新科目「公共」の問題点 3

学習指導要領における権利と義務

 

   ⑴ 学習指導要領における「権利は義務を伴う」という言説

 

 科目「公共」は、高校生に対して基本的人権について誤った考え方を教え込むことになる。

 次期「学習指導要領」は、科目「公共」の「内容」の項目において次のとおり述べる(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2018/04/24/1384661_6_1.pdf、94頁、「2 内容、A  公共の扉、(3) 公共的な空間における基本的原理」)。

 

 自主的によりよい公共的な空間を作り出していこうとする自立した主体となることに向けて,幸福,正義,公正などに着目して,課題を追究したり解決したりする活動を通して,次の事項を身に付けることができるよう指導する。 

 ア 次のような知識を身に付けること。

(イ) 人間の尊厳と平等,個人の尊重,民主主義,法の支配,自由・権利と責任・義務など,公共的な空間における基本的原理について理解すること。

 

 「幸福、正義、公正などに着目」とは何のことかわからないが、この特異で低次元な用語については前節で検討した。

 「公共的な空間における基本的原理」の一例として、「自由・権利と責任・義務」があげられている。これは今回の改訂ではじめて登場したものではない。現行「学習指導要領」は科目「現代社会」にかんして次のとおり規定している(現行要領 http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/30/1304427_002.pdf31頁、「(2) 現代社会と人間としての在り方生き方 」)。

 

 現代社会について,倫理,社会,文化,政治,法,経済,国際社会など多様な角度から理解させるとともに,自己とのかかわりに着目して,現代社会に生きる人間としての在り方生き方について考察させる。

 ウ 個人の尊重と法の支配

  個人の尊重を基礎として,国民の権利の保障,法の支配と法や規範の意義及び役割,司法制度の在り方について日本国憲法と関連させながら理解を深めさせるとともに,生命の尊重,自由・権利と責任・義務,人間の尊厳と平等などについて考察させ,他者と共に生きる倫理について自覚を深めさせる。

 

 現行要領も次期要領もたんに「自由・権利と責任・義務」と4つの単語を羅列するのみで具体性に欠け、何を言っているのか一向に要領をえない。そこで、現行要領の科目「現代社会」に関する「解説」の記述を引用する(教科「公民」科目「現代社会」解説、15頁)。

 

「自由・権利と責任・義務」については,自由・権利と責任・義務は切り離すことのできない関係にあることを理解させる。その際,自らの自由や権利を主張するということは,同時に他者に対しても同様の自由や権利を認めることが前提であること,自由や権利の行使に際しては,他者の自由や権利を侵害しないという制約を伴うこと,及び,義務や責任を果たすことによって初めて社会的な関係において自己の個性を生かすことができることを,具体的な事例を通して考察させる。例えば,基本的人権に関する課題を設定し,「幸福,正義,公正などを用いて考察させる」(内容の取扱い)。その際,なぜそのような基本的人権の保障が主張されるのか,そのような権利の保障と,他者の権利や公共の利益とをどのようにして調和させるかについて考察させることが考えられる。(現行要領科目「現代社会」の「解説」、15頁)

 

 科目「現代社会」は科目「公共」に取って代えられることになっているので、この記述は、まもなく公表されるはずの次期要領の「解説」でも踏襲されるに違いない。

 おなじく現行要領の科目「政治・経済」に関する「解説」の記述を引用する(47頁)。

 

 「権利と義務の関係」については,個人の尊厳と法の下の平等の原理に基づき,人はそれぞれ自己の権利を主張しその保障を要求し得ると同時に,他者の権利を尊重する義務を負うということ,すなわち,権利とは義務を伴うものであることを理解させる。その際,社会における権利相互の衝突とそれらにかかわる裁判所の判断,契約における権利と義務の関係など具体的な事例を取り上げ,権利と権利の衝突を調整する原理として公共の福祉という考え方などがあることを理解させる。

 

 いずれも趣旨のはっきりしない悪文であるが、叙述を整理整頓した上で、その趣旨について検討を加えることとする。

 「自由」と「責任」がひとつの対概念であり、「権利」と「義務」がもうひとつの対概念である。ここでは、主として「権利」と「義務」について検討することにする。そのうえで「自由」「責任」についても触れる。

 上の、「解説」の文章から、「権利」と「義務」についての記述を抽出し、整序すると次のとおりである。

 

