「立憲主義」をめぐる混乱

自民党総裁と憲法学

 

 2013(平成25)年3月29日の参議院予算委員会で、小西洋之議員(民主党・新緑風会)が質問にたった。答弁するのは自民党の総裁として内閣総理大臣をつとめる安倍晋三である。

 自民党の「憲法改正草案」第13条が、日本国憲法における「公共の福祉」を「公の秩序」に置き換えたことが問題となり、参考人の国立国会図書館職員が、憲法学者芦部信喜による「公共の福祉」の解釈について説明したのを受けて、小西が問うた(議事録 kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/183/0014/18303290014008a.html)。

 

○小西洋之君 内閣総理大臣、安倍総理、今述べられました芦部信喜さんという憲法学者、御存じですか。

○内閣総理大臣(安倍晋三君)私は存じ上げておりません。

○小西洋之君 では、高橋和之さん、あるいは佐藤幸治さんという憲法学者は御存じですか。総理。

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 申し訳ありません、私は余り、憲法学の権威ではございませんので、学生であったこともございませんので、存じ上げておりません。

○小西洋之君 憲法学を勉強もされない方が憲法改正を唱えるというのは私には信じられないことなんですけれども。

 

 小西の言うとおり、安倍晋三は憲法学について何のわきまえもないまま、「憲法改正推進本部」の「最高顧問」として草案作成にあたり、いまや憲法改正を主張する政党の党首として、内閣総理大臣の地位にいるのである。

 

自民改憲草案と「立憲主義」

 

 「最高顧問」にせよ、自民党総裁にせよ、実際に草案の文面を作成するわけではないからシロウトでもかまわないし、実際に案文を作成した人物が別にいてかれらが法律に精通していれば問題はない、と思う人がいるかもしれない。

 冒頭のツイッター電文は、自民党の「改憲草案」の発表(2012〔平成24〕年4月28日)から1か月後に、「憲法改正推進本部起草委員会」事務局長の礒崎陽輔(参議院議員)がおこなった発言である。「立憲主義」に反するとの批判が寄せられたのに対して、礒崎は「意味不明の批判」と言う。批判が間違いだと反論しているのではない。礒崎は「立憲主義」とは何かがまったくわからないようで、咄嗟に見た「Wikipedia」には載っていたが、「学生時代の憲法講義」でも聞いたことがないとして、素朴に「昔からある学説なのでしょうか」と訊いているのである。

 『日本国憲法改正草案Q&A』(2012年10月発行)は、この礒崎が中心になって作成したものと思われるが、約1年後に「増補版」を発行した(https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf)。そこでは「立憲主義」や「基本的人権」を中心として、10か所ほど修正が加えられている。Q3の次にQ4「立憲主義を否定しているのではないですか?」を新設し、答「立憲主義を否定したものではない」として次のとおり答えている。

 

自民党の「日本国憲法改正草案」は、人権を保障するために権力を制限するという、立憲主義の考え方を何ら否定するものではありません。自民党の草案においては、権力分立の構造は変わりありませんし、「基本的人権の尊重」 が、「主権在民」「平和主義」とともに日本国憲法の三大原則の一つであることも全く変 わりはありません。

 

 草案では「第3章 国民の権利及び義務」の人権規定が本質的に改変されるうえ、第97条が削除される。さらに「第9章緊急事態」において内閣総理大臣の権限が強化されることで、国会の権限がおおきく低下するおそれがある。「三権分立」と「基本的人権の尊重」の内実は大きく変更されているのであって、「変わりありません」というのはまったくの虚偽である。

 自民党の起草委員会というところは、憲法学の教科書をただの1冊も備えず、わからないことがあると、インターネット上の無料の事典の「ウィキペディア」を見るだけらしい。「立憲主義」という言葉さえ知らない事務局長礒崎のもとで作成した草案について、1年半もたってから「立憲主義」に立脚していると言いだした。

 

芦部信喜『憲法』の解説

 

 礒崎は司法試験や公務員試験用のテキストとして定評のある芦部信喜の『憲法』の、最初の方だけでも見るべきだった。「立憲主義」についての芦部の解説は次のとおりである(1993年、岩波書店、5頁)〔現在は高橋和之補訂による2011年発行の第5版〕。

 

一般に「立憲的意味の憲法」あるいは「近代的意味の憲法」〔……とは、〕一八世紀末の近代市民革命期に主張された、専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想に基づく憲法である。その趣旨は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、すべて憲法をもつものではない」と規定する有名な一七八九年フランス人権宣言一六条に示されている。〔……〕その最も重要なねらいは、政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障することにある。

 

長谷部恭男の「立憲主義」

 

 この芦部信喜(1923―1999)の弟子の東京大学法学部教授長谷部恭男(その後早稲田大学。1956― )は、師の学説をどう継承したのだろうか。

 2013年11月13日、長谷部は、「特定秘密保護法案」を審議する衆議院国家安全保障特別委員会に参考人(自民党推薦)として招致され、見解を述べた(議事録 www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/027418520131113012.htm リンク切れ)。

