八間堀川問題

 

3 後背湿地最深部の惨状

23, Jan. - 22, Feb., 2016

      

 前のページでは、若宮戸(わかみやど)の2つの「溢水」地点(午前6時以前に「溢水」した、有名なソーラーパネルの25.35km地点と、午前6時頃に「溢水」した、無名の24.75km地点)からの氾濫水が、東北東方向の下妻(しもつま)市南部まで到達して八間堀川(はちけんぼりがわ)に流入した地点(ただし9月10日時点の)から始めて、新石下(しんいしげ)の自然堤防地帯の東側周縁部と八間堀川左岸(東岸)部の2か所で県道24号線を「越水」(というのでしょうか?)した後、曲田(まがった)の自然堤防地帯によって流れをやや西側に寄せた上で、12時50分に破堤(ただし11時以前から相当量の「越水」が始まっていました)した三坂(みさか)町からの氾濫水と合流して数千万立方メートルの膨大な水塊となり、八間堀川に流入して下流へ先行したごく一部分を追うようにして、標高差にしたがってゆっくりと南下するところまでを見てきました。

 

 つづいてこのページでは、八間堀川西岸の三坂新田町(図の「→」から沖新田町の手前まで)から沖新田(おきしんでん)町(図の「→」から十花(じゅっか)町の手前まで)、ならびに八間堀川東岸の上蛇(じょうじゃ)町付近、そしてもちろん八間堀川における氾濫水の挙動をみてゆくことにします。

  グーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真です www.google.org/crisisresponse/japan/archive? メニューのたどり方については、reference4B 参照

 国土地理院も同様に水害被災地域全域の写真を公表しています(reference4)。9月10日の午前と午後、13日と15日の4回分あって経時的変化をみるうえではたいへん有用なのですが(5ページでサンプルを参照します)、低高度を飛行しながら垂直に撮影した写真の貼り合わせであって色調が揃わないうえ、11日午前の写真は若宮戸付近が含まれていないなど、いささか見劣りがするのです。

 日本国政府はこれとは別にかなり高精細な衛星写真を持っていると称しているのですが、例の「特定機密」に相当するもののようです。もし公表しようものなら特定機密保護法違反で担当者が実刑に処せられるのでとても出せないのであるが、このたびの国民の被災にかんがみて解像度を落としたものを特別にみせてやるから有難く思え、と恩着せがましく使い物にならないチープな画像を「公表」して、国民をがっかりさせたのでした。

 

 グーグルのものは(これでも解像度の上限ではないと思われますが)圧倒的に鮮明であるうえ、貼り合わせではないので氾濫水の流れ方まできわめてよく判るのです。

  全体の印象と建造物の影の角度などから判断して、貼り合わせではなく、同じ瞬間に撮影された一枚の写真だと判断しました

 そのうえで、国立天文台のウェブサイトにおける「太陽の高度・方位情報提供サービスによる当日の太陽の方位を照合しhttp://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/koyomix.cgi、映像中の影で測定した太陽の方位から撮影時間を午前10時ころと判断しました(写真はサンプルのひとつ、平町と中山町付近の「大橋」上空の自衛隊の救助ヘリコプターと水面に投影された影です)。


 

 ただし、最高倍率にすると「ドット抜け」のような白点が見えることから、単純な撮影方法によるのではなく特殊技術による合成画像なのかもしれません(そうはいっても、CGによる仮想映像というわけではありません)。なお、垂直に撮影したものではないようです。まして地面(水面も)は球体の表面です。しかし、その分は補正してあるものと判断し、単純に影の角度から推定したものです。少々の誤差はあっても、せいぜい±30分くらいだと思います。

 

 なお、これとは別に、GoogleMapsでも拡大してゆくと2015年9月20日ころに撮影されたかなり詳細な3D風画像になるほか、GoogleEarth ではそれを角度を変えて見ることができるなど、「ストリートビュー」で垣間見せた画像合成技術が惜しげもなく投入されています。日本のIT技術があやしげな方面(STAP細胞事件)や、愚にもつかないゲームでしか力量を発揮していないのとは対照的です(日本のコンピュータ・ゲームが優れているのではなく、他国があまり力をいれていない、どうでもよいところで商売しているだけの話です。意義のある基幹的部分での独創性はいずこかにはあるに違いないのですが、埋もれてしまっていて頭角を現さないようです)

 大昔に見た『惑星ソラリス』のラストシーン、すなわち上空を見上げる主人公をとらえる直近の俯瞰像から連続的にズームアウトし、最後に惑星全体を映し出した極めて印象的なカットの、映像そのものはちゃちでしたがその驚くべき基本発想を、 GoogleMap / GoogleEarth が実現したのです。しかも今回茨城県結城(ゆうき)市・下妻市から常総市をへて守谷(もりや)市・取手(とりで)市にいたる浸水圏と湛水した遊水地の全域を克明に記録して、課金せずに公表しているのです。日本国政府(とりわけ内閣官房情報調査室)と、「電柱おじさん」や「ヘーベルハウス」が大半とはいえすこしは重要な映像資料を撮り溜めて死蔵している「報道」企業群が等閑に付していることですが、社会的責任を果たすとはこういうことをいうのです。の映像を5分間も眺めていれば、「水海道市街地水没八間堀川唯一原因論」のようなプリミティブな思いつきなど出てくるはずもないのです。「水海道市街地水没八間堀川唯一原因論」の提唱者たちは、自分の眼と頭に自信がないのですぐに「専門家」に安直な電話取材をかけたり、忙しい忙しいと言いながらつまらぬツイッターなどに現を抜かして空費している時間とエネルギーの百分の一ほどでも割いて、目を凝らすべきなのです。

