鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因

 

 2015年9月10日の鬼怒川水害において、若宮戸(わかみやど)と並ぶ主要な氾濫地点である三坂(みさか)における破堤原因について、これまでに確認した事実から総合的に推論した仮説的見解を述べます。

 若宮戸の氾濫は一見してあきらかな原因によって起きた事象なのに、河畔砂丘 river bank dune を誤って自然堤防 natural levee と呼んでしまったことで、実態解明は混乱をきわめています。いっぽうの三坂における氾濫は、若宮戸にくらべればはるかに複雑な機序によるものなのですが、原因は越水ただひとつという単純な思い込みに最初からとらわれてしまっているため、氾濫の原因探究はただの一歩も進んでいません。

 

1 越水破堤論の破綻

 

Aug., 25, 2020 (ver. 1.)

Oct., 1, 2020 

 

 三坂における破堤原因として、あたかも通説となっている「越水による決壊」説は誤謬です。本ページでは「三坂破堤越水唯一原因説」の深刻な広がりぐあいを見ておきます。

 

 

(i)鬼怒川堤防調査委員会・委員長代理の見解

 

 国土交通省関東地方整備局による三坂の破堤地点の復旧堤防が、堤体および基礎地盤に対する浸透対策工法を採用していたことについては、三坂における河川管理史4で見た通りです。復旧堤防の構造は、関東地方整備局が内部に設置した「鬼怒川堤防調査委員会」の報告書にも明記されています(https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/index00000036.html)。浸透対策工法は、特段の必要性はないものの念のために施工しておいたというものではありません。この地点の破堤原因は越水ならびに堤体および基礎地盤への浸透であったので、堤防の再建にあたっては低かった堤防を嵩上げするだけでなく、堤体および基礎地盤への浸透を防止する工法を採用する必要があったのです。

 しかし、どういうわけか世間の受け止め方はまったく異なります。破堤の原因は越水であるというきわめて単純な理解が一般的であり、浸透については完全に無視しているのです。これは、報道機関がそのようであったため、世間一般の受け止め方もそのように誘導されたというだけでなく、大方の「専門家」も同様なのです。国策派「専門家」はもちろん、国策に批判的な「専門家」もほぼ同じです。破堤は長年にわたる堤防の沈下が放置されたことで越水が起きたことが唯一の原因なのに、復旧堤防においては川裏側(河道の反対側)法面(のりめん)の保護が不十分であり越水対策としては不十分であるというのです。「立場」が異なるどうしが、破堤原因については関東地方整備局の認識(破堤原因)と行動(復旧堤防構造)が示しているものを、足並みを揃えて誤解しているのです。

 次は、水害1か月後の2015年10月10日のANNのニュース番組における、群馬大学の清水義彦教授の発言です(現在もYouTube上のANNの公式チャンネルで見ることができます。https://www.youtube.com/watch?v=Hfs3OeqiqRk


 

 越水した時点で避難指示を出すべきだったのに、常総市役所が出し損なったために2人亡くなったという、すり替え論法に便乗して国交省の治水行政を免責する、当時よくあったストーリー(別項目参照)に沿って、三坂における破堤は越水だけが原因であったことを前提にして、今後国民がわきまえておくべきことを説諭しています。

 それにしても「土でできているわけですから」とは、よくもまあ言ったもので、軽率な発言に安田委員長と同じく字幕までつけられてしまいました。画面にあるとおりこの清水義彦教授はほかならぬ関東地方整備局が局内に設置した「鬼怒川堤防調査委員会」の委員長代理です。

 新聞テレビの「有識者談話」は、たぶん言った本人が一番不満で、「そんなことは言っていない。誤解だ」と言い訳したくなるでしょうから、ご本人が作成した文書を見ることにします。土木学会の「河川技術に関するシンポジウム」(2016年6月2-3日)における「基本講演」の際のパワポ資料(http://committees.jsce.or.jp/hydraulic01/system/files/04%20OS1shimizu_0.pdf)です。全15ページ中の、左上が7ページ、左下が10ページ、右が11-12ページです。

 


 

