若宮戸における河川管理史

12 砂丘の掘削と石裂山大権現碑

 

May, 8, 2022

 

 Ridge1全域とRidge2の一部(画面中央の*地点)の掘削が進行している1968(昭和43)年8月22日の航空写真です(国土地理院、MKT682X-C2-19)。「り」地点に、石仏や石碑があります。この「り」から「は」にかけては若宮戸河畔砂丘最大の〝畝〟であるRidge1の中でももっとも発達していた地点であり、かつてはT.P.=30m以上でした。石仏・石碑はこの付近に点在していたものを、砂丘の掘削に際して一箇所にまとめて移したようです。

 

 

 水害から1か月後、2015(平成27)年10月9日の衛星写真(GoogleEarthPro)の「り」付近を拡大したものです。上流側に回り込んだ氾濫流の真っ只中にあったのですが、石仏・石碑群はコンクリートの基礎の上に置かれたためにそのまま残りました。

 


 「B社」が掘削して洪水が流入した区間に設置された大型土嚢3段積みの仮堤防の下流端付近から、上流方向を撮影した写真です(2015年10月26日)。

 「B社」のソーラーパネルは一部が破損しただけで大部分は無傷であり、住宅や耕地の復旧がほとんど進んでいない中、このように「B社」による再建工事の真っ最中です。

 黄丸に、「り」地点の石碑群が見えます。

 東側からRidge2を背景に「り」を見たところです。左がこの後見る石裂山大権現碑です。

 周囲の砂は、水害前に「B社」が掘削して剥き出しになったRidge2およびRidge1とRidge2の「谷」の砂が、9月10日の氾濫流で流されたものです。

 ブロック積みの祠に石仏が一体、ほかにいくつか五輪塔や石碑がまとめてコンクリート漬けされています。

 水害から6年後に、すこし角度を変えて西方をみたところです(2021年12月)。Ridge2に上の写真と同じ樹冠が見えます。

 ちょうど日没時刻だったので、Ridge2の「い」の第六天跡のすこし南側、樹々の間に太陽が見えます。太陽のすぐ下が砂丘の〝畝〟です。

 

 上の写真の看板の右下、看板の陰に見えていた小さな石碑です。

 

   移轉記念

是に内陸の大砂丘あり標高凡そ

三十余米頂に古くより風鈴塔

大権現等ありたまたま砂取工

事ありて山を削る

ここに移轉して厚くこれを祀る

 昭和四十三年八月吉日

 

 「たまたま」(碑では繰り返し記号)とは、随分な言い方です。正しく言えば、砂州の砂が枯渇したので、とうとうRidge1に手をつけることにしたということです。ほかならぬ当の地主たちがみずから意図しておこなったことですから、「たまたま」どころではありません。

 Ridge1の尾根筋にあった石仏や石碑を、ほかに運び出して処分するのも面倒なので、小さな基壇をつくってただ寄せ集めただけですから、「厚くこれを祀る」というほどのものでもありません。

 「風鈴等」というのは、一番大きな五輪塔のことでしょう。その次の「大権現」が、「石裂山大権現」碑です。


「石裂山(おざくさん)」とは、栃木県鹿沼市にある石裂山のことのようです。由緒書や建立者名はありません。裏面(下右写真)に「天保六年歳次乙未 夏四月建之」とあります。「歳次乙未」は「歳(ほし)乙未(きのとひつじ)に次(やどる)」と読みます。すなわち、天保六年=1835年、乙未の年を指します。「天保の大飢饉」のもっとも深刻な時期です。

 


 

 このように若宮戸の石裂山大権現碑は、どこにどのように建てられたのかは不明ですが、近隣の石裂山大権現碑は、いずれも神社の境内に建っています。実物を見たものを国土地理院の治水地形分類図にかき入れ、写真を掲げます。

 

 香取神社(下妻市大園木 おおぞのき)(天保十二年)

 

甲(かぶと)神社(下妻市大園木 おおぞのき)(文久二年)

 

大杉神社(常総市篠山 しのやま)(天保九年)

 八幡神社(つくば市大砂 おおすな)

 

八幡神社(つくば市西高野 にしごうや)

 

浅間神社(守谷市高野 こうや)


 

 最初の2つは、ほぼ同様の形状・字体ですから、同一人物の作でしょう。

 劣化がひどく、建立年の文字が読み取れないものもありますが、天保のものが多いようです。甲神社の文久2年は、1862年です。