 

 2ページで扱った下妻市南部から新石下にかけては後背湿地の広い範囲がひとつの水面をなす段階を過ぎていました。これからみてゆく三坂町と曲田あたりも、同様にピーク(三坂新田・川崎町付近では11日午前0時から1時ころのようです)は過ぎているようですが、アグリロード(後出)付近より南は、常総市南端にいたるまで水面が全部連続しています。氾濫水がひとつの塊となって運動しているのです。

 運動する物体 body を静的 static にとらえるだけではもちろんだめです。動的 dynamic に捉えなければならないのです。

 動的にとらえるとはどういうことでしょうか? ここで理論的な話をはじめると先に進めなくなりますから、まずは具体的に、水害における氾濫水の挙動を動的にとらえるにはどうすればよいかを考えてみることにしましょう。時間的変化という観点を加えることがまず思いつくのですが、ここでは物体の運動がもたらす影響・結果を追跡することで「運動」のようすを探ってみようと思います。まず視覚的に認識可能な側面から氾濫水の運動状況をみてゆくことにします。運動を視覚的にとらえるとなると、まずは動画です。たしかに動画があるに越したことはありませんが、全域を全過程にわたって記録した動画などあるはずがありません。しかし、静止画像によっても運動を動的にとらえることはできるのです。

 

 

衛星写真に示された氾濫水の挙動

 

(1)西でアグリロードを越し、東で曲田を避けて八間堀川を横断

 

 すこし縮尺を大きくして部分的に見ていきましょう。

 この写真から読み取れる限りで、氾濫水の流れ方を矢印で記入してみます。こう流れたはずだ、こう流れたかも知れない、こう流れたのかな? という勝手な想像ではなく、水の色の変化、色の違う水塊の境界のありかた、浮遊物の溜まり方、浸水した痕跡としての土地の変化など、この写真に写っているかぎりのものからだけ読み取る、ということです。

 この(象の親指の爪 thumbnail 並みに大きい)サムネイルでは青緑の矢印がかぶってしまって読み取れませんから、下に大きめに表示します。しかし、この画面表示もあくまで観点を示すためのものです。広い範囲を映していて個々の物体が小さくなっているうえ、ウェブサイトの仕様により画面上の解像度や大きさに限界があります。色の変化などはさらに拡大してやっとそれとわかるものも拾い上げてありますから、下の画面だけ見て、気のせいで見えたつもりになっている眉唾物だと嗤うのではなく、できるだけ大画面の高精細なディスプレイで、直接グーグル・クライシス・レスポンスのページを開き、限界まで拡大してご覧ください(日本国政府のチープな写真と違って、かなりの拡大にたえます。当 naturalright.org は24インチ画面で、時間をかけ、目を皿のようにして、気分が悪くなるまで眺めた上で推測しています)。(国土交通省のヘリコプターからの写真などは、早々に「公開」をやめ、お蔵入りしてしまったのとは違い、こちらは3年経っても閲覧可能です。2018年追記)

 

 

 東西に走る道路が、堤防のような作用を及ぼしていることがわかります。前ページで見た新石下から東のつくば市に延びる県道24号線がそうでしたが、ここでは広域農道「アグリロード」が影響を与えています。関東鉄道常総線(単線非電化)を跨ぐ高架部分で下を氾濫水がくぐるほか、すくなくとも2か所で「越水」(というのでしょうか?)しているのがわかります。国道294号線との丁字路から東は、まるで若宮戸のように「無堤」(?)になっていますから、若宮戸なみに氾濫水が容易に南下しています。

 前ページで見たように、今回一軒を除いて浸水しなかった曲田(まがった)の自然堤防地帯に行く手を阻まれた氾濫水は、進行方向右側(西側)へ幅寄せされて、八間堀川の左岸堤防を「越水」(河道から堤内へ、ではなく、この場合は堤内から堤外=河道へですから、ただしくは「越水」とはいいませんが)し、すぐさま右岸堤防を「越水」(今度は本物)して、西側へ流れ込んでいます。

  

 

(2)西で圏央道をくぐり、東で上蛇町の自然堤防で行き止まり、八間堀川を完全水没させる

 

鬼怒川が大きく東へ寄ってきて、小貝川との間隔が2kmほどに狭まります。西では建設中の圏央道のトランペット型インターチェンジを、西側の狭い流路と東側の国道294号線との導入路を回避する流路にわかれ、いずれも高速道路の連続高架橋の下をくぐります(インターチェンジだけは全部を建設中ですが、本線は当面片側2車線分を1車線ずつの対面通行で暫定運用するため、現状では本線高架橋は2車線分のみです。橋脚はすでに完成していたようで、水害後、時々国道294号線を夜間通行止にして、桁部分の工事を再開し、構造躯体はほぼ完成したようです)。