 左上7ページ上段に住民が撮影したビデオ画像を載せているのですが、「決壊前(12:50以前)」だとしています。別ページで見たとおり、破堤した堤防の破断面が、上流側・下流側ともに映っていますから、間違いです。被害者住民が決死の覚悟で撮影し、提供してくれた貴重な動画を、さいたま市にある高層ビル内のオフィスでの「鬼怒川堤防調査委員会」の第2回会議で上映したのですが、その場ではどの段階の映像なのか、一切話題にもしなかったということです。その時確認していればこんな致命的な間違いはしないでしょう。その場を取り仕切っていた関東地方整備局河川部の高橋伸輔河川調査官以下の広報担当者だけでなく、「専門家」委員も漫然と見ていたのです。(当日配布された資料には「決壊した頃」とあります。「頃」には違いありませんが、前か後かは画面ではっきりわかるのですし、L 21kのポールが流失する寸前であることから、数分の誤差で時刻も確定できるのに、そんなことにも気づかないのです。)

 さて本題ですが、左下10ページの写真が例の越水していた加藤桐材工場とケヤキのある区間です(後出地図のB区間)。当 naturalright.org としては、2015年10月にこの場に行った時に、あの「越水」場面に写っていた建物が、多少ベニヤ板壁が歪んだ程度でそっくりそのまま残っているのを見て吃驚仰天し、以来「越水による破堤」という通説がまったくデタラメだと確信し、破堤原因は別のところにあると考えるようになったのですが、このB区間の謎は、何があっても「越水による破堤」論を放棄するわけにはいかないと勝手に思い込んでいる国策派の専門家たちをおおいに苦しめることになったようで、清水委員長代理は何とか答えを見出したというわけです。

 

 左は、清水委員長代理のパワポの11ページの写真を拡大したもので、下の写真が堤内側法面(「裏のり面」)下にある茶に錆びた金属屋根の物置を見下ろしたところ、上が2〜3m下流からカメラを左に振ったところです(同じ樹木が映っています)。

 「法先(のりさき)」とはこの場合は堤内地のことです。12ページのまとめの「5)」のとおり「比高が小さく、機能的に堤体断面の拡大」にあたるから、越水したのに侵食されず破堤しなかったと結論づけたのです。

 水害直後の現地をみたことがなく、どの地点なのかわからないのであれば、なるほど! さすがは「専門家」! と、納得してしまうすばらしい分析です。

 「越水したが流失しなかった家屋」とは加藤桐材工場のことですが、その「付近」とはどこなのでしょうか?


 

 以下4枚は、仮堤防完成後の現地の様子です。(1枚目・3枚目は2015年10月、2枚目・4枚目は2015年12月)

 1枚目は、加藤桐材工場脇から上流側(北側)を見たところです。画面右上、右上の木立の向こうに茶錆物置の屋根が見えます。草や樹木で隠されているので明瞭ではありませんが、屋根の高さから察するに物置の地盤は手前の加藤桐材工場より高くなっているようです。

 白丸をつけた赤頭標石は河川区域境界で、左側が河川区域です。砕石混じり白砂は水害後に盛ったものですが、草の生えている斜面(川裏側法面)は水害前の状態です。

 

 2枚目の左上が茶錆物置、右下の低い位置にあるのが加藤桐材工場です。白丸は同じ河川区域境界標石で、手前が河川区域となっている堤防の川裏側法面です。この写真だと、加藤桐材工場敷地と茶錆物置のある敷地との高低差がよくわかります。

 

 3枚目は上流側から茶錆物置と加藤桐材工場を斜めに見下ろしたところです。白丸は別の河川区域境界標石で、草の生えている斜面(川裏側法面)までが河川区域で、その向こう側の物置が建っている平らな土地が堤内地(「法先」)です。

 

 4枚目は、これまでの写真に映っている、法面をまっすぐ降りる細道を下から見上げたところです。フェンス越しに対岸の樹林が見えます。たしかに「比高が小さ」いのです。

 

 グーグルの写真中に破堤した165m区間(C区間からG区間まで)と越水したが破堤しなかった30m区間(B区間)を描き入れ、この茶錆物置の位置を示します(1枚目が2015年9月11日の衛星写真、2枚目は10月9日の航空写真)。両端矢印線は、実線が越水した区間、破線が越水しないまま破堤した区間です。

 問題の茶錆物置は、画面左隅の橙丸です。決壊した195m区間の外側です。

 国土交通省関東地方整備局鬼怒川堤防調査委員会委員長代理清水義彦群馬大学大学院理工学府教授は、「越水を生じながら破堤に至らなかった」のは何故かと自問し、「〔堤防天端と堤内地との〕比高が小さく、機能的に堤体断面の拡大によることが考えられる」と自答したのですが、それは「越水を生じながら破堤に至らなかった」加藤桐材工場(B区間)ではなく、そことはあきらかな段差があって数十cm標高の高い茶錆物置のある農家敷地((A区間)を見てそう判断したのです。別の地点の特徴をもってきて、「越水を生じながら破堤に至らなかった」理由を論ずるという、まったく的外れの考察です。

