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4年後の再度の水害

 「若宮戸の河畔砂丘 15」で、堤防のない区間の例として左岸4.75kから5.50kにかけての、2015年9月に氾濫被害を受けた地域について検討しました。

 この区間のうち、住宅や幼稚園のある上流側区間で、国交省は築堤を進めていましたが、更新世段丘の崖面の河道側にあらたに基礎となる土地を造成のうえ堤防の土台を作ったのですが、その上に載せるべき堤防の建造にとりかかる前に、ふたたび氾濫がおき、前回浸水被害を受けた、住宅と耕地、さらに幼稚園がふたたび浸水しました。

 2015年9月の浸水直後、さらに2019年10月13日の水害前との比較を含めて総覧するページは、あらためて作成することとし、とりあえず速報します(写真は、水害前の2019年7月の2枚をのぞき、すべて10月13日撮影です。うち1枚は住民の方に提供いただいたものです)。

 中部・関東・東北を縦断した台風19号が鬼怒川流域を通過したのは2019年10月12日夜から13日未明にかけてですが(中心付近だけで見てもしかたないのですが)、その後、水位が急上昇し、この付近では13日5:00ころに住宅・耕地・幼稚園への浸水がはじまりました。水位のピークは10:30ころでした。

 

 まずこの区間の河川区域(両岸の赤線内)と、利根川との合流点からの距離、計画高水位(最大流量時の水位見積もり)と「堤防高」です。この区間は堤防のない区間なのに、「堤防高」とはどういうことかというと、国交省の文書類では河道の左右の更新世段丘(いわゆる洪積台地)の崖の上面(距離表示の線分の両端の丸印ではなく、そこよりさらに陸側)を恣意的に選び、そこの標高(Y.P.値なので、一般のT.P.値より0.84m大きな値になります。別ページなど参照)を「堤防高」などと称しているのです(「若宮戸の河畔砂丘 15」参照)。したがって、この250mおきの図面や一覧表だけを見ている役人や、そんな資料ばかりみている「専門家」たちは、そこに計画高水位以下の標高の、つまり水位上昇時には浸水被害をうける土地と、そこにある住宅、建物、耕地に気づかないことになるのです。

 

 更新世段丘から高水敷に降りた地点です。地図の左上「境界越水」地点です。(2019年10月13日、10:39)

 

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水海道溢水地点の現状

 

 八間堀水門の下流から、豊水橋(ほうすいきょう)、鬼怒川水海道水位流量観測所の上流の11k距離ポール直前にかけては、水海道第一高等学校につづく左岸唯一の更新世段丘(いわゆる洪積台地)になっています。水海道市街地の最高地点です。そこは堤防がなく2015年9月10日正午ころに数か所で「溢水」(いっすい 堤防がないところでの氾濫をこう呼ぶ)が起きました。水位流量観測所の上流側30mが11kの距離ポールの地点で、そこに向けて斜面をのぼったところから下流側は堤防(赤線)があります。

 9月10日、鬼怒川の水位が上昇したので八間堀水門は閉鎖され、さらに最高水位となった13:00に八間堀川排水機場のポンプは停止し、その夜の22:30まで(新)八間堀川から鬼怒川への排水がとまりました。止むを得ない措置ですが、このことについて、あとになって、「専門家」と称する人が「鬼怒川の水位は堤防高に対して1.4mの余裕があった」と主張しました。250mおきにサンプリングした国交省のデータだけを見ているために、その250mの間隙の現実、つまり堤防のある11k地点のすぐ上流がこのように無堤で、しかも堤防より低かったことが認識できないのです。実際に溢水が起き、土嚢積みで対処していたことなどまったく知らないから、3か月後に行政関係者や被災者を前にして、平気でこのような講演をしてしまうのです。

 おそらく関東地方整備局と下館河川事務所の上層部は、現場も見ずに250mおきの抽象的データだけを見て、治水方針(築堤するか否か)を決めているのでしょう。こうして危険地点が放置されて溢水したのですが、この「専門家」もまったく同じ発想なのです(別ページで詳述)。

 若宮戸の河畔砂丘 river bank dune は、いわゆる「山付き堤」の「山」に相当する地形だったのですが、1960年代後半以降、その最重要な東側の〝畝〟がほとんど全部掘削されて、危険な無堤地帯となってしまったのですが、同様に関東地方整備局と下館河川事務所の上層部は、現場も見ずに250mおきの抽象的データだけを見て、危険性を認識せずこれを放置し、2015年9月の大氾濫を招来したのです。


 

 以下、左側が水害から5か月後の2016年2月8日撮影、右側が築堤後の2019年10月10日撮影です。(地形もかわっていることもあり、まったく同じ撮影位置・撮影方向・画角ではありません。)

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macintosh を入れ替えました

 さほど負担のかかる作業をするわけでもないと思っていたのですが、画像を多用するウェブサイトの編集は、それなりに機器に重い負担となるようです。自分でサードパーティーのSSDを増設したMacBookAir 11 inch は、起動は早いし、たいていの作業はとくに問題なくこなしていたのですが、ウェブサイトの編集では夏に冷却ファンが回りっぱなしになります。とてもうるさくて耐えきれなくなったため、あまり使っていなかった iMac 24 inch で作業をするようになりました。iBook 12 inch、PowerBook 12 inch、そしてMacBookAir 11inchと、10年以上も一番小さいノートパソコンばかり使ってきたので、24 inch では広すぎてカーソルを動かすのに余計な動作が必要となりいささか不自由しましたが、一応使えるので半年ほど使ってみました。しかし、MacBookAir より1年しか古くないのですが、HDDのせいなのか起動はもちろんさまざまの作業にとにかく時間がかかってどうしようもないのです。

