三坂堤防の危険性と破堤状況

再建後すぐに陥没し始めた三坂の堤防。遠景は筑波山(2020年9月3日)

川表側法面に21kの距離標石、アスファルト面に「21.00K」のペイント、川裏側法肩に鹿島と大成による掲示板。

 

Oct., 16, 2022

 

 前ページでは、若宮戸河畔砂丘における第2の溢水地点である24.63kの氾濫断面積は、最大で300平方メートルであることを確認しました。次に、これを三坂の氾濫地点と比較します。氾濫量を推算するための客観的データがほとんどないのは、三坂も同様です。

 氾濫水量の推定は、当然ながら容易なことではありません。河道の流量であれば、さまざまの測定手法があり一応の実測は可能なのですが、溢水や破堤による氾濫水量をその場で実測するのは到底不可能です。そこでさまざまの推計手法が案出されるのですが、土木学会員らのシミュレーションは、裏付けのない出鱈目な初期値を、「本間の氾濫公式」とか簡易ソフトの「iRIC」に代入して捻り出した杜撰な空想に過ぎません(別ページ参照)。なにより悪いことには、国交省より賜った金科玉条の総氾濫量「3400万㎥」に辻褄を合わせるようと四苦八苦するのが関の山で、客観的事実としての氾濫水量を推定しようという気はさらさらないのです。答えを見てから数学の問題集を解き、それで勉強した気になっている中学生のようなものです。河川行政に従属する現代日本の土木工学 civil engeneering は、サイエンス science とは全く異質のようなのです。

 「裏付けのない出鱈目な初期値」といいましたが、若宮戸の2か所と三坂の都合3か所について、基本要素である氾濫断面積すらまともに検討されてこなかったのです。若宮戸の24.63kについては前ページで見たとおりですが、三坂についても同様です。それどころか、三坂については氾濫断面積算出の前提となる破堤幅さえ、出鱈目な値が確定してしまっているのです。

 というのも、三坂についても、若宮戸で「河畔砂丘」と「自然堤防」とが混同され、結局のところ訴訟においても正確な事実認識に到達しなかったのと似たような混乱が起きたのです。堤防が損傷した状態を「決壊 collapse / burst」と、そのうち堤体が流失して河道から堤内地に河川水が直接流入するようになった状態を「破堤 dyke break」と、厳密に言い分ける必要があります。日常語では「破堤」という語は用いられることはなく、もっぱら「決壊」で用が済むのですが、河川行政や土木工学、さらには訴訟すなわち法の解釈と適用においてはそれでは具合が悪いのです。三坂については、水害直後から関東地方整備局河川部が不正確な数値を提示したのですが(それどころか、翌朝まで越水・破堤箇所を「三坂」ではなく「新石下〔しんいしげ〕」だと誤って広報していたのです)、国策派の「専門家」はもちろんほとんどの関係者が、基本的事実について最低限の注意すら払わず漫然と議論を進めてきたため、結局水戸地裁判決においても破堤幅という意味で「決壊幅」の語が用いられ、しかもそれが「200m」だったという不正確な数値が “争いのない事実” になってしまったのです。

 


○ 三坂21kの流入断面積を推計する

「破堤幅200m」は不正確

 判決文の「事実及び理由」の「第2 事案の概要」の「2 前提事実(当事者間に争いがないか、括弧内に掲げた証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)」の「(4)イ 常総市上三坂地区」)(11−12頁)は右のとおりです。

 越水によって川裏法尻の洗掘が生じ、「小規模な崩壊が継続して、決壊に至った」とか、「パイピング〔……〕については、〔……〕発生したおそれがあるため〔……〕決壊を助長した可能性は否定できない」など、「証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実」とはいえず、「当事者間に争いがない」ともいえない記述が連続します。過去の事実について「発生したおそれがある」というのも、おかしな言い方です。

 このページでその全部について議論することはできませんから、とりあえず、末尾の「当初約20mの決壊幅が、時刻が経過するごとに広がり、最終的には約200m幅に達した」との記述に注目します。


 「決壊幅」とは、本来なら破堤幅というべきところですが、その誤った用語法と数値に関して、水害直後の国交省発表から見ます。まず「第1回鬼怒川堤防調査委員会資料」(2015年9月28日)19頁、その次は「鬼怒川堤防調査委員会報告書」(2016年3月)3-23頁の、決壊破堤区間の立面図です(https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/index00000036.html)。

 


 

 「報告書」3-23頁右下「決壊区間」の小さな図などひどいものです。この時期の関東地整河川部の広報文書は、胡散臭いポンチ絵ばかりで、事実解明の障害にしかなりません。グーグルの航空写真を見てみます。

 9月12日の9:01にグーグルがおそらくヘリコプターから撮影した写真です(ウェブサイト「グーグル・クライシス・レスポンス」、DSC1502、公開終了)。俯瞰しているので、地盤の高低差やその湛水位との関係がよくわかります。河道の水位はだいぶ下がっています。11日夜から上流側(左方)で鹿島(かじま)建設、下流側(右方)で大成(たいせい)建設による仮堤防建設工事がはじまっています。氾濫流のとくに強かった範囲では、堅固な地下構築物の上に建っていたガソリンスタンド(中山石油)を除いて、すべての家屋・樹木が流され、地盤表層も侵食されて氾濫水を湛水しています。上の報告書の「川裏側断面」〔堤内側断面〕のグレーの部分が、地盤が抉られた部分です。写真の中央に不思議な形状の地盤が残っていますが、かつて施工された堤体基礎地盤と思われます。

 さきほどの第1回委員会資料中の「川裏側断面」では「Ac1」にあたりますが、この地層断面図はかなり不正確です。礫・砂まじりの層まで粘土層(Ac1の“c”は粘土 clay の意)として一様の青に着色してしまっているなど、まったく信用できません。関東地整河川部の役人からこんなものを示された「堤防調査委員会」の委員の面々は、ろくに見もしないで「調査」したつもりになり、都合よく手玉にとられていたのです。

 

  堤防が損傷した状態を「決壊」と、そのうち堤体が流失して河道から堤内地に河川水が直接流入するようになった状態を「破堤」と、厳密に言い分ける必要があります。「決壊」したのは、B区間からG区間までの法線形で195mです。B区間の30mは早い時期から越水していたうえ、川表側法面から天端にかけておおきく抉られたものの(=「決壊」)、堤内側法面がかろうじて残りましたから「破堤」にはいたっていません。この区間では越水による少量の氾濫があったものの、半身になった堤体が残ったので洪水の直接流入は起きていないのです。「破堤」したのはC 区間からG区間までの165mです。165mとはゆるやかに弧を描く法線形の長さであり、直線距離は160mです。この直線距離160mの区間では、堤防が全部失われ、さらに堤体基礎地盤まで掘り込まれて、その断面から洪水が堤内地に直接氾濫しました。ほとんどの調査報告・見物記がこうしたことを無視し、〝決壊幅は約200m〟 だったとしています。水害後に急造された仮堤防の延長が直線距離で200mなので、単純にそれが(破堤幅を意味する)「決壊」幅だと思い込んだ、ということかも知れません。

