若宮戸における河川管理史

11 河畔砂丘全域を三号地に指定すべきだった

24.63kの氾濫地点にできた巨大な押堀 大型排水ポンプ車4台で一旦排水したものの、すぐに湧水で満たされた。

押堀の先、画面奥に見えるのが幅200m高さ5mの巨大な仮堤防2015年12月18日)

 

Feb., 6, 2022

 

若宮戸河畔砂丘Ridge1への「山付き堤」としての鎌庭捷水路左岸堤防

 

 決定的事実について記憶する当事者のいない1960年代なかばから、さらに時間を遡らなければなりません。直接的証拠となるような資料がほとんど存在しない領域です。しかし、堤防というきわめて明確な手掛かりが存在し、合理的判断に到達できるのです。

 「山」である若宮戸河畔砂丘に擦り付く「山付き堤」である堤防は、上流側と下流側のふたつあります。

 まず上流側の「山付き堤」です。すなわち、1928(昭和3)年に着工し、1935(昭和10)年に通水した鎌庭捷水路(かまにわ・しょうすいろ)の左岸堤防です。この「山付き」地点を各時代の地図・航空写真で通観します。迅速測図から読み取った4列の畝、距離標示のほか、特異点、1966年に大臣告示された河川区域境界線(マゼンタ)などを描き込んだものを並置します。

 

迅速測図

 鎌庭捷水路完成以前の航空写真はないので、明治初頭の迅速測図を見ます。まだ鎌庭捷水路はありません。

 

1947(昭和22)年1月3日

 鎌庭捷水路の完成から12年後です。

 若宮戸河畔砂丘の第1クォーターは、〝畝〟ridge は複列構造ではなく、単列構造となっています。緑線は迅速測図から読み取った等高線で、緑実線がT.P.=20m、緑破線がT.P.=30mです。そこに、鎌庭捷水路の左岸堤防が26.00kのやや上流で擦り付いています。「山付き」状態です。つまり、「山」である河畔砂丘に堤防が接続している状態で、当然「山」の方が標高が高いのです。

 その部分で樹木が伐採されていますが、このあとの1966(昭和41)年の大臣告示図の標高表示から見て、掘削まではおこなわれていないか、または少々の掘削整地はされたとしてもその後おこなわれるような大掛かりな掘削ではありません。25.50k付近からその下流にかけて、河道側から砂丘が掘削され耕地化していますが、それらを除けば、河畔砂丘はほぼ原形通り保存されています。

 

1964(昭和39)年5月16日

 河川法が改正された年です。市道東0272号線がRidge1を横断する「に」地点が掘削されているようですが、それ以外は伐採・掘削されてはいないようです。「は」から「り」にかけてはRidge1のなかでもとりわけ標高の高いところであり、樹林が疎な西側(河道側)に樹木の影が見えます。鎌庭捷水路通水後の流路線形変更により第1クォーターから第2クォーター区間の砂州は全滅していますから、採砂どころではありません(それどころか、耕地だったところが60mくらい消滅しています)。地主らの次なる狙いは河畔砂丘本体の掘削です。河川法が改正され、「三号地」指定による改変禁止策を講ずることができるようになったのですから、あとは関東地方建設局・下館工事事務所のやる気次第です。

 

1966(昭和41)年12月28日 建設大臣による河川区域告示

 河川区域の告示図面なのに、現地の境界標石(の測量結果)とズレています。修正してマゼンタで描き加えてあります。ところどころに標高が記入してありますが等高線はありません。ridgeはまったく描かれておらず、なによりRidge1の範囲を意図的に白地にしています。そんなものを描いて標高を明示したりすれば、そこを「三号地」に指定しないことについて、いかなる合理的説明も成りたたないことを、よく知っているからです。

 

 4ページで詳細にみたとおり、堤防の「山付き」状態が正確には描かれていません。実際には、このあとの測量図(2003〔平成15〕年度、かつら設計)のとおり、図の緑実線のあたりまで延びて、そこで「山付き」しているのです。そして擦り付いた先の砂丘の標高は「26.1m」とあります。十分な標高があります。堤防の天端高は25m前後ですから、「山」の方が1m 高いわけで、立派な「山付き堤」になっています。(なお、「26.1」mの近くに「24.08」mとあることなどについては、4ページで詳細に検討してあります。)

 

2003(平成15)年度 かつら設計測量図

 

 1966年大臣告示による河川区域境界線は、Ridge1の東斜面基部ではなく西側斜面の下辺に引かれています。これでは、Ridge1は掘削されるに任されてしまい、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」としての機能は到底保全できません。上流側堤防が「山付き」になっているとなると、その「山」たる若宮戸河畔砂丘を保全しなければならないはずです。しかるに、こんなところに線をひいたということは、若宮戸河畔砂丘を「三号地」に指定することを拒絶したということです。そのような意図が告示図に、まさに「山付き」になる重要な区間を描かないことの動機です。

 ただし、建設省=国交省はさきにみたとおり、擬・河川区域境界線を東寄りに引いて、地主らによる〝畝〟の掘削範囲を、多少とも制限するという、回りくどいことをしていたのです。しかし、腰の引けた半端な対応のせいで結果は惨憺たるものになります。

 

1975(昭和50)年1月3日

  Ridge1のもっとも標高の高い尾根筋は掘削されるにまかされ、下図の赤線部のとおりの絶壁にされてしまっています。さらにその下の図中に凸レンズで拡大した地点では、地主らによる恣意的な切り通しがおこなわれています。

