「約束としての憲法」という誤解

憲法が人権を与えるという誤解

 

 文部省が中学校1年生用のテキスト『あたらしい憲法のはなし』を発行する3か月前の1947(昭和22)年5月3日、憲法普及会編『新しい憲法 明るい生活』という小冊子が2000万部発行され、政府によって日本中の家庭に配付された。そこでは次のとおり説明されていた。

 

(A) 人はだれでもみんな生れながらに「人としての尊さ」をもつている。この尊さをおかされないことが人として最も大切な権利であろう。新憲法は何よりさきに、まずこの権利を与えてくれる。(第11条)

(B) このように新憲法は新しい日本の骨組を定め、また私たちや私たちの子孫に対して大切な権利を約束してくれた。この新憲法はわが国の最高の定めであつて、他の法律や命令などもすべてこの定めにもとづくものである。

(C) 私たちは新憲法によって、ずいぶん多くの自由や権利を与えられたが、一生懸命努力して、これを大切に守ってゆく義務がある。

 

 人権は憲法によって国民に与えられたものであり(A)、最高法規である憲法は、私たちとその子孫に権利を約束した(B)。私たちは自由や権利を与えてくれた憲法を守る義務がある(C)、という論理である。これは『あたらしい憲法のはなし』と同様である。

 

 

ふたつの「約束」論

 

 『新しい憲法 明るい生活』は、さらに次のように説明する。

 

(D) 私たち日本国民はもう二度と再び戦争をしないと誓つた。(第9条)これは新憲法の最も大きな特色であつて、これほどはつきり平和主義を明かにした憲法は世界にもその例がない。私たちは戦争のない、ほんとうに平和な世界をつくりたい。このために私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となつて平和を守ることを世界に向つて約束したのである。

 

 このように、憲法は2つの意味において「約束」として理解される。すなわち、第一に、「私たちや私たちの子孫に対して大切な権利を約束し」た、ということであり(B)、第二に、「私たちは陸海空軍などの軍備をふりすてて、全くはだか身となつて平和を守ることを世界に向つて約束した」ということである(D)。

 まず、第一の「約束」から検討する。自然権理論・社会契約論に立脚する日本国憲法における、憲法と人権の関係は次のとおりである。

 

(i) 日本国民we, the Japanese peopleは、出生により、個人individualとして、基本的人権fundamental human rightを、与えられるbe conferred(信託されるbe conferred ..... in trust)。

(ii) 憲法Constitutionは、日本国民が個人として与えられた(信託された)基本的人権を、保障guaranteeする。

(iii) 日本国民we, the Japanese peopleは、これら(i)(ii)を確認recognizeし、憲法Constitutionとして制定する。

 

 「私たちや私たちの子孫に対して大切な権利を約束し」たという場合の「約束」とは、一見すると、(ii)の憲法が人権を保障するguaranteeという意味のようである。しかし、(A)のとおり「新憲法は何よりさきに、まずこの権利を与えてくれる」といっていることから判断すると、『新しい憲法 明るい生活』の基本的主張は、憲法が人権を与えるconferというものである。「約束」は保障するguranteeことなのではなく、与えるconferことの「約束」と理解するほかない。この第一の意味での「約束」は憲法を誤解するものである。

 第二の意味の「約束」は少々複雑である。日本国憲法全体がそうであるのだが、当然第9条の名宛人は国家である(「立憲主義」)。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」た日本国民が、具体的に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄し、戦力と交戦権を保持しない国家を設立したのである。

 それを「平和を守ることを世界に向つて約束した」と言っているのだが、それは憲法の本来的意味内容ではなく派生的効果というほかない。この第二の意味の「約束」論は、第一の意味のようにあきらかな誤謬というわけではないが、比喩的表現という程度にとどまるものだろう。

 

 

一般化した「憲法=約束」論

 

 しかし、日本国憲法をめぐる政治動向・世論動向が、つねに「第9条」を中心に展開してきた戦後日本社会においては、「第9条」を「約束」という語彙のもとで理解することがかなり一般的化した。しかもこれは、「改憲派」より「護憲派」のほうに顕著な傾向だったといえよう。

  次は、2000年5月2日の『朝日新聞』記事の一節である(「9条は世界との『約束』、1950年代に強い改憲論(憲法Q&A)」)。

 

太郎:憲法改正は、故障した機械の部品をかえるのとは違う。九条は、国際社会で日本が二度と軍事的覇権を求めないと世界に約束した文書としての意味がある。

 

  若手の憲法学者の木村草太准教授(首都大学東京)は次のように述べる(http://synodos.jp/intro/4633、「憲法学者・木村草太氏インタビュー」、2013年6月24日)。

 

 国家にとって、正統性の確保は重要な問題です。〔……〕どうして国家への強制加入が許されるのか、どうしてその国のルールを押し付けることが許されるのか、ということが当然問題になるでしょう。この問題への憲法学の答えは、国家が国民から集めた資源を公共の利益のために使うこと、また、国家が国民の人権や自由・平等を尊重することを約束するから、というものです。国家がこうした約束を守ることによって、国家が権力を独占し、国民を強制的に加入させ、ルールに従わせる正統性が確保できるわけです。

 

 第9条を「約束」として理解するだけでなく、憲法全体をも「約束」ととらえるようになるのは、自然のなりゆきだった。しかし、「約束」という曖昧な語彙が普及することで、ざんねんなことに戦後日本社会における「立憲主義」理解はおおきく後退することになった。