 「破堤」前に、越水していた区間を両矢印実線で、越水していなかった区間を両矢印破線で示します。すなわち、越水していたのは、B・C区間とE・F区間です。関東地方整備局発表によると12:52にF区間が「破堤」し、あとは氾濫水が上流側と下流側の断面を洗掘することによって、「破堤」幅が上下流側へと広がったのです。翌朝、明るくなった時点で見えるようになった最終的な「破堤」幅が165m(直線距離は160m)ということです。


 

 9月11日10:00ころのグーグルの衛星写真です(Windows ないし MacOS 上の GoogleEartth Proで過去の写真を表示できます)。上の9月12日9:01 の写真より河道の水位は70cmくらい高く(鎌庭水位流量観測所の数値から推定)、(元の)堤内側の押堀の湛水位もかなり高いようです。

 

 さきほどと同じように、「決壊」区間と「破堤」区間の区別、越水の有無、さらに「破堤」の順序がわかるように区間わけをします。

 

 破堤した下流端は、堤防断面がはっきりわかるので一目瞭然ですが、上流端についてはほとんど見誤っています。B区間の堤防は、上流側では川表側法面が洗掘され下流側では天端まで洗掘されているのですが、川裏側法面が残っています。決壊はしたものの、破堤にはいたっていませんから、洪水は(越水したのは除いて)堤内へ直接流入してはいないのです。このような状況について総合的に考えると、このB区間のうち下流側区間も、B区間の上流側区間同様、破堤してはいないと見るべきでしょう。

 ただし、「鬼怒川堤防調査委員会」委員長代理の清水義彦・群馬大学教授は、激しく越水していたB区間が破堤しなかったことに気づいて、その理由についてあれこれ推理をしています。ただし越水していたB区間ではなく、越水していなかったその上流側(A区間)について法尻から堤内の様子を見たうえでの間違った推理になっています別ページ参照)。

 以下、この点について詳述します。

 

 仮堤防完成後のB区間の川裏側法面と、ケヤキ、そして堤内の加藤桐材工場の建物です(2015年10月27日)。仮堤防取り付け部分、流失した天端と川裏側法面の法肩は盛り土されていますが、次の写真と比べるとわかるように、川裏側法面下部は水害時のままです。

 加藤桐材工場の倉庫のうち、上流側つまり画面左側の白壁と赤腰壁の低層部分は越水により薄いベニヤ板が変形していますが、それ以上には損壊していません。この部分の法面は法肩まで残っています。下流側の茶壁と赤腰壁の部分はほとんど変形していません。窓ガラスも割れていません。破堤して洪水が直撃したのであれば、到底ありえない状況です。

 ケヤキも残っています。しかし、ケヤキがあったからB区間の川裏側法面が洪水に耐えた、というわけではありません。EFG区間の堤内には数多くの大樹がありましたが、地盤ごと全部が流され、ただの一本も残っていません。

 少々撮影位置が違うのですが、国立研究開発法人防災科学技術研究所(略称「防災科研 NIED 」、茨城県つくば市)が9月12日の現地調査の際に撮影したものです(20150912-153925-nied-k.jpeg 写真のファイル名は、日付〔年月日〕・時刻〔時分秒〕・防災科研略称・撮影者のイニシャルです)。上の写真の画面右隅の砂質土を盛土する前の、川裏側法面の法肩から撮っています。

 加藤桐材工場の建物の壁際から奥のケヤキのあたりまでの状況を、この9月12日と上の10月27日の写真で見比べると、10月になって草が繁茂した程度でほとんど変化がありません。水害後に土を入れてはいません。

 ケヤキの下流側に回り込み、上流側を振り返ったところです(2015年10月27日)。上の写真の画面右の砂質土の盛り土が、画面左に見えています。

 この後の写真でわかりますが、ケヤキの根元が洪水で洗われ、根が剥き出しになったところに、このように土嚢が積み上げられています。

 画面左は加藤桐材工場の建物(B区間下流端)、その右が、2階ベランダから住民がVTR撮影した「住宅1」です(C区間)(2015年12月15日)。

 その先(D区間)の「住宅2」は、もとは「住宅1」と同じ高さの地盤上に建っていましたが、氾濫流の直撃を受けて地盤が流され、だるま落としのように1mくらい落ち込みました。1階を氾濫流が貫流して建具や床板が全部流され、床下や向こうが見える状態です。これでも行政機関や損保会社は「大規模半壊」(損害額は評価額の50%以下)と見做すようです。実際には、大量の土砂をいれて地盤を再建し、建て直さざるを得なかったのです(後の写真の陸屋根焦茶壁2階建)。

 上の12月15日の写真では、「住宅1」の河道側の土地は整地されていますが、9月12日にはこのとおりです(20150912-153922-nied-n)。氾濫流の直撃を受けた舗装のコンクリート板は捲れ上がって割れています。VTRには「住宅1」と堤防の間に物置がありましたが別ページ参照、このとおり影も形もありません。「住宅1」の1階窓も破壊されています。

 

 撮影位置は、先程の写真(20150912-153925-nied-k)より下流側で、レンズを右に振っています(写っていた紅白棒3本のうち一番奥のものとその右の棒2本が目印になります)(20150912-153909-nied-k)。

 B区間上流側では川表側法面と天端部分は流失しましたが川裏側法面がほぼ残りました。この写真はB 区間のうち下流側区間です。川裏側法面の上半分は流失しましたが、ケヤキが立つ下半分が残っているのです。

 残った下半分は、テトラポッド脇の作業員の身長程度の高さです。ケヤキと加藤桐材工場は、堤内ではなくB区間堤防の川裏側法面に立っています。ケヤキは〝4合目〟、建物の壁は〝3合目〟というところです。

 完全に流失した堤防の基礎地盤に立ち、上流方向を撮影した写真です(20150912-153829-nied-n )。撮影位置はおそらくD区間堤防の天端の真下でしょう。

 画面右端にC区間の天端の舗装が壊れて落ちています。その向こうにはケヤキの根が剥き出しになっているのが見えます。その左、3人の人物が登ろうとしているのが斜めに洗掘されて残った川裏側法面、登り切ったところが天端の破断面で、B区間の上流端です。テトラポッドは9月11日夜に始まった復旧作業の最初に吊り下ろされたもので、おそらく鎌庭(かまにわ)捷水路左岸堤防上の資材置き場から運んだものでしょう。

 画面右部分をトリミングしました。

 3人がいる地点が、最後まで残った川裏側法面〝5合目〟あたりです。この写真だと低く見えますが、さきほどの20150912-153909-nied-kで確認したとおり、人の身長程度の高さがあります。もとの堤高の半分程度です。