 ここから、後背湿地の最低標高地点を縦断流下する八間堀川に沿って、6km以上にわたって、一直線に農業集落が続きます。北から順に、三坂新田(みさかしんでん)町、沖新田(おきしんでん)町、そして八間堀川を左岸(東岸)にわたって十花(じゅっか)町、平町(へいまち)の新田集落です(このカットの範囲は三坂新田です)。古くからある農業集落はおおくが自然堤防上に立地していますが、後背湿地を排水して水田化する新田開発に際しては、そのただなかに農家の住宅も置かれたのです。そうなるとまた、あえて一か所に団子のように固まる理由はありませんから、それぞれの水田のすぐ横に住宅が建てられました。明治時代の迅速測図(reference4 で紹介した沼津高等専門学校のウェブサイトで参照できます)を見ると、現在とまったくおなじ並び方です。

 

 

 東では、曲田と同様にかつての小貝川の蛇行がつくりだした上蛇(じょうじゃ)町の自然堤防が、当然ながら同じように氾濫水を阻んでいます。

 自然堤防上に集落をつくっている多くの農家住宅が今回も浸水を免れたのに対し、三坂新田と沖新田にはじまり、ここから常総市南部・南東部にいたる広大な新田集落群は、住宅はある程度土盛りをしてあるにもかかわらず、1階部分が完全に水没しました。水田の浸水深はかなりのもののはずです。鬼怒川東岸は全体としてゆるやかながら南にむけて傾斜していますから、北部の若宮戸が翌日までには氾濫水があちこちに落堀や水たまりを残しつつも流下し去ったのに対し(だからといって被害の程度が軽いというわけではありません。浸水被害はたとえ短時間でも壊滅的です)、南部のしかも後背湿地の最低標高地点に立地するこれらの集落は、10日午後にはじまった浸水が、排水ポンプ車による人為的排水の助けを借りてなお、数日間にわたって続いたのです。

 八間堀川も完全に水没しています。三坂新田町と上蛇町の南部付近では、左岸堤防も右岸堤防も両方ともに水没し、左岸堤内・河道・右岸堤内が、まったく同一水面で連続しています。これは通常の「越水」の範疇には入りません。通常の越水では、河川水は最高点の堤防天端(てんば 台形の堤防の上辺)を越えると一気に流れ下り、堤防の川裏側(河道の反対側、すなわち堤内側)法面(のりめん)の特に基底部(法尻 のりじり)を洗掘して堤防を根底から破壊する危険があるのですが(これが「越水による破堤」です)、この場面のように水面がまったく平らになっている状態では、「越える」も「越えない」もありえず、まして「越えた」後で落下して法面を破壊する、などということも到底ありえません。

 道路の乗り越え方についても、注目すべき映像が記録されています。インターチェンジのラッパの南にある、尖って張り出している地形が三妻(みつま)の自然堤防です(三坂町は破堤した字〔あざ〕上三坂〔かみみさか〕からこの字三妻〔みつま〕まで、じつに南北4km近くもある巨大な大字〔おおあざです。その南が美妻〔みつま〕橋やさらに南の常総線中妻〔なかつま〕駅のある大字中妻町です。この三妻、美妻、中妻の紛らわしさは尋常ではありません。大字三坂町の最南端が三妻で、その南側が大字中妻町で、そこを通る中妻バイパスが美妻橋につうじているのです。常総市立三妻小学校は中妻町にあります。地名だけではなく、鬼怒川のS字カーブが繰り返され、まるでオーストラリア大陸東岸の延々と続くフラクタル図形を形成する砂州地形のように同じようなパターンの地形が繰り返されるのです。なお、わけが判らなくなるほどたくさんいらっしゃる「妻」たち wives にはいずれも濁点がつきません。深田恭子の映画『下妻〔しもつま〕物語』〔2004年〕のなかのセリフを想起してください)。

 三妻の自然堤防から、国道294号線と県道123号線の三坂新田西」交差点を経て、さらに東の三坂新田にいたる県道123号線の区間では、氾濫水はそれらの道路をやや斜めにやすやすと「越水」(というのでしょうか?)して流下しています。前の写真のとおり、氾濫水はインターチェンジのラッパに邪魔されて一部は反時計回りと国道294号で通り、大部分は時計回りに迂回してきたのですが、圏央道を抜けると三妻の自然堤防の南東側外縁にそって南南西方向に流下していきます(八間堀川・三坂新田の線状集落・国道294号線は完全に経線どおりなのではなく、やや西傾しています)。県道123号線の八間堀川の橋から東側の上蛇町の自然堤防までの区間では、盛り土が高いためこの時刻には八間堀川東岸の越水が阻止され、氾濫水が全体として西側に押されるように流れているのです。しかしその部分をよく見ると、水が退いた後に、「越水」していた跡をしめす泥が道路上に円弧状の等高線を描いています。道路の北側法面には浮遊物が滞留しています。

 この写真は、八間堀川以東での県道123号線の「越水」停止後のものです。停止以前に八間堀川左岸(東岸)を流下してきた氾濫水は、「越水」停止後は圏央道高架橋の上流側直下や県道123号線の橋梁の上流側直下で左岸堤内から八間堀川に流入し、県道123号線をくぐった直後に、こんどは水没した右岸堤防を横切り右岸堤内に向けてやすやすと流出しています。

 同じ日の12時02分の国土交通省のヘリコプターからの写真(IMG_1329.JPG)です。グーグルが10時頃でしょうから、概ねその2時間後です。低解像度のため階調表現が著しく荒れていて(連続的なはずの色調が段付きになっています)解りにくくはあるのですが、県道123号線北岸の状況や八間堀川の堤防の水没状況など、ほぼ同じです。当たり前といえば当たり前ですが、画像の偽造や合成・修正、日時の偽りなどがないことを証していることにもなります。