 とくにひどいのは、「山付き堤」が擦り付いていた砂丘の北端(26.00k付近)が大きく掘削されていることです(この件は、4ページで詳述してあります)。大臣告示図のとおり、砂丘の〝畝〟は標高26.1mと堤防天端より1mくらい高かったのですが、逆に「山」の方が2m近く低くされてしまっています。「山付き堤」ではなくなってしまったということです。おそらく河道側に抜けるための道です。これは2003年度の測量図からわかることで、航空写真・衛星写真を見比べても掘削がいつおこなわれたかはわからないのですが、本物の河川区域境界線も疑・河川区域境界線も、完全に無視されているのです。2015年には第2・第3クォーターで激烈な氾濫が起きたのにここ第1クォーターは大丈夫だったのですが、もう少し水位が上がっていれば第1クォーターも危なかったのです。

 これらの事実は、河川工学だとか法解釈学の学識経験を駆使する奥深い探求によらなければ到達できない、というものではありません。図面と写真を数枚見れば素人でも容易に知りうることです。しかし水害前はもちろんですが、水害後もまったく顧慮されていません。現実に起きた24.63k地点の大氾濫が等閑に付され、鬼怒川水害訴訟の口頭弁論においてすら一切言及されないことを思えば、さもありなんというところでしょう。

 

 絶壁の一部です。25.75k付近のRidge1の掘削後に建築された住宅の2階天井あたりが、残った西側法面の高さです。崖は擁壁もなく荒れています。上図で中央のレンズを当てた切り通しは、建物の陰になっていて見えません(2022年1月)。

 上の家屋の北隣(上流側)の家屋の裏手です。絶壁が続いています。

 「Ridge2型河川区域境界線案」の検討ということでいえば、上に赤線で示した絶壁の線(右図L)を河川区域境界線とするというのが、このRidge2型案なのです。

 Ridge1を限界まで掘削して絶壁状態にしたうえで、それを「三号地」に指定するのはあきらかに不適切です。

 しかも、Ridge2型案は、「山付き」地点がY.P.=「26.1」m から23m少々へ3m近く掘削されている(K)のを看過しています。建設省=国土交通省が現場で実際に見逃したのと同じことを、頭の中で繰り返しているのです。

 以上要するに、改正河川法施行にあたっては、鎌庭捷水路左岸堤防から第1クォーター(25.50k-26.00k)では、〝畝〟ridge (この区間の〝畝〟は単列です。本項目ではRidge1としています)の東側斜面基部(いわば川裏側法尻)に河川区域境界線を引くべきだったのです(下図の白鋏緑線)。他に選ぶべき道はあり得ません。


若宮戸河畔砂丘Ridge1への「山付き堤」としての下流側堤防

 

 もうひとつの「山付き堤」は、1952(昭和27)年に24.10kから24.63kまで建造され、24.63kでRidge1に擦り付けられた堤防です。

 

迅速測図

 この24.10kから24.63k(「と」地点)までの区間にはRidge1があったので、敢えて堤防を建造する必要はなかったのです。「と」からその上流も同様です。

 

1947(昭和22)年7月13日

 地形図は粗略すぎ、航空写真は一切ないので詳細は不明ですが、このRidge1の24.10kから24.63kまでの区間は、「ち」の金椿山泉蔵院(十一面観音堂)の敷地を除いて早い時期に掘削され耕地化されたようです。第1クォーターから第3クォーターにかけては、樹木の利用などはおこなわれるものの、皆伐・抜根して砂丘自体を掘削低平化するのはごく一部に限られ、大部分が1960年代なかばまで保全されていたのに対して、第4クォーターは逆に、Ridge2を除く大部分が皆伐・掘削され耕地化されています。

 おそらくもっとも規模の大きかったRidge1が消滅したことにより、1938(昭和13)年には氾濫が起きて広範に被害を生じたようです。このため、大日本帝国内務省はこの区間に堤防を建設することにします。ただし、元のRidge1があったラインではなく、下流側はその河道寄りに、上流側の24.30k-24.50kはRidge2を嵩上げ・拡幅してその位置に、そして24.50kのあたりで突如60度屈曲させ、24.63kで、当時残っていたRidge1の南端(と)に擦り付ける計画です。若宮戸河畔砂丘の上流端には1935(昭和10)年に鎌庭捷水路の左岸堤防が擦り付いていますから、これで若宮戸河畔砂丘の南北両端に「山付き堤」が擦り付き、一連構造が完成することになるわけです。

 ただし、アジア・太平洋戦争期ですから大日本帝国は築堤どころではなく、直轄工事は長いこと棚上げされ、完成するのは1952(昭和27)年です。この1947(昭和22)年の写真では、24.10kから上流は堤防がありません。

 後に築堤されるラインを見ると、24.25k前後を除いて、堤防の幅ほどの樹林が続いています。土地の筆界線はおおむね格子状になっているのに、60度屈曲点から24.63kまでだけは斜めに樹林が続いています。着工しないものの、大日本帝国内務省がコース取りを決め築堤予定ルートとなる土地を告知していたために、そこは開墾利用されることなく樹林のまま放置されていたのです。現代でもいつのこととも知れぬずいぶん先の道路計画のために、細長く空き地が続いているのはよくあることです。

 

1959(昭和34)年5月20日

 24.10k-24.63kの堤防完成の7年後です。

 この堤防は、Ridge2に「山付き」しているのではありません。この堤防は、Ridge1に「山付き」しているのです。Ridge2は大部分がこの堤防より低いのですから、「山付き」しようとすると、少なくともこの後「へ」のきぬ砂丘慰霊塔が設置されるところまで延びていかなければなりませんし、その先も「山」としては不十分です。1975年まで見てから分析します。

 

1961(昭和36)年7月9日

 まだ寄州( side bar )での採砂は大々的におこなわれているようで、第2・第3クォーターの河畔砂丘はまだ保全されています。

 

