1 胡同と四合院

 北京というと、「胡同」(フートン)と「四合院」(しごういん)が必ずとりあげられます。胡同は、東西に走る幅員9mあまりの道路のことです(その2倍の幅員の道路が「小街」、さらにその2倍だと「大街」)。この胡同に面し、長方形に区画された敷地の四方を壁で囲ったうえで、中庭を囲んで四方(東西南北)に建物を配置する建築様式が「四合院」です。華北地方にひろく見られる様式だということです。

 

 典型的には南側に門があり、中庭の北側に南面して主たる建物が建てられ、東西と南側に従たる建物が建てられます。幅(東西)25m、奥行き(南北)60mほどの敷地が中流以上のお屋敷用地として割り当てられたようですが、これだと奥行きが余るので、北側の建物の奥すなわち北側にもうひとつの中庭を設け、おなじように北側と東側・西側に建物を建て、さらに大きな敷地では、もういちど重ねてその北側に中庭と北・東・西に建物を置きます。縦方向だけでなく、横方向(東西側)に四合院形式の建物が重なることもあります。「四合院」形式は、南北に、東西にどんどん重合してゆくのです。

 

 ただし、地形の関係などで、かならずしも中心軸が南北になるとは限りません。また、建設後500年以上を経過した現在の北京では、そのまま残っているものもありますが、四合院が内部で分割されたり中庭にも建物が建てられたりしたうえ、そこに複数の世帯が同居したりするようです。

 "photo" の「胡同」に掲げた写真は、そうした庶民の住宅街を、(門内には当然立ち入るわけにはいかないので)道路(胡同)を歩きながら眺めたものです。いまでは、こうした伝統的な街区一帯を「胡同」と呼んでいるようです。

典型的な「四合院」の鳥瞰図(右下が胡同に面する門)

 (楼慶西『中国歴史建築案内』2008年、TOTO出版、p. 224.

 教科書などによく載っている「清明上河図」(せいめいじょうかず)は、清明節の日の首都・汴京(べんけい・現在の開封〈かいほう〉)の様子を宋代の画家・張擇端(ちょう・たくたん)が描いたものです。おなじ主題の絵画がたくさん描かれたようです。日本の「洛中洛外図」と同様、同じタイトルの絵がたくさん残っています。

 上は台北の故宮博物院所蔵の「清明上河図」で、清代のものです。張擇端のものは黄ばんで着彩も失われていますが、こちらは程度も上々です。模作・複写ではなく、清代の「清明上河図」は当時の事物を描いたものです(故宮博物院の解説を参照)。

 

 「清明上河図」というと、まずは通りを通行する人々や動物(駱駝もいます)、あるいは川辺からおおぜいの人によって綱で曳かれて運河を航行する船などに眼がいきますが、通り沿いの建物も詳細に描かれています。上の場面は、縦35.6cm、横11m52.8cmの巻物のちょうどまんなかあたりですが、画面左下から右上にかけての対角線上に、「四合院」がみごとに描かれています。4つの中庭があるりっぱな四合院住宅のようで、なんと入り口には牌楼(はいろう)まであります。

 「四合院」を知らないで見ていた時には、ただ建物が並んでいるようにしか思いませんでしたが、これこそ中国都市における基本的な建築物の配置形式だったのです。

 この「四合院」は、一般住宅の建築様式であるだけではありません。

 紫禁城の大和殿から乾清門までの「公的」部分(図の中央やや上)も、乾清門から北側の「私的」部分(その上方=北側)、すなわち皇帝とその家族の居住部分も、いずれも四合院形式です。

 

 とくに「私的」部分では、大中小の四合院がくみあわされています。すなわち、中心にある乾清門から入った乾清宮から交泰殿、珅寧宮の部分だけでなく、赤字で名称が記してある中規模の建物群、さらに「東六宮」「西六宮」という六つの小規模な(といっても、相当大きな)建物群などが、いずれも四合院形式です。まるでwindows8のタイル画面のようです。

(楼慶西、前掲書、p. 54.)

 なお、紫禁城では、これら四合院形式建築群が、一定の縦横比で配置されています。

 たとえば、奥の私的部分の中心である乾清門から珅寧宮の部分は、南北(縦)218m、東西(横)118mであり、前方の公的部分の中心である大和門から乾清門までは、縦横それぞれ2倍の南北(縦)437m、東西(横)234mとなっています。

(同、p. 64.)