1 夢殿開扉 — 帝国官僚岡倉覚三の原罪

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左上が法隆寺西院伽藍

 南から順に、南大門・中門・五重塔と金堂・講堂

右上が法隆寺東院伽藍

八角形の夢殿 中に危うく横取りされそうになった救世観音像


不自然さのつきまとう夢殿開扉


 茨城県教育委員会の「道徳教育推進委員会」が編集・発行する高校用道徳教材『ともに歩む』の教材27は、岡倉覚三(いわゆる「岡倉天心」)に関する文章である。末尾の説明によると、本教材は、木暮正夫『凛たれ!  天を指して輝け 岡倉天心物語』(1993年、妙高高原町)を「底本として使用」したものだという。「底本」という語の意味を取り違えているが、同書に依拠して、「夢殿開扉」の件を中心に岡倉覚三の生涯を道徳の教材にまとめ上げたということのようだ。

 「夢殿開扉」とは、1884(明治17)年に岡倉が法隆寺東院伽藍の夢殿の本尊である秘仏救世観音像を見たとされる件だが、岡倉に関する伝記類のほとんどすべてがこのエピソードを取り扱う。小中学校での「道徳の時間」に岡倉をとりあげる例があるが、そこでもこの「夢殿開扉」が日本文化の擁護者としての岡倉覚三の原点として取り上げられる。「夢殿開扉」以外には、岡倉には「道徳」の教材になるようなエピソードは見当たらないということでもあるが、本人が「人生の最快事」と胸を張り、幾多の伝記本が何の疑問も持たずにそのまま紹介し、そのうえ「道徳」の定番にまでなっているこの「夢殿開扉」には不可解な点がある。


「もう梅雨の季節とはいえ、空にはみるみる真っ黒な雲が立ち込め、なにやら怪しい天気になってきました。」(p. 82.)

 

「『扉を開けるなんてめっそうもございません。開ければ必ずたたりが起こります。おやめください。』僧侶たちは顔色を変えて必死に断りました。『たたりなどたまたまの偶然です。どうか扉の鍵を開けてください。』そうした押し問答のすえ、岡倉覚三(後の天心)は黒く錆びたかぎを外し、重い扉に手をかけました。『さあ開けますよ。フェノロサ先生。』夢殿の扉が開きかけるや否や、僧侶たちは蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げていってしまいました。」(p. 83.)

 

〔その後救世観音を見たうえで〕「やがて外に出ると、あんなに黒かった雲は、今はすっかりどこかへ消えうせ、真っ赤な夕日が斑鳩の山を染めていました。この時覚三は、自分の『心の太陽』を覆っていた雲も、一緒に晴れていくのを感じました。」(p. 84.)


 これは「生徒用テキスト」からの引用であるが、いっぽう「底本」の『凛たれ!』では、「『夢殿の扉をあけるなんて、めっそうもございません。あければかならず雷がおちます。』」と僧たちが述べ、「押し問答のすえにとびらがあけられると、僧侶たちはにげ去ってしまいました。」とあり、「たたり」や「蜘蛛の子を散らすように」という言葉はない。「真っ黒な雲が立ち込め」ていたことや、「今はすっかりどこかへ消えうせ」たことなども一切書かれていない。

 「生徒用テキスト」は「参考資料」としてこの『凛たれ!』だけを挙げている(p. 85.)。「たたり」、「蜘蛛の子を散らすように」、「真っ黒な雲」などは作成委員会が根拠もなく勝手に想像して付け加えたもののようだ。これらは作成委員会による創作である。これだけでも教材27はすでに失格といえる。しかし問題の核心はその先にある。「底本」の『凛たれ!』にせよ、それを面白おかしく書き換えた茨城県の「生徒用テキスト」にせよ、「夢殿開扉」というエピソードそれ自体に不自然さがつきまとっている。

 法隆寺の僧たちが、「『夢殿の扉をあけるなんて、めっそうもございません。あければかならず雷がおちます。」(『凛たれ!』)と断固として拒絶しているのに、岡倉らは「押し問答のすえに」扉を開けて、救世観音を見ることができたという。「押し問答のすえに」は、「生徒用テキスト」でも同じである。

 考えてもみよう。われわれが、長野市の善光寺に行って、本尊の扉を開けるようにと「押し問答」でがんばって、秘仏の阿弥陀如来像を公開させることが可能であろうか? どれだけ「押し問答」したところで善光寺側を説得することはできないだろう。あまりしつこくすれば警察に通報されるのが落ちである。そうなれば「人生の最快事」どころではない。

 「押し問答」くらいのことで「秘仏」が開扉されることなどありえない。かといってフェノロサと岡倉が腕ずくで夢殿の扉を突破したわけでもない。いかにして絶対秘仏の開帳という離れ業を演じたのか?