 曲がりなりにも半分の高さまで法面が残っているのですから、堤体が基底部まで破壊され流失した状態、という意味での「破堤」は完了していないのです。

 上は、同じ9月12日に国土地理院(茨城県つくば市)がUAVで撮影した動画から、B区間の状況がわかるカットを切り出したものです。

 画面左下隅がB区間の上流端で、川裏側法面が全部残っていて、際に天端舗装の石材が少し残っているのが見えています(白線)。そこから下流に向けて法面上部が斜めに洗掘され(黄線)、ケヤキのあたりまで下半分が残っています(橙線)。測量員がいる茶壁赤腰壁からケヤキにかけて灰色の土砂が見えますが、復旧作業で入れたものではありません。まだ測量段階であり、11日深夜にテトラポッドを置いた以外は、落下した天端板や「住宅2」脇のコンクリート舗装の破片など、すべて手がついていません。現場で作業しているのは測量員だけです。ケヤキの根が河道側で少し剥き出しになっています。B区間下流端(赤線)から、C区間にかけての灰色の土砂も、客土したものではなく、破堤した堤防の堤体土です。

 下は、9月15日に関東地方整備局が撮影したUAV撮影した動画から切り出したものです。鹿島(かじま)建設が仮堤防の上流側半分を施工しています。明茶の土砂(砂質土のようです)を搬入して転圧し堤体をつくっているところです。もとの川裏側法面と、あらたに搬入された土砂が識別できます。あらたに積んだ土砂がすこし被っていますが、上の写真の白線・黄線・橙線の線形がほぼそのまま残っています。この明茶の土砂が、先に見た10月27日の写真で橙フェンス下に見えていたものです。

 「住宅1」の河道側(C区間)から「住宅2」の河道側(D区間)では、暗茶の土砂を入れています。おそらく明茶の土砂の上に被せているのでしょう。

 

 土木学会の報告書に寄稿している大学の河川工学者らのシミュレーションについては、別ページで検討しましたが、その後発表された論文について見ておきます。

 三井住友系のコンサルティング企業「MS&ADインターリスク総研株式会社」社員による「平成27年9月関東・東北豪雨の保険損失に基づく洪水被害関数の構築」(2016年、土木学会論文集B1(水工学)Vol.73, No.4. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejhe/73/4/73_I_1279/_pdf/-char/ja )です。

 「若宮戸の溢水による河川断面の変化および三坂町の破堤は、国土交通省が報告した情報 11) に基づき、図-4に示すようにそれぞれ時系列でモデル化した」として、三坂の破堤幅の時間的経過を示しています。参考文献11としてあげられているのは、例の「関東地方整備局:『平成27年9月関東・東北豪雨』に係る鬼怒川の洪水被害及び復旧状況等について,  2015」です。しかし、この広報用パワポには「決壊幅 約200m」という記述しかなく、破堤幅拡大の時間的経過を示すデータは一切記載されていないのです。何らか別の根拠データを持っているのに明記しなかったか、あるいは特段の根拠なく破堤幅拡大の時間的経過を憶測したかでしょう。とくに問題なのは「図-4」で、破堤断面が上底より下底が20m短い台形になっていることです。上底と下底のいずれを破堤幅としているのかわかりませんし、そもそも台形にした根拠理由が示されていません。おそらく上辺の21K07から20K87までの200mが破堤幅だと、最初から決めてかかっているのでしょう。

 しかも数値が読み取りにくい歪んだ(天端の線?が斜め)3Dグラフで示されているだけで、「本間の越流公式」に代入した洪水位や流速などの初期値はわからず、検算もできません。検算・再計算すら不可能な論文を濫発して、検証も相互批判も一切しないのは、土木学会に彙集する「専門家」や業界関係者に共通の悪弊です。日本の土木工学 civil engineering の主流?勢力は、およそサイエンスとは無縁のようです。

 


本当に「越水による破堤」だったのか?

 

 山本晃一によれば、左岸堤防のこの区間はかつて河道だったところに築堤したもののようです(別ページ 三坂堤防の特異性 参照)。旧河道を横断して築堤するとなると、堤防の基盤部分には粘性土による地盤強化が必要となります。堤防があった地点付近の黄実線は、礫・砂混じり粘性土の堤体基礎地盤が抉られてできた断面でしょう。堤体が流失したあと氾濫水によって洗掘されてできた形状、すなわち「落堀」と看做されているものです。

 

 しかし、この地形の生成メカニズムはもっと複雑だったと考えるべきです。すなわち、別項目(⥥鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因)で指摘したとおり、破堤に際して浸透によって下方から捲きあげられるように剥離したような箇所があります。さらに洪水位がピークを過ぎて河道の水位が低下する際に、もとの堤内地から堤外地への地下浸透流が発生したのです。すでにできた押堀(「落堀」)の底部などが陥没し、そこから地下の水道(みずみち)を通り、水害前年に高水敷を掘削してできた段差の崖面から噴出したのです。

 ここで起きた陥没には、大きく3つのタイプがあります。

 マゼンタ(赤紫)の1から5は、堤防から離れた箇所で、表土が直接陥没しています。氾濫水の水位が高いうちは見えず、湛水位が下がったあと見えるようになる陥没箇所です。(〈堤内地における陥没〉でマゼンダ1脇の住宅とマゼンタ4・5脇の住宅、マゼンタ2・3の丁字路部分について検討しました)。見物した「専門家」たちは、破堤箇所から地表面を流れてきた氾濫流による家屋の傾きだと考えているようでたいして気にもとめないよう様子なのです。家屋自体は原形を保ったまま、建具のガラスすら破損していないのに20度以上も傾斜するのは、激流に洗われたとしたら到底ありえなないのであり、陥没によるものと考えざるをえないはずです。

 堤防のすぐ近くのサーモン色の1から6は、押堀の中で起きた盤割による穴の中でさらに陥没が起きています(〈浸透による堤内地盤崩壊〉参照)。

 紫の1から4は、堤体が流失したあと堤体基礎地盤が盤割を起こしたうえ、そこでさらに陥没が発生し、大小の穴が開きました(1と2については、〈浸透による堤体崩壊〉参照)。

 青の1から3は、地下浸透流の通り道、いわゆる「水みち」のようです(〈地上氾濫流と地下浸透流2〉参照)。

 緑線(実線が崖上、波線が崖下)で示した掘削崖面の「開口」1から4と「連続開口」が、河道水位の低下時に起きた陥没箇所からの浸透流の出口です。

 

