「避難指示の遅れ」の責任を自覚している国土交通省 3

18, Oct., 2015

 前ページでは最後に、国土交通省関東地方整備局下館(しもだて)河川事務所から常総市役所への「情報提供」のうち、「若宮戸(わかみやど)」地先の左岸25.53km地点での「越水」に関する部分を見ました。前年の「ソーラパネル」業者による砂丘(「自然堤防」と誤って呼ばれています)掘削事件の現場ですから、下館河川事務所が当該地点における水位上昇による「越水」の危険性を認識していたことは明らかであり、「越水」開始以前から「避難勧告」や避難所の準備(9日22時54分)、「避難勧告」の発令(10日1時23分)さらには「避難指示」の発令(2時06分)を促す「情報提供」を適宜おこなっていたのでした。下に下館河川事務所による河川状況の把握、同事務所から常総市役所への「情報提供」、常総市役所による避難指示等の発令状況の表を再度示します(クリックで拡大表示します。この「若宮戸」に関する項目は青い罫線にしてあります)。

 ひきつづきこのページでは、「三坂町上三坂(みさかまち かみみさか)」地先の左岸21.0km地点における「決壊」と、「避難指示」の関係について、わかっている事実にもとづいて検討することとします。

 

 10日未明、午前2時25分に、「若宮戸」での氾濫による浸水が予想される地域のうち、概ね3時間以内の浸水予想地域に避難指示を発令した後も、常総市役所は8時45分から11時20分にかけ、5回にわたって避難勧告・指示を発令しています。結果として「三坂町上三坂」を外したので、常総市役所はまるで拱手傍観していたかのようにみなされて叩かれているのですが、左岸右岸にまたがる広い範囲に避難勧告・指示を発令していることは無視すべきではありません。その判断根拠が何であったのかは、今のところは(2015年10月中旬)一切明らかではありません。対象地域として右岸が多いことから、とりわけ右岸に危機意識をいだいていたようですが、その理由も不明です。「住民からの通報」で避難指示を出していたのではないかと推測もあるようですが、不明です。

 国交省からの「情報提供」との関連性に限定して考えると、7時11分の「ホットライン」での「下流部の危険箇所からの越水も予想されます」という「情報提供」が発令の根拠となっていたように思われます。ここで「下流部」とは一般的な意味で言っているのではなく、「若宮戸」のさらに「下流部」という趣旨のようです。なぜ「下流部」としているかというと「若宮戸」が常総市の鬼怒川沿岸としては、最上流であるからです(ただし左岸と右岸では約400mずれています)。それより上流側でもすでに「越水」等は起きているわけで、国交省は当然、筑西(ちくせい)市、結城(ゆうき)市、下妻(しもつま)市、八千代町など沿岸の市役所・町役場への「通報」を行っているに違いありません。


 事態が急激にうごくのは、11時11分です。前ページでも示した国交省の「鬼怒川堤防調査委員会」の第2回会合の際の資料(http://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/river_bousai00000108.html)の一部です。

 

 

 この4枚の写真は国交省職員が「内水排水ポンプ車」(写っているワイバーの形状、フロントアンダーミラーが付いていることからも乗用車でない大型車両であることがわかります。)を運転して左岸堤防天端(てんば=堤防の上の面)を上流から下流に向かって走行中に現認したうえで撮影したものです。このあとの「状況把握員」と「河川巡視員」は、業務を委託された企業の従業員と思われますが、こちらは書いてあるとおり国土交通省の職員で、おそらく下館河川事務所鎌庭出張所の職員でしょう。この職員はただちに「鎌庭出張所へ立ち寄り報告」します。おそらくすぐ先の斜路もしくは700m先の「常総きぬ大橋」地点で堤防天端から降りたのだろうと思われます。

