人類普遍の原理の否認

 自民党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」の基本的人権に関する規定を検討する。

(日本国憲法の英訳、「自民改憲草案」を含む『日本国憲法改正草案Q&A』は最初のページを参照。「GHQ草案」は、www.ndl.go.jp/modern/img_t/105/105-001tx.html

 

 

「臣民の権利義務」への復帰

 

 自民党改憲草案は、「自由及び権利には責任及び義務が 伴うことを自覚し」なければならないとするが、「伴う」とはどのようなことなのか、『Q&A』にも例示ひとつなく具体的内容は一切示されない。上から目線で国民に説教する陳腐な言説のめざすところはいったい何か?

 草案は、人権に厳しい制限を新設する。第13条で、「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない」としたうえで、たとえば第21条の2の「表現の自由」の規定に日本国憲法にはない第2項を新設し、「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」とする。何が「公益及び公の秩序」であるのか? その判断を誰がおこなうのか? 国家機関が権限を振るうことになれば、国民の基本的人権にたいするいかなる恣意的抑圧も正当化される。これはもはや制限の域を超える。基本的人権は憲法体制=国家体制の究極の原理の位置から排除され、かつて日本国憲法が「排除」した大日本帝国憲法における臣民の権利の水準に引き戻される。

 草案は、日本国憲法前文を全部破棄し、新たな前文を作成する(別項)。その理由のひとつが、日本国憲法の前文に「基本的人権」についての言及がないのはよろしくないので、記述することにしたことだ、という(『Q&A』5頁)。

 草案前文は、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と書く。

 ほんのひとこと「尊重」と言っているが、基本的人権の顕著な制限を断行する草案第3章とは相容れない空疎な言明である。「尊重」とは、それとは別の究極目的を実現するうえで支障のない程度に、ついでに顧慮する、という程度の意味だろう。そもそも、国民が自分の基本的人権を「尊重」するというのもおかしな話である。基本的人権は憲法秩序の究極目標であるのに、「尊重」などと恩着せがましく配慮の素振りを見せるだけの自民党草案は、人権保障を究極原理とする日本国憲法体制という「公益及び公の秩序」に対する許すべからざる挑戦である。

 結論を先に述べてしまったが、草案が「公益及び公の秩序」をいかに破壊しようとしているのかを具体的に検証することにしよう。

 

 

存在する人権が見えない

 

 そもそも、日本国憲法前文に基本的人権についての記述がないという自民党の判断は誤っている。

 「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」(前文第2段落)は、基本的人権にほかならない(平和的生存権)。これはたんなる修辞上の飾り文句ではなく、憲法が保障する具体的な基本的人権であることは裁判所の確定判決によっても明らかにされている(2008年4月17日、名古屋高裁。2009年2月24日、岡山地裁)。

 「正当に選挙された代表者を通じて行動する」(第1段落)という国民主権原理は、国民が基本的人権をもつことが前提となっている。基本的人権抜きの国民主権はありえないのである。国政の「権威」が「国民に由来」(同)するのは、人権保護を目的として憲法体制=国家体制が創設されたことを意味する。

 その一方で、自民党は日本国には「自然権」としての自衛権があると主張する(安倍晋三『新しい国へ』2013年、文春新書)。ありもしない国家の自然権としての自衛権を捏造するのは、自然権としての基本的人権を軽視することと表裏一体である。軽視というより、草案は基本的人権原理についての根本的な無理解のうえに、あえてそれを根こそぎ否定しようとする。

 以下において、草案が拒絶する日本国憲法の人権規定について、その論理構造をみてゆこう。

 

 

国民は享有するenjoy

 

 国民の基本的人権は、たとえばつぎのように規定される。

 

 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を 有する

 Article 25.  All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

 

あるいはまた、

 

 第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。〔後段略〕

 Article 11. The people shall not be prevented from enjoying any of the fundamental human rights. 〔.........〕

 

このように、国民は権利を「有する」、あるいは、国民は権利を「享有する」のである。(英文のshallは法律文書で当為・命令を表す。「……するものとする」)

 

 

自分で自分には与えられない

 

 それでは、国民に基本的人権を与えたのは、いったいなにものであろうか?

 日本国民に基本的人権を与えたのは、国家ではない。日本国民に基本的人権を与えたのは、憲法ではない。日本国民に基本的人権を与えたのは、日本国民自身ではない。自分で自分になにものかを与えることは不可能である。日本国民がつくった日本国憲法が、日本国民に基本的人権を与えることは、結局自分で自分になにものかを与えることだから、これも不可能である。日本国民が制定する日本国憲法によって設立される国家が、日本国民に基本的人権を与えることも、当然ありえない。

 全世界の国民all peoples of the worldに平和的生存権(前文)を与えることは、日本国民にとっても、日本国憲法にとっても絶対に不可能である。もちろん日本国にも不可能である。

 

 

憲法は保障するguarantee

 

 基本的人権の起源についての、もっともありがちな誤解は憲法が国民に基本的人権を与えたというものであろう。しかし、次のとおり憲法は基本的人権を「保障するguarantee」のであって、決して与えるのではない。

 

 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。〔後段略〕

 Article 12. The freedoms and rights guaranteed to the people by this Constitution shall be maintained by the constant endeavor of the people, 〔.........〕

 

 「この憲法が国民に保障する基本的人権」という文言は頻繁にあらわれる。さきほどの第11条の後段はつぎのとおりである。

 

 第11条 〔前段略〕 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 Article 11. 〔.........〕  These fundamental human rights guaranteed to the people by this Constitution shall be conferred upon the people of this and future generations as eternal and inviolate rights.