権利と義務に関する指導要領の主張

(あ)権利と義務は切り離すことのできない関係にある。権利とは義務を伴うものである。

(い)自己の権利を主張しその保障を要求する権利は、他者の権利を尊重する義務をともなう。

(う)自らの権利を主張するということは,同時に他者に対しても同様の権利を認めることが前提である。

(え)義務や責任を果たすことによって初めて社会的な関係において自己の個性を生かすことができる。

(お)権利と権利の衝突を調整する原理として公共の福祉という考え方がある。

 

 以下、この主張の妥当性について検討する。

 

 

   ⑵ 「権利は義務を伴う」という言説の検討 1

 

 (え)は、唐突に「個性」などを持ち出す趣旨不明の言説であり、権利と義務との関係に関する言説ではないのでここでは論じない。以下、(あ)(い)(う)について検討する。最後に(お)にふれることにする。

 (い)と(う)は、(あ)の根拠・理由を述べているように見える。はたして根拠・理由として妥当かどうか検討する。

 (あ)は権利について語っているが、(い)は、権利「を主張する権利」ならびに、権利「の保障を要求する権利」について語っているのであり、(あ)のように権利それ自体について語っているのではない。「権利を主張する権利」や「権利の保障を要求する権利」を持ち出すのはすり替えである。「権利を主張する権利」や「権利の保障を要求する権利」という概念は空疎で無意味である。かりにそのようなものがあるとして、かかる「権利を主張する権利」や「権利の保障を要求する権利」が「他者の権利を尊重する義務」をともなうのだとしても、それによって(あ)にいう権利それ自体がそのような義務をともなうことの理由とはならない。

 (う)についても同様である。(あ)は権利について語っているが、(う)では権利そのものではなく、権利「を主張すること」について語っている。権利そのもではなく権利「を主張すること」について述べるのはすり替えであり、空疎で無意味である。より重大なのは、他者の権利について、それを「認める」ことが前提となるというが、そもそも他者の権利について、それを「認めない」ということは、剥奪する、蹂躙するということである。そのようなことはあってはならないことである。他者の権利は、「侵すことのできない永久」のものであって、いまさら「認める」対象ではないし、もちろん「認めない」対象などではありえない。

 (い)の「他者の権利を尊重する義務」は、うっかりすると見逃してしまうが、そのような「義務」は存在しない。それを「義務」と称すること自体が不適切であり、「権利」と対概念になるようなものではない。比喩的な意味で使っているのだとしても、不適切である。

 以上のとおり、命題(あ)を、(い)(う)によって根拠づけることはできない。

 

 

⑶ 「権利は義務を伴う」という言説の検討 2

 

 命題(あ)を(い)(う)によって根拠づけることはできないことを確認したうえで、次に、命題(あ)の妥当性を別のしかたで根拠づけることができるかどうか検討する。

 「権利は義務を伴う」というこの短いセンテンスは、「学習指導要領」独自の言説なのではなく、日本社会で人口に膾炙する通俗的な主張である。近年の一時的な流行というわけではなく、第二次大戦以前にすでにあったものだろう。「権利」の語が使われるようになったのは江戸時代末期のようである(http://www.kansai-u.ac.jp/presiweb/news/column/detail.php?i=569)が、まさか江戸時代にこのような言説があったとも思われない。この言説は、明治から昭和初期のいずれかの時点で普及したものと思われる。

 この命題は、学説などではないようで、したがって書籍において主張されることはあまりないようである。新聞の「投書」欄などには時折あらわれるかもしれないが、記者が書く通常の記事でみかけることもない。この言説は、日常会話において時々登場するようである。近年、インターネット上などで、この命題が登場することがある。検索エンジンでたどると、たとえば、納税という義務をはたしていないのに生活保護を受ける権利を主張するのはけしからん、とか、義務も果たさず自分勝手に権利を主張する社員ばかりだと会社はどうなるか、などの言説が出てくる。学問的考察や出版上の編集・校閲過程を経る著作物の中に、この言説が登場することはあまりない。文部科学省の「学習指導要領」は、組織的な検討をへて作成される文書中にこの通俗的言説が現れる稀有な例外と言える。

 「学習指導要領」は、「権利とは義務を伴う」と主張するにあたって、権利および義務について定義することはしない。その語義を限定することもせず、また、実例を挙げることさえもしない。本来なら、それだけでそのような言説は失格であり、顧慮に値しないとして捨て置くべきものである。しかし、行政機関が「法的拘束力」を僭称して教育内容に絶大な影響力を行使している実態があるので、いささか煩雑であるが、その主張の妥当性について検討を続ける。

