フレッチャーの〈建築の樹〉

 ギリシャ建築、ヨーロッパの建築、さらにエジプト建築についての、一般書籍や各種「教科書」の典拠のひとつになっていると思われるのが、大ブリテン連合王国のフレッチャー父子の『比較の手法による建築史』です。まぎらわしいのですが、1896年の初版は父バニスター・フレッチャー(1833−99)による単著ですが、第5版で息子のバニスター・フライト・フレッチャー(1866−1953)との「共著」となりました(1910年の第5版は http://thames2thayer.com/wiki/images/4/49/Tree_of_arch.jpg建築家神谷武夫が原著第5版と、ふたつの邦訳について解説しています。http://www.kamit.jp/15_kosho/03_fletcher/fletcher.htm

 つぎの図は、『比較の手法による建築史』冒頭に掲げられている「建築の樹」です

 頭ばかり大きくてバランスの悪い樹です。このままでは文字がよく見えないので、アンバランスな上の方を除いて、樹木の根から幹の途中までを拡大したのが次の図です(http://www.sah.org/publications-and-research/sah-blog/sah-blog/2013/08/22/the-right-textbook)。

 地理(geography)、地質(geology)、気候(climate)、宗教(religion)、社会(social)、歴史(history)という6つの根をもつ「建築」の太い幹は、ギリシャ(greek)、ついでローマ(roman)へと伸びていくのですが、ギリシャのずっと下から、まずメキシコ(mexican)とインド(indian)、ついでペルー(peruvian)、エジプト(egyptian)、アッシリア(assyrian)、中国と日本(chinese and japanese)が別れます。


 近代ヨーロッパ諸国の建築が、ギリシャ・ローマからロマネスク(romanesque)を経て樹木の上方で太く枝分かれするのに対し、ヨーロッパ以外の分岐はずっと根元近くから出ているのに、ずいぶんほっそりとしていて、ほとんど“ひこばえ”のように細々と別れて行きます。フレッチャーの「建築の樹」は、根元より梢の方が分岐が太くなるという、ずいぶんと不自然な樹形です。

 さらにまた、ギリシャ・ローマから近代ヨーロッパには、幹の下方から上方へ、さらに幹から分枝へと時間的経過(歴史)があるのに、ヨーロッパ以外のアジア•アメリカはそれぞれただひとつの塊であって、「歴史」を持たないようです。「歴史」がないというのは発展がないということです。このように、ヨーロッパ以外は細くて発展がなく孤立的であるのに対して、ギリシャに発するヨーロッパは中心にあって広くて長い道のりを上昇するのです。なんともあけすけで、いささかの自己反省もない、歴然たるヨーロッパ中心主義(eurocentorism)です。

 「ヨーロッパ中心主義」の批判としては、ヨーロッパだけをとりあげていてアジアや征服以前のアメリカなどを無視している、というありきたりの指摘がありますが、それはほとんど無意味です。「ヨーロッパ」だけを取り扱っていても、「ヨーロッパ中心主義」によらないことは可能ですし、逆に、「世界」全部を取り扱ったところで、「ヨーロッパ中心主義」的な見方に貫かれるということだってあるのです。フレッチャーの「建築の樹」がまさにこれです。疎漏はあるとはいえ一応「世界」を視野に入れているのですが、徹頭徹尾「ヨーロッパ中心主義」です。「新大陸」や中国であれば、それらとギリシャ・ローマ以降のヨーロッパとは一応独立しているものとみなしてもよいでしょうが(ただし、フェノロサ流、伊東忠太流の「エンタシス論」は成立しないことになりますが)、エジプトからギリシャへの影響関係はまったくない、そしてまたメソポタミアからローマへの影響関係もまったくないことにしています。メソポタミアからローマへの影響がないとすると、ローマがたとえばギリシャにない「アーチ」をどこから取り入れたのか説明がつかないのですが、(いちどきに論ずるわけにはいかないので、とりあえず)それはさておくこととします。ヨーロッパがアジアやアフリカを語るときだけでなく、ヨーロッパがヨーロッパについて語るときにも、「ヨーロッパ中心主義」が露呈するのです。

 

 「一衣帯水」というほかない東地中海一帯を、アフリカ・アジア・ヨーロッパの三つに分けること自体、注意が必要です。たんなる「地名」としてみた場合であっても、その起源は現状とは大きく異なります(「アフリカ」は、カルタゴの後背地だけを、「アシア」はエーゲ海東岸だけを指したものが、現在はそこから奥全部、すなわち「アフリカ大陸」全部、あるいはまた西・南・中央・北・東・東南・極東のすべてを合わせた「アジア」全部を指すことばになっています。たとえていえば、鼻と言って頭部全部を指すようなもの、爪といって掌全体を指すようなものです。ギリシャ神話のエウロパを語源とする「ヨーロッパ」にいたっては、もともといったいどこを指すのかさえ曖昧でしたし、ウラル・カフカス・黒海・ボスポラス以西の狭い地域を爾余の「アジア」と対等に取り扱うのは、当人しか納得しない極めてアンバランスな地域区分です……)。しかも、たんに地域区分をするというのではなく、区分した上でそこに絶対的な序列を作り出してしまうのです(区分しなければ序列分けもできないわけですから)。

