4 判決の効力を拡大

高裁判決の権威

 

 刑事訴訟における有罪率は99%以上である。行政訴訟における被告行政当局の勝訴率もきわめて高く、90%に達する。勝ち誇った行政当局は自分の主張の正しさを宣伝するために、判決文をあちこちで引証し利用する。『新学校管理読本』(文部省地方課法令研究会編著、第三次全訂版、1997年、第一法規出版)が1977年の札幌高裁判決を掲載しているのもその一例である。

 「勤務場所を離れておこなう」研修について、教育公務員特例法は「授業に支障のないかぎり」と承認要件を明示しているにもかかわらず、札幌高裁判決は明文規定をはるかにこえる多数の要件を追加した。すなわち、教特法は「授業に支障がある限りは研修参加の承認を許さないものとして本属長の承認権を拘束していると解される」としたうえで、①「授業以外の……校務運営上の支障」のほか、②「校務の支障をこえて更に行為の態様、場所等を勘案」し、さらに③「教育公務員としての身分に伴う参加の相当性等についても諸般の事情を配慮」したうえで承認するか否かの「裁量判断を〔校長に〕付与している」というのである。札幌高裁によって、教育公務員特例法は改正されてしまったも同然である。『新学校管理読本』は、この判決文をあたかも正当な法解釈であるかのごとくに取り扱う。8月に古河第三高校の永塚卓校長が指示したように、どのような研修をおこなうかよりも「どうして職場を離れた場所でなければできないか?という理由」を書くことのほうが重要になってしまう。

 すでに分析したとおり札幌高裁判決は、教員は勤務場所すなわち「営造物」たる学校において日常的業務すなわち「当然に予定されている」活動に従事しているときにのみ職務に従事したことになるという独特の論理を展開している。判決文が理論的根拠としている「特別権力関係論」はすでに「過去の遺物」でしかないうえ、判決文の論理は正統的な(?)「特別権力関係論」からも逸脱している。

 そうはいっても、まがりなりにも高等裁判所の判決である。いくら論理的に混乱しているからといって消えてなくなるものでもない。得意になって高裁判決を引用する『新学校管理読本』の前に、われわれはひれ伏さなければならないのか?

 

判決の「既判力」とその範囲

 

 裁判の結果である判決の拘束力は当事者および裁判所に及ぶ。これを「既判力(きはんりょく)」という。

 

終局判決が確定すると、その判決における請求についての判断は、以後、当事者間の法律関係を律する基準となり同一事項がふたたび問題になったときには、当事者はこれに矛盾する主張をしてその判断を争うことが許されず、裁判所もその判断に矛盾抵触する判断をすることが許されなくなる。(新堂幸治『新民事訴訟法』、2000年、弘文堂、570頁)

 

 札幌高裁判決についていえば、確定後は、控訴人の北海道白老町立白老小学校の川上教諭は、1969年2月の給与から差し引かれた1968年11月6日から9日までの給与の減額分を取り戻すことはできず、かえって減額分の7015円を差し引いた2月の給与支給日までの3か月間について、年率5%で算定した利子を北海道に支払わなければならない。いっぽう、北海道はその利子88円を受け取る。そして「既判力」により、両当事者はこの件でふたたび訴訟をおこすことはできず、裁判所はふたたび裁判をやりなおして異なった判決を下すことはできない。

 しかし、「既判力」はそれ以上のものではない。当事者の川上教諭がふたたび同様の教育研究集会に参加するため、校長に「勤務場所を離れ」ることの承認を求めることは可能であるし、「本属長の承認」なしに参加して給与の減額を受けた場合、ふたたび同様の訴訟を提起することも可能である。あるいはまた、1968年には承認しなかった集会参加について校長が今度は「研修」として承認し、北海道がその間も給与を支払うことが、あらかじめ法的に禁じられているわけではない。

 なにより判決は当事者以外の者に対する拘束力を一切持たない。別の教諭が「勤務場所を離れて研修を行う」ことについて、別の校長が授業への支障以外の校務への支障だとかの諸般の事情だとかを口実にして、研修をおこなうことを妨げることに法的根拠を与えるものではない。もちろん、この判決が全国の校長に自由裁量権を付与するものでもない。判決はこの事件以外の事例における教特法の解釈や適用にいかなる法的影響を及ぼすこともない。

 教諭側が敗訴した判決だから、こんな勝手なことを言うのだという批判があるかもしれない。しかし、そうではない。逆の場合を考えてみよう。行政訴訟や民事訴訟で行政当局側が敗訴した場合、行政当局は、同様の案件や同様の訴訟に関して制度や運用の改善要求を突き付けられるのが通例である。それに対して行政当局は、異なる当事者間の異なる事件には既判力が及ばないことを理由に、こう言う。

 

その判決は個別事案についてのものであって、制度そのものや一般的な運用方針が否定されたわけではありません。したがって、今後も制度・運用を変更することは考えておりません。

 