隠されている開扉の秘密


 この「夢殿開扉」については、当事者である岡倉覚三とフェノロサの両名が、それぞれの著書で記述している。6年後、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)での岡倉の特別講義ノートではこうなっている。


「余、明治十七年頃美術取調のとき、フェノロサ、加納鉄哉とともに、寺僧を諭して秘仏を見んことを請う。寺僧のいわく、これを開かば必ず落雷すべし。〔略〕落雷の事はわれらこれを引受くべきを約し、始めて寺僧の承諾を得て堂扉を開かんとす。僧等怖れて皆去る。〔略〕七尺有余の仏像、手に珠を載せ截然として立てるを見る。一生の最快事なりというべし。幸いに落雷にも遭わざりき。」(『岡倉天心全集第4巻』、1980年、平凡社、pp. 36-37. 岡倉天心『日本美術史』、 2001年、 平凡社ライブラリー、pp. 57-58.)


 「寺僧を諭して」とあり、「底本」や「生徒用テキスト」の「押し問答のすえ」とはニュアンスが異なる。また、「落雷の事はわれらこれを引受くべきを約し」とあるが、「引受ける」とはどういう意味だろうか。寺僧たちに対する岡倉のハッタリだったと解釈すべきだろう。講義で岡倉は「幸いに落雷にも遭わざりき」と言ってペロリと舌をだして見せたに違いない。

 「夢殿開扉」は、岡倉が誇張をまじえて自慢話をしているのであり、真に受けるような話ではない。まして「道徳」の教材になるような話ではない。迷信にとらわれた暗愚なる僧侶たちに立ち向かう明敏な合理主義者の岡倉、などという解釈もまったくの的外れである。「生徒用テキスト」の「考えるヒント」は、「天心は、夢殿の扉を開けた時の事を、なぜ『一生の最快事』と表現したのでしょう」と問いを発しているが、愚問である。岡倉は状況を漫画的に描写して受けをねらい、聴衆の注意をそらして、本筋を隠そうとしている。「寺僧の承諾を得て」とあるが、いかにして「承諾」させたかにまったく触れない。やはり話の辻褄は合わないままだ。岡倉は何かを隠し、何かを偽っている。

 フェノロサもこの「夢殿開扉」の場面を書いている。フェノロサは、同行者は「ひとりの日本人の同僚 a Japanese colleague 」だと、持って回った言い方をしたうえで、こう言う。

 

「法隆寺の僧たちは、言い伝えによれば厨子の中身は推古時代の朝鮮の作品なのだが、二百年以上も開かれたことがないことを打ち明けた。われわれはかくも類いなき宝物にたいする期待に躍起となり、僧たちにあらゆる論拠をあげて命令し、それを開けるよう迫った。彼らは、冒瀆に対する罰として地震が起こり寺院全体を破壊するだろうと言い張って、いつまでも食い下がった。ようやく我々は打ち勝った。私は、長いこと使われなかった鍵が錆びついた錠前の中で音をたてた時のわれわれの興奮を決して忘れることはないだろう」(E. Fenollosa, Epochs of Chinese and Japanese Art, 1912. New and Revised Edition, 2007, IBC Publishing, p. 67.)

 

 岡倉の「落雷」がフェノロサでは「地震」になっている。そして、ここでもやはり法隆寺の僧たちをどうやって屈服させたのかについて、核心部分を述べていない。彼らは何を隠しているのか?  



帝国美術官僚としての九鬼隆一・フェノロサ・岡倉

 

 九鬼隆一

 

 じつは、「夢殿開扉」には岡倉とフェノロサ以外に、九鬼隆一という人物が参加していた。のちの帝国博物館〔現在の東京国立博物館〕総長、貴族院議員(勅任議員)、枢密顧問、男爵九鬼隆一は、1852年摂津三田藩の生まれ、福沢諭吉の慶応義塾を経て1872(明治5)年文部省に入省し、1884(明治17)年当時は文部省の少輔の地位にあり(大輔が空席のため文部大臣につぐ省内ナンバー2)、「改正教育令」における「修身」重視、恩師福沢諭吉らの自由主義的著書の学校での使用禁止政策などを遂行していた。(司亮一『男爵九鬼隆一』、2003年、神戸新聞総合出版センター、pp. 58-65.)

