列柱式神殿


 

 左は、エジプト新王国の首都ルクソールの神殿で、主要部分は紀元前14世紀に建造されました。右は、アテネ、スパルタ、テーベとならぶ主要なポリスであったコリントのアポロン神殿で、紀元前6世紀の建造です。

 石材の円柱に石材の梁(はり)を渡す「柱梁構造」の共通性は否定しようもありません。またエジプトとギリシャの距離の近さから相互に接点を欠くことはおよそ考えられません。これだけあきらかな類似があり、一方が数百年も先行するとなれば、一方が他方によって模倣されたことはあきらかです。相互に無関係に独自に発展を遂げ同じようなものを作り上げた、などということは到底ありえません。

 にもかかわらず、偉大なるギリシャ文明の後継者を自認する「ヨーロッパ」は、そのギリシャ建築がエジプト建築の影響下に(端的にいえば模倣して)成立したことを絶対に認めようとしません。それぞれ独自に発達した架構手法であり類似は偶然であると主張するのはまだいいほうで、荒唐無稽をいいふらす専門家のいうことを信じこみ、類似していること、本質的に同一の建築構造であることを否認する、あげくには目の前にしてもまったく気付かない、というのが一般的な風潮なのです。

 

 ギリシャの列柱式神殿が、エジプトの列柱式神殿の模倣であることを、ギリシャ人たちはもちろん隠そうともしませんでした。ギリシャの模倣に明け暮れたローマ人たちにしても同様であり、自分たちがギリシャを模倣していることも、またそのギリシャがエジプトを模倣したことも隠そうともしていません。にもかかわらず、「ヨーロッパ」は、さんざんローマを、ローマを通じてギリシャを模倣し続けていながら、自分たちがローマを通じたギリシャを通じてエジプト文明の本質的な影響下にあることから目をそらし、忘れたふりをしつづけています。

 「ヨーロッパ」の追随者である日本も、もちろんそうです。日本はさんざん「ヨーロッパ」を、「ヨーロッパ」を通じてローマを、ローマを通じてギリシャを模倣し続けていながら、自分たちが「ヨーロッパ」を通じたローマを通じたギリシャを通じてエジプト文明の本質的な影響下にあることから目をそらし、忘れたふりをしつづけています。

 以上の結論を立証するために、naturalright.org では、mediterranean1987 > photo1 でエジプトの列柱式神殿を、ついで photo2 でギリシャのコリントアテネの列柱式神殿を、ついで photo3 でローマにおけるギリシャ建築の模倣の様子を、それぞれ確認していきます。


カルナック神殿

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 「ヨーロッパ」は、エジプト建築というとピラミッドばかり取り上げ、列柱式神殿を軽視(無視)しようとしてきました。ひとめでギリシャの列柱式神殿の原型であることがわかるからです。しかし、エジプト旅行をすればどうしても列柱式神殿が目に入ってしまいます。まず、映画「ナイル殺人事件」の印象的な場面に登場したカルナック神殿です。神殿内の列柱廊で、高さ20m以上の柱の上から石が落下する映像でした。

 建造は、「新王国時代」(1580−1090B.C.頃)、特に第18王朝(1580−1314B.C.頃)から第19王朝(1314−1200B.C.頃)の時期ですが、プトレマイオス朝時代(330−30B.C. 最後の女王がクレオパトラ)まで拡張・増築が続きました。紀元前1200年といえば、「海の民」の侵攻によるヒッタイト帝国の滅亡(これにより鉄器製造技術の独占が終わり、ユーラシア・アフリカは鉄製武器と鉄製農具の時代に移行)と、ギリシャ・ミケーネ文明の崩壊(これにより、約400年間の「暗黒時代」を経て、ポリスの文明が生成する、というストーリー展開)がひきおこされる激動期です。そのなかで、エジプト新王国はかなりの打撃は受けたものの「海の民」を撃退し、滅亡することはなかったのでした。(エジプト侵入を阻止された「海の民」が、現在のガザのあたりに定住したこと〔海の民=ペリシテ人。これが「パレスティナ」の語源〕や、モーセの「出エジプト」は、この混乱期の小エピソードです。)


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ルクソール神殿

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 市街中心部にあるルクソール神殿は、北郊のカルナック神殿の副殿で、かつては両神殿は参道で結ばれていました。こちらは、屋根こそすべて落ちていますが、保存状態ははるかに良好で(再現工事はだいぶしたのでしょうが)、列柱式神殿の構造がはっきりと残っています。なお10コマ目に、列柱の間からアーチが見えていますが、もちろんエジプトにそんなものはありませんから、後世のローマ人が付加したものです。

 門前の一対の尖塔(オベリスク)は一枚岩の花崗岩製ですが、向かって右の方は持ち去られパリのコンコルド広場に立っています。その下のラメセスⅡ世の坐像や内部の立像の損傷は、顔面とくに鼻梁が狙われていることからも意図をもっておこなわれたものであることがわかります。

 立像といえば、これもギリシャ文化の起源を推測させるものです。左足を半歩踏み出す姿勢がポリス時代初期のギリシャ彫刻の原型であることが見て取れることでしょう。エジプト神殿の列柱構造がギリシャ神殿の原型であることと同じく、これもまた素人目にもあきらかですが、教養が邪魔をする「専門家」たちが絶対に口にしないことです。

 入り口のすぐ内側がイスラムのモスクに改造されていますが、もちろん現在は使用はされていないでしょう。中庭の奥に見えるギリシャ神殿風の柱とローマ風のアーチはもちろん後世のものです