 ついでに、水害直前、2015年3月22日のグーグルの衛星写真です(MacOSないしWindows上の GoogleEarth Proで表示した過去の映像)。それ以前は草で覆われていた高水敷が一面の砂地になっています。鬼怒川の他の箇所の築堤のための砂の採取中です。一般的には、河道の掘削は河道断面積を増大させ、最大流量が増えるのでたいへん好ましいとされます。しかし、それは状況によりけりです。鬼怒川の場合、低水敷の河道や寄州(side bar)の掘削をやりすぎて、「沖積層の底が見える」(山本晃一)状態です(https://www.yumpu.com/fr/document/view/29098323/-/38)。水位が下がりすぎて、ところどころに堰(せき)を設置して水位を回復させる措置をとらなければならないほどです。それだけでも由々しき事態なのに、寄州の砂を取り尽くしただけでは足りず、高水敷の砂を何mも掘り下げるとなると(三坂では4m)、堤体基礎地盤や堤内地への浸透の危険性が顕著に増大します。堤体基盤や堤内地への浸透防止のため、高水敷幅を増大させる盛土や遮水シートによる被覆を施工しなければならないこともあるというのに、完全に逆行する破壊的な措置です。

 

 

 2013年から2014年にかけて実施された三坂の高水敷の掘削範囲です。河道までの範囲が入る小縮尺の図で示します。その後に、これまでと同じ縮尺の衛星写真に重ね合わせます。

 

 赤は日東エンジニアリングの工区、緑は新井土木の工区です。この新井土木の工区の堤防側の境界線は、「管理基平面図」にも明記されている「堤防防護ライン」です。そこより堤防側を掘削すると、洪水時に堤体基礎地盤への浸透が起きやすくなるので、その線から堤防までは手をつけてはならないとされているのです。しかし、衛星写真のとおり「堤防防護ライン」に食い込んで整地・掘削がおこなわれています。下流側(画面右下)に⑥(逆さにしてあるので⑨に見えます)とあるところでは現にバックホウが作業をしています。そのあたりの砂は暗色になっています。緑の範囲でも同様の色味のところがありますが、地表面の砂を剥ぎ取ると地下から水が浸潤している部分が暗色に見えるようになるのです。明らかに「堤防防護ライン」を侵犯して砂を取っています。

 

 だいぶ以前から関東地方整備局は、民間業者による砂の採取を禁止していました(「砂利等の採取に関する規制計画および特定採取計画」 https://www.ktr.mlit.go.jp/river/shihon/river_shihon00000417.html )。ところが、三坂では国交省がみずから高水敷を4mも掘削したのです。関東地整河川部の担当者(先述のとおり訴訟における被告国の指定代理人)は、民間に対する禁止措置であり、国交省による行為はその対象外だというのです。

 突然の電話に、あらかじめ用意してあった迷回答を即答してしまったのです。急に訊かれたりすると、普通なら何のことか咄嗟にはわからずにポカンとしたり、空惚けでなく本気で「何のことですか」と言いそうなものなのに、考えるふりをするのを忘れ、間髪を入れずに口裏をあわせてある公式見解を述べてしまったのです。1966年の河川区域の大臣告示や「管理基平面図」すら見たことがない人が、2014年の三坂での高水敷掘削のことを知っているのは、いかにも不自然です。まったく理由になっていないのですが、関東地整河川部で水害後にこの高水敷掘削が問題になっていたことが露呈したのです。

 2020年9月10日の、三坂での水害五周年の献花式の際の下館河川事務所長(献花台に向かって右端)も同様でした。わずか2分間で終わった趣旨不明の儀式(挨拶や宣言は一切ない)の後、記者らが当たり障りなくインタビューするのに交じってこのことを尋ねたところ、一体なんのことかという素振りは一瞬も見せず、危惧するような悪影響はありません、と即答したのです。激特堤防のうち上流側100m区間では、すでに天端が陥没して亀裂が入るなど三坂の地盤の脆弱さは隠れもない事実なのですから、この際決壊区間の縦200m・横200mの範囲で縦横それぞれ10m間隔・都合400箇所のボーリング調査をされてみてはいかがですかと申し上げたところ、言うに事欠いて「予算がありません」との珍回答です。スウェーデン式サウンディングだったら、個人住宅を建てるに際して5箇所くらいは実施する簡便安価な手法なのですから、400箇所試掘したとして下館河川事務所が躊躇するような額でもありません。下館河川事務所に赴任する前は霞ヶ浦導水の担当であって鬼怒川水害についてはあとから勉強しただけなのに、この高水敷掘削が2015年の破堤直前に行なわれたことをどういうわけか熟知していて、その悪影響については決して認めてはならないという打ち合わせ済み公式見解を披瀝したのです。

 この地点の左岸堤防はまさに旧河道上に築堤した極めて脆弱な区間であったのですが、当時の下館河川事務所はおそらくそんなことは考えもせずに高水敷を深さ4mも掘削してしまい、まさにその掘削範囲に対応する区間で浸透による破堤と堤内地の噴水・噴砂・盤割、さらに水位低下時の堤内地の陥没を引き起こしてしまったのです。三坂の氾濫は、関東地方整備局・下館河川事務所による、河川管理上の明白で重大な誤りによって起きたのです。

 国交省が施工した高水敷掘削工事による堤体ならびに基礎地盤の弱体化が直接的な破堤原因になっているのです。改修計画の当不当とか時期の遅れとは次元の異なる河川管理上の瑕疵として、ただちに賠償責任が認められるべきものです。三坂についても、若宮戸同様に、大東水害の最高裁判例の適用などは、問題にもならないのです。「その余のことについては検討するまでもなく」ということです。

 

 国土地理院が2015年9月14日に撮影したUAV画像(動画からの切り出し)です。9月12日以降の変化はつぎのとおりです。

(1)段付き崖面の崩壊が下流側(画面右方向)に拡大しています。

(2)崩壊した崖面の中央あたりに、別の開口部(開口3)が出現しています。鹿島がブルーシートを掛けたようです。連続開口部から流出した砂を押し流したうえで、開口3から流出した砂が広がっています。連続開口が先、開口3が後です。ブルーシートには崩落防止効果はありませんから、転落防止のための目印のようです。ー

(3)鹿島がこのあとの作業空間を確保するために土砂を運び入れていて、その一部が連続開口部に被っています。(このあと、仮堤防工事中に、連続開口と開口3はほぼ埋め尽くされます。)

(4)9月12日にはなかった開口2が出現しています。


 

 対岸(右岸)から撮影した、激特事業によって再建された堤防のCDEF区間です(2020年3月)。天端に見える2枚の看板は、21k地点に鹿島と大成が立てたものです(ページ冒頭の写真参照)。堤内の左側の住宅の破風は、住民が2階ベランダからVTR撮影した「住宅1」(別項目参照)です。その右の陸屋根は、大破し基礎地盤も流出したので地盤再建のうえで建て直された「住宅2」(同)です。

 一見、堤防が段付きになっているように見えますがそうではありません。堤防は緑の草の部分だけです。この緑が復旧堤防の川表法面であり、その手前の枯草部分が、2014年の8万㎥の採砂によってできた高水敷の4mの段差です。減水時に堤内地からの浸透水と土砂が噴出しました。段差の基部が大型土嚢(一個の横幅は1m)で保護されているのは、「連続開口」「開口3」「開口4」を埋め戻した地点です。その左に見えるパイプの設置された崖面崩壊のとおり、堤防再建からだいぶたっても浸透水と土砂の噴出が続いています。

