茨城県災害対策本部の危機感欠如

 2012年5月10日

希薄な危機感


 茨城県庁は、2012年3月末、東日本大震災に際して設置した「災害対策本部」の議事録を公開した。1年を経てから公表したことの意味は不明だが、新聞は「大震災直後の混乱あきらかに」(2012年4月4日、茨城新聞)と報じた。しかし、議事録から受ける印象は「混乱」とはだいぶ異なる。そこから読み取れるのは、未曾有の自然災害に際会した県当局のいささかのどかな反応と、とりわけ福島第一原子力発電所の原子力緊急事態に対する危機感の欠如と無責任な対応である。

 午後2時46分の地震発生から3時間ほど経過した3月11日(金曜)18時2分、第1回の災害対策本部会議が開かれた。13人の部長らが順々に被害状況を報告する最後の方で、生活環境部長が県内18か所の原子力施設がいずれも「安全に自動停止」したと報告した。県庁舎のガラス破損を報告した総務部長の次だった。知事以下、県庁幹部らの原子力災害に対する危機感は極めて希薄である。

 第2回の会議は、同日23時から開かれた。県警本部長が、首相官邸からの要請で福島原発周辺住民の避難のためのバスの先導を手配したと報告した。県教育長小野寺俊は、20時現在で学校で12人の負傷者が出たこと、「保護者からは学校側に毛布や布団の要請がある」こと、そして「六角堂」については未確認であるので「明日、明るくなってから確認を行う」ことの3点を報告した。直後に知事から「六角堂はどうなっている?」と質問があり、教育長が「明るくならないとわからない」と、ふたり揃って同一内容を繰り返した。よほど「六角堂」が気がかりだったようだ。児童生徒についてはそれ以上の言及はなかった。(「六角堂」とは、北茨城市五浦の海辺に岡倉天心が建てた木造建築。津波で流失したが、所有者の茨城大学が2012年4月17日までに再建した。)


ヨウ素剤と測定器を手放す


 3月12日(土曜)15時36分、福島第一原子力発電所の1号炉が爆発した。17時40分に開始された第4回会議で、やっと原子力災害が話題になった。しかし、「原子力対策班」(内容不詳)が「テレビ報道のとおり」として報告したのみだった。県当局としては国からの通報・指示等を一切受けていなかったことがわかる。

 福島県から原子力安全保安院を通じて安定ヨウ素剤提供の依頼があったこと、さらに「サーベイメーターやタイベックスーツなど防災用資器材の要請が文部科学省経由で来ている。できるだけ送りたい」との報告がされた。(安定ヨウ素剤については、翌13日の第5回会議で「〔茨城県内には〕55万備蓄していて、27万個送っている」ことが報告された。第6回会議議事録によると、55万錠とはおとな27万6千人分。その半分と、子ども用に13万人分備蓄していたうちの3万人分を福島県に提供した)。

 この時点まで一貫して西風ないし南風が吹いており、たまたま茨城県へは放射性物質が飛来していなかった(www.vic.jp/fukushima/r2011031300.html)。茨城県など関東地方への大規模な放射性物質拡散が始まったのは、原子炉本体や燃料プールのあいつぐ爆発・破壊が起き、風が北風に転じた15日以降のことである。原子力施設の存在しない茨城県南・県西地域では、安定ヨウ素剤の備蓄がなかっただけでなく、学校や市町村役場には何の情報もなかった。原子力施設が集中しており安定ヨウ素剤を備蓄していた県北東部から、大量に福島へ送付されていた事実が、今回の議事録公開であきらかになった。

 すでにこの時点で、福島県浜通り・中通りはもちろん、東北地方の東部、茨城県など関東地方の広い範囲で安定ヨウ素剤の配布・服用がなされるべきであった。西日本からであれば安定ヨウ素剤や放射線測定器の提供はありうることだろう。全域が原発から200km圏内におさまる茨城県に対し、それらの物資の提供を迫る日本国政府や、何も考えずにやすやすと応じた茨城県庁の対応には唖然とする。

 しかも、他県から調達しておきながら福島県においては15日に富岡町・いわき市・三春町が独自判断で安定ヨウ素剤を配布したのを除き、一切配布・服用はおこなわれていない(いわき市は備蓄も独自におこなっていた)。実際には大規模な汚染が起きていたのに国や福島県庁は服用の必要はないと言い張り、活用しなかったのだ。このあと福島県庁の「放射線健康リスクアドバイザー」として住民に安全論をふりまくことになる長崎大学教授山下俊一の見解を根拠に、安定ヨウ素剤を配布した3市町を非難する報道すらなされた(3月21日、読売新聞)。

 日本国政府と福島・茨城両県庁が、これら一連の事態につき反省した形跡はない。原発再稼働によって将来必ず起こる原子力災害の際にも、同様の事態が繰り返されるに違いない。


放射性物質拡散について誤認


 13日の第5回会議の論調は、遥か遠いところで原子炉事故があったかのごとくであり、被災当事者としての危機感は欠落している。児童生徒を含む県民の被曝防止・低減措置について、災害対策本部としての検討はなく、事態は放置されることとなった。県教育委員会としての独自の検討がおこなわれた形跡もない。2日間の休日が経過した3月14日(月曜)以降、地震で鉄道が不通となったため多くの県立学校は事実上休校となったが、鉄道輸送に依存しない県西の県立学校や県内全域の小中学校は、放射性物質飛散が予期される状態のもとで何らの措置もとらずに、通常どおりに児童生徒を登校させた。