 Adobe の InDesign なども特段問題なく使えていたのですが、とにかく画像を多用するウェブサイト編集はよほど負担となるようです。同時に Photo を開いて写真を選びながら、さらにグーグル・マップやグーグル・アースさらに国土地理院の地理院地図なども開き、大きめのpdfファイルを開いたりするとどうしようもない状態になります。フリーズまでするようになりました。

 そこで iMac と MacBookAir を並べて「2画面」で使いだしたのですが、どういうわけか MacBookAir の SSDが故障したり(修理費用3万円あまり!)、不思議なことに2台ともユーザー辞書が使えなくなるなど、ほぼ壊滅状態となりました。

 どうせなら半年前に諦めておけばよかったのですが、我慢のあげくに結局降参し、入れ替えることにしました。HDD だと起動に1分以上かかるようです(Windows 8.1 はかなり起動時間が短縮されたのに対して、OS-X の起動の遅いのは昔のままです)。ということは他の動作も同様でしょう。かといってiMac の SSD は無闇に値が張るうえ、容量が1TBどまりです。FusionDrive だとよくおこなう動作は SSD にやらせるようで、起動は15秒ほどですし(ただしパスワード設定するのでタイプする分遅くなりますが)、しかも最大3TBまであります。あとはCPUをi7、メモリを16GBにして(MacBookAir と違ってあとで増設がききます)、少々費用が嵩みますが発注した次第です。

 いまさら21 inch でもないので、27 inch です。ただし、24 inch と画面のタテは同じなので、カーソル操作もさほど影響はなさそうですし、横に長くなるだけですから、横2画面表示も実用になりそうです。ディスプレイは「5K」と、完全にオーバースペックなのですが、これならあと5、6年は使えるでしょう。しめて35万円。このところコンピュータは10万円台ですんでいたのですが、30万円を越えたのは1991年に SE-30 (9インチ白黒画面、初期のmacintoshの標準形)を40万円近く出して買った時以来です。メインメモリが5MB、ハードディスクがたしか40MBでした。あのころは、ギガなど考えられなかったのですが、25年たってメインメモリは3000倍、ストレージは10万倍近くに増大したわけです。

 やっていることは、画像を扱う以外たいした変化はないのです。当時使っていた NisusWriter の日本語版である SoloWriter などは、脚注や目次、索引などの生成もできて、かえって今より多機能でした(今も京都のマーキュリー・ソフトウェア社が、NisusWriterを扱っているのを最近知って、ふたたび供給を受けています。データファイルはテキストファイルとしてオープンできるので、アプリケーションソフトがなくなっても大丈夫!など、本質的に優れているのです。しばらく使っていたEGWordなどは、供給ストップにより、データファイルを一切開けなくなってしまいました。とんでもない話です!)。複雑な多段組などをしなければ、かえってDTPソフトより多機能だったかもしれません。1980年代にすでにワードプロセッサは完成していたのです。今は InDesign となった当時の PageMaker というAdobe の DTPソフトも今とほとんど変わっていません。

 ところが、画像を扱うとなると突然状況が変わります。画像はそれほど負担がおもいのですが、現在おもに扱っている鬼怒川問題でも、結局決め手となるのは衛星写真や航空写真それと地上での写真なのです。供給側の事情の激変もさることながら、個人ユーザーが使うコンピュータの処理能力の向上がなければ、このような事柄も到底個人が近づける領域ではなかったのです。

三坂町決壊箇所高水敷の洗掘痕

冠水していた9月11日には見えなかったが、9月16日国交省ドローン映像には、川表19.9km、巨大クレーンの左下、法面用ブロックの左下、青いシートが掛かっているところの洗掘跡から砂が流れ出した跡が見える。

 

以下はその洗掘痕?の写真 2015年12月16日

測定棒の紅白模様はそれぞれ20cm、全長2m

 

迅速測図では河道の岸辺であり、現状では2段になっている高水敷の段になっている部分。

最上層の1mあまりの粘土は河川水が運搬してきたものなのだろうか。

同様に、以下、砂の層に挟まれた粘土は河川水が運搬してきたものなのだろうか。

 

 

 

以下は、迅速測図から各種航空写真に矢印で、上の洗掘痕?を指示したもの。矢印の頭。(沼津高専ページを使用)

ここは、明治初期には河道が広かったが、他と同様、河道が狭まり、その際、高水敷が2段になったのか。その段付きのところに上の洗掘痕がある。

 

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天津の爆発事故

8月13日の未明(現地時間では12日深夜)、天津で工場の爆発事故がありました。ニュースの地図をみてもしやと思い探したところ、3月に全日空機で北京に行った際に撮った写真に現場が写っていました。飛行機は成田を発つと真西に向かうのではなく、米軍管制区域を回避していったん北上してから、あとはほぼ直線的に、ソウル上空から、遼東半島を右手に見ながら天津にいたり、南から北京空港に回りこむのですが、ちょうど永定河が海河(はいが)と名を変えて渤海にそそぐあたりの広大な埋め立て地を飛行したのです。

 写真中の矢印が爆発地点(北緯39度02分20秒、東経117度44分16秒)で、左下に見える半円形の建物が爆発地点から1.5kmほどのイオンです。(Googleなどの写真の方がよく写っていますが。)