 

 「越水したら堤防はまずもたない」「いずれ壊れると思わなきゃいけない」と説教する清水教授ですが、結局のところB区間の堤防が越水したのに破堤しなかったことの説明がつかなかったわけです。国策派「専門家」の資質能力の程度がよくわかる話ですが、問題そのものに立ち返ることにします。B区間の現象から次の結論が導き出されます。

 

 越水したのに破堤しなかった箇所があったのだとすると、越水していて破堤した箇所においては越水以外に破堤原因があったと判断できる。

 

 上の図のように、決壊区間195mのうち、破堤したのは165mです。(「決壊」と「破堤」の違いについては別ページで論じました。)差し引き30m、すなわち上流側の30m区間は越水したうえ、川表側法面から天端まで激しく損傷しましたが、川裏側法面はほぼ残りました。すなわち決壊はしたが破堤はしなかったのです。しかも、決壊、この場合は、川表側法面と天端の損傷ですが、その原因は越水ではありません。この区間をB区間とします。(決壊した195mの6区間への区分とその呼称〔B, C, D, E, F, G〕は、当 naturalright.org 独自のものです。)

 破堤した165mのうち、最初に破堤したのはもっとも激しく越水していた区間(これをE区間とします)ではなく、その下流側の区間(F区間)でした。そして破堤は、F区間から上流方向に、まずE区間、ついで越水していなかった区間(D区間)、引き続き越水していた区間(C区間)へと波及し、下流方向へは越水していなかった区間の上流側から下流側へと逐次波及しました(G区間)。清水教授のパワポにいう「破堤断面の侵食」です。(以上の越水と破堤の過程については、まさかの三坂4で時間を追って検討しました。)

 越水していたB区間が破堤しなかったことの説明がつかないように、最初に破堤したのが、もっとも激しく越水していたE区間ではなく、隣のF区間だったことの説明もつかないのです。最初に破堤したF区間の破堤原因は越水である、と根拠もないのに信じるわけにもいきません。たいした事実確認もしないまま、あるいは事実誤認のうえに、越水が破堤の原因であると最初から決めてかかるのではなく、慎重に事実関係を見極める必要があります。

 とくに、越水していて破堤した区間において、実際の破堤原因は他にある場合もある、という事実は重要です。具体的には、E区間とC区間は、越水もしていたし、破堤もしましたが、だからといって越水が破堤の原因だったとはいえないのです。F区間以外の区間はすべてF区間の破堤が波及することによって破堤したのです(下図)。

 F区間が破堤しなかったとしても、他の区間たとえばE区間やC区間が独自に破堤した可能性もあるし、逆に、F区間が破堤してそこから波及することがなければ、越水どまりで破堤しなかった可能性もあります。E区間とC区間については、独自に破堤した可能性は低くはないように思えますが、G区間については、独自に破堤する可能性はかなり低いでしょう。


 清水教授は、加藤桐材工場の写真(B区間)を示してそこが破堤しなかった理由を問うておいて、いくら隣とはいえ、別地点の茶錆物置のある農家敷地の特徴からそれに解答してしまったのです。問いには答えていないわけです。結局、加藤桐材工場地点がどうして破堤しなかったかはまったくわからないのです。ですから、誠実にものを考えようとするならば、「わからない」と言うべきです。そこから先は、推測によって仮説をたて、検証するほかありません。

 とにかくこのB区間は不思議なことだらけなのです。水防の経験的知識としては、破堤の際には下流側より上流側の洗掘が激しくなるのが通例のようです。上流側への巻き込みは、水防活動上指摘されている経験的事実で、水防活動の際に巡視用のテントを設置する場合は、川上側ではなく川下側に作るべきだとされています(社団法人関東建設弘済会さいたまセンター企画部『水防工法と水防活動体験』、2008年、2ページ)。

