若宮戸における河川管理史

10 公式河川区域と非公式河川区域

24.63kの氾濫地点の高さ5mの巨大仮堤防 遠景左は対岸24.75k付近の紅白鉄塔 右はRidge2上の慰霊塔

陸田(右下が給水設備)だったところが湧水により水溜りになっている(2015年11月19日)

 

Feb., 6, 2022

 

 2015年の水害直後、関東地方整備局河川部は、「側線の最高標高地点を結んだ縦断図」などというデタラメ説明を公表し、判断基準となる水位を、最低限の基準たるべき計画築堤高より2mほど低い痕跡水位速報値の「Y.P.=22m」に切り下げてしまったのでした(5ページ)。重要なのは無堤区間である若宮戸がY.P.=22mの地形だったかどうかである、とでも言っているかのごとしなのですが、支離滅裂なことにその「22m」すら充足していなかった区間があるのに、それでも責任はないと言い張るのです。すなわち、25.35k付近は「B社」による掘削以前から、その「22m」よりもともと0.71m低い区間があったのだが、「B社」による掘削後にその200m区間に同じ高さまで大型土嚢を「品の字」に2段置きしたから責任は果たしたというのです。こんなとんでもない摺り替え議論で、報道機関や国会、そして国民を幻惑したのです。

 さらにまた、20kmも離れた観測点(45.65k、筑西〔ちくせい〕市の川島水位観測所)のデータだけ取り上げて「既往最高の水位」を吹聴し、2か所で大氾濫を起こした若宮戸では計画高水位に達していなかったことなどおくびにも出さず、河川管理の決定的な誤りを否認し続けているのです。

 

 この項目「若宮戸における河川管理史」では、若宮戸河畔砂丘の構造の概要を確認した上で、1966年の建設大臣告示による河川区域指定の問題点を明らかにしたうえで、二つの対案について検討しています。そのひとつ、鬼怒川訴訟原告弁護団が主張する「Ridge2型河川区域境界線案」について、次のとおり問いを立てました。

 

若宮戸河畔砂丘のRidge2を河川法第6条にいう「三号地」に指定することの前提となる事実の有無

 端的に言うと

Ridge2は河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であるか否か

 

時期は、つぎのとおり

 ① 「B社」によるRidge2の一部掘削後の時点(2014〔平成26〕年以後)

 ② Ridge2の一部掘削後の時点(1967〔昭和42〕年ないし1968〔昭和43〕年以後)

 ③ 改正河川法施行の時点(1965〔昭和40〕年)

 ④ 上流側(26.00k付近)の鎌庭捷水路堤防に続いて、下流側(24.63kまで)の堤防が築造された時点(1952〔昭和27〕年

 

 すでに、以下のことが明らかになっています。

 

 ① 2015(平成27)年9月の、計画高水位に及ばない洪水によって、Ridge2の2箇所(25.35k付近と24.63k付近、いずれも計画高水位を大きく下回る標高だった)で激甚な氾濫が起きた。それらに加えて、計画築堤高に満たない区間はかなりの地点・区間に渡って存在した。「B社」によるRidge2の一部掘削後の時点(2014〔平成26〕年以後)でのRidge2は「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」ではなかった。

 ② 「B社」による掘削がなかったとしても、1967(昭和42)年ないし1968(昭和43)年以後のRidge2の掘削により、25.35k付近は計画高水位を下回っていた。また、下流側の堤防の24.50k近くの屈曲点から24.63k付近は、1967(昭和42)年ないし1968(昭和43)年には掘削されていないが、それ以前から計画高水位を大きく下回っていた。Ridge2の一部掘削後の時点(1967〔昭和42〕年ないし1968〔昭和43〕年以後)のRidge2は「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」ではなかった。

 

 残る③と④について検討します(④は改正河川法以前の時点では河川法第6条の「三号地」概念が存在しないのですから、形式上は無意味な問いなのですが、ここでは、その時点でRidge2が「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であったか否か検討するということです)。 

 これまでのRidge3型河川区域境界線である大臣告示および、「Ridge2型河川区域境界線案」についての検討を経て、最終的に若宮戸河畔砂丘における真正の「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」をあきらかにすることにします。

 

 

河川法改正時点において「Ridge2型河川区域境界線」は妥当ではない

 

 1964(昭和39)年に改正された河川法は1965(昭和40)年4月1日に施行されたのですが、建設大臣が鬼怒川の河川区域を告示したのは改正の翌々年、施行から1年9か月後の1966(昭和41)年12月28日です。