 

 

 

 2015年9月20日ころの撮影と思われるグーグル・マップの「Earth」表示でこの地点を見ると、下のように、この八間堀川以東の県道123号線の北側法面には稲わらなどの浮遊物が大量に堆積しています。一方、三坂新田集落西側の国道294号線や県道123号線周辺には土砂の流出具合や収穫前の稲の倒伏状況から、氾濫水が南南西に流下した様子が歴然と残っています(ただし「ストリートビュー」表示は水害以前の2012年11月のままです。「グーグル・マップ」は、URLを示すまでもない、あのグーグル・マップです。水害時も水害後もグーグルで用が足りてしまいます!)。

 

 このように、後背湿地最深部で氾濫水に完全に水没し、破堤も越水も起きようがないほどに溢れかえった八間堀川の水?が三坂新田集落と水田を嘗め尽くしているわけですから、「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」の西施の顰みに倣う(せいしのひそみにならう)ならば、まったく同じ論理構造をもつ「三坂新田水害八間堀川唯一原因説」も成立しそうです。

 

 

 下は、国道294号線との交差点(「三坂新田西」)東の県道123号線です(35mm版の撮像素子、いわゆるフルサイズの場合でいうと「焦点距離200mm」の、やや望遠撮影です。2015年11月22日)。氾濫水が右(北)から左(南)へと横切ったのですが、歩道の手摺を破壊しただけでなく、道路の地盤と舗装も大きく損壊しています。平均速度は遅くても、いったん貯留したあとで「越水」する時には、2mもないような段差であっても、このように「天端(てんば)」のアスファルトはもちろん、家庭用の捨てコンクリートの上の華奢なアルミフェンスなどとは比べものにならない堅固なコンクリート基礎上の鉄製フェンスや、総重量50t程度の大型車両の通行にも耐えるようかなり転圧して固めてある基礎地盤まで破壊する威力をもつことがわかります。乗用車程度で体当たりしてもこうはなりません。常総市内はいたるところにこのような光景が残っています。

 

 次は、上の撮影位置から回れ右をしてつくば市に向かう途中、県道123号線の八間堀川渡河地点の状況です。グーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真(9月11日)の最大表示です。

 未実施ですが県道の橋梁西側の斜路の浸水痕から、ピーク時の浸水深も測定できます(痕跡が消えた後でも、この写真から地点を特定して測量すれば簡単にわかるはずです)。橋梁東側では、浸水痕と一体になってしまっていますが、「越水」痕跡も見えています。道路上にはまだ水が残っています。あまり時間は経っていないということです。

 道路北側には稲わらを主体とする相当量の浮遊物がたまっていますが、道路と八間堀川堤防の北東側入り隅への堆積具合から見て、氾濫水は南南西方向に流下してきたと推定できます。水位観測所の上流側にはこの写真でも「越水」(ただし堤内から堤外への)の痕跡も読み取れます(あるいは「越水」中かもしれません)。水位観測所の上流側50mのところに排水樋管があり、ゲート操作盤の階段に(4か月後も)浮遊物が引っ掛かっていますが、河道を流下して来たのではこのような付着の仕方はありえません。この地点で堤内から堤外へ「越水」した氾濫水の置き土産に違いありません。数10cmの水深で「越水」していたものと思われます。県道の浸水痕からの測定結果と付き合わせれば確度の高い浸水深推定ができるものと思われます。

 

 

 下は、八間堀川三坂新田水位観測所を、左岸の上流側から見たものです。向こうが参矢橋です。天端に置いたのは長さ2mの測定ポールです(2016年1月11日)。

 

 

 自然流下式排水樋管のゲート開閉操作盤です。遠方はほぼ構造躯体工事が終わって開通間近の、圏央道の片側2車線分の連続高架橋です(2016年1月11日)。

 

 

 

 

(3)三坂新田から沖新田  八間堀川をまたぐ氾濫水

 

 さらに南へ進みます。上の方は(2)と重なっていますが、画面中段やや左、水没している国道294号線交差点東南角にある青白屋根の巨大建造物が、底部から浸水し貯蔵米が腐敗してしまったJA常総ひかりの巨大な5連塔です。

 そこから小貝川にかかる平和橋にいたる中間点が八間堀川で、橋のたもとに五箇(ごか)排水機場があります。堤防と道路の入り隅が吹き溜まりとなって浮遊物がたまっています。この東西の道路の北までが三坂新田町、南が沖(おき)新田町です。

 中段左方に鬼怒川にかかる美妻橋につながる中妻バイパスの盛り土と、南に中妻町北端の自然堤防(さきほどの三妻とは別です)が三角形に張り出しているためか、氾濫水は東寄りに押されるよう流下し、五箇排水機場北側で、八間堀川を左岸側に斜めに横切り、さらに平和橋にいたる道路も越えて、川崎町の新旧の自然堤防地帯へ進んでいます。川崎町の自然堤防はあまり標高がないようで、小貝川の湾曲部内側に向けて流れこむ氾濫水で浸水しているように見えます。