 段差崖面からの吐出は、氾濫後の9月11日以降の洪水位が低下しつつある時の現象だったので、さきほどの国土地理院の写真のように眼に見えたのです。9月10日には、水面下で逆方向の浸透、すなわちこの崖面から堤体・堤体基礎地盤へ、さらに堤内地へと浸透が起きていたものと思われます。別項目(⥥鬼怒川水害まさかの三坂⥥鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因 )で詳述しましたが、この浸透現象が、F区間の堤防の崩壊、「住宅2」の東側での水煙現象、さらには堤体直下や堤内地の「押堀」底部で起きた盤割などの原因となったのです。すなわち、河道から堤内地へのパイピングです。

 ここがかつては分厚く白砂が堆積した寄州(side bar)と、それに連続する高水敷であったことは、想像するのも困難です。手前の河道際の崖も異様な景観です。掘り下げられた高水敷はそのままですし、堤体基礎地盤のさらに深層はもとのままですから、現在も三坂の堤防は安泰ではないのです。

 

 激特堤防の「21.00K」のペイントからEF区間にかけての天端の陥没と縦断方向の亀裂です(2019年9月12日、遠景はアグリロードの常総きぬ大橋)。決壊破堤した地点に新たに建造した区間の、ちょうど上流側半分です。このページ冒頭の写真も参照ください。

 下流側半分を施工した大成とは違いこの上流側半分を施工した鹿島が手抜き工事をした、というのではありません。水害直後に仮堤防を作り、そのあとそれを全部撤去してこの激特堤防を建造したのですが、その際堤体基礎まですべて土砂を入れ替えてあるのですから、手抜き工事の余地はありません。

 基礎地盤のさらに下層が、川表から川裏までの広い範囲にわたってきわめて脆弱であることを示しているのです。まさにここが2015年9月10日に最初に破堤したF区間や、減水時に図の紫3の陥没が起きた地点なのです。当時も今も地盤がきわめて軟弱なのです。

 

 堤防の縦断方向の形状と決壊・破堤の進行状況について見てきました。そもそもあらゆる人たちが安易に信じて広言する「破堤幅〔=「決壊幅」〕200m」が不正確なのです。決壊・破堤幅さえ正確に把握していないのでは、破堤の原因について的確に認識し得るはずもありません。

 「越水による川裏側法尻の洗掘」が三坂の破堤の原因だったというのは、一切の根拠データ・画像も示さないまま、一般論に引き摺られたうえでの拙速な結論です。破堤の2時間近く前から越水が続いていたB区間では、川裏側法尻の洗掘は起きていません。川表側法面から洗掘されたものの、結局破堤には至らなかったのです。〝越水によって川裏側法尻が洗掘されて破堤する〟というドグマは三坂には適合しません。最初に破堤したのは、もっとも激しく越水していたE区間ではなく、となりのF区間でした。別項目(⥥鬼怒川水害まさかの三坂)で詳述しましたが、川裏側法面の状況は、「越水による川裏側法尻の洗掘」を示すものではありませんでした。写真もありますが川裏側法面に堤体内部から土砂が吐出して崩壊したのです。


天端幅と天端高(堤体高)も不正確

 

 破堤断面積を見積もるために、まず堤防を縦断方向に見てきました。つぎに、堤防の横断方向の形状について検討します。

 この付近の堤防は縦断方向に一様の形状で続いているのではなく、じつに複雑だったのです。鬼怒川の場合、他の区間も同様なのですが、三坂の破堤区間はとりわけ異様です。当然ながら、横断方向の形状もきわめて複雑です。(以下は別ページ 水害直前の高水敷掘削 で詳述したものの一部要約)

 21.00kの堤防横断面です。(21.00kは、最初に破堤したE区間の上流側のD区間の下流端近くです。)

 赤字は、2011(平成23)年の測量による数値(=国交省公認用語・数値)であり、黒字はこのD区間の特異な形状に関する追記です。冒頭で引用した「第1回鬼怒川堤防調査委員会資料」(2015年9月28日)19頁の「現況横断図」の数値もこの2011(平成23)年測量によるもののようです。

 

 

 

 この断面図に、堤外側の高水敷(2013-14年の掘削後)と堤内側の県道357号線(赤)までの地盤を描き足し、縦横比を10:1で描くと下のようになります。下線をほどこしたのは、国交省の文書に明記された地点名とその測定値です。後述の通り、腹付けにより天辺が段付きになっているうち、上段を堤防の頂点と誤認して測量するなど、不適切な点があります。

 

 

 

 「現況高水敷高」は、Y.P. = 17.0m程度しかなく「計画高水敷高」の Y.P. = 17.440m ないし Y.P. = 17.740m をずいぶん下回っています

 黒小四角を付した範囲内は、鬼怒川堤防調査委員会報告書19頁の「堤防横断図」によります。堤内地や高水敷等の標高などは、各図の間で矛盾するものが多く、数値に1mも食い違いがあったりして苦慮させられます。高水敷・低水敷の横断形状も確定しません。「河川平面図」や工事図面だと高水敷に Y.P. = 18.0m の等高線が這っているのですが、鬼怒川堤防調査委員会の「堤防横断図」をもとにして作図すると、高水敷の標高は Y.P. = 17.0m程度になります。

 他の資料を当たると、2005(平成17)年の測量結果表(http://kanumanodamu.lolipop.jp/OtherDams/misakaTeibou02.html)では、この21.00k地点の「計画高水敷高」は、Y.P. = 17.440m ですが、2002(平成14)年の測量結果表(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-8-3.pdf)では、「計画高水敷高」は、Y.P. = 17.740m ですが、「現況高水敷高」は、なんと Y.P. = 17.258m です。鬼怒川堤防調査委員会の「堤防横断図」によって作図した場合の高水敷の標高 Y.P. = 17.0m に近いのです。「河川区域図」等の等高線とは食い違いますが、このデータによることにします。

 現況高水敷高が不足していたことも問題ですが、注目点は、高水敷幅の大幅縮小です。この付近では河道が堤防に対してかなり斜行しているので、砂州(ダムの設置と過剰な採砂により急激に消退したほか、河道の侵食が進行して平常時の水位も大幅に低下したこともあり、もはや「砂州だったところ」というほかないのですが)の幅は、この上下流では大きく変化します。高水敷幅は、おおむね一定です。下線を付したものは、堤防横断図および測量結果の表の数値です。

 さらに問題なのが堤防の高さ(「現況堤防高」)です。次は、別ページで検討した破堤前後の写真中の1枚(13枚目の写真で、国交省が最初に越水に気づいた約1時間後の12:05ころに撮影されたものの3枚目)です。そのまま再掲します。天端から川裏側法面へと氾濫水がザバザバ流れるなか、法肩から下ってかなりの危険をおかして撮影した貴重な映像です。