1964(昭和39)年5月16日

 寄州での掘削痕が黒く見えるのは、ウィンチを使って深く掬い取るので水が滲出してくるのと、さらには河道にまで入りこんで掘削するからです。もはや浚渫( dredging )です。砂が枯渇しつつあるのです。さきほどの上流側についてと同じことを記します。地主らの次なる狙いは河畔砂丘本体の掘削です。河川法改正により「三号地」に指定して改変禁止策を講ずることができるようになったわけです。あとは関東地方建設局・下館工事事務所のやる気次第です。

1966(昭和41)年12月28日 河川区域告示

 陸地の標高と河川の水位が決定的要因となる治水関連の地図なのに、ところどころに標高が記入してあるだけで等高線はありません。4本ある ridge はまったく描かれておらず、なによりRidge1の範囲は「白紙」です。それどころか、24.63kで堤防がRidge1に「山付き」する前に、河川区域境界線は背景ごと断線してしまっています。

 どういうわけか、あとになって(時期は不明)、ジアゾコピー(青焼き)に黒ペンで描き足してあります。描かなかったことが、とんでもないこととして問題視され、「補筆訂正」したつもりなのでしょうが、これでは改竄偽造です。しかも、よりによって半世紀後に大氾濫が起きた地点です。

 当然この改竄偽造は無効です。建設省・関東地方建設局・下館工事事務所は書類上でRidge1を葬り去ったわけです。そして、このあと実物のRidge1がこの世から消滅することになります。

 

1968(昭和43)年8月22日

 増水期ということもありますが、寄州はおおきく消退し無尽蔵に湧いて出てくるかのように思われていた砂が、ついに枯渇したのです。1966(昭和41)年末の大臣告示で河畔砂丘の大部分は河川区域外となり、まっさきに第2クォーターでRidge1、Ridge1とRidge2の「谷」、Ridge2の東側が掘削された時期です。後を追うように第3クォーターでは24.63k付近のRidge2の孤立〝畝〟部の掘削が始まっています。24.63kの「山付き」地点では堤防の堤内側のRidge1も掘削されています。のちに事業所用地や紅白鉄塔敷地になる地点です。

 

1975(昭和50)年

 第2クォーター同様に、管理基平面図の「計画の堤防法線」によって規制されて、手続きの面倒さから手をつけることのできない墓地だった「ほ」と「と」を除いたRidge1の全部、ならびにRidge1とRidge2との間の「谷」が、第2クォーターと比べてもかなり深くまで掘削されました。市道東0272号線脇が一時的に畑に、市道東0280号線脇が陸田となった他は荒地となりました。採砂が主要目的だったということです。深く掘りすぎたので陸田以外の利用には不向きなのです。

 Ridge2とRidge4との間が、完全に掘削低平化されました。Ridge3は、Ridge1同様、ほぼ消滅しました。一部が一時的に牧草地になったほかは、いなば燃料の「運動場」などの粗放な利用形態です。ここも採砂が主要目的だったということです。24.63k以北(画面右方)はRidge3に本物の河川区域境界線がまとわりついていたのですが、そんなものは現地では何の意味もなかったようで、「河川区域」の標石すら残さずに(もともと打たれていなかった可能性大)、すべてが消滅しました。

 かくのごとくにして、Ridge1はほぼ完全に消滅し、もはやそこに若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟が聳えていたことなど想像することすら不可能な状態になりました。Ridge3も消滅し、残ったのは中規模のRidge2とごく小規模のRidge4だけです。

 

 以上要するに、改正河川法施行にあたっては、第3クォーター(24.50k-25.00k)においては下流側堤防がRidge1に山付きする地点から東側斜面基部(いわば川裏側法尻)に河川区域境界線を引くべきだったのです(下図の白鋏緑線)。他に選ぶべき道はあり得ません。


下流側堤防はRidge2に「山付き」したのではない

 

 下流側堤防の「山付き」状況については、追加的な検討が必要です。ひとつは、小見出しのとおり、Ridge2への山付き、というひろく受け入れられている誤解についてです。堤防はこの24.50k近くの擬・山付き点が末端となるのではなく、そこで突如60度向きを変え、130mほど延びたあと、そこで墓地になっている丘に取り付いて終端となるのですから、24.50k近くで「山付き」になるなどという誤解などまちがっても生じようもないのですが、どういうわけかそういう思い込みが浸透しているのです。

 そもそもその際、「山付き」というコトバが誤って使われるので、落語の「蒟蒻問答」状態です。悪いことに、『よくわかる河川法』という国交省のお役人たちが書いた書籍が、堤防の方ではなく、それが擦り付いている「山」の方を「山付き堤」だと支離滅裂でよくわからないことを言っているのです。それを真に受ける人たちは、間違いにも気づかないし、指摘されても意地でも直そうとしないのですから、おそらく今後とも是正される見込みはないでしょう。中学生程度の地理の知識や言語感覚があれば到底間違うはずのない「自然堤防」とか「山付き堤」などの基本的概念が根本的に間違って使われていて、あげくのはてには法廷にまで持ち込まれてしまっているのです。こんなものが判決文の「理由」中に登場することにでもなれば、後世の笑い種となるのは必至です。

 さらに「山付き堤」だというなら、堤防より、堤防が取り付いている「山」の方の標高が高くなければならないという、これまた当たり前のことが見過ごされているのです。現実には「山付き堤」より、それが擦り付いた「山」たるRidge2の方が、2m近くも低いのですから、どう勘違いしたところで間違うはずもないのですが、水害直後から今日までその思い込みが支配的なのです。あげくのはてが、そのRidge2を市道東0280号線が横切るために少々切り通しにしてあることが、この地点の氾濫の原因だという人まででてくるのです。

