ロック『統治二論』におけるプロパティー概念

 自民党が2012年に公表した「日本国憲法改正草案」は、日本国憲法における基本的人権規定を「西欧の天賦人権説」として根本的に排除しつつ、軍国主義的・全体主義的国家体制の樹立をめざす。しかし、自然権思想と社会契約論を全面否定することは、現代国家存立の基盤を破壊することになる。基本的人権をみとめずに国家の正統性を論証するこころみとしての「改憲草案」は、成功しないのである。

 「自民改憲草案」の自家撞着を、前ページのホッブズにつづいて、ロックの論理の分析によって明らかにする。

 

ホッブズとロック

 

 絶対主義の擁護者という根拠のない誤解のもとにおかれたホッブズとは対照的に、ロックはアメリカ独立革命の思想的根拠とされ、近代国家原理の定礎者としての不動の地位を占める。このように、教科書的な類型的解釈は過度にホッブズとロックの差異を強調し、一方を「絶対主義の擁護者」、他方を「近代民主主義の旗手」に祭り上げる。

 時代背景を無視して捏造された両者の「差異」に幻惑されず、自然権と社会契約による国家創設というふたりの論理の共通性に注目しよう。

 

ロックの『統治二論』

 

 ロックの『統治二論Two Treatise of Government』(1690年)は、タイトルのとおりふたつの部分からなる。第1部は、王権神授説によって専制支配を擁護するためステュアート復古王政期(1660-88年)に再刊された、サー・ロバート・フィルマーの著作『パトリアーカ』の批判にあてられる。(三流思想家フィルマーはロックのおかげで、政治思想史に不朽の名を残すことになった。)

 『統治二論』の第2部は「政治的統治Civil Government」の成立と目的ならびにその交代に関する議論が展開される。(Civil Governmentは、かつては「市民政府」と誤って訳された。17世紀当時の“civil”は“political”と同義である。governmentは機関としての「政府」ではなく、行為としての「統治」である。)

 『統治二論』のサブタイトルが著作の構成を簡潔に表現する(以下、訳は加藤節の岩波書店版〔2007年〕による。ただし一部改訳)。

 

「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠とが摘発され、打倒される。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論考である。」

 

ホッブズをうけつぐ

 

 ホッブズは、人間の感覚・感情・理性などの分析からはじめ、集団としての人間の状態(自然状態natural condition)の解明へとすすむ。個人としての人間が組織体としての政治的共同体を形成する全過程が、外部からの介入の結果としてではなく、内的要因による自己運動として記述される。

 ホッブズによれば、政治的共同体commonwealthの設立institutionは、人々の群衆multitudeが次のとおり合意するagreeことによって実現する。

 —各人everyoneと各人とが、人々のなかで平和に生活しほかの人々から保護されることを目的として、ひとりまたは合議体assemblyに自分たちすべての人格personを表現する権利を与え、そのひとりまたは合議体の行為と判断を、じぶんたちのものとして権威づけるauthorizeことを契約するcovenant—

 ホッブズにくらべるとロックの記述はあっさりとしていて、ホッブズのように物体bodyとしての人間(現代風にいえば生物としてのヒト)の分析から段階をおって順次複雑で高次の段階へと体系的に論証することはしない。しかし、『統治二論』の叙述を見てゆくと、自然権の内容、自然状態の実状、自然権放棄による政治的統治の樹立の経緯などについて、『リヴァイアサン』におけるホッブズの論証とおおむね同じ趣旨の主張が提示されている。

 

戦争状態でもありうる自然状態

 

 『政治・経済』の教科書などでは、ホッブズが自然状態を悲惨な戦争状態condition of warとして描くのに対して、ロックは自然状態を自然法law of natureが支配する平和な状態として捉えるのであり、両者の思想はまったく異なるという類型的な説明がされる。しかし、これは誤りである。ロックはいう。

 

「人々が理性に従ってともに生活しながら、しかも、彼らの間を裁く権威を備えた共通の上位者common superiorを地上にもたない場合、これこそが、まさしく自然状態にほかならない。」そして、「実力行使それ自体や、他人の身体に対する実力行使の公然たる企図が存在しながら、それからの救済を訴えるべき共通の上位者が地上にいない場合、それは戦争状態である。」(II-19〔後篇の19節。以下同様〕)

 

ロックにとっても、自然状態は常に平和な状態なのではない。戦争状態としての自然状態もありうるのだ。

 

「〔自然状態において〕損害を受けたものは、自己保存の権利right of self-preservationによって、加害者の財貨または奉仕を自分のものにする権力powerをもつが、それは、すべての人間が、全人類を保全する権利right of preserving all mankind、またこの目的のために合理的なことreasonable thingsなら何をしてもよいという権利によって、罪悪が再び行われることを阻止するために罪悪を処罰する権力powerをもつ〔からである〕。」「このように、自然状態においては、すべての人間が殺人を犯す者murdererを殺す権力をもつ。」(II-11)

 