 「学習指導要領」は、たんに「権利および義務」というのみで、定義どころか実例も示さないのであるが、法的概念としての「権利および義務」について述べていると見て間違いないだろう。「学習指導要領」と「解説」がどのようなものとして「義務」という語を用いているのかは、きわめて曖昧である。「学習指導要領」における曖昧さは、法・宗教・道徳・倫理などに関する徹底的な無知によるものにすぎないのであるが、それゆえに最初からあらゆる疑問・批判をも受け付けない抜群の強みを発揮する。徹頭徹尾何も考えていないので、何らの理由根拠を示すこともなく、語の定義や使用例を示すこともないのはもちろん、それと明示しないにしてもなんらかの準拠するものを匂わせることも一切しない。「義務」の語をいかなる意味で用いるかを一切示していないので、いかなる批判をうけたとしても、「そのような意味ではない」という言い逃れが可能である。それどころか、読み手が、「義務」の語を自分なりに解釈し、「権利には義務がともなう」という命題が妥当する(ように思える)場合を空想して、なるほどそうだと勝手に納得してしまう効果をもつ。「学習指導要領」に批判的な言説においてさえ、この命題をなんとなく受け入れてしまうこともまれではない。

 かくなる次第であるので、一応、法的概念以外の場合についても予備的にみたうえで、法的概念としての「権利および義務」について検討する。

 

さまざまの義務

 「義務」という語については通例、法的義務のほか、道徳的義務あるいは倫理的義務、宗教における義務、そしてそれらのいずれでもない社会的義務が想定される。

 道徳的義務、ならびに宗教的義務は、「命令」として表現されることもある。たとえば、カントは、『実践理性批判』において、道徳律としての「定言命法 kategorischer Imperativ」について述べている。ユダヤ教ないしキリスト教の『聖書』の冒頭にある「創世記」においては、「十戒(じっかい)」が挙げられているが、英訳では ten commandments (十項目の命令)である。「学習指導要領」の言説にひきつけていうと、カントの道徳論や『聖書』における義務は、それに対応する「権利」の観念をもたない。道徳や宗教といっても数多あり、それらをすべて網羅して判断することは不可能であるが、一般的にいって道徳的権利あるいは宗教的権利というものは存在しないとみてよいだろう。道徳的権利についての議論はあり、道徳的権利の存在を主張する立場も存在するようではあるが(https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180519162746.pdf?id=ART0010005741)、大勢としては道徳的権利、宗教的権利という概念は用いられれない。上記の「学習指導要領」の主張「(あ) 権利と義務は切り離すことのできない関係にある。権利とは義務を伴うものである」は、道徳や宗教に関してはあきらかに失当である。

 社会的義務は、たとえば「企業の社会的責任 corporate social responsibility (CSR)」というように、「責任」と称することが多いようである。この社会的義務(責任)の場合も、それと対になるような「社会的権利」なるものが存在するわけではない。社会的義務の場合においても、「学習指導要領」の主張「(あ) 権利と義務は切り離すことのできない関係にある。権利とは義務を伴うものである」は、妥当しない。

 

民法における権利と義務

 義務という概念は法律上のものとしてもちいられることが多い。たとえば、商品の売買契約が締結されると、買い手には支払い義務が、売り手には商品引き渡し義務が生ずる。そして、それぞれの相手方には、それに対応する権利、すなわち売り手には支払いを受ける権利が、買い手には商品を受け取る権利が生ずる。この場合、支払い義務に対して支払いを受ける権利が対応し、商品を引き渡す義務に対して商品引き渡しを受ける権利が対応する。そしてまた、支払い義務をもつ者は商品引き渡しを受ける権利をもち、支払いを受ける者は商品を引き渡す義務をもつ。なお、民法上はこの権利・義務は、それぞれ債権・債務とよばれる。

 この場合、対となる権利と義務についてみると、権利を持つ者と義務を課せられる者は、同一人ではなく、契約上の二人の当事者である。これでは、「(あ) 権利と義務は切り離すことのできない関係にある。権利とは義務を伴うものである」という命題の根拠とはならない。

 たしかに、各当事者についてみると、商品を受け取る権利を持つ者は代金を支払う義務を負うし、代金を受け取る権利を持つ者は商品を引き渡す義務を負う。その意味では「権利とは義務を伴う」と言えるようにも見える。しかし、それを言うなら、代金を支払う義務を負う者は、商品を受け取る権利を持つのであるから、「義務とは権利を伴うものである」と言わなければならないことになる。権利と義務は切り離すことはできないというからには、権利あるところに必ず義務があるのと同様にして、義務あるところに必ず権利があると言わなければならないはずである。しかし、「学習指導要領」はそんなことは一切言わず、権利についてだけいちいち留保条件をつけて義務を持ち出し、権利を制限しようとするのである。