このあたりの標高差は2万5千分の1地形図程度では表現できません。国土地理院の「地理院地図」で、下のようにメニューをたどると、常総市の鬼怒川水害について、浸水区域地図のほか、数千枚の航空写真を閲覧できます。また、画面下部のプルアップタブを引き上げると、画面中心の十字カーソル地点の標高を誤差30cmで表示できます。それにしても、曲田と川崎町では極端に標高が違うのわけはないのですが、その誤差程度!の違いが大きく効いてくるのです。なお、地位院地図のURLは、経緯度がそのままURLになるので留意ください。

 

 

 さきほどの(2)での氾濫水の西遷とは逆に東遷しているのです。氾濫水の流下は、基本的には「低きにつく」パターンでしょうが、このように「方円の器にしたがう」要因も大きいようです。当たり前のことですし、同じことなのですが。

 画面左下は、さえぎるものもないようで特段の乱流の痕跡は見られませんので、無理して矢印を描きこんではおりません。

 沖新田の線状集落付近では、対岸にオギツ物流センターのL字型の倉庫のあるあたりの八間堀川右岸堤防が、2か所ほど、破堤にはいたっていないようですが顕著に洗掘しています(あとで航空写真をみます)。この写真ではよくわかりませんが、東へと押しやられた氾濫水が集落の家々にぶつかって乱流したのかもしれません。この時刻には、沖新田町の北半分では八間堀川の水没は起きていないようです。

 

 

 

 以下、三坂新田町南部から沖新田町北部にかけて、いくつか特徴的な地点をみてゆきます。

 上のグーグル・クライシス・レスポンスの写真の中央、かすかに見える国道294号線沿いの、巨大なJA常総ひかりの収穫米貯蔵施設であるカントリー・エレベーターです(2016年1月28日)。国道は北北西から南南東に走っていますが、氾濫水が(やや南南西寄りに)斜めに横切ります。氾濫水は、西側の鋭角に飛び出している三妻の自然堤防の東端をかすめ、カントリエレベーター西側のフェンスを西側に倒しながら、一挙に広大な後背湿地へと抜けたのです(もちろん、そこだけを通ったのではありませんが)。

 

 

 上は、カントリエレベーターの北面です。氾濫水は正面の建物の右側(南南西)へ抜けたようです。下の写真は西側に寄って、やはり南を見たところですが、右奥に見えているさきほどの円筒の手前から、国道294号側すなわち西側へ抜けたようで、その際、緑のフェンスを西側に倒したのです。

 「精米センター」の建物の手前からも国道側に抜け、そこでもフェンスを倒しています。

 

 

 西側の国道側から、北北東をみたところです。遠くに筑波山が見えます。

 

 カントリエレベーター北面の道路から東方を見たところです。信号が見えているのが次の写真の交差点です。赤いポストが左に見えます。その先の高くなっているのが八間堀川にかかる参矢(さんや)橋で、その先、一層高くなっているのが小貝川にかかる平和橋です(白いガードレール)。小貝川は1986(昭和61)年にここより上流、新石下の東の本豊田で破堤したのを受けて堤防が整備され、そこにかかる橋はこのようにかなり高くなっています。

 フルサイズ換算で200mmの望遠撮影ですから少々距離が詰まって見えます。

 

 

 

 上の写真の交差点を北側からみたところです(カントリエレベーターは右=西です)。

 三坂新田町の線状集落の前の道を南下してきて、沖新田町にうつる交差点です。 おなじように、桜並木のある用水路の西側に線状集落が続くのですが、画面中央で時速40km制限の交通標識(北行車線用)が南側に倒れています。赤い郵便ポストは倒れていませんから、直接氾濫水で倒されたのではなく、南流した氾濫水によって直下の側溝と交差点部分の暗渠が破壊され、鉄製の蓋とともに標識のコンクリート基礎が掘り崩されたようです(2016年1月11日)。  

 

 

  この交差点を左折し東(つくば市方面)に向かうと、カントリエレベーターと小貝川の平和橋の中間で、参矢夜(さんや)橋で八間堀川を渡ります。対岸の上蛇町南西端に五箇(ごか)排水機場があります。八間堀川の左岸堤防、三夜橋の取り付け道路、排水機場の建物に囲まれたところが北にだけ開いた入り隅になっていて、南下する氾濫水が運んできた浮遊物が堆積しています。このような場合は水流は激しくないようでフェンスなども破壊されていません(南側の橋梁への斜路から八間堀川左岸堤防を左手に見ています。北方奥に圏央道の連続高架橋が見えます。2016年1月11日)。

 

 この場所を北から俯瞰した9月11日の航空写真です。道路に浸水跡の泥が残っていて、氾濫水の水位がもっと高かったことがわかります。未実施ですが、浸水水位も推定可能です。(国土交通省、9月11日15時59分 DSC02017.JPG)。

 参矢橋の上に、車が4台孤立しています(画面上が八間堀川下流)。いずれも西に向いていますから、平和橋で小貝川を渡り、すこし冠水していたかもしれない道路を走り抜け、西側の国道294号線か中妻方面を目指したものの、この先の浸水がひどくて進めず、大型トラックでは転回も難しい上、今通ってきたばかりの道路の水位も一気にあがって(そうだとするとおそらく9月10日午後6時から7時までのことでしょう)、もどることもままならず標高の高い参矢橋上で立ち往生したのだと思われます。このうちの1台を運転していた方が、数日後にここから下流で遺体で発見されたそうです。痛ましいことです。

 

 

