2 フェノロサの正体

アメリカ人コレクターたちとボストン美術館日本部


「〔当時の寺は〕大切な仏像や掛け軸などを、古物商や物珍しがっている外国人に安く売っては、なんとかお金を工面しているような状態だったのです。このようなひどい有様を見て覚三は、『これではいけない。このままでは、日本の大切な美術品や文化財が、みんな海外に流出してしまう。』と、危機感を抱いたのです。」(pp. 82-83.)

 

 「生徒用テキスト」は、こう述べるのであるが、はたして岡倉覚三の「フェノロサ先生」はどうだったのだろうか? 欄外の注釈に、フェノロサは「帰国後、ボストン美術館東洋部長として、日本美術の紹介を行った」とある(p. 82.)。それ以上の説明はないが、その意味するところは重大である。

 ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)のウェブサイト(mfa.org)では、現在、所蔵品のうち340,350点について、名称・範疇・画像(一部を除く)・作者・制作国・成立年代・大きさ・材質・収蔵品番号・入手経路等を公開している。データ自体の未改訂部分もあるほか、さまざまの理由で非公開とされているものや、膨大な未整理物件があるので、340,350点という数は全所蔵品のほんの一部にすぎない。

 この340,350点のうち、culture(文化圏)がJapanese(日本)のものは、40,000点。この日本美術品コレクションについて、keyword(キーワード)に主要な収集家ないし寄付者の名前を入力して検索し、条件に一致する所蔵品の数を調べてみる。トップページのcollections〔所蔵品〕のタグからadvanced search〔高度検索〕でいろいろな条件を入力して検索をおこなうと、合致する収蔵品の総数と一覧が表示される。そこから各収蔵品の名称・画像・入手経路等を閲覧できる。なお、作品名は漢字・かななどの2バイト文字でも表示されるが、2バイト文字による検索はできない。

 1875(明治9)年、来日したその日に東海道線の車窓から一目見ただけで大森貝塚を発見したという、東京大学の「お雇い」外国人教授で博物学者のMorse(モース)が255点。1882(明治15)年から4年間滞在したボストンの資産家で医師のBigelow(ビゲロー)が2792点。その友人の資産家で、同じ年に来日した医師のWeld(ウェルド)が1355点。そしてFenollosa(フェノロサ)が797点である(以上は、2008年3月のデータ)。

 これらの数字には、ウェルドがフェノロサから購入して美術館に寄贈したもの(560点)などの重複もある。いっぽうウェルドがビゲローから購入し美術館に寄贈した数万点の絵画・書籍・刀剣類の大部分と、モースの5000点以上の陶器コレクションなどはカウントされていない(「支那及び日本芸術最近の収穫展覧会」〔『岡倉天心全集』第5巻、1940年、六藝社〕、p. 162. 堀田謹吾『名品流転 ボストン美術館の「日本」』、2001年、NHK出版、pp. 87,125-26,130-34.)。

 膨大な美術品が、展示はもちろんウェブサイトへの掲載もされていないので、検索できるのは全所蔵品のほんの一部にすぎない。ボストン美術館における日本美術の死蔵の全貌があきらかになることは、永久にないだろう。



「超国宝級」美術品の数々


 海外に流出した日本美術がガラクタばかりであれば特段気にすることもない。しかし、上述の数字は偽物や価値のないものを除外し、展示ないしウェブサイト掲載にふさわしいもの(の一部)だけをセレクトした結果である。目を見張るような一流品が少なからず含まれている。

 「法華堂根本曼荼羅図Shaka, the Historical Buddha, Preaching on Vulture Peak」(「釈迦霊鷲山説法図」)は、東大寺法華堂(三月堂)の本尊で、「奈良時代の絵画で日本国外に出た唯一のもの」である(ボストン美術館東洋部『ボストン美術館東洋名品集』、1991年、NHK出版、pp. 8-9.〔以下『東洋名品集』〕)。もし日本にあれば「超国宝級」とされる。ウェブサイトにはこう表示される。

 