 

 

⑷ 文科省作成の『私たちの道徳』における権利と義務

 

 文部科学省が編集した『私たちの道徳』(小学校5、6年生用)における「権利・義務」についての記述をみてみよう。その前に、「私たちの道徳」についての文科省の説明はつぎのとおりである(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/detail/1344254.htm)。

 

趣旨

「私たちの道徳」は,「心のノート」を全面改訂したものであり,児童生徒が道徳的価値について自ら考え,実際に行動できるようになることをねらいとして作成した道徳教育用教材です。本冊子は,平成26年度から使用できるよう,全国の小・中学校に配布することとしています。

特徴

• 「道徳の時間」はもちろん,学校の教育活動全体を通じて,また,家庭や地域においても活用することが期待されます。

• 学習指導要領に示す道徳の内容項目ごとに「読み物部分」と「書き込み部分」とで構成しています。

• 児童生徒の発達の段階を踏まえ,先人等の名言,偉人や著名人の生き方に関する内容を多く取り上げるとともに,いじめ問題への対応や我が国の伝統と文化,情報モラルに関する内容などの充実を図っています。

 

 『私たちの道徳』は、事実上の国定教科書である。

 この『私たちの道徳』は、「4 みんなとつながって」の「⑴ 法やきまりを守って」のなかで、権利と義務について次のように主張する。

 

 

 

 

 まず、右側124ページ左上の記述に注目しよう。

 

「だれかが一方的に自分の権利ばかりを主張して義務を果さなかったり〔略〕するようなことがあったら、どうなるでしょうか。私たちの生活や社会はうまくいくでしょうか。」

 

 これは、「学習指導要領」の「解説」よりおおきく踏み込んだ記述である。「解説」における「義務」は、「他者の権利を尊重する義務」であったが、ここでは「人がそれぞれの立場に応じてしなければならないことやしてはならないこと」とされる。「してはならないこと」が義務であるというのはおかしなものであるし、なにより異様なのは、義務は「立場」に応じたものなのだという主張である。「立場」によって義務がことなるというのでは、現代社会における原理原則ではありえない。それは前近代的な身分制社会における義務である。そのような義務をはたさなかったりすると「私たちの生活や社会はうまく」いかないのだとして、一切内容を示すことなく、児童に漠然と封建的な義務観念を教唆する。

 そして、権利と義務が天秤にかけられ、そして釣り合っている図がある。

 

 

 ということは、権利もまた「立場」によってことなるものであることになる、これでは、権利は封建的特権のようなものである。

 こうして、「一方的に自分の権利ばかりを主張」することが、義務の履行のいかんにかかわらずすでに不適切なものであることが印象づけられる。児童は不可避的に、権利の主張=悪という観念を刷り込まれる。

 

 そして左側125ページで、いよいよ主要なターゲットである日本国憲法における権利と義務の解釈が提示される。

 

日本国憲法では、人が人として当然もっている権利で、生まれてから死ぬまで、すべての国民に保障されている権利を「基本的人権」として尊重することを定めています。

 

 本当にわかっていないのか、それともわかってうえでの作為なのか、判然としないが、曖昧で趣旨のよくわからない文である。保障」するのは何ものなのか? 「尊重」するのは何者なのか? 主語を曖昧にしたうえ、「保障」と「尊重」のふたつを持ち込んでわけのわからない記述になっている。

 人は生まれた時点ですでに基本的人権を持っている、日本国憲法はそれを「基本的人権」として「保障」する旨規定している、日本国憲法は「保障する」のであって与えるわけではない、ということが理解できない。あえて、元の文言を生かすとして、次のように書くべである。

 

日本国憲法は、生まれてから死ぬまで人が人として当然もっている権利を、すべての国民に保障することを定めています。これが「基本的人権」です。


 

 

 

 つづいて、『私たちの道徳』は権利と義務を列挙する。124ページで権利と義務を天秤にかけたように、125ページで権利と義務を同じ大きさの枠で囲って示す。憲法第3章だけみても、数多くの権利が規定されているのに、権利は「例」として4つだけが示され、義務の方には「子供に教育を受けさせる義務」「税金を納める義務」「仕事について働く義務」の3つが列挙される。俗にいう「国民の三大義務」である。