 この14日11時1分、3号炉が上空600メートルまでキノコ雲を吹き上げる大爆発を起こした(水素爆発とそれが誘発した核爆発と思われる)。その直後、11時30分からの第6回災害対策本部会議は、官房長官枝野幸男の記者会見をテレビで見ることから始まり、「原子力対策班」が「〔12日に〕1号機が爆発してから放射線の監視体制を強化した」と報告した。その内容は「北茨城市役所に可搬型モニター装置を設置し、10分置きに確認している。3号機の爆発後も値の変化はない」というものだった。

 福島県境の北茨城市で観測し、そこで異変がなければ茨城県は全部安全だというのだろう。何時のデータなのかはっきりしないが、3号機爆発直後で(たとえ北風が吹いていたとしても)放射性物質が飛来するはずのないこの時点での報告である。それだけではない。本県の災害対策本部は、放射線は福島第一原子力発電所から直接照射されているのだから、もっとも近い北茨城市でもっとも高い線量が観測され、そこから遠ざかれば距離の二乗に反比例して線量は低下するのだから、福島県境の北茨城市で観測していれば十分である、と考えていたようである。

 じっさいには福島第一原子力発電所から直接、放射線が照射されるのではない。福島第一原子力発電所から大気中に放出され、風によって移動・拡散・落下した放射性物質(放射能)が、放射線を発するのだ(その他、海や土壌・地下水への放出も起こる)。前述のとおり、風向きが大きく変化した15日以降、本県に大量の放射性物質が飛来した。とりわけ21日から22日にかけての大量の雨によって、茨城県南部から千葉県北西部、東京都東部に降り注いだ。放射性物質を含んだ大気の流れは、北茨城市上空を通過したのではなく、いったん太平洋上に出たものが鉾田市付近から陸上に流れこんだものだろう(ページ下の図参照)。

 北茨城市での観測によって、県内他地域の汚染状況を知ることはできないのだ。橋本知事をはじめとする県庁の幹部たちは、初歩的な無知のうえに立って事態を放置し、300万県民の生命・健康を守るためのあらゆる方策の実施を怠った。


本領発揮する橋本昌


 放射線測定機を搭載したモニタリングカーを福島に送ったので、茨城県には結局1台しか残っていない。知事は「1台しかないのか」と、間の抜けた感想を漏らしたが、その1台も有効に活用したわけではない。茨城県庁が、汚染された県南部の放射線量を初めて測定したのは、2か月ちかく経過した2011年5月12日だった。自余のすべての対応は測定抜きにはありえないだろう。測定なしには、避難や屋内退避などの措置が取られる可能性はない。除染などの措置もありえない。

 測定すらおこなわずに、茨城県災害対策本部は何をしていたのか? 前述のとおり福島第一原子力発電所各号機の爆発・炎上によって膨大な放射性物質の飛散が継続し、それらが北風によって運ばれ、本県など関東一円の大規模汚染がはじまるのは3月15日(火曜)であるが、その15日の10時4分にはじまった災害対策本部の第7回会議では、知事の橋本昌がほとんどすべての案件について具体的に指示を発している。原発事故に関する指示は次のとおりである。

 

「放射線も身近な対比できるものを出して、原子力の知識を説明できるよう考えてもらいたい。」

「退避勧告といっただけでパニックになる恐れがある。先ほどもいったが、身近に比較できる例を出して説明することや、その程度の放射線では特に影響はない旨を説明するとよい。」

「〔雨に放射能が含まれている云々のチェインメールが流布している、との保健福祉部次長発言を受けて〕県のホームページに掲載し注意喚起すること。」

 

 「身近に比較できる例」だとか「その程度の放射線では特に影響はない」などは、福島第一原子力発電所の事故以前から、原発推進勢力があちこちで言い触らして来た決まり文句である。原発立地道県知事らの団体である「原子力発電関係団体協議会」の副会長、あるいは経済産業省の総合資源エネルギー調査会の委員として原発推進勢力の主要メンバーである橋本昌は、原発から直接放射線が照射されると思い込んでいる程度の知識しかなく、推進勢力の宣伝文句を自分でも本気で信じているのだ。


「雨が降っても健康に影響はありません」


 この会議を受けて、3月21日づけで災害対策本部長ならびに知事の名で茨城県のウェブサイトにつぎの通りの告知がされた。

 

「今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故に伴う、茨城県内での放射線の影響につきましては、現在までのところ、何らかの行動が必要とされるレベルのものではありませんので、冷静に行動してください。〔中略〕仮に1日24時間雨の中に立ち続けたとしても、受ける放射線の量は0.36ミリシーベルトと、全身CTスキャン1回分の約19分の1(5.2%)であり、心配しなければならないレベルではありません。」

 

 この文章は、橋本昌が部下の県職員に書かせて署名だけしたのではない。橋本昌本人が、結論だけでなく論点まで具体的に指示したうえで作成されたのだ。

 3月21日から22日にかけて、県南部でまとまった降雨があった。このひと降りの雨は、これらの地域を以後数十年間にわたって高度汚染地域(「ホットスポット」)にするほどの威力があった。知事の無知ゆえに、児童生徒を含む多数の県民がその雨に打たれる結果になった。

図:火山学者である群馬大学教授早川由起夫の想定。http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-430.html