3 杉原千畝と八紘一宇

「日本会議」の政治的影響力

 

 「日本会議」会長の三好達は、茨城県知事橋本昌らとの鼎談のなかで、茨城県の必修〈道徳〉のテキストに、「〔第一次世界大戦の〕パリ講和会議で日本の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案した」件を、教材として採録するよう要求した。また、「日本会議」は、在リトアニア日本領事館領事代理杉原千畝によるユダヤ人数千人に対する日本通過ビザ発給は個人としての人道的行為だったのではなく、「八紘一宇」を国是とする大日本帝国の国策に従ったものであると主張している。

 「八紘一宇」まで持ち出して、大日本帝国の行為をことさらに賛美する時代錯誤には驚くしかないが、「日本会議」の政治的影響力、とりわけ茨城県の県立高校における必修〈道徳〉が「日本会議」勢力の活動によって導入されたことを考えると、これらの主張をクレージーなものとして無視しているわけにもいかない。地方議会と国会における「日本会議」勢力の動向を一瞥してみよう。

 「日本会議地方議員連盟」は、「加盟議員1000名」のうち正会員の名簿を公表している(http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-537.html)。20人以上の正会員がいる地方議会は、東京都議会(51人)、岐阜県議会(34人)、滋賀県議会(22人)、大阪市議会(33人)、兵庫県議会(46人)、鹿児島県議会(23人)である。茨城県議会は38人で、議員定数の過半数である。「日本会議国会議員懇談会」には、100人以上の会員がいるようだ。名簿は公表されていないので、第三者情報によって主な会員・役員を拾ってみる(http://ja.wikipedia.org/wiki/日本会議 、http://kaida.xxxxxxxx.jp/shinmachi/index.html リンク切れ)。発起人は小渕恵三・葉梨信行・森嘉朗他。会長は初代島村宣伸・二代麻生太郎・三代平沼赳夫。主なメンバーには、安倍晋三、石破茂、衛藤晟一、尾辻秀久、小池百合子、鴻池祥肇、古賀誠、塩崎恭久、高市早苗、武部勤、谷垣楨一、中川昭一、中曽根弘文、額賀福志郎、福田康夫、山谷えり子など。茨城県選出議員としては、狩野安、岡田広、小泉俊明。この小泉俊明のように、会員は自由民主党所属議員(離党者を含む)に限らない。奥田敬和、亀井久興、河村たかし(2009年4月から名古屋市長)、藤井裕久、前原誠司らも会員である(以上は、2009年8月30日の衆議院議員選挙以前のデータ)。

 「日本会議」は、一部の特異なメンバーが日本社会の一般的動向から乖離して活動する閉鎖的な「右翼団体」なのではない。日本国の立法・行政・司法、ならびに地方政治の中枢部分に幾多の会員・支持者を擁する団体である。この「日本会議」が国粋主義的再編のターゲットのひとつにしているのが学校教育分野、とりわけ「歴史」と「道徳」である。

 

 

大日本帝国の人種差別撤廃提案

 

 「日本会議」の主張するところによれば、「パリ講和会議で日本の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案した」ことに現れているとおり、大日本帝国は「人種平等を主張した先駆者」であるという。

 白人による非白人差別に反対し、非白人の解放のために戦った大日本帝国は、侵略的な国家ではないどころか、人類解放をめざした正義の国家だというのだ。したがって、ユダヤ人を差別しただけでなくその絶滅をめざして数百万人の虐殺を実行したドイツ第三帝国と大日本帝国とは、全く性格を異にするという。この文脈上で、大日本帝国外交官杉原千畝は個人的信念によってではなく、人種差別を撤廃し人類の平等を実現するという国是(「八紘一宇」)にしたがってユダヤ人数千人の命を救った、というストーリーが構成されるのである。

 大日本帝国は、第一次世界大戦のパリ講和会議に、戦勝国の一員しかも五大国のひとつとして参加した。そして、アメリカ大統領ウィルソンが議長を務める「国際連盟委員会」において、いわゆる「人種差別撤廃案」を提案した。まず、1919(大正8)年2月13日、アメリカ提出の規約草案の第21条(宗教の自由)に次の字句を挿入するよう提案した。これが第一次修正案である。

 

