十三陵

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 北京の城壁の北、高速道路で約1時間の距離にあるのが八達嶺長城(青のマーク)、その手前が「明の十三陵」(赤のマーク)ですが、長城線ぎりぎりのところです。どうしてこんな物騒なところに、と思いますが、ここに造った理由は、行けば一目瞭然です(次のページ)。

 十三陵とは13人の皇帝(と途中までは、道連れにされた皇后たち)の陵墓です。明の皇帝は、初代の朱元璋(しゅ・げんしょう)=洪武帝(こうぶてい、在位1368−98年)から第17代の崇禎帝(すうていてい、在位1627–44年)までですが、南京から北京に遷ったのは、第3代の永楽帝(えいらくてい、在位1402−24年)の時ですから、17引く2で15人です。さらに、「土木の変」(どぼく=地図の一番左のバルーンの地名)で、モンゴルの捕虜になった第6代の正統帝(在位14357−49年)にかわって即位したものの、その兄が釈放されてふたたび皇帝位(天順帝、在位1457−64年)に返り咲いたため、明の正史から削除されたうえ、この場所に皇帝としてお墓をつくってもらえなかった弟の第7代景泰帝(一応在位1449–57年)の分と、兄の重複分を差し引いて、13人分というわけです。

 13ありますが、観光客に公開されているのは、永楽帝の「長陵(ちょうりょう)」、第13代隆慶帝(りゅうけいてい、在位1566−72年)の「昭陵(しょうりょう)」、第14代万暦帝(ばんれきてい、在位1572−1620年)の「定陵(ていりょう)」の3つだけです。ほかは、復元再建工事中か工事待ちなのだろうと思います。

 このページは、「神道」という参道(左の案内板の左下、ゾウの絵のある「神路」)と、永楽帝の長陵、次のページが「地下宮殿」が発掘公開されている万暦帝の昭陵です。

(非公開の陵の門前を含め、十三陵全部に行って撮影した日本人のウェブサイトがあります。 8年前ですが、たいへん重要な情報です。
http://beibaoke.info/beijing_kankou/beijing_kankou_13ling.php
なお公園管理者のウェブサイトは、http://www.mingtombs.com



神道

 十三陵全体の参道が、この神道(しんどう)です。牌楼(はいろう)、華表(かひょう)、門、碑楼(ひろう)に加えて、道の両側に6種類の動物それぞれの、跪く(ひざまずく)あるいは蹲る(うずくまる)姿と、立つ姿、あわせて12対24体の像と、軍人・文官・上級家臣それぞれ2対、合わせて6対12体の像、合計36体の像が、参道の左右に立っています。

 

 南から皇帝たちの陵墓に向かって北上すると、まず動物です。順に、獅子(しし、lion)、獬豸(かいち、xiezhi)、駱駝(らくだ、camel)、象(elephant)、麒麟(きりん、qilin)、馬(horse)です。

 このうち、獬豸(xiezhi)は「カイチ」という想像上の動物で、牛あるいは羊のような姿で、一本のツノをもつ獣とされます。石像は獅子と似ているのですが、蹄が牛や羊と同じくふたつになっている偶蹄目(ぐうていもく)です。

 麒麟(qilin)はもちろんサバンナにいる首の長いキリンではなく、想像上の動物の方です。(サバンナの方が「キリン」というのは、永楽帝の時期に鄭和(てい・わ)がアフリカから持ち帰った現物を見て、伝説の「麒麟」みたいだというので、名付けられたそうですが。)頭は龍、蹄は馬、尾は牛、ツノは一本または二本だそうですが、ここのはツノは見たところ3本で、どういうわけか蹄は牛や羊と同じで偶蹄目になっています。尾がどうなっているかは確認し損なってしまいました。写真も撮り損ないました。

 駱駝は昔から北京あたりにも来ていたでしょうし、象も本物を見ていたに違いなく、馬も含めて一目でそれとわかる特徴を示していますが、想像上の動物である麒麟や獬豸のほうは、なんだかリアリティーに欠け凡庸なのです。現実の方が想像力をはるかに超越していたということでしょうか。(江戸時代までの日本画の虎が、どうみても猫にしかみえないのも同じことでしょう。)

 動物のあとに、武官・文官・「功績のあった臣下(meritorious official)」が2対4体ずつ立っています。こちらは座ったり蹲踞(そんきょ)したりしてはいません。



長陵(永楽帝墓)


 明王朝の16人の皇帝のうちでも、もっとも重要な皇帝だったことを反映しているのでしょうが、その墳墓は十三陵のなかでも最大です(ふつう、祖先を超えるのは畏れ多いので、後代の皇帝の陵墓はそれより小型にしたのだと説明していますが、それだとどんどん小型化してしまうわけで、おかしな説明です)。発掘はされていませんが、おそらく「定陵」より大きな石製の「玄宮」を地下に埋蔵していると思われます。しかし、「定陵」の地下の「玄宮」を知らずにこの円形の「宝城」の直径340mの土盛りだけを見たのでは、高さがそれほどでもないため特段の印象を受けるものではありません。

 この円丘の前面の長方形の敷地に、南側の入り口から順に、「陵門」、「恩門」、「殿」、「内紅門」、「棂星 lingxing 門」、「五供」、「北城」上の「明楼」が一直線上に並びます。

 紫禁城や寺院などを見慣れた目には、ここでは四合院形式をとらず、一直線の壁が左右(東西)にあるだけの茫漠とした空間が広がるように見えます。これは、左右の「回廊」、「神厨」(供物をつくる厨房)、「神庫」(供物の貯蔵庫)、「宰性亭」(屠畜場)、「具服殿」(皇帝の更衣室)が失われたことによるもので、当然、建設当時は重合する四合院様式の建築群が立ち並んでいたのです(写真のはじめの方に、現地の説明看板があります。また「具服殿」は、天壇にもありました)。