 水害直後に関東地方建設局河川部の高橋伸輔河川調査官という広報担当者が、24.63k地点のRidge2を「自然堤防」だと言ったこともあり(しかも「24.75k」と数値も間違って)、議論は完全に錯乱状態です。「河畔砂丘 river bank dune 」を「自然堤防 natural levee 」だと言ったうえ、堤防ではなく、「山」の方を「山付堤」と呼び、しかもその「山付き堤」という名の「山」の標高が低いのです。これに原告代理人も参戦するのですが、河畔砂丘を「砂丘林」と呼んだうえで、それは「自然堤防の上に」できている、と不思議なことを言ってみたり、あげく「砂丘林の掘削」という用語を使うのです。これでは「河畔砂丘の掘削」と「砂丘林の伐採」が合体してしまって、区別がつかないことになります。

 この下流側の堤防が、Ridge2に擦り付く「山付き堤」ではないことを示します。7ページで検討したことですが、再録します(標高はすべてY.P.値)。

 

 

 この付近の洪水の最高水位は24.75kで21.93m、24.50kで21.73mでした。

 赤a22.88mと赤b22.868mは60度屈曲点付近の堤防天端高です(「L24k50 23.255m」とありますが、天端高ではなく距離標石の高さです)。1952(昭和27)年に24.10kから24.63kまで築造された左岸堤防は、Ridge2を嵩上げ・拡幅したものです。屈曲点以北(画面右方)で堤防の川表側法面から姿を現すRidge2は、橙のf22.21m地点だけを除いて標高22m以下しかなく、堤防よりかなり低いのです。ほとんどで21mをわずかに上回る程度だったようです。ここから市道東0280号線の北まで、すなわち河川区域境界線の彼方までの区間のRidge2は、60度屈曲点の堤防よりかなり低いのです。ということは、1952年にここまで延伸された堤防はRidge2に「山付き」しているわけではありません。

 このY.P.=22.21m地点を河道側(上図のカメラ印地点)から撮ったのがこの写真です(2015年12月18日)。陸田に仮堤防を建造するために、25.35k地点で使い終わった重機を市道東0283号線で自走させて来たのですが、その際このY.P.=22.21m地点の小さな丘を切り通して陸田側に越えたのです。黄丸の折れた幹は、重機で折り取られたものであり、洪水によるものではありません(他にも同様の箇所があります)。

 画面右端の木立の影に、堤防の60度屈曲部の川表側法面が洗掘(「深掘れ」)されたところに積まれた土嚢が見えます。そこで堤体にRidge2が取り付いているのですが、Ridge2の方が低いことがよくわかります。その部分のRidge2上の樹木はそのまま残っていますから、洪水で洗掘されて低くなったのではありません。「山付き堤」でないのは明らかです。

 おなじところを、角度を変え牧草地を隔てた市道東0283号線から撮影したものです(2015年10月26日)。上の写真で測量会社のライトバンが停まっているところの柵の向こうが押堀です。(ページ冒頭の写真はこの部分)

 その向こうの仮堤防は、24.63k地点で「山付き」している堤防と同じくらいの高さがあります。どちらもこの「f22.21」地点より高いのです。

 1952(昭和27)年の築堤時点において、Ridge2に取り付く「山付き堤」状態になっていないことについて、2004(平成16)年度の測量図を根拠にするのは、いくらなんでも時期がずれすぎています。とはいうものの、1952年、1961年、1968年、1975年、1980年、1984年の国土地理院の航空写真、さらに1966(昭和41)年の大臣告示図のいずれを見ても、この60度屈曲点の川表側法面に手が加えられた様子、端的にいうと「山付き」状態だったものを、「山」たるRidge2を掘削するような状況ははいっさいありません。2004年度測量図によって明確に示された結論はかわりません。

 

 なお、Ridge2を「山付き堤」が擦り付く「山」とみなすには標高が低すぎるというのは、この24.63k付近だけに限ったことではありません。

 50cm刻みの等高線まで描かれた地図があればよいのですが、ありませんので、2003(平成15)年度のかつら設計の測量データで概略を判断することにします。ごく大雑把に若宮戸河畔砂丘における2015年水害時の洪水位は22mとみることにします。計画高水位は22m少々ということで22mの等高線、それに1m50cm加えた計画築堤高は概ね24mの等高線を基準に判断します。

 下図は、24.50k-25.50kの範囲で(すなわち第1クォーターでの単列構造が終わり、第2クォーター以南で複列構造となり、独立したridgeとなっている区間で)、Ridge2の標高24mの等高線を摘記したものです。24mの計画築堤高を充足する地点はきわめて限られていて、このとおり7か所のごく狭い部分しかないのです。この状態でRidge2を山付き堤がとりつく「山」とするのは失当です。

 それでも、何もないよりマシだろう、という意見もあるかもしれません。まことにおっしゃるとおりです。しかし、それをいうなら、ほかに適当な「山」がないことが前提です。

 

下流側堤防のRidge1への「山付き」状況

 

 下流側堤防がRidge2に「山付き」しているのではないことを詳細に見たので、バランスをとるためにも、Ridge1への「山付き」状況について詳細に検討する必要があります。

 24.63kの「山付き」地点を航空写真と地図で示し、そのあと地上写真で「山付き」状態を確認します。

 左列上から、1961年、1975年、「地理院地図」の段彩図(水害前)、2003年度かつら設計による測量図。

 右列上から、2015年9月11日、仮堤防完成後の10月ころ、「地理院地図」の段彩図(水害後)、激特事業による堤防完成後の2020年です。


 

 中央左が墓地だったために掘削を免れたRidge1の孤丘(と)であり、その左(北側)、Ridge1が掘削されて途絶えたところから向こう側の農家の物置の青屋根が見えています。孤丘(と)から市道東0280号線をはさんだ右側は、この24.63kでRidge1に「山付き」していた旧堤防(緑の法面、上の各地図の橙実線)です(なお、「孤丘」は以前は「残丘」としていましたが、これだと地理用語の誤用なので、当方の造語です)。(手前左の緑フェンス内は、激特事業全体の堤体土ブレンド作業場、遠景は筑波山。激特事業による築堤が終わり、仮堤防が撤去された後の2018年12月)