 鎌庭の大蛇行流路から鎌庭捷水路(かまにわ・しょうすいろ)への流路変更(1935〔昭和10〕年通水)によって、若宮戸河畔砂丘区間とくにその上流側(第1クォーターから第2クォーターにかけて)は、湾曲する流路の内側から外側に転換しました。さらに、鬼怒川上流へのダムの設置により下流側への砂の流出量が激減しました。そのため、左岸の寄州( side bar )への砂の堆積およびそこからの飛砂による河畔砂丘( river bank dune )の発達が完全に停止し、逆に左岸の寄州が急速に侵食されて消失し、さらに河岸の陸地が70m近く侵食されて、河道が河畔砂丘の〝畝〟ridge の間近に迫る危険な状態になっていました。

 そのような条件のもとでも、従来おこなわれていた寄州における採砂が一層大規模化し、1960年代半ばには寄州の砂資源がほぼ枯渇する事態に立ち至りました。そのため、1960年代半ば以降、若宮戸河畔砂丘の地主らが河畔砂丘本体の砂の掘削を指向する事態に立ち至りました。

 1960年代半ばまでは、砂丘の畝 ridge を越えなければならない面倒はあるにしても、篩い分けや洗浄を必要とせずそのままコンクリート資材となる良質な砂がいくらでもタダで手に入る寄州での採砂が可能だったのですから、一度掘削すればすぐさま枯渇するうえ、樹木の伐採と処分、根や表土の除去という余計な手間が必要である砂丘の〝畝〟ridge に手がつけられることはなかったのです。なにより、若宮戸河畔砂丘は石下町および水海道市の鬼怒川左岸一帯を洪水から防御する地形となっていたのですから、それを掘削することは到底考えられなかったはずです。しかも、上流側は26.00k付近で鎌庭捷水路の左岸堤防が「山付き堤」として擦り付き、下流側は24.63k地点で1952(昭和27)年に築堤された堤防が「山付き堤」として擦り付いているのですから、まさにその「山」としての若宮戸河畔砂丘を掘り崩すことなどいかにしてもあり得ないことだったはずです。

 繰り返しになって諄いのですが、占領軍撮影による1947(昭和22)年のものから、国土地理院による1959(昭和34)年から1964(昭和39)年までの航空写真を通覧します(迅速測図から抽出した〝畝〟の複列構造、2004(平成16)年の築堤設計における計画高水位を充足しない区間〔両端緑丸緑実線矢印〕と計画築堤高を充足しない区間〔両端白抜緑丸緑破線矢印〕、そして1966年告示の河川区域境界線〔マゼンタ〕「Ridge2型河川区域境界線」〔赤挟黄線〕などを重ね合わせます。

 

1947(昭和22)年1月3日

 

1959(昭和34)年5月20日

 第1クォーターから第2クォーターにかけて左岸が著しく侵食されています。

 

1961(昭和36)年7月9日

 河畔砂丘本体の掘削は「に」地点を除き、おこなわれていません。1947年以降ほぼ全域で樹木が成長しています。

 

 改正河川法により、従来「河川区域」とされていなかった、河道と堤防の間の土地(高水敷)が「河川区域」(河川法第六条第一項にいう「三号地」)に指定されて管理されることとなり、無堤区間にあっては「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」が「河川区域」(河川法第六条第一項にいう「三号地」)に指定されたうえで管理されることになりました(3ページ)。改正河川法の施行日は1965(昭和40)年4月1日ですが、この時期は若宮戸においては寄州の砂資源が枯渇し、いよいよ河畔砂丘本体に手がつけられようとするまさにその時であり、かろうじて河畔砂丘の掘削を押しとどめることができる、ギリギリの瞬間にだったのです。関東地方建設局(現・関東地方整備局)は法施行の当日に間髪を入れず26.00k付近から24.63k付近までの若宮戸河畔砂丘全域を「三号地」として河川区域に指定して、その保全をはかるべきだったのです(Ridge1型河川区域境界線案)。「べき」は、河川法が命ずる「当為」の意味でもあり、そうすれば保全することができた、という「可能」の意味でもあります。

 ところが、砂丘本体の掘削への願望が高まっていたこの時期に、関東地方建設局はただちに「三号地」の範囲を決定し告示することを怠り、建設省本省に稟議したうえで実際に河川区域を告示するまでの間、じつに1年9か月間も放置したのです。

 