 

1312:05頃c

 手前側はケヤキの影になっています。すなわちB区間の下流端です。その影の向こうは、すこし明るくなっているC区間です。

 D区間は川表側・川裏側ともに法面は冠水していません。前後の区間に比べて高いということです。天端は前後の区間の天端とひとつながりで高さも違わないようで、一応冠水しています。ただし川裏側の法面上部が高いようで流れ下る、つまり越水することはないようです。

 

 その先が、E区間と、F区間上流側の激しい越水状況です。その先のG区間はD区間同様に、川表側・川裏側の草の法面の法肩が高いようで冠水していません。しかも、D区間と違って天端も冠水していません。その先のヘアピンカーブにかけて、EF区間よりかなり高いようです。茶色に濁った氾濫水は及んでいないため、雨に濡れたアスファルト舗装面が灰色にみえています。

 人物が写っています。さっきまではE区間の手前、越水していないD区間にいたのですが、今は激しく越水しているEF区間を超えてG区間にいます。堤防がちょっと河道側(右側)に膨らんでいるところが、G区間の上流端です。

 服装も同様ですから別人物ということはないでしょう。こんな危険な場所にいるのですから、国交省職員もしくは委託先企業の従業員だと思われますが、写真撮影はしていないようです。実際、撮影した画像も出てきていません。

 遠くにアグリロードの巨大な橋、その下には堤防上の数人の人影が見えます。堤防は、さきほどのF区間の写真1で遠くに見えていた河道側におおきく膨らんでいる堤防です。(いずれも、遠景なので、その部分は奥行きが圧縮され、「平面的」に表現されます。人々がまるで川の中にいるかのようです。たとえ広角レンズであっても、遠景部分は望遠レンズで撮ったように見えます。)

 


 

 この地点の「被災前」の写真です(2013年10月13日、撮影位置はやや下流寄りの天端上です)。「第1回鬼怒川堤防調査委員会資料」19頁中にも掲載されています。川裏側に幅3mのアスファルト舗装された部分があります。川裏側法肩の草の状況と、この川表側の盛土の草の状況を見比べると、川表側が盛り上がっているのは明らかです。草の下の土の段差がどの程度なのかは、この写真だけでは判断しかねるのですが、さきほどの堤体横断面図によると段差は約30cmです。草が倒れているところがあるのは、車両を腹付け部分に乗り上げて駐車したからでしょう。腹付け部分がなければ天端からはみ出して駐車するのは不可能です。

 川裏側の低い部分がアスファルト舗装されているということは、そこが前後の舗装された天端に連続する部分であり、それこそが天端だということです。

 「21k」のポールの少し先、E区間のアスファルトに泥だまりがあります。縦断方向に見てそこが「谷」になっているのです。9月10日にこのE区間がもっとも深く越水することになります。

 さらにその先に、堤外側の高水敷から天端への坂路、天端を横断するヘアピンカーブ、そこから堤内地への坂路があります。ちょうどダンプカーがステアリングを右一杯に切り、急転回して堤内側の坂路を降りていくところです。

 

 

 「現況堤防高」は、本来はアスファルト舗装面の河道側端の標高です。ところが、国土交通省はさきほどの図のとおり、舗装されていない草の部分の標高を測量し、それを「現況堤防高」としているのです。明らかに誤った測点です。

 2020年10月に下館河川事務所調査課の見解を照会したところ、この21.00kの「現況堤防高」とは、アスファルト舗装されている河道側端の標高であるべきだというものでした。ということは、測量会社が誤って測量して図や表を作成し納品したのを、当時の下館河川事務所が見逃したということです。

 この腹付けされ、前後区間より盛り上がっている部分が、かりに数百メートルとか数キロメートルもつづいているのであれば、(たとえ舗装されていなかったとしても)「天端」と見做しても差し支えないかもしれません。ただし、「天端」と見做すとなると、その幅が問題になります。腹付部分は5.7mマイナス3mで2.7mですが、斜面をのぞく天辺の平坦(?)部分は2mもないでしょう。こんなことでは政令の基準に遠く及ばないどころか、およそ「天端」としての機能は持ちません。しかも、堤内側下段のアスファルト部分は、段付き堤防の「小段」も同然で、舗装がなければ雨水の浸透による堤体の軟弱化の原因となります。舗装されているのでそうはならないと言うかも知れませんが、ここが舗装されたのは割合最近のことです。「中三坂地先測量及び築堤設計業務報告書」(2006〔平成18〕年3月、共和技術株式会社)の写真やグーグルの衛星写真を見ると、この区間の天端は水害10年前の2005年ころまでは未舗装だったのです。

 共和技術の写真は、法面の草が枯れていて、B区間下流端の大ケヤキが落葉していますから、2005年秋冬に撮影されたものでしょう。

 ④の写真は、上下はトリミングしてありますが、水平画角は約120度ですから焦点距離10ミリの超広角レンズ(おそらく10mm-20mmのズームレンズの短焦点側)で撮影したものでしょう。このあと2013−14年の高水敷掘削の際にダンプカーが転回できるよう「ヘアピンカーブ」が造成されるので、「坂路」の形状はそれ以前のものです。堤内に中山石油の白壁の倉庫とプロパンガスボンベ倉庫が、「坂路」上に人物が見えます。川表側のポールは21.00kの標識ではありません。「坂路」の先、すなわちF区間からB区間までの川表側が腹付けされている様子が写っています。GoogleEarth Proの2005年3月27日の衛星写真上で、対象物を注記しました。

 ②の写真は、G区間の上流端あたりから撮影したものでしょう。川裏側法面と比較すると川表側が腹付けされて盛り上がっている様子がわかります。川表側のポールは21.00kの標識でしょう。

 グーグルの写真は、2005年3月27日撮影です。

 盛り上がり区間の延長は20mもなく、洪水時に水面からそこだけ頭を出しているにすぎないのであっては、堤防の「天端」として洪水を押しとどめるように働くことはないのです。いかなる屁理屈を捏ねて足掻いたところで、この腹付け部分の天辺を「堤防の天端」とみなすことはできません。

 

 

 ところで、水害直後の「痕跡調査」によると、この21.00kにおける痕跡水位は、Y.P. =21.04mとなっています。堤防はもちろん、堤内地のほとんどの住居や樹木が全部が流失しているのですから実測値ではありえず、おそらく20.75kの痕跡水位と21.25kの痕跡水位の数値を足して2で割ったのでしょう(「判断材料」が「決壊箇所」というのは不適切です)。

 この「21.04m」は、腹付けの盛り土の上面を測量した偽りの「現況堤防高」にピタリと一致するのですが、それは本来の天端高を30cmほど水増ししたものです。


 E区間が「谷底」になっていることに関して、さきほどの2006(平成18)年3月の共和技術株式会社の測量データを参照します(ウェブサイト「鹿沼のダム」〔http://kanumanodamu.lolipop.jp/OtherDams/misakaTeibou.html〕)。本ページ冒頭の「第1回鬼怒川堤防調査委員会資料」19頁中の「現況縦断図」はこのデータによるものです(測点の番号も同一です)。