 緑フェンスの向こうを見ると、Ridge1の〝畝〟の痕跡が見えます。

 自動車がいるので、「山付き」地点を乗り越える市道東0280号線の傾斜具合がよくわかります(2019年10月2日)。

 広角にズームし、画面左端のRidge2の断面と埋められた押堀、その向こうの陸田だったところ、さらに北側の掘削後に放置された荒地をみたところです。

 Ridge2上の慰霊塔最上階から見下ろしています。仮堤防、その向こうが、樹木の陰になっている下流側の堤防、さらに紅白鉄塔です(2015年12月19日)。


掘削以前のRidge1の再現

 

 ここまで、上流側と下流側の「山付き」状況について、いささか過剰なほどに確認してきました。基本的なことなのに、まったく認識されていないので、そうする必要があったわけです。

 次に、24.63kより下流については堤防が建造されていた区間ですから、それを除く24.63kから26.00k付近までの範囲のRidge1の掘削以前の状況について検討します。1965(昭和40)年4月1日の改正河川法施行時点における、河川法第6条にいう「三号地」に指定することの前提となる事実すなわち、河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったこと、について、検討することにします。

 3ページで見た河川法第六条第一項と河川法施行令の規定を再確認します。

 

  (河川区域

〔河川法〕第六条  この法律において「河川区域」とは、次の各号に掲げる区域をいう。

一  河川の流水が継続して存する土地及び地形、草木の生茂の状況その他その状況が河川の流水が継続して存する土地に類する状況を呈している土地(河岸の土地を含み、洪水その他異常な天然現象により一時的に当該状況を呈している土地を除く。)の区域

二  河川管理施設の敷地である土地区域

三  堤外の土地(政令で定めるこれに類する土地及び政令で定める遊水地を含む。第三項において同じ。)の区域のうち、第一号に掲げる区域と一体として管理を行う必要があるものとして河川管理者が指定した区域

 

   (堤外の土地に類する土地等)

〔河川法施行令〕第一条  河川法 (以下「法」という。)第六条第一項第三号 の政令で定める堤外の土地に類する土地は、次の各号に掲げる土地とする。

一  地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防に隣接する土地又は当該土地若しくは堤防の対岸に存する土地

二  前号の土地と法第六条第一項第一号 の土地との間に存する土地

三  ダムによつて貯留される流水の最高の水位における水面が土地に接する線によつて囲まれる地域内の土地 

 

 ここで些か面倒なことがあります。

 河川法第六条第一項の規定と河川法施行令第一項は、いずれも「土地」ないし「土地の区域」についての規定であり、その土地や区域の外郭線についての規定ではありません。ところが、1966年の大臣告示図や「管理基平面図」には外郭線が描かれているだけであり、「土地」「区域」の範囲は明示されていないのです。

 外郭線が示されていれば土地や区域の範囲は明らかになるかというと、そうではありません。たとえば、河川法第六条第一項第一号の土地である低水敷と同第三号の土地である高水敷との境界は明示されていません。それらの境界は一見して明らかである場合もありますが、そうとも限らず明確に区別できないことも多いのです。

 因みに、「地理院地図」の「土地条件図」と「治水地形分類図・初版」では、砂州を含む低水敷と、高水敷とはそれぞれ別個に明示されていますが、(誤謬は別として)細部で食い違っているところもあります。「治水地形分類図・更新版」では砂州を除く河道は青に着色されていますが、それ以外の低水敷すなわち砂州と、高水敷とは、いずれも空白(白地)であり、区分線もありません。複雑で峻別困難なので記載を止めたということかも知れません。国土地理院の地形図では、古いものでは土地利用の差異などを記すことで、結果的に高水敷と低水敷の区別ができる場合もあります。しかし、近年になると河川区域内の民有地である高水敷を耕地として利用する事例が激減したこともあり、そもそも区分線は記されていないので、高水敷と低水敷とが区別できなくなっています。また、低水敷護岸などの河川管理施設があれば、そこにいったん河川管理施設としての「二号地」が挟まるので、「一号地」たる低水敷と「三号地」に指定された高水敷との区別ができますが、全部がそうなっているわけではありません。

 さらに困ったことには、砂州(中州、寄州)は通例低水敷の一部とされるのですが、なかには高水敷とする地理学者の著作もあるのです。自然堤防と河畔砂丘の区別もつかないような「河川工学者」たちがそう言っているのであれば気にもしないのですが、国土地理院や大学の地理学研究者であっても区別に難渋する点なのです。とくに、鬼怒川の場合は、ダム・砂防ダム設置による砂の堆積の停止と、過剰な砂の採掘による砂層の消滅、河道侵食の進行による水位の極度の低下、さらに高水敷の過剰掘削などにより、河川全体がかつての姿とは全く異なってしまっているうえ、若宮戸河畔砂丘の場合は鎌庭捷水路通水以来の急速な侵食も起きています。旧来の分類法はもはやそのままでは通用しない状態なのかもしれません。

 「二号地」である堤防敷と「三号地」に指定された高水敷の領域区分も考えるほど単純ではありません。三坂について破堤前の状況を示す「管理基平面図」を見ると、「計画の堤防法線」というのが実際の堤防に沿って描かれているように見えますが、天端の堤外側法肩あたりを付いたり離れたりして走っているだけで、「二号地」たる堤防敷の「三号地」側の外縁である堤外側法尻の線は描かれていません。他の地点であれば斜面記号でなんとなくは推測できそうなのですが、三坂の堤防の特異形状であるアスファルト舗装された天端の堤外側の高さ30cmほどの盛り土は一切描かれていません。省略してあるのではなく、盛り土ではない、あたかも法面の中断に小段があるかのように描かれているのです。現場を見ずに航空写真か何かを見て、まさか盛り上がっているなどとは想像もできずに嘘を描いてしまったのでしょう。