 権利と義務とは、天秤の二つの皿の上で釣り合っているように視覚化されたうえで、同じ大きさの枠組で示されることで、それぞれの意義、それぞれが持つ意味が同等であるという誤った印象が植え付けられる。小学生の場合、憲法の条文が教科書に掲載されることもなく、前文や条項を全部目にする機会はないから、憲法上、権利と義務は同等の意義を持つ概念であるかのごとき観念を持たされることになる。

 『私たちの道徳』中の「法やきまりをまもって」という12ページにわたる項目は、社会におけるきまりの重要性を説示する流れになっている。このように、まず権利と義務はおなじ重みを持つものとされたうえで、「子供に教育を受けさせる義務」「税金を納める義務」「仕事について働く義務」を列挙し、それらがあたかも権利と同程度の重みをもつものであるかのごとき印象を与える。最終的には義務こそが重要であることになる。

 「学習指導要領」がその一端をになっている「権利には義務が伴う」という俗説の行き着く先は、日本国憲法は国民に義務を課しているというとんでもない主張である。

 

 

⑸ 日本国憲法における義務

 

 日本国憲法が国民に義務を課しているのは当然であって、そんなことにいちいち驚いてはいられない。このような誤解が蔓延している。日本国憲法における「国民の義務」について、その趣旨を確認しなければならない。

 そのまえに、日本国憲法における「国民の権利」について、その趣旨を確認しておこう。憲法第97条とその英訳は次のとおりである。

 

 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

 Article 97. The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

冒頭部分は、和文では能動態であるが、英訳では受動態になっている。英訳をそのまま和訳すると次のとおりである。

 

日本国民に対してこの憲法によって保障される基本的人権は、人類の多年にわたる自由への努力の成果であり、……

 

 最後の節で、基本的人権は「信託される be  conferred ..... in trust」と、受動態で記述されている。その際、何(何者)によって信託されるかは明示されていない。第11条の後段でも、同様に「与えられる be conferred」とされていたが、何(何者)によってかは明示されなかった。明示されていないが、基本的人権を個人としての日本国民に与えたのは「自然」である。この権利 right は、「自然 nature」が人間に与える confer もの、すなわち「自然権 natural right」である。これが基本的人権 fundamental human right である。

 すなわち、

 

 (i) 日本国民 we, the Japanese people は、出生により、個人 individual として、基本的人権 fundamental human right を、与えられる be conferred(信託される be  conferred ..... in trust)

 

 (ii) 憲法 Constitution は、日本国民が個人として与えられた(信託された)基本的人権を、保障 guarantee する。

 

ということである。

 そのうえで、日本国民 we, the Japanese people は、これら(i)(ii)を確認 recognize し、憲法 Constitution として制定したのである。

 俗説や「学習指導要領」がいうように「権利には義務が伴う」ものであり、『私たちの道徳』が児童に説示するように、権利と義務とは天秤でつりあうようなものであるとするなら、権利がそうであるように、義務もまた、憲法以前の、憲法によらない起源を持つはずである。そして義務はつねに権利に随伴するというからには、この義務の起源は、当然ながら権利の起源と深い関連性を有するものであろう。もし義務に、憲法以前の、憲法によらない起源などは存在せず、義務はただたんに憲法によって創設されたものにすぎないとすると、そのような義務は天秤の上で権利と均衡するような基底的概念ではない、ということになる。

 義務にそのような起源は存在するのか否かについて、順に検討する。

 

 

 

「義務教育」

 まず、「子供に教育を受けさせる義務」である。憲法第26条とその英訳は次のとおりである。

 

第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 

Article 26. All people shall have the right to receive an equal education correspondent to their ability, as provided by law.

 

すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ義務教育は、これを無償とする。

 

All people shall be obligated to have all boys and girls under their protection receive ordinary education as provided for by law. Such compulsory education shall be free.

 

 憲法制定権者である日本国民は、憲法第26条前段において、すべての国民に「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利」を保障したうえで、その権利の実現のために、保護者たるものは「かれらの保護のもとにある少年少女に ordinary education 〈通常の教育を受けさせる義務」を負うことを宣言したのである。そして、憲法によって設置される政府に対しては、かかる compulsory education 〈義務教育は無償とするよう命じているのである。

 ところが、『私たちの道徳』は、憲法における多数の条項を無視し、権利については「例」としてわずか3つを挙げるのみだから、第26条前段の「教育を受ける権利」については一切触れない。そして「義務」の例として、後段の「義務教育」を強調する。しかしながら、この「義務」は何なのかが問題である。

 後段の「義務教育」は、英訳では compulsory education であり、必修の教育、すなわち誰もが受けることになる教育という程度の意味合いであり、前段の「通常の教育 ordinary education 」のことである。和文では「義務」となるが、「国民の義務」という場合の義務 duty ではない。