1967(昭和42)年3月29日

 河川区域告示の3か月後ですが、すでに広範囲で河畔砂丘本体の伐採と掘削が進行しています。

 第2クォーターの市道東0272号線以北で、Ridge1ならびにRidge1とRidge2との「谷」がすでに掘削されています。告示後に立案してから工事契約を締結し、森林伐採の事前届出をしたうえで準備をととのえ、3か月間でここまで実行するのは、ほとんど不可能でしょう。1966年の年末に河川区域境界線を知ってから、はじめて掘削の意思を固めたのではなく、河川区域の告示前から手筈を整えていたことは確実です。

 告示前に実際に掘削工事をはじめていたかどうかはわかりません。可能性は、半々というところでしょう。しかし、Ridge2が25.53k地点で東側に膨らんでいる部分(*印)はまだ手が付いていないところをみると、下館工事事務所が線引きをする前に、すなわちその部分の掘削を容認することが明らかになる前に、*印部分については様子見としたうえで、とりあえず「谷」の部分だけの掘削に着手していたということも考えられます。

 低水敷の砂の枯渇により河畔砂丘本体の掘削を目論んでいて河川区域への包含を嫌悪する地主らと、治水安全のために権限を与えられた唯一の行政機関である関東地方建設局・下館工事事務所との間でどのような遣り取りがあったのか、今となっては知る人はいません。

 

1968(昭和43)年8月22日

 1967年の写真から1年5か月後の状況です。掘削は一層激化します。

 複列構造をとる河畔砂丘の最大の〝畝〟であるRidge1が25.00k付近の「ほ」地点北側から25.60k付近までほぼすべて掘削されています。Ridge1の一部ならびにRidge1とRidge2の「谷」だけだった1967年までの掘削土砂量より、この時期の掘削量は圧倒的に大量です。

 さらに、Ridge2の25.53k地点で東側に膨らんでいる部分(*印)が掘削されました。1967年に未着手だったのは、単なる途中経過だったのかも知れませんが、そこが掘削可能なのか否か様子見中だった、それが程なくして下館工事事務所が設定する掘削許容ラインの外側になったことで追加的に掘削対象になった、という可能性が濃厚です。これが「管理基平面図」にいう「計画の堤防法線」に沿ったラインです(9ページ)。下館工事事務所は、河川区域境界線はRidge3に沿わせて極度に河道寄りに引くことで、地主らの「所有権」制限を回避しつつ、26.00k付近の鎌庭捷水路堤防末端から24.50k付近の下流側堤防の60度屈曲点までをほぼ一直線に結ぶ線をガイドラインとして設定したのです。すなわち、第2クォーターから第3クォーターにかけては「計画の堤防法線」を設定し、第1クォーターにおいては〝裏〟河川区域境界線を設定することで、その河道側(西側)の〝畝〟の掘削を抑制したのですが、これはとりもなおさずそのラインより東側の掘削を容認したということです。若宮戸河畔砂丘全域が「三号地」に認定されれば、最大土砂量を擁するRidge1を含め、砂には一粒たりとも手をつけられないだけでなく、土地利用を大きく制限されることになります。しかし、このもぐり方針を受容しさえすればRidge1、ならびにRidge1とRidge2との「谷」、さらにRidge2の「*」部分の砂も手に入るうえ、跡地を耕地・事業用地・住宅地等として自由に規制なく利用し、さらに「河川区域」内という不利な登記事項なしに土地を転売することもできるわけですから、もとより反対する理由などないわけです。

 

1972(昭和47)年

 あとは、一気呵成に進行します。もぐりガイドライン(「計画の堤防法線」〔第2・第3クォーター〕と虚偽「河川区域境界線」〔第1クォーター〕)としての擬「河川区域境界線」の東側がスッパリと伐採・掘削されました。

 これで、いったん地形改変は終わります。下館工事事務所の行政指導のもとでは、もう採るべき砂は残っていないのですから。

 

1975(昭和50)年

 1975年の写真を見ると、Ridge2が東側に膨らんでいた地点には、家具工場が立地しています。しかし、このあと撤退してしまい、広大な空き地になります。

 そして、「*」地点の掘削により計画高水位すらおおきく下回った25.35k付近の残されたRidge2(右図の凸レンズを置いたM地点)を含めて、それまでの、阿吽の呼吸のもとでの掘削と「保全」の経緯など知る由もない、知ったとしてもそんなものは歯牙にも掛けない県外の地主に転売され、ただちにRidge2の「計画堤防法線」地点が前後200m区間にわたって無届伐採(違法)のうえ無届掘削(違法)され(別ページ参照)、翌2015年の氾濫にいたります。