 さらに美術に関する文部行政全般の企画立案にも深くコミットしていた。音楽分野の文部行政は西洋音楽路線で推移するが、美術分野では西洋美術(油絵・彫刻・建築)路線をとった工部美術学校が開設からわずか7年で廃校となり(1876〔明治16〕年)、フェノロサによる日本の伝統的美術工芸称賛活動と呼応して、日本美術(日本画・彫刻)路線に急転換する。展覧会開催とそこでの順位付けを通じた日本美術の特定分野・流派の奨励、日本美術教育のための新構想美術大学の設置準備、大学から初等教育にいたる学校教育全般における日本画・伝統工芸による美術教育方針の確立、これが文部省の美術行政の基本路線であり、その総指揮をとるのが九鬼隆一だった。

 文化行政・文教行政全般を伝統的日本画・工芸で一本化するための基礎付けの一環として、九鬼らは1882(明治15)年以降、奈良・京都の寺院の仏像仏画等の調査に着手した。新幹線も近鉄特急もない時代に、文部省ナンバー2がみずから調査に赴いた。1884(明治17)年5月、「日本生まれの西洋人」とまで言われる徹底した西洋化主義者の森有礼が文部大臣に就任した。夢殿開扉の直前である。西洋画排除、極端な伝統美術一辺倒の美術行政推進という対立的政策を推進する九鬼隆一は、森有礼を追い落として彼から文部大臣の椅子を奪取するのが当面の目標である。


 アーネスト・フェノロサ

 

 フェノロサは、ボストン近郊の原理主義的キリスト教団の牙城、北米で唯一「魔女裁判」がおこなわれたことで有名なセーラムの出身で、ハーバード大学を卒業したものの適当な職もなく、日本人の同級生を介して、同郷の「お雇い」外国人の東京大学博物学教授モースの斡旋で、1878(明治11)年、地の果て日本にやって来た。

 それから6年、破格の給与、広大な邸宅に20人の使用人、今のところは「お雇い」として厚遇されているが、情勢は急速に転回している。すでに軍事・技術分野では「お雇い」の大規模リストラが進行し、文科系でもドイツ人の比重が高まっている。浅薄と見られたアメリカ人は、いずれ用済みで放り出されるのは必至だ。かくなるうえは、エリート官僚たる九鬼や岡倉と協調し、日本文化の優秀性を称賛する白人イデオローグとして力を発揮し、並の「お雇い」とは違うところを見せつけ、事態の打開をめざすほかない(莫大な契約金で日本のプロ野球球団に雇われて来日したものの、成績不振でお払い箱寸前の元大リーガーといったところか)。

 フェノロサは来日3年目の1880(明治13)年以来、ほぼ毎年のように奈良・京都調査を実施している。法隆寺もすでに何度も訪れた。大学でのフェノロサ教授の講義は手抜きがひどく学生の評判もよくない。しかしそんなことには構っていられない。年間三分の一もの授業を休講にして奈良・京都調査に全力投球する。


 岡倉覚三

 

 日本語がほとんどできないフェノロサは、複数の東京大学学生を通訳として私的に利用していた。学生としても、白人とお近づきになれるうえ、英語力向上という利得もあるから大歓迎である。1862年横浜生まれ、1875(明治8)年に12歳(満年齢。以下同じ)で東京開成学校〔のち東京大学、さらに東京帝国大学〕に入学した岡倉覚三は3学年時に、来日したフェノロサと出会い、その通訳兼弟子として忠勤に励んだ。

 岡倉は、校内ではもちろん、フェノロサが美術品コレクターと接触する時も、奈良・京都方面への調査旅行に出る時にも、通訳兼秘書として同行する。自然に、書画、刀剣、什器、仏画仏像仏具などの日本美術骨董万般に習熟することになる。しかも写真や書籍による独学ではない。骨董ディーラーや、白人に甘い美術品コレクターたちから直接指南を受けつつ、「名品」を片っ端から見てゆくのである。美術品鑑定家としてのフェノロサと岡倉の知識と鑑識眼は、短期間のうちに培われた。