 2016年1月27日に地元の住民の方にうかがったところ、9月11日午前9時か10時ころ、この参矢橋のすぐ上流地点を、左岸堤内側を出発したボートがこの場所を横切って右岸堤内を北上し、三坂新田で孤立していた住民を救助したということです。「浅瀬だからといって、人が持ち上げて運ぶことのできるような小さなボートではない」という一言で、この情報が伝聞であっても確度のたかいものであることを示しています。後でオギツ物流倉庫近辺の件で追記しますが、それに先立つ11日午前0時30分から1時ころが水位のピークで、11日6時頃からは急激に水が引き始めたそうです。11日午前9時か10時ころでさえボートで八間堀川の上を横切ることができたのですから、ピーク時の水位がきわめて高かったことがわかります。

 

 次は、五箇排水機場から500mほど下流、さきほどふれた沖新田の東側、八間堀川右岸堤防の洗掘のようすです。グーグルによる飛行機からの俯瞰撮影です。初級機一眼レフに廉価なズームレンズですが、きわめて腕がよく、しかも解像度が高いまま(6000pixel×4000pixel)公開されているので、地上の様子がよくわかります(国土交通省がキヤノンのプロ用機を使って撮影しても、ブレたりボケたりのうえ、低解像度で拡大に耐えません。月とスッポンです)。この画面ではウェブサイトの仕様により解像度が落ちていますから、ぜひグーグルのウェブサイトからダウンロードし限界まで拡大してご覧ください。

 右岸堤防の堤内側(東側)と堤外側(河道側)に洗掘の跡がありますが、いずれの側からの洗掘かはわかりません。2枚目と3枚目が当該部分を拡大したものです。さきほどの参矢橋に車を置いて避難しようとして亡くなった方は、冠水していなかった下流側の堤防上を歩いていて、おそらくこの地点で転落したのではないでしょうか。対岸が川崎町のオギツ物流倉庫です。その左に墓石が見えています。(9月11日11時18分 https://storage.googleapis.com/crisis-response-japan/imagery/20150911/full/DSC02778.JPG

 

 

 このオギツ物流倉庫と墓地の現状は次のとおりです(2016年1月27日)。彼方に見えるのが八間堀川左岸堤防です。水田から1mほど土盛りした上に、墓石があります。グーグルの航空写真はかなり水位のさがったあとの11時18分撮影ですが、その時点でも水田面から2m以上あったようです(測定ポールは高さ2mで、赤白それぞれが20cm)。

 その下は墓地の南側、陸田と道路をはさんだオギツ物流倉庫南面、さらに約80cmかさ上げした地盤面(合計で1m80cm)上のフェンスが氾濫水によって南側に曲げられています。盛り土に吹き上げた時点で水位が上がっているかもしれませんが、水田面から3m程度以上の水位になっていたことがわかります。

 最後が、この北面のフェンスの突き当たりにちょっと見えている、八間堀川左岸堤防です。

 

 

 2016年1月27日に、このオギツ物流倉庫西隣りの住民の方に、お話を伺いました。上記のボートが参矢橋上流で八間堀川を横切ったという伝聞もその際伺ったものですが、以下はご本人の体験です。

 「9月10日17時30分ころ勤務先から帰宅した。その時点では周囲は浸水していなかった。18時30分ころ用水路・排水路を伝わって水が出てきたので、平和橋・参矢橋のある北側の道路まで様子を見に行った。19時になると家のところまで水が迫ってきたので車で南へ逃げた。盛り土上の自宅は床上15cm浸水した。水が引いて浸水した自宅に戻ったのが9月13日だった。

 以下は伝聞です。ボートの件は前述の通りですが、その他に「氾濫水の水位のピークは11日(午前)0時30分から1時ころだった。午前6時ころから水位がみるみる下がり始めた。」

(そして午前9時か10時ころがボートです。水位が相当下がったあとでも、堤防上を!ボートで航行できたということです。)

 

 

(4)沖新田  川崎排水機場近くの破堤地点 

 

  三坂新田町から沖新田町にはいると(撮影時点では)八間堀川の堤防は水面からすこし姿を現していました。

 それが沖新田町南部になると氾濫水面すれすれになり、右岸で連続的な八間堀川への流入現象が現に起きています。

 その下流側には右岸堤防の川裏側に浮遊物が線状に付着しています。右岸堤防から八間堀川への流入の痕跡のようです。

 このように、この区間では東側に東町の自然堤防があって流れを多少さまたげているはずなのに、八間堀川西岸側から、東岸側へと氾濫水が移ってゆく様子が見て取れます。

 これまで、八間堀川をまたいで西へ東へと揺らいでいた氾濫水の流れは、これ以降は、もっぱら西岸(右岸)から八間堀川の河道へ、さらに東岸(左岸)堤内側への一方的なものになります。もともと相対的に量の多い三坂町起源の氾濫水が右岸側に流れ込んだのですが、その八間堀川右岸の後背湿地を南下した氾濫水が水海道市街地で突然西に向きを変える八間堀川の右岸堤防に行く手を阻まれるのに対し、左岸の後背湿地を南下する氾濫水は広大な南東部の水田地帯と、八間堀川左岸(南岸)の水海道市街地からさらにつくばみらい市へと流れ込んでゆくことによるものでしょう。その最後の帳尻合わせが、これ以降支配的となる右岸から河道へ、さらには左岸堤内への流入現象なのです。