 しかし、三坂はまったく逆でした。F区間に始まった破堤は、上流側へも進み、1時間ほどでC区間まで破堤しましたが、その後はB区間の堤外側法面は斜めに洗掘され天端アスファルトも脱落したものの、かろうじて堤内側法面は残り、定義上「決壊」はしたが「破堤」はしなかったわけです。上流側への破堤の波及は50m足らずです。それに対してF区間から下流側へは、ヘアピンカーブ部分の堤体幅が極端に広がっている部分でだいぶ時間がかかったもののそこで止まることはなく、日没後も順次延伸したようで最終的に108mに達しました(G区間)。いかにも不可思議な現象です。これを氾濫水は下流側破堤断面に当たるのだからとする迷分析もありますが、問題外です(常田〔ときだ〕賢一『一般財団法人災害科学研究所平成 27 年度災害等緊急調査報告書  −平成 27 年 9 月関東・東北豪雨による常総市の洪水災害調査− 平成 27 年 9 月関東・東北豪雨による鬼怒川の破堤箇所の 現地調査による知見と考察』http://csi.or.jp/uploads/2015kinugawa_kouzui2final.pdf、25ページ。常田賢一の迷推理は他にも多数あります。折に触れて見ることにしまs)。

 考えられるのは堤内地側の事情ではないでしょう。あの地点に加藤桐材工場の華奢な建物があったことやケヤキの大樹があったことは理由たりえないでしょう。あのケヤキの下流側には兄弟?のケヤキの切り株が残っていたのですが、深さ2mほどまできれいに洗い流されて根が露出しています(そこで止まったのは不思議ですが)。まだ言及していませんが、F区間直下、住宅3と住宅4の間にあったケヤキの大樹は、根こそぎにされて流されました。ケヤキの大樹には氾濫流を押し留める効果はないでしょう。堤外側の事情(高水敷の樹林帯)も考えなければならないかもしれませんが、本筋は堤体構造、さらには基礎地盤の状況でしょう。関東地方整備局は、中途半端な開削調査をしたようですが、結局のところよくわからなかったようです(鬼怒川堤防調査委員会報告書、図5−3)。

 

(補遺)

 茶錆物置のある農家敷地の地点(A区間)で越水が起きていたかどうかは、また別問題です。

 それについては、いまのところデータがありません。11:01の時点で加藤桐材工場地点(B区間)では越水がすでに始まっていますが、この地点(A区間)で越水していないことはあきらかです(まさかの三坂3 写真4)。しかし、12:04の時点でどうだったかはわかりません。写真の画面に入っていないのです(まさかの三坂4)。さらに、そのあと、おそらく水位は最高になったのでしょうが、その時点でどうだったかは写真もありませんし、何のデータもありません。

 そもそも鬼怒川水害において、全域のどの地点どの範囲で越水が起きていたか、ほとんどデータがないのです。国交省・関東地方整備局は何も発表していません。堤体の浸透による砂の噴出痕については一部(全部ではなく)を発表していますが、越水については三坂以外は発表していません(若宮戸については、当初「越水」としていましたが、無堤区間なので「越水」は定義上ありえないので、すぐに「溢水」に変更しました)。おそらく調査していないように思われます。

 三坂については、水位のデータすらありません。あるのは上流の鎌庭(かまにわ)と下流の水海道(みつかいどう)の水位観測所のデータだけです。当日のあの状況では調べようもなかったというところです。越水深とされる11:11のE地点の「20cm」もあやしげなものです。ライトバンの底部までの深さだというのですが、降車して見たわけでもないのに(写真撮影は車内からでした)、水位がわかるはずもありません。「底部」とはどこかもわかりません(サスペンションの出っ張りやエンジン底部など車体の形状はそれほど単純ではありませんし、普通の乗用車やライトバンはサイドシル底部までは15から20cmくらいです。ちなみにこの時の車両だと思われるトヨタ・プロボックスの諸元表上の「最低地上高」は140mm〔https://toyota.jp/pages/contents/probox/001_b_001/pdf/spec/probox_spec_201503.pdf〕、装着タイヤの155/80R14の外径は603mmです)。

 その時点では20cmはなかったような印象を受けます。深さ20cmで氾濫水がザーザーと流れる幅3mのアスファルト天端を、重量10t以上ありそうな大型排水ポンプ車ならいざ知らず、1t少々の軽量級のライトバンで走行できるのか、そもそも走り抜けようとするかどうか、疑問だからです。