 市道東0280号線(P)から60度屈曲点(Q)までの24.63k付近は、一応は「計画の堤防法線」内であり、それどころか河川区域境界線内でもあったこともあり、はるか以前からの地形がそのまま保存されたのですが、25.35kよりさらに標高の低い地点であり、同じ日の氾濫にいたります。

 以上のとおりですから、先に提示した問いのうち、③の改正河川法施行の時点(1965〔昭和40〕年)において、Ridge2は河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であるか否か、については、否ということであり、したがって、若宮戸河畔砂丘のRidge2を河川法第6条にいう「三号地」に指定することは失当である、ということになります。

 なお、ここで最初に問いを立てた時点では考慮外だった点があります。すなわち、③の改正河川法施行の時点(1965〔昭和40〕年)において、Ridge2は「Ridge2型河川区域境界線案」が前提としている形状と異なっていたということです。すなわち、上で「*」を付した25.35k付近ではRidge2は東側に湾曲していて、その出っ張り部こそ標高が高かったのです。その地点は計画高水位を充足していた可能性が高く、ひょっとすると計画築堤高を満たしていたことさえあり得るのです(その場合でも、第二の氾濫地点となった24.63k地点の地形は、幅100m以上にわたって計画築堤高はもちろん計画高水位すら満たさず、とりわけ標高20m以下の地点すらあったのです。それら以外にも、のちにサンコーコンサルタントの「第2案」の分析の際に詳細にみたとおり計画築堤高を大きく下回る区間が複数区間存在しています)。

 「Ridge2型河川区域境界線案」は、詳細な地図を示していないとはいえ、上の「*」の件についてはまったく考慮していないのであり、そうなると③ならびに④の時点については前提事実を看過しており、案として成立しないことになります。

 

 

河川法改正時の建設省方針は「Ridge2型河川区域境界線案」と同じだった

 

 改正河川法施行の時点(1965〔昭和40〕年)でRidge2は河川法施行令第1条にいう「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」であるか否か、という問いを立てて検討しているところですが、これは鬼怒川水害原告弁護団の主張であったわけです。しかし、ここまで紆余曲折しつつ諄く検討してきた結果、若宮戸河畔砂丘地点における建設省・国土交通省の河川管理の実質的内容は、「Ridge2型河川区域境界線案」と同旨のものであったことが明らかになりました。

 すなわち、建設省・国土交通省は第1クォーターについては偽りの「河川区域境界線」を、第2・第3クォーターについては「計画の堤防法線」を、あたかも建設大臣が告示した河川区域境界線であるかのように扱い、それによって地形改変を規制した、すなわちその線の東側は河川区域外の土地として、採砂や平坦化のための掘削低平化を自由におこなわせたのです。

 その際に、建設省=国土交通省、関東地方建設局=関東地方整備局、下館工事事務所=下館河川事務所が、地主らにどのように説明・説得・誘導・指示・命令したのかはわかりません。50年以上まえに一定の年齢以上であって直接的当事者としてこれらの実情を知る人は、今はただのひとりも生存していないのです。当時、20歳代で行政機関の管理職員だったり地主家族の当主だったりした人はいないでしょう。現地で高齢の住人に話を聞いても、1970年代以降に転居してきた人、近所の住人ではあっても地主でなかったので事情は一切知らない人、そして地主家族の一員であるが当時はまだ若く、当主である父祖の行為についてはわからない人ばかりです。他のことでは詳細かつ正確に諸事実を話してくれるのですから、昔のこととして忘れてしまったとか、微妙な点だからといって隠しているわけではなく、本当に経緯については知り得なかったのです。

 建設省=国土交通省は、大臣告示の河川区域境界線を実質棚上げ、それどころかほとんど無視しました。第3クォーターでいなば燃料が境界線内外を一様に掘削低平化するのを容認したのはその一例です。市道東0280号線沿いの境界線などというまったく無意味な線引きをしても平気だったのもそのためでしょう。そして、実質的には「Ridge2型河川区域境界線案」が想定しているのとほぼ同じラインを、あたかも河川区域境界線であるかのごとくに扱って河川管理をしていたわけです。

 いったん線引きをしてしまえば、その河道側が「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」となっているかどうかなど、まったく考えもしないようです。担当職員は全員がせいぜい2、3年の任期を勤めて頻繁に異動しているのです。さらにいうと、誰も自分が当事者だと思っていないのです。水害前ではなく水害後のことですが、関東地方整備局の担当部署の職員で、鬼怒川訴訟の被告である国の指定代理人に選任されている者が、河川区域の「大臣告示」も「管理基平面図」も見たことがない、そもそも自分の机上のコンピュータからはアクセスできない、というのですから恐れ入ります。