「acceession number(検索番号)11.6120」(ピリオドの前は収蔵年(西暦)の下2桁(設立から一世紀経過した1970年代以降は4桁表示)でピリオドの後は各年の収蔵順である。1911年の6120点目という意味である。)

「当初は(originally)奈良の東大寺の所有。以前は(formerly)ウィリアム・スターギス・ビゲローのコレクションで、彼が日本に滞在していた1886年に、起立工商会社から買収(acquire)された。1889年にボストン美術館に貸し出され、1911年に寄贈(gift)された」

 

起立工商会社とは、当時の日本で美術品の製造販売と、古美術品の売買をおこなっていた国策会社である。なお、根本曼荼羅図が東大寺から流出した経緯は不明とされる(堀田謹吾『名品流転』、pp. 167-70.)。

 同じくビゲローが購入した「聖観音座像Sho Kannon, the Bodhisattva of Compassion」(accession number 11.11447)は、1269(文永6)年、仏師西智の作である。

 

「当初は(originally)滋賀県の金剛輪寺の所有。1911年より前にウィリアム・スタージス・ビゲローにより購入(purchase)され、1911年にウィリアム・スタージス・ビゲローにより寄贈(give)された」

 

 「湖東三寺」のひとつとされる金剛輪寺本尊の観音像である。「保存の完全な日本の金銅像の傑作」である(『東洋名品集』、p. 24.)。金剛輪寺の住職は1980年代後半にボストン美術館に出向き、本尊の返還もしくは一時的な「里帰り」を願い出たが、「国外持ち出し」を禁じるビゲローの遺志をうけた理事会決議によって拒絶された(堀田、pp. 172-73.)。愛荘町歴史文化博物館は、「米国ボストン美術館の特別な許可を得て、鎌倉時代当時の技術を再現しながら制作した」模造品を展示している(www.town.aisho.shiga.jp/rekibun/jyosetsu/index.htm)。

 尾形光琳の「松に四季草花図屏風Pine with Flowers and Grasses of the Four Seasons」(accession number 11.4582)もビゲローが日本で購入した逸品である。



フェノロサのコレクション


 「松島図屏風Waves at Matsu-shima」(accession number 11.4584)は、尾形光琳作の六曲一双屏風の傑作である。

 

「アーネスト・フランシスコ・フェノロサにより1880年に京都で購入(purchase)され、1886年チャールズ・ゴダード・ウェルドに買収(acquire)され、1911年チャールズ・ゴダード・ウェルドによりボストン美術館に遺贈(bequeath)された」

 

フェノロサは、その著書において臆面もなく自慢する。

 

「ボストン〔美術館〕にある光琳の最も卓越した作品であり、世界中でもっとも見事なもののひとつが、六曲の波の屏風であって、散逸した大名のコレクションから1880年に私が買い取ったものである。」(Fenollosa, Epochs of Chinese and Japanese Art, 1912, New and Revised Edition, p. 514.)

 

 彼の収集品中もっとも有名な「平治物語絵巻三条殿夜討の巻Night Attack on the Sanjo Palace, from the Illustrated Scrolls of the Events of the Heiji Era (Heiji Monogatari emaki)」(accession number 11.4000)は、見る者の目を奪う絵巻物の傑作である(このページの最初の写真)。

 

「1878年以前は本多コレクションにおいて保存されていたが、1878−1886年にアーネスト・フランシスコ・フェノロサによって買収(acquire)された。1889年にチャールズ・ゴダード・ウェルドによりフェノロサから購入(purchase)され、1889年美術館に置かれ、1911年にチャールズ・ゴダード・ウェルドから美術館に遺贈(bequeath)された」

 

 「平治物語絵巻」のうち、東京国立博物館所蔵の「六波羅行幸の巻」は国宝に、静嘉堂文庫美術館(岩崎家のコレクション)所蔵の「信西の巻」は重要文化財に指定されている(小松茂美『平治物語絵詞』、1994年、中央公論社、凡例およびp. 93.)。フェノロサは、「まだ(still)日本にある」それら2巻を褒めちぎった上で言う。

 