 近代の「ヨーロッパ」は、遠く離れていてほとんど無関係というほかないのに、勝手にギリシャを自分たちの精神的祖先に祭り上げ、自分だけちゃっかりとギリシャ・ラテンの末裔におさまるいっぽうで、オスマン帝国領である地中海東岸のアナトリア・メソポタミア・アラビアから地中海南岸一帯を、そことはまったく異質で野蛮な地域(つまり「アジア」と「アフリカ」)として見下すのです。キリスト教ヨーロッパは、イスラム世界がおなじくギリシャの文化を受け継いでいることを無視し、イスラム教がキリスト教とおなじくユダヤ教から派生した〈新興宗教〉であることを知っていながら、まったく別系統の邪宗とみなしてイスラム世界全部を野蛮視します。こうした差別意識は、1980年代以降の20年くらいでやっと是正されつつあったのですが、2001年の「同時多発テロ」をきっかけにして、前よりひどいイスラム差別、イスラム嫌いが蔓延してしまいました。2014年の「イスラム国」という呼称の安易な使用がダメ押しとなり、「イスラム」イコール「テロリスト」というとんでもない謬見と差別意識が確定してしまいました。19世紀末・20世紀初頭のフレッチャー流の差別意識は今なお支配的なのです。

ルクソール神殿(エジプト、かつての新王国の首都=テーベ)

紀元前14世紀

アポロ神殿(ギリシャ、かつてのポリス=コリント)

紀元前6世紀


 話を広げないようにしなければなりません。ここでは、「ヨーロッパ中心主義」におけるギリシャ建築とエジプト建築との断絶論についてみていくことにします。フレッチャーに典型的にあらわれている「ヨーロッパ中心主義」は、ギリシャ神殿はエジプト神殿に起源があることを認めようとせず、ギリシャからエジプトを切り離します。そうはいっても、余計な偏見をもたずにエジプト神殿とギリシャ神殿を眺めるとき、両者の関係は一見して明らかです。ギリシャによるエジプトの継承(模倣、踏襲)という事実は瞭然としていて、「専門家」の仲間内での議論なら別でしょうが、フレッチャーの本のおおかたの読者である素人相手に、ギリシャによるエジプト神殿の模倣を否定して見せて、納得させるのはそう簡単ではありません。フレッチャーの解説はつぎのとおりです。(Fletcher, History of Architecture, 5th edition, pp. 15, 22, 28.)

 

〔エジプト神殿の〕建物は、異なった時代に作られたさまざまの大きさの建造物が一貫性なく集積して、正面から奥へと高さが減少していくのであり、これに対するギリシャ神殿では、列柱が単一の「様式 order 」のなかに構成されてひとつの建物となり、全体として外見と迫真性の双方において調和しているのと、まったく対照的である。

 

 それら〔エジプト神殿〕は、ギリシャ神殿、キリスト教会、そしてマホメットのモスクと異なる。というのは、信者の集会や一般的な祈祷のための場ではなく、そこで公共的な儀式が挙行されることはないからである。僧侶と王だけが列柱式の大広間にはいることを許されるのであり、したがって神殿は、王が彼自身の敬虔のしるしとして、神々の歓心をかうために建てた王の礼拝堂なのである。

 

 〔ギリシャ神殿が外側からの効果のためにつくられたのに対し〕それら〔エジプト神殿〕は、おもに内側からの効果のためにつくられた。列柱式大広間は大きさに限りがないように見え、柱で埋め尽くされ、上方から神秘的に照らされて、エジプト的構成の最大級の構想を実現した。

 

 エジプトの、壁で囲まれ、前後あるいは左右にひろがる多数の建造物の重合する巨大空間全体と、ギリシャのひとつひとつの建物をくらべるという、ズレた比較をしてみたり、目的や入場を許された者の違いという関係性の薄い(しかも誤った)観点を持ち込んだりしていて説得性がありません。フレッチャーは、似ているけれどまったく違うのだ、とさかんに主張するのですが、かえってギリシャ神殿の基本構造(柱梁構造)がいかにエジプト神殿に似ているかを強調する結果になっています。しかも同時代であればたんに「似ている」ということになるのでしょうが、両者に数百年の時間差があるとなれば、結局はギリシャによるエジプトの模倣がおこなわれたと言うほかないわけです。否認しようとすればするほど、影響関係を浮き彫りにする結果になっています。

 

 このようなエジプトとギリシャの比較の議論をながめていると、「四合院」様式の伽藍構造をとる中国寺院と、そのような伽藍構造を欠く日本寺院とを、ことなった次元や観点のもとにいきなり比較して、乱暴に優劣を(たいてい日本側優勢ですが)断ずる議論とまったくおなじ構造であることに気づきます(のちほど伊東忠太について検討します)。