 NO115地点とE区間のNO112との距離は120mですが、この2点間で、「現況堤防高」が72cmも違うのです。鬼怒川の河道勾配は1000分の1どころか2000分の1もありません。「計画高水位」のデータ(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-3.pdf  ウェブサイト「平成27年関東・東北豪雨災害〜鬼怒川水害〜」提供)でみると、26kの若宮戸河畔砂丘北部からこの三坂の21kまでの5km区間の水位の標高差はわずか1.79mです。じつに2793分の1です。水面の勾配がわずか2791分の1なのに、三坂の堤防天端の局所的な勾配は167分の1もあったのです。下流側については、写真中には記入していませんが、NO 112の下流のNO111の堤防高は21.36mと、わずか40mしか離れていないのに、48cmも高くなっています。83分の1です。NO112付近が極端に「谷底」になっていることは明らかです。21k表示のポールの18mほど下流地点が極度に垂れ下がっていたということです。

 最初からこのように建造することはありえません。旧河道を横断して建造されたこの左岸堤防は、脆弱な地盤上に乗っているために、前後区間と比べて顕著に沈下しているのです。

 ただし、NO 112が、「谷」のもっとも底の地点、一番標高の低い地点として選定されて測量されたかどうかはわかりません。また、この測量ではどういうわけか、L 21kポール地点(4497.825)の標高は測量しておらず、「堤防調査委員会」資料は、そこだけ6年後の測量データを継ぎ接ぎして使っています。この区間はとりわけ地盤沈下が顕著な地点なのに、いささか杜撰です。


補論:「スライドダウン」による安全性評価と「250m飛び飛び」手法

 別に検討すべき事項なので、いまここでは簡単に触れるだけにしますが、腹付けで川表側が30cm盛り上がっている約17mの区間内に、たまたま「左岸21.00k」の距離標石地点に該当していたために、河川管理行政において致命的な錯誤が生じています。他に例のない異様な堤防断面形状を呈するこの腹付け箇所が、旧河道に建造されたきわめて危険な三坂の堤防の代表地点として、河川管理上唯一考慮される地点となってしまっていたのです。

 この30cm鯖読みされた数値が、20.75kから21.25kにいたる区間を唯一代表する「天端高」=「堤体高」であるかのごとく、あらゆる場で幅を効かせるのです。

 三坂のように堤高が一様ではなく高低差が顕著な区間にあっては、もっとも高い箇所ではなくもっとも低い箇所に注意を払うべきであるのに、21.00kの腹付け部の天辺の、下駄を履いた数値だけが常に参照され、すぐそばの「谷」になっているE区間・F区間が完全に無視されるという、とんでもない事態になっていたのです。

 被告指定代理人のいうところによれば、堤防の「安全性評価」と称して、「スライドダウン方式」による安全度の見積もりをおこなった結果、この破堤区間については特段問題のある地点とは評価しなかったというのです。

 右上は、一審における乙第80号証の該当箇所です(https://www.call4.jp/file/pdf/202204/803d73bb091389e8ea3e264c01aa0ea4.pdf )。児戯にも等しい単純な「HQ式」で堤防の「安全性評価」ができると夢想する、「スライドダウン方式」それ自体の問題性はさておくとして、その「安全性評価」は、250mごとの飛び飛びの代表地点で計算するという杜撰極まるものです。〝全数検査〟ではなく、〝抜き取り検査〟なのですが、それにしても間隔が空きすぎです。現場など一度も見ずに、飛び飛びの数値だけで複雑な現実を分析できると思い込み、三坂の破堤区間については21.00kについてだけ計算するのですが、腹付けによる30cmの盛り上がり分だけ鯖読みされた数値を、そうとは知らず「堤防高」と見做し、すぐそばのE区間・F区間の「谷」については完全に度外視しているのです。

 それだけではありません。腹付けによって「堤体幅」が大きくなっていることが、この地点について「安全」側に誤算誤認する原因になるのです。腹付けは、旧河道上という本来なら回避すべきところに築堤するうえで止むなくとった方策にすぎないのに、それを過大評価して破堤の危険を完全に見逃し、しかもそのことに気づいてもいないのです。現場など一度も見ずに、冷暖房の効いたオフィスで飛び飛びの数値を並べた表計算ソフトを操作しているだけなのに、複雑な現実を認識でき、あまつさえそれをいかようにも操作できると思い込み、さらに高水敷の掘削という愚策を漫然と実行して2015年の破滅的結果をもたらしたのです。

 


流入断面積の推定

 

 洪水位とその時間的変化

 ここまで、三坂における破堤幅および堤体断面形について見てきましたので、破堤断面積の推定に進みます。

 その前に、洪水位とその時間的変化を推定します。実測したデータはありませんので、前ページで若宮戸24.63kの洪水位について、鎌庭(かまにわ)水位流量観測所の数値から謎の係数1.33を差し引いたものを想定したように、ここでは謎の係数2.13を差し引くことにします。

 

 北から順に(いずれも左岸)

◎川島水位流量観測所 45.75k

◎平方水位流量観測所 37.27k

◎鎌庭水位流量観測所 27.65k

若宮戸の氾濫地点(ソーラーパネル) 25.35k

若宮戸の氾濫地点(市道東0280号線) 24.63k

三坂町の氾濫地点 21.00k

◎鬼怒川水海道水位流量観測所 10.95k

 南端が利根川への合流地点(距離表示起点=0k)

 

(Yahoo地図にかつてあった「水域図」に7地点を記入)


 さきにみた9月11日10:00ころのGoogleの写真では氾濫はすでに終わっていました。右は、その3時間ほど前の9月11日7:08の写真です(「鬼怒川堤防調査委員会報告書」3-37頁)。下流側破堤断面のすぐそばで、まだチョロチョロ流入していますが、洪水位はほぼ高水敷の高さです。午前7時台を氾濫が終わった時刻とみることにします。

 堤体横断面図のとおり、高水敷の高さはY.P.=17.00mで、さきほどの推定では7:00に洪水位は17.04mです。素人の腰だめ推定も大きく外れてはいないようです。

 ということで、三坂における氾濫は、水位およそ21mの9月10日13:00ころ(国交省発表は12:52)から、水位およそ17mの9月11日7:00過ぎまでの約18時間継続したと見積もったうえで、流入断面積を推定することにします。

 

 破堤幅とその時間的変化

 Googleの9月11日の衛星写真に破堤進行状況を描き加えたものです。先述のとおり、最終破堤幅の165mは堤防法線形の長さであり、直線距離では160mです。関東地方整備局発表の数値はこれだけですが、もうすこし小刻みに追うために地上写真や航空写真を探してみます。