 ここから本題です。ましてや無堤区間となると、「三号地」の範囲を確定しそれを明記することは非常に難しいのです。若宮戸河畔砂丘の場合、24.63kから26.00kまでの区間、つまり下流側堤防の末端から上流側堤防の末端までの区間について、どの範囲の土地が「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地と認定し指定するかは、地主の都合だとか、告示した際の反応やそれに対する役所の対処などの余計なことは考えず、計画高水位や計画築堤高などを踏まえ地形をよく見て決めればよいわけです。ところが、ここで『よくわかる河川法』が未だに主張していることですが、「自然河岸であっても、堤防としての機能を果たしているものといえ」る、などというとんでもないデタラメ論理?で「三号地」として指定できると思い込んで、何の根拠裏付けもなく河道側にずいぶん寄せたところに「河川区域境界線」を引いてしまってあるのです(4ページで詳述)。実際にはおよそ「三号地」としての実態を持たない土地、すなわち「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地ではない土地を「三号地」であるかのごとくに看做したうえで、その堤内側の外縁線を「河川区域境界線」として紙の上に描いてしまったのです。もっとも、「三号地」であると明示されているのではありません。そもそも「一号地」「二号地」「三号地」の区分が明記されていないのです。大臣告示図は左右両岸の「河川区域境界線」の間を薄赤にぼんやりと着色してあるだけで、「三号地」の堤外側外縁は描かれていません。

 「管理基平面図」の場合は、「河川区域界の位置」は「官民境界の位置」と区別のつかない(!)細黒実線で、左右両岸に描かれているだけです。「一号地」「二号地」「三号地」の分類区分もありません。

 



 

 3ページで引用した近畿地方整備局高田河川国道事務所の資料(https://www.hrr.mlit.go.jp/takada/river/senyou/pdf/link.pdf)では、「河川横断の例」として、いくつかのパターンを示しています。下段右図の右岸は「山地」における例のようですが、斜面を地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地としての「三号地」に指定したうえで、それと「一号地」の河道との間に、もうひとつ別の「三号地」を指定しています。これは河川法施行令第一条第一項の第二号に相当するもののようです。

 

 

 1966年大臣告示による河川区域境界線を「Ridge3型」と呼んだうえで、それに対抗する2案として「Ridge2型」と「Ridge1型」を提示して、ここまで検討してきたわけですが、堤内側外縁としての「河川区域境界線」にだけ注目していて、これまでは河道側(堤外側)外縁については、考慮外だったわけです。大臣告示の形式に合わせて議論する以上はやむをえないとはいえ、いささか手抜かりがあったと言わざるをえません。

 ページ容量の制限もあり、議論が錯綜してしまうため、ここでこの点について詳細に検討することはせず、Ridge1型案については、とりあえず「三号地」の範囲は若宮戸河畔砂丘の全域とすることにします。私的利益を追求するという目的のために土地の有効利用をめざす地主らからすると承服し難いでしょうが、氾濫防止という公共の福祉( public welfare )をめざすうえでは、それが妥当だからです。

  というのも、あえてRidge1だけを「三号地」とし、それと河道との間を河川区域から除外してその全面的掘削を推進すれば、Ridge1の脆弱化は否定できず氾濫の危険性を高める可能性もあるのです。24.63k地点で、あのような巨大な押堀ができたことについては、河川区域境界線以北の、Ridge1とRidge2の「谷」がかなり深くまで掘削されていたことが誘因となっていることが疑われます。三坂もそうですが、かなり深くまで砂層が堆積しているわけですから、地上の洪水の挙動だけでなく、地下の浸透現象、さらに氾濫水によって砂層が抉り取られるように掘り返されたり、また陥没が起きる可能性もあるのです。

 24.63kの押堀の北端、氾濫水の出口側です(2015年12月18日)。Ridge2を縦断方向に見たところです。

 洪水は、最初は砂の堆積である〝畝〟を乗り越えるのでしょうが、水位と流速が増すとこのように基盤面を地下深くまで抉るのです。陸田の粘土層(稲の株がのこっています)は、下から吹き上げられて剥離しています。

 

 ということで、この問題については保留とし、当面Ridge1の東麓から河道側までの若宮戸河畔砂丘の全部を「三号地」とすべきであったとしたうえで、その枢要部分であるRidge1の掘削前の状態が、河川法第6条にいう「三号地」に指定することの前提となる事実すなわち、河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったこと、について検討することにします。

 新旧の地形図は、あまりも粗略でありRidge1の状態についての情報としては役立ちません。縮尺が一桁違っているというほかなく、描写は簡略化されているというより不正確です(意外なことですがもっとも役立つのは迅速測図だったので、本項目は一貫してこれに頼ってきたのです)。航空写真は無理に拡大していることもあって解像度が低く、掘削前の状況をある程度読み取れるのは1947(昭和22)年の米軍のものと、1961(昭和36)年の国土地理院のものに限られます。なにより、等緯度航行によって連続撮影したコマから立体視技法で読み取ろうにも、全体を樹高15から20mの樹林が覆っていて、しかも伐採後即座に掘削される区間がほとんどなので、一部を除いては〝畝〟の標高を読み取るのは不可能です。

 やむをえないので、複列型の河畔砂丘の一般的構造を前提とし、迅速測図の描写を手がかりとし、それと現地で掘削前の状態を直接知る人たちの証言により推測することとします。