 岡倉は、師匠のフェノロサが本業の政治経済学 political economics(「理財学」)と哲学の教授からドロップアウトして、日本美術礼賛のアジテーターに転身していったのに歩調をあわせ、みずからも日本美術で食べていく道を選ぶ。

 岡倉には有名な「卒論焼却」のエピソードがある。岡倉が2か月かけて政治経済学に関する卒業論文を書き上げたころ、夫婦喧嘩で逆上した妻のもとが卒論を引きちぎったうえ燃やしてしまった。提出期限がせまっており、書き直しは不可能だったので、急きょテーマを「美術論」に変更し、2週間で卒論を書き上げて提出した。もしあの時、若妻が逆上しなかったならば、のちの美術界の巨人、偉大なる「岡倉天心」は存在しなかったであろう……。

 まさか視点2の内容項目⑷「男女は、互いに異性についての正しい理解を深め、相手の人格を尊重する」の教材にはなるまいが、あまたの伝記類が必ずしかも事実として紹介するエピソードである。卒論をわずか2か月で書いたということじたい、優秀さの証ではなく、ただの手抜きにしか見えないがそれはさておく。突発的事件で清書稿を失ったからといって、もと夫人が下書きやノート・メモ類まで一切合財を焼却したはずもない。すべての資料を失ったあげくに、または捕虜収容所のなかで、あるいは故国を追われた亡命生活の中で、ペンのみにて大著をものした人だっている。しかも提出期限まで2時間とか2日間というのではない。2週間である。中身は当然頭に入っていたはずだから、再現は十分に可能だろう。もし書き直せなかったというのだとしたら、のちに講義ノートの作成を他人にやらせたのと同じことを、岡倉がここでもやっていたことになる。

 専攻とはまったく異分野の「美術論」をわずか2週間で書きあげたというのは、本人は自慢話のつもりなのだろうが、つまりは師匠とともに本業をおろそかにして骨董品鑑定に入れあげたあげく、専攻分野での論文作成に窮してお茶を濁しただけの話、と見るのが妥当だろう。

 岡倉は1880(明治13)年、17歳で東京大学文学部を8人中7番目の成績で卒業し、内務省でも大蔵省でもなく、席次に相応しく文部省に入省した。とはいえエリート官僚であることにはかわりない。文部省「ナンバー2」の九鬼隆一の忠実な部下たる岡倉覚三は、師フェノロサの当分の間は従順な弟子としておたがいに利用したりされたりしながら、栄光(と悲惨)の特権官僚人生をはじめることになる。

 こうして、1884(明治17)年、日本の美術行政の企画責任者・文部省ナンバー2の九鬼隆一(31歳)、東京大学哲学教授にして日本の伝統美術を絶賛する奇特なアメリカ人アーネスト・フェノロサ(31歳)、フェノロサの弟子にして九鬼の部下の文部官僚岡倉覚三(21歳)らが、厳重に管理されている秘仏、事実上の法隆寺の本尊の開帳を迫る。奈良・京都調査旅行には、3人の輝かしい将来がかかっている。1回あたり数週間から数か月をかけ、巨大寺院から名もない小さな寺まで、なめるようにあらゆる仏像仏画仏具を調べ、写真撮影、スケッチをおこなう。ごみ捨て場をつっついて廃仏毀釈で破壊された仏像の残骸を調べることも厭わない。(なぜか建物にはあまり興味を示さないのであるが……。)



秘仏のある寺 — 法隆寺


 法隆寺は、江戸時代の一千石の知行が1874(明治7)年に廃止されて収入が8分の1に圧縮され、もともと檀家を持たなかった「格上」の寺院だったこともあり、一挙に窮乏化が進んだ。建物の老朽化もあって仏具類の保管にも支障をきたし、1878(明治11)年、宝物332点を皇室に一括献呈し、その下賜金10,000円を管理費に充当せざるをえなかった。献呈品は現在、一部は皇室財産、一部は東京国立博物館法隆寺宝物館の所蔵品となっている(高田良信『法隆寺のなぞ』、1977年、主婦の友社、pp. 82-89. 三山進『名品流転』、1975年、読売新聞社、pp. 19-21.)。その他かなりの数の仏具等の流出(転売、隠匿)はあったが、それでも夢殿を中心とする東院伽藍と、金堂、五重の塔など西院伽藍、秘仏救世観音像、虚空蔵菩薩像(百済観音像)、釈迦三尊像などの主要な仏像群、膨大な量の仏画仏具等は概ね維持された。後にずさんな「修復」作業中に焼損する金堂内壁壁画もこの時点では完璧だった。