まるでホッブズの言葉と見紛うばかりである。

 ロックは、パトロンのシャフツベリ伯爵とともに、カトリックの大国フランスの絶対君主ルイ14世と提携して宗教弾圧を強めるイングランドのステュアート復古王政勢力と対立し、カトリックの王弟ジェームズ(のちのジェームズ2世)の王位継承排斥問題で生命の危険にさらされていた。

 ロックにとって、復古王政は「人民を外国の勢力に引き渡し」(II-217)、「最高の執行権力をもつ者が、その責務を怠ったり放棄したりして」「統治を解体し」(II-219)、「信託に背いて行動し」(II-221)、「人民のプロバティーを奪い、破壊しようとする」勢力であった。それはイングランド社会を戦争状態としての自然状態へと転落させるものにほかならなかった。

 

同意による社会の形成

 

 戦争状態を回避し、平和と安全を実現するにはどうすべきか。ロックの主張をみてゆこう。

 先述のとおり、自然状態は容易に戦争状態に転化する。すなわち、

 

「〔自然状態における人間は〕自分自身の身体と所有物との絶対的な主人公」であるが、「だれもが彼と同じように王であり、彼と同等者であって、しかも大部分の者が公正と正義equity and justiceとの厳格な遵守者ではないので、彼が自然状態においてもっているプロパティーの享受はきわめて不安定で不確実である。」(II-123)

 

平和と安全を実現するためには、自然状態を脱して社会を形成する必要がある。

 

「私がプロパティーという一般名辞で呼ぶ生命lives、自由liberties、資産estatesの相互的な保全のために、彼が、すでに結合しているか、あるいは結合しようと考えているほかの人々とともに社会societyを作ることを求め、すすんでこれに加わることを欲するのは、決して理由のないことではない。」(II-123)

 

社会は何者かによってあらかじめ与えられているのではない。人間がみずからの手によってつくりだすのである。

 

「人間はすべて、生来的に自由で平等で独立した存在であるから、誰も、自分自身の同意consentなしに、この状態を脱して、他者のもつ政治権力に服することはできない。従って、人々が、自分の自然の自由を放棄して、政治社会civil societyの拘束の下に身を置く唯一の方法は、他人と合意してagreeing with other men、自分のプロパティーと、共同体に属さない人に対するより大きな保障とを安全に享受することを通じて互いに快適で安全で平和な生活confortable, safe, and peaceable livingをおくるために、一つの共同体communityに加入し結合することに求められる。」(II-95)

 

共同体の権力は何者かによって与えられるのではない。一人一人の人間がもっている自然の権利がその起源となる。

 

「人々は、彼ら一人一人がもっていた処罰権力power of punishingをすすんで放棄し、その権力が、自分たちの間でそのために任命された者によってのみ、そして、共同体自体が、あるいは共同体からそのための権威を授権された人々が合意した規則に従って行使されるbe exercisedようにするのである。ここに、われわれは、統治と社会governments and societiesとのそもそもの権利と起源right and riseとを見るとともに、立法権力と執行権力との本来の権利と起源とをも見るのである。」(II-127)

 

前ページでみたホッブズとまったく同じく、ロックにおいても個人の自然権が国家権力の起源なのである。

 自然権理論と社会契約論を「西欧の天賦人権説」と称して全面排除する自民党改憲草案は、基本的人権だけでなく、国家権力の論理的前提まで全部否認していることになる。軽率な人権否定が国家存立の基盤を掘り崩す愚行にほかならないことは明らかだろう。「草案」が、日本神話にたよって現代国家の存在意義を語る時代錯誤におちいるのも必然である。

 

ロックにおける「プロパティー」

 

 これまでの引用文中に何度も出てきた「プロパティー」についてふれておこう。従来『統治二論』における「プロパティー」は、「所有」ないし「所有権」と誤って翻訳され、理解されて来た(鵜飼信成訳岩波文庫版など)。上の引用部分をみても、「所有〔権〕」と訳しては意味が通らないのに、堂々と通用してきた。ホッブズだけでなく、ロックもまた正当に理解されてこなかったのである。

 ロックのいう、政治的統治civil government実現の目的としての各人の「プロパティー」には、「生命lives、自由」も含まれる。資本主義的な私有財産制度をまもるために国家が樹立されるのではない。そうしてみると、日本国憲法第29条が保障する「財産権」(英訳ではright to own or to hold property)を、たんにモノとしての財産の私的所有という資本主義的原則ととらえるのではなく、第25条の「健康で文化的な生活wholesome and cultured living」と一体的なものとして理解し、解釈しなおすべきであろう。

 福島第一原子力発電所の事故により、国民のプロパティー(生命=生活life、自由、資産)が大規模かつ深刻に侵害された。プロパティーを守るべき政治的統治によって、国民のプロパティーに回復困難な打撃がもたらされたのである。現代のわれわれは、ロックの議論を参照しつつ基本的人権の内実をとらえなおす課題に直面しているのではないだろうか。