「しかしながら、武士の描写において〔住吉〕慶恩の力量が最高度に発揮されているのは三番目の巻である〔内容上は第一巻〕。これはかつては本多家の所蔵品であり、美術クラブ〔「観画会」を指す〕が1882年以来毎年、大名の宝物コレクションの貸出展示をおこなったその都度、私は一度ならずそれを精査し撮影する特権をえた。その時は、この至上の作品がいつの日にか私の所有に帰することになろうとはまったく考えもしなかった。それを買収(acquirement)するために諸々の困難を克服した経緯はそれだけでひとつの冒険譚(romance)になるだろう。それは私がウェルド先生を通じて『フェノロサ・コレクション』の名で1886年にボストン美術館に寄付(contribute)した、1000点を超える名作絵画のなかでももっとも重要な宝物であることは疑いない。」(Fenollosa, Epochs, p. 265.)

 

 1920(大正9)年、岡倉覚三の甥の岡倉秋水(覚三の異母姉なかの二男覚平の雅号、東京美術学校出身の画家)が、この絵巻物を売りに来た骨董商が500円を呈示したのに対して、フェノロサは倍額の1000円を支払うかわりに、自分が購入したことを一切口外しないよう約束させたと書いている(栗原信一『フェノロサと明治文化』、1968年、六芸書房、pp. 251-53.)。以来、これが定説となってあらゆるフェノロサ本、岡倉本に紹介されているのだが、岡倉秋水のこの証言は記憶違い、または虚言のようである。

 フェノロサのアドバイスを受けて日本の美術品を収集したフリアー(Charles L. Freer, 1854-1919)のコレクションを展示するフリアー美術館(ワシントン)で、かつて日本美術担当学芸員をつとめた清水義明(プリンストン大学美術史考古学科マーカンド栄誉教授)によると、

 

「フェノロサが自分で直接『平治物語絵巻』一巻をしつこく伊勢へ出掛けていって持主〔本多家〕とかけあって購入した」(国際日本文化研究センターの「日文研フォーラム」での報告、1994年、www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn051.html

 

 フェノロサは romance「冒険譚」などと言って格好をつけ、内実を隠しているのだが、清水教授の言うように、ことの真相はその筋では周知の事実のようである。

 また、フェノロサは「寄付(contribute)した」と言っているが、本当はウェルドが、フェノロサに25万ドルないし28万ドルを支払って買収(acquire)したとされる。それは鹿鳴館の総工費を上回る額という(保坂清『フェノロサ「日本美術の恩人」の影の部分』、1989年、河出書房新社、 pp. 13, 50.)。ざっと数十億円というところだろう。「鹿鳴館の総工費」というのは「東京ドーム何杯分」同様の定型句だが、いくら逸品ぞろいのコレクションでも、その後のフェノロサの生活ぶりなどから判断して額が多過ぎる。骨董品関係者の言うことはウソとハッタリが多く、迂闊に信用できない。とりあえず、かなりの額で売却した、と理解しておこう。



「物珍しがっている外国人」とは誰か?


 当時、日本に滞在する欧米人たちの間で、古美術品収集は共通の趣味となっていた。フェノロサは、来日後たまたまこの世界に入ったのだが、いっぽう、ビゲローやウェルドは噂を聞きつけてわざわざそのために来日した人たちである。彼らは親譲りの資産のおかげで、医師でありながら医業に従事するわけでもなく、財力と時間のすべてを古美術品獲得に投入した。彼らはマサチューセッツ州出身の同郷人であり、短期滞在のウェルドは別としても、フェノロサとビゲローはしばしば行動をともにしていた。

 たとえば、法隆寺貫主の高田良信によると、法隆寺日記には、1884(明治17)年8月16日から20日にかけて、フェノロサ、ビゲロー、岡倉覚三らの一行が法隆寺の「調査」に訪れた旨の記述があるという(高田良信『法隆寺のなぞ』、pp.158-61.)。この日が、例の「夢殿開扉」事件当日かどうかはわからない。しかし、一心同体でこの時期たびたび京都・奈良を訪れて仏像・仏画・仏具類の調査をおこなっていたフェノロサと岡倉に、しばしば文部省ナンバー2の九鬼隆一や、民間人のビゲローが加わり、一緒に「調査」活動をおこなったのである。