「諸国家Nationsの平等性は国際連盟League of Nationsの基本的原則であるので、締約国はできるだけ早期に、連盟の一員である諸国statesにおける外国人alien nationals 〔=移民〕が、彼らの人種raceないし国籍 nationality のために、法律上ないし事実上のあらゆる点において、いかなる区別 distinction〔=差別〕も受けることなく平等 equalかつ公平justに取り扱われることに同意する。」

 

 案文から明らかなように、大日本帝国の「人種差別撤廃案」とは、当時の「人種差別」すなわち、「白色人」による「黄色人」「黒色人」に対する差別それじたいを否定しその廃絶を主張する、というものではない。また、「白人」の帝国主義諸国によるアジア・アフリカの非「白人」に対する植民地支配に反対する、というものでもない。

 この提案で問題にされているのは、alien nationals(直訳すると、「移住した国民」。つまり「外国人」ないし「移民」)の待遇に限られる。20世紀初頭、アメリカ、カナダ(当時イギリス領自治植民地)、オーストラリア(1901年イギリスから独立)で日本人移民の排斥が深刻化し、その解決が大日本帝国外務省にとって重要課題となっていた。提案は、イギリスの白人植民地に起源をもつこれらの地域における、日系移民排斥問題の解決を目指すものであり、人種差別一般、とりわけ帝国主義的支配にともなう人種差別の廃絶を主張するものではなかった。

 特命全権委員5人のうち、国際連盟委員会で交渉にあたった副団長牧野伸顕と駐英大使珍田捨巳は、1913年の帰化不能外国人の土地所有と3年以上の借地を禁止するカリフォルニア州土地法案成立の際、それぞれ外務大臣と駐米大使であった。彼らは、日系移民排斥の解決に大日本帝国の「威信」がかかっていると認識していた。提案は、「威信」が傷つけられたことへの反応という意味合いが強い。しかも文言上あきらかなように、この提案は、すでに移住した移民の待遇についてのものであり、以後の移住の制限については言及していないのである。

 パリ講和会議には、日本を除く五大国すなわち米英仏伊はいずれも大統領ないし総理大臣が参加していたのに対し、大日本帝国は総理大臣も現職の外務大臣も参加しなかった。情勢把握も不十分で、「人種差別」問題に関しては、日本出発時点では提案内容すら決定していなかった。交渉段階での本国政府からの「訓令」もなかった。国際情勢や大日本帝国の国益を踏まえて十分な準備のもとに提案したのではなく、外務官僚が外務省にとっての課題たる移民排斥問題の解決を最優先に行動したのである(島津直子「人種差別撤廃案」〔坂野潤治他編『憲政の政治学』2006年、東京大学出版会〕225-29頁)。

 「杉原ビザ」はしばしば外務省批判の観点から取り上げられる。「日本会議」の上杉千年の説では、杉原千畝はユダヤ人保護という国策に忠実であろうとして、敢えて外務大臣訓令に反した行動をとったことになっている。国策に忠実だった大日本帝国軍隊と対照して、外務省を批判しているのである。また、戦後すぐには帰国できず、やっと1947(昭和22)年に帰国した杉原千畝を免職したうえ、ユダヤ人らによる探索に対して「センポ・スギハラ」などという外交官は在職したことがないと回答したうえ、戦後長いこと杉原の名誉回復を怠ったとして外務省批判が繰り広げられる。このように外務省批判の文脈において杉原千畝をとらえようとする「日本会議」のいつもの主張と、パリ講和会議での外務官僚主導の「人種差別撤廃案」について、具体的交渉過程どころか提案文の文面もふまえず、大げさに賞賛する態度とは、おおいに矛盾している。「日本会議」の対応はご都合主義的なものと言うほかない。

 第一次修正案は多数決で否決されたため、大日本帝国全権団は4月11日、「国際連盟委員会」に第二次修正案を提案した。すなわち、連盟規約の序言に「諸国家nationsの平等性と、諸国民nationalsの公平なjust取り扱いの原則を是認し」との一句を挿入するというものである。

 具体性に欠けるきわめて曖昧な表現である。中国・山東半島における戦敗国ドイツの利権の継承という、より優先されるべき課題の実現に悪影響が及ぶことを避けるため、米英などを刺激しないよう配慮し、内容的に一層後退したのである。これでは、「人種差別撤廃案」というほどのものではない。この第二次修正案には、委員会の17国中11か国が賛成したが、議長のアメリカ大統領ウィルソンが突然「全会一致の原則」を宣言して、否決してしまった。