 写真11から13(まさかの三坂4)が撮影された12:04-05頃は、11:10ころから10cm程度水位が上がっているように思うのですが、写真ではE区間の越水深がどのくらいかはわかりません。よほどそこだけ落ち込んでいれば別ですが(可能性はあります)、印象ではその時点でやっと20cmでしょう。30cmだとすると、そこを自動車が突っ切れるとは思えません。ただの溜水でも普通車・小型車は走行不可能です。まして流水では、車体が浮きぎみになってハンドルが効かなくなったところを押し流され、天端から転落します。(後退して、天端に上がった21.25kのやや手前の坂路に戻った可能性も高いのです。天端のアスファルト舗装は幅員3mなので方向転換は不可能です。)

 それどころか、いくらでも事前に調査できたはずの堤高のデータもありません。あるのは10年前のものだけです(まさかの三坂3)。それによると、L21kの17m下流(おおむねE区間とF区間の境界付近)がY.P.=20.88mで、そこより80m上流のちょうど茶錆物置の農家の直上あたりがY.P.=21.17mで、29cmほどの高低差(天端高、ただし川表側法肩とのことですが、あとで見る通り、この地点の堤防は特異な断面形状であるので、抽象的に数値に囚われると判断を誤る可能性があります)があります。E区間の最高越水深が30cmだったとしても、1cmの越水です。問題の地点の越水は、起きていないか、もし起きたとしてもほんのわずかだった、と、今のところは想定できます。そもそも10年前のデータでは、激しい沈下が起こっていたこの地点の状況の決定的証拠とはなりません。

 相次いで3台の車で通りかかった国交省職員らは、いずれもこの茶錆物置地点の写真は撮影していません。もしここでも越水していれば撮影していた可能性が高いのですが、撮影していないということは越水していなかったのだろうとは推測できますが、決定的証拠ではありません。

 あとの「写真7」(まさかの三坂4、時刻を除く描き込みは naturalright.org)の天端の氾濫水の水溜り形状を見ると、斜めになっています。アスファルト舗装に堤内側から堤外側に向け(=横断方向)雨勾配がついているだけでなく、この地点で縦断方向に堤高が急激に変化しているということです。B区間上流端付近で、そこから先、下流方向にかなり急激に堤高が低下しています。

 

 

 

(ii)鬼怒川堤防調査委員会報告書における破堤原因分析

 

 国土交通省関東地方整備局は、三坂における破堤は越水が唯一の原因であったとは考えていないことは確認しておかなくてはなりません。復旧堤防の構造・工法が、そのような「三坂破堤越水唯一原因説」とは完全に相容れず、それを明確に否定しているのです。

 ところが、関東地方整備局の広報担当者の説明は「三坂における破堤は、越水が唯一の原因であった」という印象を与えるものであり、不勉強なうえ予断にとらわれた報道企業の記者・編集者らがさかんにこの「三坂破堤越水唯一原因説」を宣伝したために、事実誤認が世間に定着してしまったのです。日々垂れ流される記者クラブでの当局発表文書の要約伝達ばかりしていて、独自取材などしたことがないうえ、批判派も基本的発想を共有しているため、信頼すべき批判的見解はほぼ皆無という治水問題特有の陥穽があるのです。

 しかも、関東地方整備局内に一時的に設置された「鬼怒川堤防調査委員会」の委員らが、このような「三坂破堤越水唯一原因説」の宣伝に一役買っているのです。委員長の安田進教授は、早くも水害から3日後の9月13日に「現地調査」と称するチラ見の見物の際、テレビカメラの前で「三坂破堤越水唯一原因説」を喋っていましたし、委員長代理の清水義彦教授は委員会でのつとめを終えた翌年6月に「土木学会」(という名称の行政・「専門家」・業界の親睦団体)の会合で「三坂破堤越水唯一原因説」を吹聴し、水害後一か月のテレビ番組でそれを前提として、住民避難のありかたについて語ったのです。「鬼怒川堤防調査委員会」は、関東地方整備局の広報担当者(責任者は高橋伸輔河川調査官=当時)がコントロールする広報目的の機関です。「鬼怒川堤防調査委員会」が関東地方整備局としての原因調査を実施し、対策方針を決定したわけではありません。ちょっと眺めただけですぐに地下地盤の状況について吹聴してしまったり、越水区間がどこだったかもわかないまま越水で破堤しなかった区間の説明をしてしまったり、映像資料を見てもそれが破堤の前なのか後なのかも読み取れない人たちが、原因調査や対策方針の決定などはしていなかったことははっきりしています。

