『統治二論』における国家権力の起源と制約

国家創設と自衛権

 

 前ページでみたとおり、ジョン・ロック(1632–1704年)は、自然状態にある群衆は、プロパティーpreoperty(自己の生命・自由・資産)をまもるために、相互に同意して共同体communityを作って生活するようになるという【上図】。

 

 人々が、自分の自然の自由natural libertyを放棄して、政治社会civil societyの拘束のもとに身をおく唯一の方法は他人と合意してagree、自分のプロパティーと、共同体に属さない人に対するより大きな保障を安全に享受することを通じて、互いに快適で安全で平和な生活comfortable, safe, and peaceable livingを送るために、一つの共同体に加入し結合するunite into a communityことに求められる。(95〔ロック『統治二論』第2部の節番号。訳は岩波書店版加藤節訳を一部改訳。以下同じ〕)

 

人々が相互に契約を結んで国家を設立するのは、国内におけるプロパティー保全と同時に、戦争状態としての国際社会における安全確保が目的である。自然権理論と社会契約論は、国家とその主権の由来を立証するだけでなく、国家の「自衛権」をも根拠づけるのである。

 自民党の「改憲草案」は、日本国憲法における「西欧の天賦人権説」を毛嫌いして人権条項を骨抜きにすることで、結果的に国家の主権的権力sovereign powerの根拠を掘り崩すだけでなく、国民の安全と平和を担保するものとしての国家の「自衛権」の根拠をも投げ捨ててしまう。「改憲草案」は、国家設立を神武天皇の建国神話と「十七条の憲法」にたより、偏狭な民族差別意識に訴えて「自衛権」を主張するほかなくなる。

 

立法権力の起源と制約

 

 国家における二つの統治機構として、立法権力legislative powerと執行権力executive powerが設置される【図】。

 立法権力は至上の権力supreme powerとされる。これは、「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」とする日本国憲法第41条へと連なる考え方である。

 立法権力は至上の権力ではあるが、無制限の権力ではない。

 

 立法権力は、社会の各成員の力を一つに集めてjoint power of every member of society、立法者たる個人または合議体に委ねたものであり、従って、それは、各人が社会に入る前の自然状態においてもっていて、共同体に委ねた権力power以上のものではありえない。(135)

 

 立法部は法を作る権力を委譲transferすることはできない。というのは、それは、国民peopleから委ねられた権力delegated powerにすぎないのだから〔……〕。(141)

 

国家権力の淵源は個人の自然権にあり、同意consentないし合意agreement、すなわち各人と各人の契約により、信託trustされたものである。プロパティーの保護と安全の確保という目的に反することは許されない。さらに、

 

 公布された恒常的な法promulgated standing lawと、権威を授与された公知の裁判官judgesとによって、正義を執行しdispense justice、臣民の諸権利rightsを決定するよう義務づけられている。(136)

 

国家権力の行使は、恣意的であることは許されず、客観的で合理的な法にもとづくこと、そして司法審査に服することがもとめられる。国家権力は、国民から白紙委任を受けたのではない。設置目的への適合性、運用の妥当性にかんして、常に、国民による監視のもとにある。

 

統治の解体

 

 近年、東京や大阪などの大都市で、選挙で信認されれば何をしても許されると公言し実行する勢力が現れるようになった。これらはロックの統治理論でいえば、「執行権力」であって、しかも地域限定のものであるが、2012年12月の衆議院議員選挙と2013年6月の参議院議員選挙の結果設置されたわが国の「立法権力」は、憲法違反の「特定秘密保護法案」を強行採決したうえ、原発再稼働方針・「集団的自衛権」行使容認・TPP締結方針等によって、今後国民のプロパティー(生命・自由・資産)をおおきく損なおうとしている。

 国家権力が、その目的を果たさず法に反して行動する場合であっても、国民は自分で設置したものとしてそれを批判することすら許されず、唯々諾々と暴政に従わなければならないのか?

 

 立法部が、臣民のプロパティーを侵害し、彼ら自身か、あるいは共同体のある部分かを人民の生命、自由、財産の支配者、つまりそれらの恣意的な処分者にしようとするとき、立法部は彼らのうちに置かれた信託trustに反して行動することになる。(221)

 立法者が人民のプロパティーを奪い、また破壊しようとするとき、あるいは、人民を恣意的な権力に服する隷属状態へと追いやろうとするときには、立法者は常に人民との戦争状態に置かれることになり、それによって、人民はもはやそれ以上のいかなる服従からも解放されて、神が力と暴力とに備えて万人のために用意した共通の避難所common refugeへと身を委ねることになる。(222)

 

「共通の避難所」に身を委ねるとは、具体的には、信託に反しプロパティーを蹂躙する立法部を廃止し、あらたな立法部を設立することである。すなわち、

 

 人民peopleは、立法者が彼らのプロパティーを侵害することによって信託に反する行動をとったときには、新たな立法部を設け、改めて自分たちの安全を図る権力をもつ〔……〕。(226)

 

これがいわゆる「革命権」である。この場合、革命を起こす者は叛逆者と呼ばれるべきではない。逆である。

 

 暴力forceを排し、相互の間でプロパティー、平和、統一を保全するために法を導入した後に、その法に対抗する暴力をふたたび用いる者こそ、ふたたび戦争を行う者、すなわち、ふたたび戦争状態state of warに戻ろうとする者であって、まさしく叛逆者rebelsと呼ばれるにふさわしい。(226)

 

基本法(constitution)への叛逆

 

  自民党は、「草案」を掲げて日本国憲法を破棄する意図を公然と示している。

 

 叛逆とは、人に対する反抗ではなく、統治の基本法と法律constitutions and laws of the governmentとにのみ基礎を置く権威authorityへの反抗であ〔る〕。(226)

 

現在の日本における統治の基本法constitutions of the governmentは、日本国憲法The Constitution of Japan(1946年11月3日)にほかならない。

 自民党は、原発事故による広大な国土と、国民のプロパティー(生命=生活・自由・資産)の喪失を座視しながら、無人島の争奪をめぐって「愛国者」を装い、学校における「愛国心」教育を推進する。だが、統治の基本法Constitutionの破棄をめざす政治勢力は「愛国者」ではありえず、まさしく叛逆者と呼ばれるにふさわしい。叛逆者が、「愛国」や「自衛」について語るべきでないのは言うまでもない。