 (いまのところ左岸・右岸の氾濫水の時間差や八間堀川の決壊の時刻などもほとんどわかっていない段階であり、確定的なことはいえませんが)西岸の三坂新田町南端にあたる、東岸の川崎町の排水機場前の左岸堤防の破堤、さらに次ページで見る平町(へいまち)の大生(おおの)小学校近くでの左岸堤防2か所の破堤と、その直下の百間堀排水機場の排水門正面の左岸堤防の洗掘は、こうした動きのなかで起きたものと見るべきだと思われます。

 

 

 ーグル・クライシス・レスポンスの飛行機からの俯瞰撮影写真です。八間堀川右岸に近い樹林の近くで、氾濫水が右岸堤内から河道へ流入しています。中段左を拡大してみると、下流方向にに流れる土または浮遊物の軌跡が見えます。上空から見るとたいしたことはなさそうに見えますが、家屋の大きさと比較すると、数mの幅をもって堤防天端を越えて流入しているのがわかります。

9月11日11時18分 https://storage.googleapis.com/crisis-response-japan/imagery/20150911/full/DSC02777.JPG

 

 

 その300mほど下流では、同じく右岸堤防の川裏側に浮遊物がたくさん流れ着いています。入り隅になっていて吹き溜まったというのではありませんから、氾濫水が河道へ流入したときにこの場所に残されたものかもしれません。

 その右下には斜めにたなびく浮遊物があります。

 このように、沖新田集落の家屋群の間から氾濫水が東側へと流れてきて八間堀川右岸堤防に押し寄せ、ところによっては「越水」しているのです。

 

 今回の水害に際して、八間堀川では、3か所で破堤したとされています。沖新田東南端の対岸、左岸側の川崎町の南西端にある川崎排水機場の1か所と、次ページでみることになる平町(へいまち)の大生(おおの)小学校西側の2か所の、あわせて3か所です。

 平町についても同様ですが、この川崎排水機場わきでの破堤がいつ起きたかについては、まったく知られていません。いくつか目撃証言があるとか、いく通りかの説があるとかいうのですらなく、誰も何も述べていない状態です。どうやら夜遅くなってからだったようで、近くにいても見えないのです。川崎町の決壊地点は排水機場の建物の陰になって見通しがききませんし、平町の破堤地点は、見通しはきくのですが周囲に人家は少なく、しかも住民はほとんど避難しています。とりわけ重要なのは、左岸堤内を流下してくる氾濫水との区別が難しいことです。

 この場所に限らず、「川パト」しながら住民の方に話をおききしていると、この点がとくに障害となります。このような状態で、基本的な事実関係さえはっきりしていない段階なのに「八間堀川の決壊」が水海道市街地全域の浸水の唯一の原因であるという、そこだけ妙に断定的な主張が出てくるのですから不思議な話です(事実関係がもうすこし判明すれば雲散霧消する程度の風説なのです)。八間堀川については決壊に限らず「越水」についても同様です。しかも、本来の「越水」だけでなく、堤内から堤外への逆「越水」もあるのですから事情はたいへん複雑です。しかし逆に言うと、複雑な事象にはたくさんの事実が関連してくるのですから、それだけ証拠となる事実も多いということです。それを探るのがこの項目の趣旨です。世界は複雑にきまっているわけで、単純なのは、何の事実もふまえず何も考えていない「水海道市街地水害八間堀川氾濫唯一原因説」くらいのものです。

 川崎排水機場の排水門付近で破堤していて、小規模ながら落堀ができており、その先のフェンスを倒壊させていますが、それ以上の損傷が周囲に及んだ形跡はありません。

 (4)のサムネイルのところで少し述べましたが、右岸からの氾濫水の流入が連続的に起きていたかもしれない区間で、左岸の破堤(決壊)が起きたわけですが、じつはこのあとで検討することですが、もうひとつの破堤地点でも同様のことが疑われるのです。水流抵抗の大きくなる橋梁の手前で、しかもしばしば破堤がおきる排水管部分(これも共通)ですから、その要因も大きいことは否めませんが、一つの仮説としてこのあと提出することにします。

 左岸側堤内が氾濫水で満たされていた状態では、堤内側に落堀ができたり建造物が破壊されることはないでしょうから、氾濫水がまったくないか、ほとんどない状態での破堤だと思われます。そのあたりから推定をはじめてさまざまの要因をあきらかにし、最終的にはそこからの氾濫が与えた影響について推測することにします。

 

 

 以下は、この川崎排水機場脇の破堤の状況です(2016年1月11日)。

 左岸の川崎町北端から西をみたところです。左から比高4mはあろうかという橋梁、巨大な「県営圃場(ほじょう)整備事業水海道東部第二地区竣功記念碑」、排水機構、破堤地点のブルーシートが少し見えて、最後にチョコレート色の排水機場建物です。

 

 

 破堤したといわれていますが、川表側法面はほとんど残っていて、「破堤」(堤体の破壊流失)にいたる「決壊」(「破堤」のほか、侵食や「法崩れ〔のりくずれ 法面の洗掘〕」なども含む)の中間段階です。シートをめくってみたわけではないのでよくわかりませんが、裏法がほぼ垂直になるまで崩れた、破堤一歩手前の段階ではないでしょうか(「決壊」や「破堤」の定義は曖昧です。天端がなくなるのを破堤というとすれば、ここは破堤といえます)。

 遠景は筑波山です。

 

 

