横浜中華街1

 横浜中華街について以前から不思議に思っていたのは、そこだけ、街路の方向が周囲とまったく異なっていることでした。上の衛星写真(Apple computer, OS-X : Mapsによる)の下方やや右の、横浜スタジアムの東に見える、周囲と45度ほど角度がずれている街区が横浜中華街です。中華街地区は「横浜中華街『街づくり』団体連合協議会」などの民間団体の活動により高層ビルやマンションなどの大規模建造物が存在せず、小規模な建物だけからなっていることもあり、衛星写真によっても街路・建築群構成の違いは歴然としています。

(ただし、後ほど示すパンフレットの地図の通り、西側の直角二等辺三角形の部分のほか、北側と東側の外郭道路の向かい側なども中華街に含まれます。)

 

 横浜開港資料館前に、「像の鼻」(右の図の紫の円内)について説明する掲示板が立っています。掲示は1882(明治15)年の地図(右上)を示したうえで、ここにいたる街区建設の経緯について次のように述べています。

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  海岸と首都高速神奈川1号横羽線(もとの派大岡川の河道を走る)、ならびに首都高速神奈川3号狩場線(堀川の上を走る)に挟まれた一帯すなわち「関内 かんない」は、明治政府による都市開発の結果だとばかり思っていたのですが、江戸時代末期の1866(慶応2)年の大火を契機に江戸幕府によって立案されたものだったというのです。(考えてみれば、「関所」の「内」というのですから、江戸時代でなければありえない命名です。)その際、今日の中華街地区の街区は、それまでの「横浜新田」の道路(畦道 あぜみち)をそのまま継承したというのです。

 横浜スタジアムとその東西部分は「太田屋新田」、そして45度ずれた中華街の部分は「横浜新田」といい、いずれも江戸時代に入江を埋め立ててつくられた水田地帯でした。1859(安政6)年の開港以降、「象の鼻」の付け根付近を境にして、東南側一帯が外国人居留地、北西側が日本人町にされたうえで、1866(慶応2)年の大火を経て街区が整備されたのです。その際、もとの「横浜新田」では畦道とそれに沿った排水路がそのまま新しい街区の線とされる一方、その周囲については海岸線に平行ないし垂直に街区が整備され、こうして現在の中華街の主要部分とほかの部分とは互いに45度傾斜する街区ができあがったというのです。(横浜商科大学『横浜中華街の世界【増補版】』2012年、学校法人横浜商科大学、pp. 22-25, 253-55.)

 

 冒頭の衛星写真を、ズームアウトすると下のようになります。画面左上の「野毛」と、右下の「山手 やまて」とに挟まれた三角形の土地、すなわち「野毛」とは大岡川(画面ではっきりわかります)で、「山手」とは堀川(画面右なかほどから左下にかけて、現在は上を首都高神奈川3号狩場線が走ります)で隔てられた土地は、全体が海だったのです。

 さて、以上の説明では、中華街の街区が周囲と45度ずれていることの理由はわかるのですが、いくらなんでも「横浜新田」の水路と畦道設定に対して、あるいはそれをそのまま外国人居留地にするにあたって踏襲したことに対して、中国文化・中国人の影響があったということはありえません。伊藤泉美・横浜開港資料館主任調査研究員の見解は次のとおりです。(前掲書、p. 24.)

 

中国の人は土地を買う、あるいは借りる、間取りを作るときに、風水を大切に考えます。新しく全く知らない土地で自分の商売をしたり、関帝廟〔かんていびょう 中華街にある関羽を祀る廟〕を建設したりするときに風水を考えないとは思われません。東西南北の道が正しく流れているということは、気が流れやすいということではないかと思いますが、偶然ではなく、おそらくこの横浜新田の場所を好んで買ったのではないかと考えています。

 

 いささか決め手に欠ける話ですが、当時(幕末から明治初期)移住してきた華人が風水を志向したという、ある程度頷ける推測として受け取っておくことにしましょう。

 というのも、現代における中華街の華人(中国人)の風水志向をうかがわせるはっきりした事実があるのです下に中華街の案内パンフレットに載っている地図を掲げましたが、何箇所かに牌楼(はいろう)が記されています。このうち、中華街の4つの入口の牌楼に注目すると、いずれも風水にのっとっているのです。すなわち、


方位   名称          色彩    四神

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東  朝陽門(ちょうようもん)  青   青龍(せいりゅう)

南  朱雀門(すざくもん)    赤   朱雀(すざく)

西  延平門(えんぺいもん)   白   白虎(びゃっこ)

北  玄武門(げんぶもん)    黒   玄武(げんぶ)

 

 南の「朱雀門」と北の「玄武門」という名称は風水理論における四神(しじん)ないし四獣のとおりです。色彩はすべて風水理論どおりです。東は、「青龍門」ではなく「朝陽門」に、西は「白虎門」ではなく「延平門」になっていますが、「朝陽」とは朝日のことで、東を指します。明代の北京の東側城壁の中央の門が「朝陽門」でしたし、現代北京の朝陽区(朝阳区)は旧城壁の外、東側一帯の超高層ビルが林立するCBD(central business district)を含む区の名称です。いっぽう隋唐時代の長安(現在の西安)の西側城壁の門のひとつが「延平門」でした。

 中華街全体が正確な方形をなしているのではないうえ、各牌楼が主要な街区に立地するため、4つの牌楼の方位は東西南北からだいぶ偏移しています。にもかかわらず、風水理論の四神の名称と色を用いているところに、かえって現代の中華街の華人たちの風水に対する深甚な志向を感じ取ることができるのです。(パンフレットの地図の次は、朱雀門の正面(南側)の写真です。「中華街」という扁額があり、柱には「朱雀門」と明記されています。なお、信号も赤であわせました。)


メアリーズビル中華街

 

こちらは日本ではなく、アメリカ合州国の中華街です。有名なサンフランシスコではなく、以前のカリフォルニア州都の中華街です。