 「鬼怒川堤防調査委員会報告書」(2016年3月、https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000643703.pdf)は、関東地方整備局の広報担当者が案文をつくり、それを「地盤工学および河川工学を専門とする8名の委員」(「報告書」まえがきにおける安田委員長の言)が承認したという体裁をとって公表された文書です。「報告書」の案文は、専門知識皆無の広報担当の行政職員が、おそらく関東地方整備局の技術系職員から現地調査資料と復旧堤防の構造・工法などの資料を見せてもらいながら説明を受け、時間外労働して作ったのでしょう。「委員」らは、大学や研究機関で活動するだけで、自分で現場調査をしたり設計図を引いたりすることはしません(できません)から、たった4回(おそらく各回2時間程度)開催された会合の際にありきたりのコメントをつけるのが関の山です。

 関東地方整備局は、「三坂破堤越水唯一原因説」は採用していないというのが、当 naturalright.org の解釈です。以下、この「鬼怒川堤防調査委員会報告書」の記述によって、そのことを示そうと思います。

 あらかじめ申し上げておくと、この「報告書」は素人の広報担当者の手によるものであり、記述は曖昧で説得力がなく、事実関係についての決め手にも欠けます。それだけでなく、「報告書」に反映した記述内容からみて、今回の現地調査はかなり不十分だったようです。つまり、関東地方整備局による鬼怒川水害への対応においては、技術系職員による現地調査がもともと十分でないうえ、知識・技能を欠き事実を明確に示そうという気概をもたない広報担当者が広報資料としての「報告書」案文を作っているので、事実に靄がかかったような印象を与えるのです。ほかの地方整備局が作成した別の「堤防調査委員会」の「報告書」(後日例示します)と比べても、まさに雲泥の差があるのです。

 それでも「三坂破堤越水唯一原因説」は主張していません。

 

 「鬼怒川堤防調査委員会報告書」における破堤原因の説明は次のとおりです。

 

 

 「堤防決壊のプロセス」は、一般的な例を示しているのではなく、9月10日に三坂で現実にこのように「決壊」(破堤のこと)したと推定する、という意味です。

 いろいろ問題があります。

 「STEP」に「0〔zero〕」は不適切です。「1」からはじめるべきです。

 右列に堤防と基礎地盤の断面図が示されているのですが、地層の凡例がありません。

 堤防と基礎地盤の断面図が、破堤した165mのなかのどこなのか、示されていません。当然、最初に破堤した地点についてそのプロセス(過程)を示しているに違いないのですが、報告書の他のページの図(図3−8)ではL21k地点のすこし下流だとしているものの、図があまりにも大雑把、というより不正確です(大雑把と不正確は大違いです)。結局どの地点なのか明示していません。

 堤体断面図は、報告書の他の図(図3−20)のL 21kの「地質構成(推定)」と題する断面図と似ているのですが、だとすると最初の破堤地点とはズレることになります。ただし、あとで詳細に検討する予定ですが、水害以前の地質調査データがあるわけでもなく、165mにわたって直下の地盤を含めて堤体が全部流失したのですから、L21kだろうが、破堤地点だろうが、「地質構成」など描けるはずもないのです。この図3−20は、「推定」どころか、確度の低い「想像図」というべきものです。

 堤防の断面図を見ると、アスファルト舗装された天端と、その川表側のすこし高くなった天端との段付きになっています。これはL 21kのポールが下流端近くに立っているD区間の断面構造であり、最初に越水したと思われるE区間と最初に破堤したF区間をふくめた、それ以外の区間はこのような段付きにはなっていなかったようです。この点も不適切です。しかし、いまのところは位置のズレ=断面図のズレについては目を瞑ることにします。

 左列の写真は、この堤体断面図の地点のものではありません。STEP1の写真では遠くに見えるし、STEP4の写真は全景なので、破堤地点も写っていると言えないこともありませんが、不適切です。STEP2は、画面右上端が最初に破堤した区間(F区間)ですが、メインの被写体である洗掘口は上流側のE区間です。STEP3は30m以上離れたC区間のものでF区間は写っていません。てんでんばらばらに別の地点の写真をもってきて並べて見せて、「プロセス」だというのはまずいでしょう。