 川裏側に小さな落堀(おちぼり、おっぽり)があり、画面右側のフェンスが倒れています。このあと見る、平町の大生小学校近くの破堤とくらべるとずっと小規模の「決壊」です。

 

 

 これは、(4)のサムネイルで、「県道129号線を乗り越え」と示した地点です。上の破堤地点から真東に200mから300m離れた川崎町南端、十花町北端です。左が上流側(北)です(2016年1月11日)

 八間堀側東岸を南下してきた氾濫水が県道を「越水」する際に鉄製フェンスを倒壊させたものと思われます。この付近は3m程度浸水しています。さきほどの八間堀川の破堤一歩手前の決壊箇所からだけの水で、この広大な水田地帯を全部冠水させることは不可能でしょう。残っている浮遊物は八間堀川起源でないでしょう時刻はまったく明らかになってはいませんが、決壊地点からある程度の氾濫水が流れ広がったあと、おそらくそのしばらく後に、右岸堤内から「越水」してくる氾濫水と同一水面をなしつつ、左岸堤内を東側の小貝川右岸自然堤防までいっぱいに広がりつつ流下してきた膨大な量の氾濫水が、ここに到達したのでしょう。

 

 

 

 次は初登場、国土地理院による9月10日9時34分の航空写真です(http://saigai.gsi.go.jp/1/H27_0910ame/naname/1/qv/GSI_0694-qv.JPG)。垂直撮影とその貼り合わせもありますが、これは俯瞰撮影です。国土交通省本省の写真が、いろいろ問題のある写真だったのに対して、さすがはプロによる体系的撮影です。グーグルほどではありませんが、高解像度(おおむね横4000pixel×縦2600pixel)のデータをそのまま公開しているので拡大して細部をみることができます。

 (検索は、国土地理院ウェブサイトのホームページ〔www.gsi.go.jp〕上の「地理院地図」を開き、地図画面左上の「情報」という小さな白抜き文字のフローティング・メニューから、「情報>表示できる情報」の7つめ「平成27年9月関東・東北豪雨>茨城県常総・坂東地区」と進みます。すると垂直写真やこの斜め写真のメニューが24項目表示されます。どれかを選ぶと地図上にゾロゾロと現れるアイコンをいちいちクリックして表示させるのはグーグルも同じですが、そのアイコンが数千あります。黄と黒のアイコンがゾロゾロ出てくるのはさながら蜂の巣を開けた時のようです。しかも、斜め撮影の航空写真ですから、当然GPS機能で表示される撮影位置と実際に写っているものがかけ離れています。ここぞと思ったところではなく、明後日の方のアイコンを手当たり次第に全部クリックしなければなりません。上の個別写真のURLの写真番号のところだけいじるという手もありますが、並びのものにしか通用しません。しかし、ツイッターやブログから99.99%の確率で出てくる無意味なクズ情報〔たまにお宝が出てきます。0.01%ですが〕とは違って、目指すものは必ずあるのです。虎の子の写真ですからやむを得ません。これ以上贅沢をいうと罰があたります。)

 

 

 左下部をトリミングしました。左下で雲がかかっているのが建設中の圏央道、右下隅の青い巨大な建物がJA常総ひかりのカントリーエレベーターです。圏央道の下流側を並走する県道123号線の、浮遊物が三角形に溜まっている三坂新田水位観測所のある橋のあたりから、2つ下の五箇排水機場のある橋の付近まで、八間堀川の堤防がほとんど水没しています(途中の橋の左側の白いものは飛行機の窓に反射した撮影者の袖口です)。

 

 

 

補足 使用したデータについて

 

 切り崩された河畔砂丘「若宮戸(わかみやど)山」(別名「十一面山」)から出水し、小保川(おぼかわ ここでは地域名)付近までの自然堤防地帯を流れ下った氾濫水が、下妻(しもつま)市南部までの後背湿地を呑み尽くて標高差にしたがって流下し始めた地点から見始めて、新石下(しんいしげ)の自然堤防地帯の東端をも水没させながら、小貝川沿いの曲田(まがった)の自然堤防によって西に幅寄せされながら、7時間おくれで三坂町の堤防を破壊して流入してきた氾濫水と合流し(以上、本項目2ページ)、東側へ蛇行してくる鬼怒川によって急激に狭くなった後背湿地の三坂(みさか)新田・沖(おき)新田の線状集落と最深線の八間堀川を完全に水没させ、西の三妻(みつま)・中妻(なかつま)や東の上蛇(じょうじゃ)町の自然堤防によって東西から押されて水面下の八間堀川上を東へ西へと蛇行しながら南下し、アグリロードや県道123号線・129号線など東西に走る道路上の建造物を破壊しつつ乗り越え、川崎町南西端の八間堀川左岸堤防決壊地点まで流下してきたところまで見てきました(以上、このページ)。

 曲田付近までを見た本項目2ページでは、おもに氾濫発生当日の9月10日に撮影された国土交通省のヘリコプターからの写真を用いてきました。圏央道の連続高架橋以南を見た本3ページでは、翌9月11日の午前中に撮影されたグーグル・クライシス・レスポンスの高精細な衛星写真を主に用いて、最高水位からやや低下した時点での氾濫状況を見てきました。

 北部と中部で、主にもちいる写真が違ったのは決して手当たり次第の思いつき、首尾一貫しないご都合主義 opportunismというわけではなく、地点によって氾濫の段階の違いがあるからなのです