 あわせて依拠すべき事実として、1935(昭和10)年に上流側に、1952(昭和27)年に下流側に築堤された堤防が「山付き堤」として設計されたということに改めて注目しなければなりません。もしこれが1965(昭和40)年に河川区域境界線を定めた組織と職員が同時にしたことであったとしたら、全然信用するに値しませんが、当時は旧河川法の時代でありそもそも「三号地」という法的概念は存在しないものの、堤防を不要とする理由として自然地形の「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」が存在すると判断していたわけですから、そのようなものとして受け止めるべきだと考えます。

 3つの区間を上流から順に検討します(航空写真は河川法改正時のものが最適なのですが、解像度が高い1961〔昭和36〕年のものを示します。河畔砂丘の状況には大きな差異はありません)。

 まず、〝畝〟ridge が複列構造ではなく、単列構造となっている25.50k付近から26.00k付近まで(第1クォーター)です。

 緑線は迅速測図から読み取った等高線で、緑実線がT.P.=20m、緑破線がT.P.=30mです。1966(昭和41)年の河川区域の大臣告示以降掘削がはじまり、1975(昭和40)年までに、中央部の尾根筋と東側斜面が掘削され、西側斜面の下部だけが残って断面が絶壁状態になったわけです。そして26.00k近くの「山付き」地点も掘削されたのですが、それでも2015年水害時にはこの区間では溢水は起きなかったのです。掘削前の1960年代半ばまでは、この単列区間が、河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったこと、具体的にいうと計画築堤高を満たしていたうえ、砂丘の幅も十分であったことは疑いの余地はありません。

 T.P.=30mの等高線で囲まれたところに暗青色破線で示したのは、航空写真からわかる〝畝〟を縦走する道です。横断する道はたくさんありますが、それらと直行する道路があるということです。

 次は、〝畝〟が複列構造をとるようになった25.00kから25.50kの区間(第2クォーター)です。

 1ページで見たとおり、複列構造をとる海岸砂丘や河畔砂丘においては、風下となる内陸側の砂丘がもっとも大規模であり、順に風上側にいくに従い、中規模、小規模となります。若宮戸河畔砂丘のこの区間の場合も、迅速測図の等高線と尾根形状の表記から、このRidge1がRidge2以上の標高だったことがわかります。また、迅速測図とそれ以降の地形図では、いずれもT.P..=30mの等高線に囲まれた地点に三角点が置かれています(掘削後は、多少位置が変わったもののほぼ10数m下に移されます)。掘削前は30m以上の高さがあったこの付近が最高標高点だったと見て間違いないでしょう。

 ただし、寄州での採砂のためのダンプカーが横断できるように、Ridge1を切り通してもともとあった市道東0272号線を平坦になるようにしたようです。さらに道路沿いの「に」地点は伐採されているうえ、掘削までされている可能性があります。Ridge1型河川区域を設定する際には、この部分は埋め戻すか、堤防を設置する必要があったといえます。第2クォーターは、この地点を除けば「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったことは確実です。

 最後が第4クォーターのうち24.63kから25.00kまでの区間です。

 上の1964(昭和39)年の写真でRidge1の尾根筋を縦走する道があるのがわかります。参考のため、同じく縦走路がわかる1968(昭和43)年の写真を示します。「と」地点から「ほ」の墓地まで縦走する道があったという住民の方の直接的証言があります。又聞きではない、確実な証言です。

 以上、掘削以前のRidge1の再現ということで、1965(昭和40)年4月1日の改正河川法施行時点における、河川法第6条にいう「三号地」に指定することの前提となる事実すなわち、河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったこと、について、検討してきました。

 第1クォーターについては、一部しか残されていないridgeから掘削前の状況から、第2クォーターについては迅速測図の等高線や三角点表記などから、いずれもその区間のRidge1が地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」としての条件を充足していることは、かなりの確実性をもって推測することができます。ただし「ほ」地点は掘削されている可能性があります。

 第3クォーターについては、それらに比べると根拠が不十分ではありますが、住民の方の証言などから、一定の高さのridgeがあったと見てさしつかえないでしょう。おそらく戦前の設計にもとづいて戦後に築堤された堤防を、あえて24.50k付近で60度も曲げてまでこのRidge1に擦り付けた(「山付き」にした)ことも、その根拠と見做せるでしょう。もし擦り付けたridgeがこの区間で十分な高さや幅をもたなかったとすればこのような堤防を建造するはずがないのです。

 以上のとおり、いくらか確実性のおとる根拠しか示せない部分や、1か所だけ掘削されてしまっている地点の補修は必要ではあるものの、全体としてRidge1が地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」としての条件を充足しているといえます。Ridge2がほとんどの地点で計画築堤高程度の標高に達しないこと、とりわけ下流側堤防の60度屈曲点から24.63kまでの区間で計画高水位を大きく下回っていて、およそ地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」とはいえない状況であったこととは対照的です。


Ridge1の東麓までを河川区域とすべきだった

 

 以前、下館河川事務所の幹部職員と直接話す機会があり、その際、この「Ridge1型河川区域境界線」を提起したことがあります。Ridge1の東麓、すなわち若宮戸河畔砂丘全体の東側の外縁線にあたるところに河川区域境界線を設定して、砂丘の掘削をさせないようにしておいたなら、2015年の大氾濫は起きなかったのではないか、と私見を申し述べたところ、幹部職員は即座に、その場合には東斜面の基部でなく西側斜面に線を引けばよい旨、主張したのです。その主張内容の当否はさておき、関東地方整備局・下館河川事務所は1966年大臣告示線が誤りであったことを認識していて、それに替えて設定すべきであった河川区域境界線について検討していたことが、露呈したのです。Ridge1のどこかに河川区域境界線を設定するということについて考えたこともないというのであれば、突然このようなことを思いついて口に出すなどということは、到底あり得ないでしょう。この幹部職員とは何度も面談し、三坂の件も含め、あれこれの分析意見を縷々申し述べたのですが、たいていの件については沈黙しか返ってこないか、せいぜい抽象的な言い訳か明らかな誤謬を述べるだけなのに、これともう二点についてだけは不自然なほど即座に、待ってましたとばかりに「反論」が返ってきたのです。

