を弄するのみで、積極的主張を提出しようとしない被告指定代理人は論外としても、原告代理人がそれらの初歩的誤謬をあらかじめ糺した上で、若宮戸河畔砂丘に関する事実関係を全面的に明らかにして、全部認容判決を基礎付けるに足る「事実及び理由」を積極的に提示すべきだったのです。水害を論ずるのに、正確で詳細な地図や写真を示すこともせず、抽象的な数値や空疎な判例解釈ばかり縷説したところで、土地勘がないのはもちろんのこと、一般常識すら覚束ない判事を教導説得することは不可能でしょう。

 二審においては「一部勝訴」判決部分の維持は容易ではないでしょう。関東地方整備局・下館河川事務所職員の指定代理人は全員が名前だけで、法務省のあまり経験のなさそうな訟務検事一人が実質的な指定代理人としてとりくんできた、しかもその一人すら途中交代して、裁判開始時の指定代理人は全員が入れ替わって誰も残っていないという無責任体制が、全部棄却で当たり前のところ屈辱的な「一部敗訴」判決をもたらしたのです。二審ではすこしは本気になって取り組むに違いありません。なにより、上告審で破棄差し戻しされるような大失態を避けるために、東京高等裁判所は厳格な精査をおこなうことになります。そうなると、錯誤と矛盾に満ちた、穴だらけの一審判決が無事持ち堪えられか否か、楽観は許されないでしょう。

 ページあたり容量の限界ですので、ページを改めます。原告被告双方が無視した24.63kの大氾濫の事実を明るみに出すことで、若宮戸河畔砂丘における氾濫の影響範囲をごく狭い範囲に局限した一審判決の本質的錯誤を解体し、全部認容の結論を導出する「事実及び理由」を提起することが可能となるのです。