 若宮戸のあのデタラメ図ほどではない?にしても、関東地方整備局の高橋伸輔河川調査官のやることは常にこの調子で、ここぞという肝腎要のところで、とんでもない図を出してくるのですが、気をとりなおして中身を見ることにします。「プロセス図」が上の方に行ってしまいましたから、再掲します。今度は「浸透」についての記述に、橙アンダーライン・橙丸・橙四角を描き加えます(図中の赤矢印はもとのものです)。

 

 

 各STEPにおける浸透に関する記述・図示を見ていきます。

STEP0です。

 最初に図を見ます。報告書の図3–20のL21k地点の断面図と同じようなのですが、違いがあって、As-1(砂質土〔s = sand〕)とAc−1(粘性土〔c = clay〕)の間にブルーグレーの地層が挟まっていて、凡例もないので不可解です。しかし、どうやら、As-1の砂質土のうち下方の部分に水が浸透して飽和した状態を表しているようなのです。橙丸から滲み込んで、橙四角のところでピュッと噴出しています。

 なお、どこまでが基礎地盤で、どこからが堤体なのかははっきりしません。この図を見る限りではAs1のうち下半分の浸透により飽和しているところまでが基礎地盤、その上の黄色のままのAs1やBcが堤体のように見えます。(Bはbank〔堤防〕か。あるいはたんにAに対するBか。))

 水位は天端まで達していませんから、当然越水もしていません。越水前に浸透による堤内地への漏水があったとしているのです。Tは堤内地の粘性土の表土(topsoil)ということで、噴水するからにはそこが切れなければならないはずですが、素人の作図ゆえ、そのへんは不明瞭です。

 説明文の「可能性がある」は省いて読むことにします。可能性があったが起きなかったというのではなく、実際にその現象が起きた、というのが現地調査を踏まえた分析結果なのです。「層厚が薄いところでは」という仮定表現もどきも同様です。「層厚が薄いところで水や砂が噴き出した」ということです。この地点では実際に層厚が薄く、水や砂が吹き出したという分析結果です。

 

STEP1です。

 越水が始まった段階です。

 ひきつづき、堤体下部ないし基礎地盤のAs1に河川水が浸透しています。「可能性あり」は省いて読みます。「助長する」とはよくわからない言い方です。主たる原因は越水であり、従たる原因が浸透だというのでしょうが、それぞれの寄与度を明確に述べているわけではありません。越水と浸透とが共働原因だったということです。

 図では、STEP0と同じく、川裏側法面の法尻ではあいかわらずTが切れているようないないようなです。意味がよくわかっていない人が作図をするから肝心のところが不明瞭なのです。しかし、文面上は、法尻あたりでTが切れて浸透してきた河川水が噴出し、侵食が進んでいるということです。

 

STEP2です。

 図では、越水によって川裏側法面を流れ下る河川水と、基礎地盤ないし堤体下部を浸透してきた河川水により川裏側法面下部が大きくえぐれています。

 文章の一点鎖線の下線部と、二点鎖線の下線部は、ふたつとも同じようなことを書いているようです。あるいはそうではなくて、一点鎖線は浸透による洗掘が進んで穴があき、そこに越水してきた河川水が落ち込むこと、二点鎖線はその越水してきた河川水によって穴がさらに拡大する、と言いたいのかも知れません。ひどい文章です。

 

STEP3です。

 図では、ひきつづき堤体下部ないし基礎地盤における浸透が描かれています。

 

 「報告書」における記述をみたついでに、第2回の会議(2015年10月5日)の際の資料における「プロセス」を見ておきます。

 浸透に関する記述の部分に赤丸をつけたのですが、5か月後の「報告書」に比べて、浸透に関する記述がずいぶん少なく、STEP0とSTEP1に少しあるだけです。少ないだけでなく、堤防断面図中に、堤体下部ないし基礎地盤で浸透が起きている様子が描かれていません。経路が省略されているのに、STEP0で川裏側法面下部からピュッと噴出する状況が描かれています。

 こうしてくらべてみると、最終報告書においては、浸透に関する記述がかなり強化されたのです。

 なお、この第2回会議の際の図では、堤防断面図の天端は段付きになっていません。これがF区間を指しているのだとすると正確なのです。最終報告書では、余計な気をきかせてL 21kの断面図を描くことにしたために、段付きになってしまったわけです。

 

 

 関東地方整備局の広報担当者が作成した「鬼怒川堤防調査委員会報告書」の記述の一部を見たわけですが、よくわかっていない素人が作成したことは明白です。重要な点の作図が曖昧であり、文面は無意味に「可能性がある」と暈しています。サイエンスやテクノロジーの世界の住人ではない、いかにも行政官僚らしい仕事です。