 後段の「普通教育を受けさせる」よう義務づけるという部分は、be obligated to であり、義務 obligation を課するというものであるが、これは教育を受ける権利の実現のために憲法制定権者である日本国民が、みずから果たすべき責務として宣言したものである。これは『私たちの道徳』が描き出すような、天秤上で権利と均衡する義務、権利の対概念としての義務ではない。

 基本的人権は、日本国民に対して、憲法以前に、憲法によらずして、与えられる be conferred 、あるいは信託される be conferred … in trust のであり、憲法はこれを(与えるのではなく)保障する guarantee のである。一方、憲法以前には、普通教育を受けさせる義務は、存在しない。当然、憲法以前の義務を憲法が「保障」するものではありえない。「普通教育を受けさせる」義務は、憲法が保障する「ひとしく教育を受ける権利」の実現のための手段として、憲法によってあらたに設けられたのである。

 

納税の義務

 「税金を納める義務」は、普通教育を受けさせる義務のように、その前提となる権利があるようにもみえないし、純然たる義務として国民に賦課されているように思われる。憲法学の教科書をみても、芦部信喜の『憲法』(1993年、岩波書店)には特段の言及がない。そのほかの教科書も、じつに素っ気ない。

 

総じて、憲法上の国民の義務を定める規定には、格別の意義は見いだしがたい。(長谷部恭男『憲法 第2販』2001年、新世社、107頁)

 

国民主権の下で、基本的人権を確保するため、国家の存立をはかるには、国民はその能力に応じてその財政をささえなければならないのは当然で、本条はその当然の義務を明示するものである。(佐藤幸治『憲法〔第三版〕』、1995年、青林書院、442頁)

 

 司法試験や公務員試験用の教科書におけるこうした無視ないし軽視の態度は、憲法解釈としてはいささか表面的にすぎるだろう。次は憲法前文の一節である。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

Government is a sacred trust of the people, the authority for which is derived from the people, the powers of which are exercised by the representatives of the people, and the benefits of which are enjoyed by the people. This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded. We reject and revoke all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.

 

 通例、この部分については、よく知られたリンカーンのゲティスバーグ演説の一節、「人民の、人民による、人民のための政府」との類似性が指摘される程度で、それ以上の検討はおこなわれないのが通例である。しかし、注目すべきなのは「信託 trust 」という語である。さきほどは、基本的人権の起源に関する「信託された be conferred … in trust 」という語について触れたが、こんどの「信託 trust 」は「国政」すなわち、統治 government の起源に関する概念である。

 国際法上は、国連 United Nations の信託統治 Trust Territory の制度があるが(現在は信託統治領は存在しない)、現代日本の現行法においては「信託」は民事上の財産の管理に関する概念であり、信託法(平成18年法律第108号 http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=418AC0000000108&openerCode=1#1)によって規定される。

 

(定義)

第二条 この法律において「信託」とは、次条各号に掲げる方法のいずれかにより、特定の者が一定の目的(専らその者の利益を図る目的を除く。同条において同じ。)に従い財産の管理又は処分及びその他の当該目的の達成のために必要な行為をすべきものとすることをいう。

2 〈略〉

3 この法律において「信託財産」とは、受託者に属する財産であって、信託により管理又は処分をすべき一切の財産をいう。

4 この法律において「委託者」とは、次条各号に掲げる方法〈信託契約、遺言等〉により信託をする者をいう。

5 この法律において「受託者」とは、信託行為の定めに従い、信託財産に属する財産の管理又は処分及びその他の信託の目的の達成のために必要な行為をすべき義務を負う者をいう。

6 この法律において「受益者」とは、受益権を有する者をいう。

7 この法律において「受益権」とは、信託行為に基づいて受託者が受益者に対し負う債務であって信託財産に属する財産の引渡しその他の信託財産に係る給付をすべきものに係る債権(以下「受益債権」という。)及びこれを確保するためにこの法律の規定に基づいて受託者その他の者に対し一定の行為を求めることができる権利をいう。

(受託者の注意義務)

第二十九条 受託者は、信託の本旨に従い、信託事務を処理しなければならない。

2 受託者は、信託事務を処理するに当たっては、善良な管理者の注意をもって、これをしなければならない。ただし、信託行為に別段の定めがあるときは、その定めるところによる注意をもって、これをするものとする。

(忠実義務)

第三十条 受託者は、受益者のため忠実に信託事務の処理その他の行為をしなければならない。

 