 行政行為にあっては、万に一つの過誤もあってはならないのであって、行政不服審査における原処分取消し裁決や行政事件訴訟における行政側敗訴という結果になるのは、多くの場合制度それ自体や一般的運用方針に問題があるからなのだ。その意味で行政当局は制度改正や運用改善の義務を負う。しかしながら、厳密に法的な「既判力」に限っていえば、残念ながら、行政当局は制度一般を変更する義務はもちろん、別事案における運用方針変更の義務も負わない。

 これとは逆の行政側勝訴判決の場合も、既判力の及ぶ範囲は当該事件とその当事者に限られる。あたかも同様の事例すべてに普遍的に影響が及ぶかのように主張するのは誤りである。ひとつの判決文を根拠にして、すべての勤務場所を離れておこなう研修に法の条文を超えた様々の制限を新たに課すことは決してできない。

 

判決の「理由」には既判力なし

 

 以上は裁判の本体部分、すなわち判決の「主文」についての話である。判決ではごく短い「主文」のあとに、それに付随する膨大な分量の「理由」が述べられるのだが、この「理由」中の判断が、「既判力」を生ずることは一切ない。

 

請求についての判断をそれに至る他の判断から画然と区別し、後者はたんに前者に至るための手段としてのみ意味があるとし、他の請求との関係では意味をもたない〔……〕。(新堂、587頁)

 

 或る判決文の「理由」において展開された論理が、以後の同種事件のすべての裁判における「理由」を(したがって「主文」を)あらかじめ一義的に拘束するなどということは到底あり得ない。ましてそれ以後、行政当局が法令に関する行政解釈を示したり行政処分をおこなったりする際に、或る判例の「理由」中のあれこれの命題を法的拘束力のある根拠として用いることができるわけでもない。

 以上のような次第で、『新学校管理読本』は札幌高裁判決の「理由」の一部分を引用するにあたって、あえて「(参考)」とことわって掲げているのである。あくまで「参考」にすぎず、本文で展開している主張についての拘束力のある法的根拠だというわけではありません、ということなのだ。

 しかし、なんらの拘束力もないのに、判決の「理由」中の文章をうやうやしく引用してみせるのは、法律の素人向けの本における手法としてはなかなか狡猾なやりかたである。「(参考)」とことわり書きがあっても、読者にはその意味はよくわからない。教育公務員特例法が規定する「研修」の解釈として、一般的拘束力があるかのごとくに読者を誘導し誤認させる効果は十分に発揮される。

 しかも、欄外や脚注に小活字で組んであるのではなく、本文のどまんなかに掲げられているのだ。「(参考)」といいながら、高等裁判所の判決という権威のもとに、「授業に支障」などほんの入り口で、「校務の支障」、社会的評価その他ありとあらゆる口実をつけて、校長の「自由裁量」により場所の適否も厳しく査定されるというのだ。基準に外れればその分の給与が減額される。うっかり「自宅」などと書こうものなら、「自宅でなければならない理由」を言ってみろと凄まれて尻込みさせられるのは必定である。

 ところが、この詐術にまっさきにひっかかったのは、他ならぬ永塚卓校長だった。永塚校長は判決の全文を読むこともしないから、この札幌高裁判決の古色蒼然たる特別権力関係論に時代錯誤を感じ取ることもなく、無理に無理を重ねて支離滅裂になっているその論理構造に疑問を持つこともない。13行の引用文中に、都合良く茨城県高等学校教職員組合古河第三高校分会の主張に対する権威ある「反証」の数々を見いだし、得意満面で全教員にコピーを配布した。

 

『新学校管理読本』の詐術

 

 『新学校管理読本』は、既判力を無視して法に疎い校長を欺いたのだが、これ以外にも詐欺まがいの行為をおこなっている。『新学校管理読本』中の高裁判決の13行の引用には、2か所ほど原文と異なる部分がある。すなわち、さきに引用した「授業に支障がある限りは研修参加の承認を許さないものとして本属長の承認権を拘束していると解される」とあるなかの「拘束」は原文では「羈束(きそく)」である。また、「本属長に〔……〕裁量判断を付与している」とあるのは原文では「裁量判断権」である(理由、四、2)。

 「裁量判断権」から「権」を削るのは語法的に誤りであるが、削る動機も見当たらないから、おそらくただの写し間違いだろう。一方の「羈束」は、たしかに「拘束」の意味だが、なぜ敢えて置き換えたのだろうか? この条文の解釈としては、行政当局の「自由裁量権説」に対して、行政法学における有力な解釈として、「羈束行為説」が存在する。

 

校長の承認は、法文の文字通り「授業への支障」つまり本務への支障の有無を学校として確認するための裁量の余地なき行為(き束行為)である〔……〕。(兼子仁『教育法〔新版〕』1978年、有斐閣、324頁、原文通り)

 

 判決は、支障があれば承認しないよう羈束されると言っているのであり、支障がなければ承認するよう羈束されるという行政法学上の「羈束行為説」とは趣旨が違う。しかし、よほど「羈束」の語が気に入らなかったようで、どうせ誰も気がつくまいと、都合よく改竄して掲載したのである。