 「夢殿開扉」は開帳された観音像の卓越性ゆえに画期的な事件(「一生の最快事」)として回想されるのであって、調査旅行やそこでの有無を言わさぬ行動はけっして一回限りの特別なできごとではない。彼らは、同様の強引な「調査」を前後数年間にわたり日常的におこなっていたのである。文部省のナンバー2がじきじきに参加するというのも注目すべきことだが、異様なのは、文部官僚による公式調査に、民間の外国人であって日本国とはまったく無関係のビゲローがちゃっかりと同行していることだ。まさに公私混同の極みである。

 ビゲローは1882(明治15)年から1886(明治19)年まで4年間滞在したのだが、まぎれもない外国人旅行者である。美術品の「海外流出」の防止などという考えを持つはずがない。むしろ、ビゲローは日本の美術品収集を目的に来日した外国人である。つまるところ美術品をアメリカに「海外流出」させるのが彼の日本滞在の目的なのだ。

 フェノロサの立場は少し微妙である。アメリカ人でありながら日本文化の称賛活動に活路を見出そうとするフェノロサは、日本美術の「保護」を訴え、その「散逸」と「海外流出」に警鐘を鳴らすことを期待される立場にある。しかし、「日本人」である九鬼隆一や岡倉覚三とは立場が異なる。いまのところ「お雇い」として厚遇されているが情勢の変化によっては、いつ放り出されるかわからない。そうなった時、一流の日本美術コレクションは威力を発揮する。フェノロサが仏像・仏画・仏具をはじめとする日本の「美術品」の「海外流出」を防ぐのを目的に活動していたと考える根拠はどこにも存在しない。事実は正反対である。当時、フェノロサとビゲローは、ふたり揃って、いずれは「海外流出」させることになる「日本美術」の収集活動に全力を傾注していた。

 フェノロサが光琳の傑作「松島図屏風」を購入したのは、来日した翌年の1880(明治13)年だった。「平治物語三条殿夜討の巻」の購入時期は、ボストン美術館のウェブサイトでは「1878−1886年」と幅があるが、1882年以来毎年開催される展覧会で「一度ならず」見たのちに買収したと言っていることを考えあわせると、1884(明治17)年から1886(明治19)年までの間であろう。『東洋名品集』(p. 49.)は、「1884年ころ」としている。「夢殿開扉」は、まさにこの時期、1884(明治17)年のできごとである。

 「夢殿開扉」においては、国(宮内省)による救世観音像召上げの可能性があったほか(この点については、§3で触れることにする)、同行した外人コレクターによる買い取りの危険性があった。

 彼らが買い漁るのは一般的な書画骨董であり、畏れ多くも仏像・仏画については遠慮するだろう、などと思い込んではならない。先に見たように、帰国直前の1886(明治19)年、ビゲローは東大寺法華堂根本曼荼羅図(11.6120)を購入している。金剛輪寺本尊の聖観音座像(11.11447)を入手したのはそれ以前である。フェノロサにせよ、ビゲローにせよ、もしそのチャンスが到来した時には、法隆寺東院夢殿の本尊、絶対秘仏救世観音像をわが物とすることに、いささかも躊躇することはないだろう。

 帝国官僚の権限を濫用したうえ、あろうことか「勅命」まで捏造した九鬼隆一、フェノロサ、岡倉覚三、ビゲローらによって、絶対秘仏は強制的に開帳させられた。しかし、彼らの到達点はそこまでだった。法隆寺僧侶団の鉄壁の守りが奏効し、救世観音像が帝国博物館の所蔵品になることはなかった。あるいは美術品コレクターの手に落ちて木箱で梱包され、横浜からシアトルへの太平洋の船旅と、シアトルからの大陸横断鉄道の旅を経てボストン美術館の収蔵品になることもなかった。

「これではいけない。このままでは、日本の大切な美術品や文化財が、みんな海外に流出してしまう。」(『ともに歩む』、p. 83.)

 この時、岡倉は本当にそう思っていたのだろうか? 茨城県教育委員会は何を根拠にこう記述したのだろうか?