 国交省近畿地方整備局から応援にかけつけたヘリコプター「きんき号」が撮影した航空写真です(水害直後に関東地方整備局がウェブサイトで公開していた「_W9R7748」)。

 撮影時刻は15:19:02です。上流側はすでにC区間・D区間まで破堤しています。B区間では川表側法面と天端部分の洗掘がだいぶ進行しています。下流側は、中山石油の白鋼板壁灰屋根の倉庫とブロック壁黒屋根のLPGボンベ倉庫のあたりです。堤内側へ張り出している「瘤」がほぼ洗掘されたところです(「瘤」はおそらく旧河道の名残りでしょう。ここに高水敷掘削の際のダンプ用ヘアピンカーブが設けられていました)。

 破堤幅は、B区間下流端からここまででほぼ100mです。関東地方整備局発表の13:36時点の80m(根拠不明、目撃証言か)から、1時間43分で約20m拡大したということです。

 

 防災科研が撮影した航空写真です(トリミングしてあるのでクレジットはありません)。ファイル名(20150910-164231-nied.jpg)のとおり、16:42:31です。破堤幅はB区間下流端から約130mです。きんき号撮影の15:19:02から1時間23分で約30m拡大したことになります。ガソリンスタンドは地下に堅牢な構造物があるので、上物は流されずに全部残ります。

 

 右岸で合流する将門(しょうもん)川の篠山(しのやま)水門に設置されたCCTVカメラの映像です。日没直後の18時04分です。(情報公開制度により入手した動画からの切り出し)

 各所に設置された河川カメラの画像は、筑西〔ちくせい〕市にある下館河川事務所で常時モニターされていて、当然録画もできます。ところが、11:30ころまでには三坂で越水しているという情報が入っていたのに、破堤から31分後の13:23までは、録画せずに見ていたというのです(説明が二転三転し真相は不明。別ページ参照)。録画を始めてからもピンボケの薄ぼんやりした映像ばかりなのですが、この前後の22秒間だけ鮮明な画像が残されたのです。この画質で破堤開始前後の映像が録画されていれば、破堤のプロセスが克明に記録されて(水位もだいたいわかります)、破堤の本当の原因もわかったはずなのに、じつに残念なことです。

 このあと、21:30の画像といっしょに下流側の破堤断面の位置を測定します。

 

 おなじく篠山水門CCTVカメラの21:30の画像です。画質がたいへん悪いのは、日没からだいぶ経って暗くなり、画素が目立つようになったこともありますが、ピンボケなのです。肝心の左岸堤防ではなく、河道の中央付近に焦点が合っているのです。普段ならそれでよいのですが、漫然と撮影していたのです。

 

 下流側破堤断面部分をトリミングします。

 18:04と21:30の下流側破堤断面の位置を示します。緑が18:04、紫が21:30のそれぞれ破堤断面の天端の位置です。

 これと、堤内地の二階建ての豪壮な住宅との位置関係を見ます。

 

 18:04には、篠山水門のカメラと画面中央の豪壮な住宅の屋根の左隅を結んだ線まで、破堤が進んでいます。18:04で破堤幅は約150mです。16:42からの1時間22分で約20m拡大しました。

 21:30には、篠山水門のカメラと画面中央の豪壮な住宅の屋根の右隅を結んだ線まで、すなわち最終的な破堤断面まで破堤が進んでいます。これが最終的な破堤幅約160mです。18:04からの3時間26分で約10m拡大し、最終破堤幅に達しました。

 

 破堤断面積とその時間的変化

 若宮戸24.63k地点の場合は、氾濫地点の地形がわかる国土地理院のレーザー測量データがありましたが、三坂はレーザー測量以前に仮堤防が建造されたので、同様のデータはありません。氾濫水で覆われている写真では、基礎地盤の洗掘された深さはわかりません。そもそも垂直写真では高低差はわかりません。次の3つの図を参照します。

 

①「鬼怒川堤防調査委員会報告書」5-5頁の堤体基礎地盤の洗掘状況図

 破堤進行状況を描き加えてあります。断面図の向きとあわせるため、これまでとは向きが逆になっています。スウェーデン式サウンディング実施地点S-16からS-24までの断面となり(Sはスウェーデン式サウンディング、Bはボーリング)、上下流の破堤断面を結んだ直線から多少ずれますがやむをえません。

 

 


② 同書3-23頁の破堤区間の断面図(解像度の高い図版を別途入手)

 


③ 同書 2-14頁の決壊前縦断図

 

 

 

 断面図中の「決壊区間」はS-14からとなっていますが、さきに見たとおり、「破堤」した上流端はS-16付近です(②ではS-14からS-16付近までの表土(T)は侵食されていません)。

 堤防の高さは、いささか複雑です。「堤高基準面」は先に見たとおり、21.0kで18.670mです。単純に考えればこれが「堤内地地盤高」と一致するはずですが、先に見たとおり異なります。また、上の③のとおり、「現況堤内地盤高」はかなり上下しています。そもそも地図で測定点が示されているわけではないので、何処を測定したのかわかりません。「管理基平面図」はもちろん、各種測量結果を見ても同じです。

 上の②の灰色部分は「押堀」に相当するようです。その上辺が「堤高基準面」を示していると見做すことにします。おおむね標高18mもしくはそれを少し下回る値のようです。

 

 以下、写真から読み取った破堤幅ごとに(13:36を除く)、ごく大雑把に河道から堤内地への流入断面を作図します。洪水位は0.5m刻みとし、各破堤幅ごとに、河道から堤内地への流入断面積を示します。堤内地地盤高は一律に18.0m(黒破線)とし、洪水位の変化は、先に示したように謎の係数で補正した数値を0.5m刻みで示します。堤内地地盤高以下の断面、すなわち「押堀」の時間的変化はわかりませんから、それを含むものを破堤断面積の最大値、含まないものを破堤断面積の最小値として示します。

 まともな実測データのない中、少々ずれている氾濫断面を設定したうえ、根拠のあやしげな洪水位データを初期条件として設定して氾濫水の流入断面積を計算したわけですから、これをもって正当な推測だと言い張ることは致しません。とはいえ、何の根拠も示さず、というより現実的な根拠などいっさいお構いなく、でたらめな初期条件を「本間の氾濫公式」や「iRIC」に代入して、もっともらしく氾濫量を算出してみせた従来手法よりは、すこしは現実に接近する可能性があるだろうと考えます。

 前ページでは若宮戸24.63kの氾濫断面積は、最大で300㎥と想定したのでした。こうして三坂について想定した氾濫断面積と並べてみると、若宮戸24.63kの氾濫規模は意外に大きなものだったのです。完全に無視してきた各方面の論調がどれほど非現実的であるかは、すでに明らかでしょう。

 次に、若宮戸25.35kの氾濫断面積について検討し、若宮戸2か所の氾濫と被害との相当因果関係を否認した判決の当不当につき、判断することにします。