 ウィルソンの対応はもちろん不当なものである。しかし、それと対照させて大日本帝国を「人種平等を主張した先駆者」として手放しで賞賛するのはいささか身贔屓が過ぎるだろう。歴史家島津直子の評価はたいへんきびしい。

 

「人種案は積極的に国際社会のルールを改善するために提案されたものではなかった(……)。それどころか、日本の国際地位の向上、西洋列強と日本の間に漠然とあった形式的平等をもう一歩具体化した『人種平等』を導入しようとした利己主義的な案であったのである。」(同書、233–34頁)。

 

 かりに「日本会議」会長三好達の要望通り、この第一次修正案や第二次修正案を、必修〈道徳〉のテキストに収録したりすれば、キング牧師のI Have A Dream.と比べられて、おおいに見劣りするのが関の山だろう。

 

 

「人種差別撤廃提案」の裏面

 

 第一次世界大戦パリ講和会議における大日本帝国の「人種差別撤廃提案」は、日系移民排斥を告発し日本人の平等取り扱いを求めたという限りでは、「人種差別」に反対したものである。しかし、大日本帝国は、「白人」の帝国主義諸国による植民地支配と、そこでの「白人」による非「白人」差別に反対しているわけではない。それどころか、「白人」による植民地支配に便乗することさえ厭わない。たとえば、パリ講和会議から20年後の太平洋戦争直前、1941(昭和16)年11月5日の御前会議決定では、対米交渉においては、オランダ領東インド植民地(現在のインドネシア)からの物資獲得のために「相互に協力する」ことを提案する旨、決定しているのである(「乙案」)。

 大日本帝国は、みずからが、「白人」による「人種差別」とは異なる、新たな「人種差別」の主体であった。大日本帝国は、1919年当時、すでに台湾と朝鮮を大日本帝国に併合していた。そして、中国東北部に形は独立国だが実質的には大日本帝国の植民地である「満州国」を建国した。つづいて中国全域の征服に着手し、さらに東南アジア全域、太平洋地域の征服に乗り出していく。この過程で大日本帝国は、朝鮮人差別、中国人差別、そのほか各地域での「人種差別」の主体として行動した。

 大日本帝国がおこなった、「白人」による「人種差別」の批判とはいっても、自国の限られた利益追求のための皮相なものにとどまり、利己的、表面的かつ不徹底であった。そして大日本帝国それ自体が植民地支配の主体となり、新たな「人種差別」の主体として急速に台頭する途上にあった。このような大日本帝国による「人種差別撤廃提案」といっても、まったく説得力がない。こうしたものを「道徳」の教材にすべきだなどという要求が出てくること自体、きわめて異様というほかない。

 

 

「昭和天皇独白録」

 

 それにしても、どうして「日本会議」は、パリ講和会議での「人種差別撤廃提案」という非常にマイナーな事象に目をつけたのか、不思議である。藤岡信勝らの「あたらしい歴史教科書」は別として、中学・高校の歴史教科書でも触れられることはなく、一般的な歴史の概説書でもたまに言及される程度の小エピソードが、どうして「日本会議」の重点項目になったのだろうか。昭和天皇裕仁は「大東亜戦争の遠因」についてこう語った。

 

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州〔カリフォルニア州〕移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。(……)かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、之を抑へることは容易な技ではない。」(寺崎英成他編著『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』1991年、文藝春秋、20−21頁)

 

 この「昭和天皇独白録」は、極東国際軍事裁判(「東京裁判」)における天皇の訴追を免れるための政治工作の一環であり、周到に編集された作為的な発言記録である。とりわけ太平洋戦争の開戦責任を免れるため、「立憲君主」としての限界ゆえに、大日本帝国陸軍と陸軍出身の政治家とりわけ東条英機の開戦方針を阻止することは不可能だったとする主張を中心的内容とし、あらゆる責任を陸軍とそのメンバーに帰している。「独白録」は、1946(昭和21)年3月18日から4月8日にかけ、皇居の「御文庫」(空襲に耐えるよう建造された鉄筋コンクリートの建物)において、体調不良のためベッドに横たわった状態で、宮内大臣松平慶民、侍従次長木下道雄らの重臣に対しておこなった口述をもとに作成された。さらに英訳版も編集された(ハーバート・ビックス『昭和天皇(上)』2002年、講談社、19頁)。このうち日本語版の「独白録」は、1990年、作成者の一人寺崎英成の遺族によってはじめて公表された。英訳版の発見はさらに後の1997年である(東野真『昭和天皇の二つの「独白録」』1998年、日本放送出版協会)。