 1868(明治元)年の神仏分離令をきっかけに始まり、1872(明治5)年ころまで続いた廃仏毀釈の破壊活動も法隆寺伽藍には及ばなかった。「南都最大」を誇った奈良市の興福寺が、僧全員の春日大社神職への強制転換により無住の寺院とされ、破壊・盗難で甚大な損傷を被り、無残にも荒廃したのとは対照的である。

 法隆寺僧侶団が、「たたり」を恐れ、「蜘蛛の子をちらすように」逃げ惑うような組織でなかったことは明らかである。もし、「たたり」くらいで「蜘蛛の子」になるような集団だったとしたら、法隆寺そのものがすでに朽ち果ててしまっていたに違いない。夢殿の救世観音像が絶対秘仏として完璧な状態で継承されることはありえず、三輪山の神宮寺の十一面観音像と同様に道端にうち捨てられるか(現在の国宝・聖林寺十一面観音像。和辻哲郎『古寺巡礼』、1919〔大正8〕年、岩波書店、pp. 65-74.  改版、1978〔昭和53〕年、 pp. 55-61.)、骨董ディーラーの手を経て外国にでも売り捌かれてしまっていたに違いない。夢殿は朽ちるか、焼けて土台石だけになり、仮に建物だけ残ったとしても中央の厨子には何も入っていなかったことだろう。



夢殿開扉の真相


 秘仏強制開帳の経緯は次のとおりである。東京芸術大学学長と東京国立博物館長をつとめた美学者の上野直昭の回想である。

 

「河本さん〔上野の知人〕の話はこうです。夢殿の厨子を調査するために開くことを坊主が肯じないこと、開くと災いが起こるというのも、前の話〔岡倉とフェノロサの文章〕と同じです。そこで調査班の連中は、宮内省へ許可を乞うことにしようというので、東京へ電報で問い合わせると、やがて開いてよろしいという返電が来たのです。当時は宝物調査の仕事は宮内省の所管だったのです。〔……〕その時は宮内省から開いてよろしいという返事が来たというので、坊さんも止むなく承知して厨子を開くと、中に仏体があるが、全身白布で巻いてあるので、これをほどかなければなりません。〔……〕九鬼〔隆一〕さんは布をとく手を時々止めて、『勅命勅命』と呼び、また解いていく。ついに解きおわると今の観音〔救世観音像〕が出てきたというのです。〔……〕私が思いますには、電報で宮内省の許可を得たというのも少々あやしいが、『勅命勅命』と称えているのは、それの連続で、少々気味の悪い仕事をするのですから、仏に言ってきかせるのか、坊主にきかせるつもりか、それとも自分に言ってきかせているのか。いずれにしても何人かいる内で大芝居をやったわけです。天心先生もまけず劣らず芝居気があったのではないか。〔……〕ちょっと作り話としてはできすぎていると思われますので、記録にはのっていませんが、本当のはなしではないかと思って、後にこの九鬼さんなるものに、直接夢殿開扉の話をたずねて見ましたが、にやにや笑って、答えてくれませんでした。」(上野直昭『邂逅』、1969年、岩波書店、pp. 134-36. 旧かなづかいを新かなづかいにし、一部の漢字とかなを改めた。)

 

 上野直昭は九鬼隆一の甥であり、経歴からわかるとおり、九鬼や岡倉のポジションを受け継いだ後輩である。彼らを批判するような立場にはない。しかも、引用したのは岡倉の生誕100年記念の「国立博物館友の会」での講演である。老齢に達してからの回顧談で、多少の記憶の変形はあるかも知れないが、大筋では信用すべき証言だろう。

 わずか21歳、帝国権力機構の一員となったばかりの若者が、上司らに随行して体験した、「勅命」(天皇の命令)を捏造しての強制的な秘仏開帳。それが「夢殿開扉」だった。若者は、その6年後、まだ栄光の人生の上り坂にあった27歳の時、それを傲慢にも「人生の最快事」と誤認したうえで、得意になって吹聴したのである。