 一般庶民はこのような「信託」はほとんど縁がなく、「○○信託銀行」という名を時々目にする程度である。さらに困ったことには、中学生や高校生用の教科書でこれとは無関係の概念、すなわち企業の独占形態として「カルテル・トラスト・コンツェルン」が必ず登場することもあってか、われわれの注意が憲法上の「信託」あるいはその英訳の trust に向かうことがないのが実情である。憲法前文の「信託」は、特段注目されることもなく、その意味が議論されることもあまりない。どういうわけか憲法学も同様で、上記の憲法前文の記述について、芦部信喜の『憲法』は、たんに「国民主権とそれに基づく代表民主制の原理を宣言」するものだとし(34頁)、佐藤幸治の『憲法』はこれと第43条をあわせて「日本国憲法体制が代表民主制の原理に立つことを明らかにする」(136頁)というのみで、いずれの教科書も「信託」には触れない。長谷部恭男の『憲法』にもこの部分への言及はない。「信託」への無関心は、「義務」の無視と関連するようである。

 「信託 trust」という概念は、中世のイギリス法のエクイティ(equity 衡平法)とよばれる法体系において、土地に対する権利の譲渡に関する概念から発展したとされる(田中英夫『英米法総論』、1980年、東京大学出版会、上巻、98-99頁)。F. H. ローソンによると、「信託」は財産に関する概念として成立した英米法独自のものであり、フランス・ドイツなどの大陸法には存在しない(『英米法とヨーロッパ大陸法』、訳書=小堀憲助他訳、1971年、日本比較法研究所、228-40頁)。ついでにいうと民法の基本原則の多くはローマ法に起源をもつが、「信託 trust」の場合は、ローマ法まで遡ることはないようである。

 日本国憲法前文の「信託」は、中世イギリス法に起源をもつ財産に関する原理、すなわち民法的な原理である「信託」概念が、統治 government の起源に関する原理として援用されたものである(山本陽一『立憲主義の法思想』、2010年、成文堂、第5章「日本国憲法における『信託』の含意」)。すなわち、国民 Japanese people は「信託財産」の「委託者 trustor ( truster )」であり、なおかつ「受益者 beneficiary 」となり、政府 government が「信託財産」の「受託者 trustee 」となる。受託者である政府は、外部の第三者などではなく、憲法の各条項によって規定される「国民の代表者 representatives of people 」として、国民の利益のために信託財産を管理運用する義務を負う。信託財産の管理運用によってもたらされ、国民が受けることになる利益が憲法前文にいう「福利 benefits 」である。

 この「信託財産」とは何かが問題となる。山本は、次のようにいう(前掲書、252頁)。

 

税金は信託財産に、政府は受託者に、納税者は受益者に相当する。政府は、受益者 — 信託を創設した国民、その子供たち・孫たち — の利益を目的として税金を使用しなければならない。これが、もっぱら受益者の利益のためにのみ信託財産を管理する受託者の義務(忠実義務)である。この義務違反をチェックする決算審査や住民監査請求は、信託から帰結する制度であると理解することができる。

 

 このあたりの山本の論述は、きわめて多岐ににわたり、とくにロックにおける制度化されない抵抗権に関する解釈にまで及んでいて、整序されているとは言い難い。上の引用部分で、税金は信託財産の一部なのかそれとも全部なのかもわかりにくい。ここでは、税金は信託財産の一部であると解釈したうえで、主筋にもどり日本国憲法における納税の義務の意味について考えることにする。

 この義務が、憲法以前の、憲法によらない起源を持つのか、それとも憲法以前の、憲法によらない起源などは存在せず、たんに憲法によって創設されたものにすぎないのか、という問題に対する答えは明らかである。すなわち、納税の義務は、統治( government 「国政」)を樹立する信託行為に際して、委託者たる国民から受任者たる政府 government に委託される信託財産の一部に他ならない。すなわち、納税の義務は、基本的人権を保障するという目的のための手段としての憲法によって、はじめて形成されたものである。この義務は、権利(基本的人権)が憲法以前の起源を有するのとは対照的に、憲法以前の何らの起源を有するものではないから、当然、天秤上で権利とつりあうような同程度の重みを持つ概念ではない。

 

勤労の義務

 ここからただちに、最後の勤労の義務の意味があきらかになる。納税という、国民がみずからに課した義務を履行するためには、国民は勤労しなければならないのである。国民が皆、莫大な相続財産をもっていたり、ありあまるような不労所得をもっていて、勤労する必要などさらさらない、などということは到底ありえない。大部分の国民は納税の義務をはたすためには、それ以前に勤労によって収入をえていなければならないのである。これが「勤労の義務」の意味である。