 長谷部は、「特別な保護に値する秘密、これを政府が保有しているという場合には、みだりに漏えい等が起こらないよう対処しようとすることには高度の緊要性が認められますし、それに必要な制度を整備すること、これも十分に合理的なことであり得る」として法案を是認する。

 そのうえで、「どのような情報が特別な保護に値する特定秘密なのかがわからない」という批判については、「閣僚や国会議員の方々を含めまして、人はおよそ全知全能ではございませんので、何が特別な保護に値する秘密なのかをあらかじめ隅々まで確定する、これはおよそ不可能」だとした。さらに、「世の中一般におきましては、民間の方が独自に収集をした情報でありますとか、既に公になっている情報についても、その保有が処罰の対象とされかねないという」批判があるようだが、そのようなものは、「一種のホラーストーリー〔怪談〕」であり、「この法案を批判する根拠には余りならないのではないか」と、具体的根拠も示さないまま述べた。

 これに対して、沖縄の赤嶺政賢議員(日本共産党)が、毎日新聞記者西山太吉の「沖縄密約暴露事件」(1972年)で問題となったように、日米安保にかかわる事柄がことごとく「秘密」にされてきた現実をどう考えるかと問い質したところ、長谷部は次のとおり答えた。

 

○長谷部参考人 先生が今御指摘の地位協定等に関する具体の情報については、申しわけございません、私、勉強不足でございまして、具体的な知識を持ち合わせておりません。

 

 その約2か月後、長谷部恭男は政治学者の杉田敦と新聞社で対談をおこなった。杉田に「なぜ、秘密法に賛成されたのですか」と問われた長谷部は、次のように述べた(『朝日新聞』、2014年1月19日)。

 

国を守るためです。単に領土を守るとか、国民の生命と財産を守るということではない。日本国憲法の基本原理である立憲主義を守るということです

 

国民の生命と財産や領土を守ることよりも国や立憲主義を守ることが重要だというのである。しかし、立憲主義的憲法は国民の生命と財産という〈目的〉を達成するための〈手段〉のはずである。長谷部は、〈目的〉よりも〈手段〉の方が重要であるというのである。

 長谷部は、最近も奥平康弘らが編集した『改憲の何が問題か』(2013年、岩波書店)で、執筆者のひとりとして自民党改憲草案を批判するなど、「護憲派」の代表的論客と見られていた。ところが、その改憲草案の一部先取りとも言える「特定秘密保護法」について与党推薦の参考人として推進の立場から意見を述べ、しかもそれを「立憲主義を守る」ためだとするのである。長谷部のいう「立憲主義」とは、いったい何なのか?

 

憲法Constitutionと立憲主義constitutionalism

 

 「民主主義」という語も同様であるが、「立憲主義」という語は、憲法の条文にはただの一度も登場しない。にもかかわらず憲法学の教科書にはほとんど同じ説明が並んでいて、「立憲主義」などというものは、自明のものであるかのように扱われている。

 ところが、いまや、「立憲主義」を「意味不明」だと言って恥じない国会議員らが憲法改正案を作り、本気でその実現をもくろんでいる。いっぽうで「勉強不足」の憲法学者が、憲法違反が疑われる法律を推進するのは「立憲主義を守る」ためだと「意味不明」の弁明をしている。

 本稿はこれまで「立憲主義」の語をほとんど用いてこなかった。教科書的な定義から演繹的に日本国憲法の通説的解釈を導出するのではなく、自民改憲草案と比較対照しつつ、英訳をも参照しながら日本国憲法の条文を読み込み、その具体的意味と、条文の根拠となっている思想を忠実に理解しようとつとめてきたつもりである(まだ全部おわったわけではないが)。

 自然権と国家主権の関係については、トマス・ホッブズ(1588−1679)とジョン・ロック(1632―1704)の思想にさかのぼって、検討をすすめた。憲法学のテキストが、「専断的な権力を制限して広く国民の権利を保障するという立憲主義の思想」と、さらりと言ってのける事柄の真の源泉としての、いきいきとした意味内容がそこから立ち現れてくると考えたからである。

 たどたどしい歩みではあるが、この作業によってもすこしずつ姿を現すコンスティテューション・オブ・ジャパンConstitution of Japan(日本国憲法)の論理構造それ自体が、コンスティテューショナリズムConstitutionalismにほかならない。これに、世上、「立憲主義」という訳語があてられているのである。

 コンスティテューション・オブ・ジャパン(日本国憲法)の内実を本質的に壊変させる自民改憲草案は、コンスティテューショナリズム(立憲主義)を実現するものであるはずはなく、その無知なる破壊者でしかありえない。また、憲法は基本的人権を保障するguaranteeのでなく、与えるconferのだと解釈(誤解)する憲法学者長谷部恭男が、立憲主義を正当に理解することは、いかにしても不可能である。

 憲法学のテキストにワンセンテンスで表現されている「立憲主義」の定義を表面的・抽象的に何度復唱したとしても、そんなことで人類普遍の原理としての日本国憲法の論理と思想を、理解し表現したことにはならない。どんな場合でもおなじであるが、内容についての認識を欠いたまま、「立憲主義」という言葉を呪文のように唱えるだけでは、日本国憲法を正当に理解したことにはならないのである。