 

さらに、

 

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する

 Article 20.  Freedom of religion is guaranteed to all.

 

 

国民は確認するrecognize

 

 そして日本国民は、自分自身が基本的人権を「有するhave」ことを、「確認recognize」する。

 前文において、

 

 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

 We recognize that all peo-ples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.

 

「recognize」は、基本的人権に関しては、このほか第14条に現れる。

 

 第14条第2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない

 Article 14. 2) Peers and peerage shall not be recognized.

 

なお基本的人権以外では、「交戦権」を「認めないshall not be recognized」と第9条で、さらに第103条で現れる。

 「確認する(認める)recognize」は決して「与える」という意味ではない。日本国憲法第12条に相当する「GHQ草案」第11条では、“guaranteed by this Constitution”の部分は、“enunciated by this Constitution”(「この憲法によって宣言された」)となっていた。「与える」という意味合いは全くない。

 

 

人権を与えるconfer

 

 それでは、憲法が「保障guarantee」し、そのことを日本国民が「確認recognize」する基本的人権を与えたのは、なにものか? 自民党草案が全文削除するとしている第97条(第10章 最高法規)はこう宣言する。

 

 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである

 Article 97. The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

基本的人権は「信託されたbe  conferred ..... in trust」、と受動態で記述されている。その際、何(何者)によって信託されたかは明示されていない。第11条の後段でも、同様に「与えられるbe conferred」とされていたが、何(何者)によってかは明示されない。

 明示されていないが、基本的人権を個人としての日本国民に与えたのは「自然」である。これこそが、「自然nature」が人間に与えたconfer 権利right、すなわち「自然権natural right」としての基本的人権fundamental human rightである。

 

 以上をまとめるとこうなる。

 

 (i) 日本国民we, the Japanese peopleは、出生により、個人individualとして、基本的人権fundamental human rightを、与えられるbe conferred信託されるbe  conferred ..... in trust)。

 (ii) 憲法Constitutionは、日本国民が個人として与えられた(信託された)基本的人権を、保障guaranteeする

 (iii) 日本国民we, the Japanese peopleは、これら(i)(ii)を確認recognizeし憲法Constitutionとして制定する

 

 

憲法が与える人権という誤謬

 

 憲法が国民に基本的人権を与えると主張する著名な憲法学者がいる。長谷部恭男(東京大学大学院法学政治学研究科教授=2013年当時、現在は早稲田大学)は、人権と「公共の福祉」との関連について解釈するにあたって、第12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利」とは、「人類普遍の人権ではなく、「〔報道の自由や営業の自由など、日本国〕憲法がとくに国民に与えた自由および権利」のことだとする(『憲法〔第2版〕』2001年、新世社、傍点引用者)。

 日本国憲法に掲げられている基本的人権は、①「人類普遍の人権」と、②日本国憲法が「国民に与えた自由および権利」の2種に分類されるというのである。法解釈の迷路に入り込んだあげく、「保障するguarantee」ことは「与えるconfer」ことだと強弁して、②を作り出してしまうのであるが、そもそも①の「人類普遍の人権」の起源についての誤認がその誘因になっている。(この点に関連して、2つ先のページで「人類普遍の原理」としての自然権思想と社会契約論について検討する。)

 

 

憲法による人権剥奪は不可能

 

 憲法は、基本的人権を「与えるconfer」ことをしない。できないうえ、そもそもそうする必要もない。基本的人権は憲法以前に、すでにあらかじめ存在するからである。憲法が基本的人権を無から創造することはないということは、憲法が基本的人権を無へと消滅させることは不可能であるということでもある。

 憲法で、基本的人権が全部または一部規定されないこともありうる。しかし憲法が人権を「保障するguarantee」と明記しないことに、人権を弱体化し消滅させるような積極的効力はない。制定当初のアメリカ合州国憲法(1787年)には人権規定がなかった(のち修正第1条−第10条〔1791年〕で規定された)。

 国家の機関が個々の事例において人権をさまたげ、ときに剥奪しようとすることは起こりうることかもしれないが、憲法が普遍的に人権を消滅させることはできない。憲法が、遡及的に人権からその現存在を奪うことはありえない。

 おそるべき時代錯誤的感覚をいだいて「憲法」を僭称する自民党改憲草案は、人権の広範な制限のうえに軍事国家体制の樹立をめざすのであるが、人権を恣意的に操作できると思いこむことで、憲法としての存在可能性をみずから否定してしまったのである。