 『私たちの道徳』は権利についてはこう言っていた。

 

人が人として当然もっている権利で、生まれてから死ぬまで、すべての国民に保障されている権利

 

権利と義務とは天秤上で釣り合うものだとすると、義務は次のようなものでなければならないはずである。

 

人が人として当然もっている義務で、生まれてから死ぬまで、すべての国民に課されている義務

 

 すべての人は、年齢や健康状態などにより、勤労が不可能である時期がある。またそのような時期が生涯のすべてにわたる人も少なくない。もし勤労の義務や納税の義務が、本源的なものであるとするなら、すなわち「人が人として当然もっている」ものであり、「生まれてから死ぬまで、すべての国民に対し」一切の例外もなく課されるはずである。勤労の義務と納税の義務が、もしも憲法以前の、憲法外に根拠を持つものであって、憲法といえどもそれを解除することができないものであるとすれば、年齢や健康状態などにより、勤労が不可能である者であってもその義務は課せられているのであり、もし義務の履行を怠るとすれば、その者は当然、義務違反のかどで罰せられなければならないであろう。この場合には、「だれかが一方的に自分の権利ばかりを主張して義務を果さなかったり〔略〕するようなことがあったら、どうなるでしょうか。私たちの生活や社会はうまくいくでしょうか」という『私たちの道徳』の記述は妥当なものだということになる。

 しかし、憲法上、そのような場合についてまで、勤労の義務が課されるはずはないし、当然ながら納税の義務が課されるはずもない。というのも、そのような義務の無条件的賦課は、基本的人権の保障と矛盾するだけではなく、何らの理由・根拠を持たないからである。したがって、「だれかが一方的に自分の権利ばかりを主張して義務を果さなかったり〔略〕するようなことがあったら、どうなるでしょうか。私たちの生活や社会はうまくいくでしょうか」という『私たちの道徳』の記述は失当であり、児童に教え込むことは許されないのである。

 

 

⑹ 憲法第12条と自由民主党の改憲案

 

 「学習指導要領」は、「権利には義務が伴う」という日本国憲法に反する主張を児童生徒に説示しているのであるが、これと軌を一にするのが、2012年に公表された自由民主党の改憲案である。

 

(国民の責務) 

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。 

 

この改正案は、日本国憲法第12条の改正条項ということになっている。憲法第12条とその英訳は次のとおりである。

 

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, who shall refrain from any abuse of these freedoms and rights and shall always be responsible for utilizing them for the public welfare.

 

 権利を保持する義務、そして公共の福祉のために権利を利用する責任=義務、これこそまさに憲法上の義務なのである。ところが、自由民主党はその義務の存在に気づかず、それどころか俗論のなかにしか居場所のなかったあやしげな義務をひっぱりだしてきて、あろうことか、基本的人権を制限する口実にしてしまおうとするのである。

 自由民主党改憲案の「常に公益及び公の秩序に反してはならない」とはどういうことだろうか。主語は、国民なのか、それとも自由及び権利なのか。いずれでも意味はとおらない。また、「常に…してはならない」とは、まさか時々ならよいという意味ではあるまいが、文法的に誤っている。

 自由民主党は、「公益」だとか「公共の福祉」なるものが、権利の制限要因となるものと考えているようである。すなわち、権利の主張ばかりしていて、責任・義務をはたすのを怠ると「公共の福祉 public welfare 」が損なわれると言いたいのであろうが、第12条の条文をよく読めば、それはとんでもない誤解であることがわかる。第12条は、権利を abuse すること、すなわち権利を濫用し、権利を悪用し、権利を誤用し、権利を乱暴にあつかい、権利を罵倒することで、権利を傷つけ、権利を損なってはならず、「公共の福祉 public welfare 」が増進するように、権利を利用 utilize すべきだ、というのである。つまり、権利は公共の福祉を損なうものではなく、公共の福祉に役立つものなのである。

 「公共の福祉」は、権利の制限や権利の剥奪の理由・根拠になるものではない。「公共の福祉」は、権利の利用の目的であり、権利によって実現・増進するものなのである。

 したがって、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」などと主張することは、権利を abuse すること、すなわち権利を濫用し、権利を悪用し、権利を誤用し、権利を乱暴にあつかい、権利を傷つけ、権利を損なうことであり、「公共の福祉 public welfare 」が増進するように権利を利用 utilize することを妨げることになるのである。