 「独白録」の開口一番、昭和天皇裕仁は、「人種差別撤廃提案」否決が太平洋戦争の「遠因」だと断言する。戦争の原因は、米英による「人種差別撤廃提案」の拒絶にあるのだから、大日本帝国には開戦の責任はないというのである。戦争責任回避のための都合の良い言い訳としての「人種差別撤廃提案」の位置づけが見てとれるだろう。現代の国粋主義団体の天皇崇拝者たちが、「人種差別撤廃提案」にこだわる理由と動機はここにある。ことさらに「人種差別撤廃提案」問題を取り上げる人たちは、大日本帝国と昭和天皇裕仁の戦争責任問題について特定の解釈を提起し、大日本帝国と昭和天皇裕仁の戦争責任を全面的に否認することを目論んでいる。「日本会議」会長の三好達が、この「人種差別撤廃提案」を茨城県の必修〈道徳〉のテキストに掲載せよとせまっている理由は、これで明らかだろう。

 

 

閣議決定における「八紘一宇」

 

 ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人6000人に対して、外交官杉原千畝が日本通過ビザを発給したのは、大日本帝国の「国是」たる「八紘一宇」精神に基づくものだというのが、「日本会議」の主張である。しかも、「八紘一宇」は大日本帝国によるアジア太平洋地域侵略のスローガンだったのではなく、欧米の白人国家による植民地支配からアジア太平洋地域を解放しようとする、「人種平等」の崇高な理念だったという。この驚くべき主張について検討しよう。

 次は、1940(昭和15)年7月26日、第2次近衛内閣の閣議決定「基本国策要綱」冒頭の「根本方針」である。大日本帝国の方針として「八紘一宇」の語が登場する最初の例である。

 

「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り。」

 

 「八紘一宇」という建国の精神に基づいて世界平和を確立することを「根本」とし、この「根本」の上に、最初に大日本帝国を「核心」として、日本・満州・中国を強固に「結合」し、次にこれを「根幹」とする東アジアの新しい「秩序」をたてる。これが大日本帝国の国家としての方針(「国是」)だというのだ。

 「基本国策要綱」における「八紘一宇」は、近衛文麿ら閣議出席者のオリジナルではない。宗教団体「国柱会」の創始者田中智學(1861–1939)が、日蓮を中心とするひとつの家(「宇」)として世界(「八紘」)を統一するという意味の標語「八紘一宇」を作って使用していたのを、借用したとされる。日蓮宗においては、末法段階にある現世においては、穏やかに相手を導く「摂受(せつじゅ)」ではなく、相手を徹底的に論破して教化する「折伏(しゃくぶく)」をおこなうべきとされる。田中智學は「折伏」の対象に他宗派の信者だけでなく、天皇に対して不忠である者をも含める。田中智學は、大日本帝国憲法第28条(「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」)を改正して日蓮仏教を国教にし、「国立戒壇」を設置することをめざす。さらに「折伏」は、人間だけでなく国家もその対象とされ、他国をその宗教とともに否定することが宗教的義務とされる。田中智學は、『日本書紀』における「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや」との神武天皇のことばから四字熟語「八紘一宇」をつくった。これは法華経における「一天四海回帰妙法」と同じ意味をあらわすのだという。

 田中智學の「国柱会」の信者として、高山樗牛、石原莞爾、宮沢賢治らがいた。石原莞爾(1889-1949)は、「満州事変」の発端となった満鉄爆破事件(柳条湖事件)の中心人物である(当時、陸軍中佐で関東軍参謀)。宮沢賢治(1896-1933)については、「国柱会」会員であったことはあまり言及されない。『銀河鉄道の夜』などから受ける表面的な印象のせいで、なんとなくキリスト教的な思想をもっていたと思われたりもするが、24歳で入信し熱心に活動した「国柱会」信者だった。(以上、田中智學と国柱会については、伊勢弘志「大正期の思想潮流についての一考察」〔https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6104/1/sundaishigaku_131_1.pdf 現在アクセス不可〕、大谷栄一「戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観」〔http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/otani31.pdf