 とはいえ、もとになっているのは技術系職員による分析であるに違いなく、どうぼかそうが、破堤の原因は唯一越水である、と読み取ることは不可能です。破堤の原因は浸透と越水である、と断言しているのです。これが転んで「三坂破堤越水唯一原因説」の蔓延という結果にいたったのです。

 やっとメインテーマである堤体の浸透による被災の解明に向かうことにします。

 「三坂破堤越水唯一原因説」の蔓延に抗する見解を瞥見して、ページを改めることにします。

 

 

(iii)「三坂破堤越水唯一原因説」に批判的な見解

 

 2015年12月23日に京都で開催された「国土問題研究会シンポジウム」における大豊英則氏の報告「常総水害の背景にあるもの」からの引用です(http://kokudoken.lolipop.jp/oldspecial/Resume151223.pdf)。

 





 現地調査で越水は確認できず、近くの洪水痕跡は堤防の高さより1mほど低かったというのは、破堤した165m区間は完全に消滅しているのですから当然のことです。破堤区間は地盤沈下により堤高はかなり低下していたのです。写真はおそらく21.25k地点あたりでしょう。そのうえで、破堤原因について次のとおり述べています。

 

決壊した堤防の構造は,報道資料〔に〕よれば図 5 のように説明されている。つまり,現地で多く採取される砂質土をベースとした堤防に, 粘性土を覆い被せた構造となっている。この構造で堤防天端まで水位が上昇すると,堤防下部の砂層で間隙水が浸透・飽和し,堤内地へ向かって浸透流が起きることが想像できる。間隙水が土粒子そのものを動かす流速に至った場合,若しくは,堤防全体が冠水して上部の粘性土や舗装まで部分的にせよ水中に沈み,「重石蓋」の役割により堤体形状を保持していたそれらに浮力が働いて安定性を失い,大規模なパイピング又は堤体面破裂が起こったと考えられる。

 

破堤原因は浸透であるという主張です。そのうえで、次のように述べます。

 

地元住民が,堤防表面から水が滲み,堤防が上から欠けた(つまり沈下が始まった)と証言していることからも,洗掘による掃流破壊の可能性と並んで,パイピング等に起因する決壊のメカニズムを考慮する必要がある。

 

 

 この地元住民とはいわゆる「電柱おじさん」だと思われます。例の、ヘーベルハウス脇の電柱に2時間ほど掴り、ヘリコプターで救助される様子がライブ中継された人です。しかし、重要なのはその前に目撃した事実です。当日の20時01分の朝日新聞DIGITALの記事を引用します。

 「堤防上に立って、鬼怒川の水位を見ていたら、足元のアスファルトが目の前でみるみる割れ始めた」というのは、越水によって破堤する時の状況とはまったく異なります。越水による破堤の場合、川裏側法面が垂直になるまで洗掘され、氾濫水がまっすぐ落下するようになったあと、やっと天端のアスファルトが崩落するのです。

 「目の前でみるみる割れ始める」というのは、浸透により堤体が急激に崩壊・沈下する時の状況です。関東地方整備局は、新聞記事にまでなっているのに、この「電柱おじさん」すなわち坂井さんから聞き取り調査をすることなく、「決壊区間では漏水に関する証言は得られていない」(報告書、3−19ページ)などと、言っているのです。

 




 もうひとつ引用します。

 大同大学の水理学・水文(すいもん)学の鷲見(すみ)哲也准教授(当時。現在は教授。http://www.daido-it.ac.jp/~t-sumi/lab/index.htm)が、2015年12月に1泊2日で鬼怒川下流部の常総市から、上流の4ダムまで一気に調査してブログを書いています(http://sumisumi.cocolog-nifty.com/sumisumi/2015/12/post-34e8.html)。

 堤内の「落堀」について、「落堀に見えるが、局所に掘れている部分は浸透現象と関係している可能性がある」と指摘し、さらに高水敷の段付き部の「開口」(鬼怒川水害まさかの三坂11参照)は逆浸透によるものだとしています。

 送迎され、カメラやスケールも持たずに1時間少々見物して即席謬論を吹聴する国策派の「専門家」とは違い、たいへんな行動力と鋭い分析力です。関東地方整備局には、ぜひともこういう人を「鬼怒川堤防調査委員会」の委員に任命していただきたかったものです……。