 Ridge1をもって地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」としたうえで河川区域境界線を引こうとする場合、2つのタイプのいずれかとすべきかについて最後に検討することにします。ひとつ目がかりにアルファ型と呼ぶもので、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」の河道の反対側に引くタイプ、ふたつ目がかりにベータ型と呼ぶもので、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」の河道側に引くタイプ、この2つです。堤防であれば、アルファ型河川区域境界線を、上流部の急峻なV字谷の区間、あるいは中下流部で丘陵に接する区間などではベータ型河川区域境界線を引くことになります。

 ベータ型河川区域境界線を設定すべき実例となる写真の手持ちがないので、日本の河川法が適用される区間ではなく場違いではありますが、外国の例を見ます。

 バルーンは、アメリカ合州国カリフォルニア州北部のシエラ・ネヴァダ山脈を水源とするフェザー川(Feather River)の北支流(North Fork)にかかるプルガ橋(Pulga Bridges)です(GoogleMaps)。

 他の支流と合流する地点に全米一の巨大ダムであるオーロビル(Oroville)ダム、ならびにダム湖のオーロビル湖があります(別ページ参照)。

 下流側からふたつのプルガ橋を見たところです。上がカリフォルニア州道70号線のアーチ橋です。

 下がユニオンパシフィック鉄道のトラス橋で、カリフォルニア州都サクラメントとユタ州都ソルトレークシティーを結ぶ貨物線です。コンテナを2段積みした列車が通るための縦長のトラスです(以下すべて2006年3月)。

 州道70号線のすぐ脇が河道です。岩盤が剥き出しになっている典型的なV字谷です。

 「86年2月高水位」と「97年1月高水位」のプレートです。北カリフォルニアは、夏は高温で乾燥し、冬が多雨となる地中海性気候です。

 この2006年も雨が多く、フェザー川の本流のサクラメント川が増水しサターバイパス(放水路)が氾濫しました

 このあと、2017年の洪水ではオーロビル・ダムの放水路が破損したほか、非常用放水路の越流堤が破堤寸前となりました。だいたい10年に一度の割合で洪水となるようです。

 このカリフォルニア州のフェザー川上流のような、巨大で堅固な山や丘陵に沿った河道であれば、河川区域境界線はベータ型とすることになるでしょう。かりにアルファ型にするとなると、山体の反対側までを全部「三号地」に指定したうえで、数100mどころか数km、数10km先に河川区域境界線を引くことになります。このような河川区域境界線は間違いです。これを擬アルファ型と呼ぶことにします。

 若宮戸河畔砂丘のRidge1を「三号地」に指定したうえで、河川区域境界線を引く場合は、アルファ型とするのが妥当です。というのは、Ridge1の場合、一部の掘削された地点を除き、全体として計画築堤高を充足しているものと推測したとはいうものの、Ridge1はフェザー川上流部のシエラ・ネヴァダ山脈のようにそこから数10mとか数100mも立ち上がっているわけではなく、最高標高点はY.P.=32mないし33mあり計画築堤高を8ないし9m程度上回っているものの、平均的には数m立ち上がっている程度です。たとえば25.00k地点の「へ」(墓地)は27mくらいですから、計画築堤高の23.76mを3mほど上回るだけです。このような場所では、アルファ型としてRidge1の保全をはかる必要があるのです。

 下館河川事務所の幹部職員が主張する河川区域境界線の引き方、すなわち若宮戸河畔砂丘のRidge1の河道側斜面にベータ型の河川区域境界線を引くべきだというのは、たとえば堤防の堤外側法肩にベータ型の河川区域境界線を引くべきだというのと同然であり、あきらかに失当です。Ridge1にベータ型の河川区域境界線を設定すれば、ギリギリまで掘削されて陸側(堤内側)が不安定な絶壁にされたり、あるいは横断道のための切り通しをつけられたりすのは必至です。それは杞憂ではなく、実際に第1クォーターで1975(昭和50)年までに起きたことです。


 

 以上のとおり、十分な標高と躯体構造をそなえていて、それに上下流2点で堤防を擦り付けることで「山付き堤」と「山」の一連構造ができあがるのは、若宮戸河畔砂丘第2の〝畝〟ridge であるRidge2ではなく、若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟ridge であるRidge1です。

 そのようなものとして、内務省の設計により1935(昭和10)年に上流側の堤防が、1952(昭和27)年に下流側の堤防が築堤され、Ridge1に擦り付けられたのであり、その状態が維持されていた1965(昭和40)年の河川法施行時点で、このRidge1を含む若宮戸河畔砂丘全域を「三号地」に指定して管理していれば、2015年9月10日の若宮戸河畔砂丘の2か所からの大氾濫は起きなかったのです。

 内務省は戦後解体され、自治省・警察庁・厚生省・労働省・建設省に分割されたのですが(その後、総務省・警察庁・厚生労働省・国土交通省に改編)、建設省は前身たる内務省の意図したところを知りながら正当な理由なくそれを否定したのか、それとも無知無能ゆえにそれを知り得ずにそれを否定する方針をとったのか、そのいずれだったのかはわかりませんが、愚かにもそれらの直轄工事の成果を毀損したわけです。薄々は感づいていたものの、土地所有者たちに阿り、当面の面倒を避けて安易な道を選び、結果的に甚大な災害を招いて国民の生命と生活に到底償い得ない損害を与えた、というところでしょう。