 「鎌庭」とは下妻市鎌庭のことで、ここからは直線でも8km以上離れた場所で、自動車で行ったとすれば早くても15分はかかるでしょう。しかし、下館河川事務所の「鎌庭出張所」は、下妻市鎌庭ではなく常総市新石下1302にあります。三坂町上三坂の越水地点からは直線で800mです。越水地点すぐ先、のちに決壊して跡形もなくなる坂路で降りれば1kmもありませんおそらく複数乗車していた職員らは5分くらいで飛んで戻り、デジタルカメラのモニター画面でこの写真を示したのでしょう。この時点で国土交通省として「越水」を確認したに違いありません。写真撮影から約30分後の11時42分、「ホットライン」で常総市役所に「21k付近で越水。避難してください」と「情報提供」がおこなわれます。

 

 鎌庭出張所から直接、常総市役所に「情報提供」したか、それとも鎌庭出張所からいったん下館河川事務所へ電話等で連絡し、ついで下館河川事務所から常総市役所に「情報提供」したかいずれかでしょう(まさか、さいたま市の関東地方整備局を通じてということはないでしょう)。緊急事態ということで直接だった可能性もありますが、かかった時間(約30分)からすれば下館河川事務所を経由したのでしょう。

 もうひとつ下館河川事務所を経由したと思われる理由があります。

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上のバルーンが、下館河川事務所の鎌庭出張所(常総市新石下)

下のバルーンが、のちに決壊する越水地点(左岸21km)


 

地先名錯誤の原因についての推理

 

 以下は、まったくの推測であって特段の根拠があるわけではないのですが、これによりいくつかのことが整合的に解釈できると考えます。

 さきに見たとおり(前ページ末尾近く)、翌朝11時00分に訂正発表するまで、じつに22時間近くも下館河川事務所はこの地点を「新石下地先」としていました。そもそも「地先」は或る場所の先という程度の意味で、ひとつの場所が複数の地名の「地先」であることもあり得るなど、あまり厳密なものではありません。なにより、もとの地名がかなり広い場合には、ある場所をピンポイントで特定することはできません。したがって河川の堤防の場合、河口(鬼怒川の場合は利根川への合流点)からの距離、すなわち下流から上流へ遡行して割り振られた里程の数値で客観的で正確な地点を特定するのです。ですからこの場合、左岸の「21k地点」とすれば間違うことはないのですが、「地先」で地名を付け加えたうえ、しかもそれが誤りであったために混乱を招くことになったのです。

 


左岸5.25km地点 常総市(守谷市大山新田地先)    右岸26.0km地点 下妻市皆葉地先(「若宮戸」の上流500m対岸)

   里程表示の例

 

 鎌庭出張所自体が地先表示を間違うことは(絶対ないとはいいきれないものの)およそ考えられませんが、間接的であれ直接的であれ、それを電話ないし「ホットライン」で受けた側が、地先表示を勘違いした可能性が濃厚です。そして、発信元がよりによって下妻市の鎌庭ではなくて常総市の新石下にある鎌庭出張所だったのです。つまりこういうことです。発信元の鎌庭出張所の住居表示である「新石下」を越水地点と取り違えた、という可能性です。これをお読みの方は、何を馬鹿げた憶測を、とお思いでしょうが、どこかで「上三坂」が「新石下」に化けたのは事実であって、これ以外に錯誤の原因は思いつかないのです。

 下館河川事務所自体が翌朝訂正発表するまで「新石下」だとしていたのですから、常総市役所が「情報提供」を受けた時に勘違いした可能性はゼロです。下館河川事務所が聞き取った時点で勘違いが発生した蓋然性が高いでしょう。(下妻市鎌庭には水位観測地点があり、「鎌庭」といえば水位観測地点を、「新石下」といえば鎌庭出張所を指すなどの慣用があってこういうことになったとかいろいろ原因は考えられます。)

 しかも、たとえば「鎌庭」と「新石下」であれば直線距離で5kmも離れているのですから、地点を取り違えたとしても、すぐにもおかしいと気づくところですが、「新石下」と「三坂町上三坂」は、間に「大房(だいぼう)」を挟むのですが、「新石下」が飛び地になっていて「三坂町」に直接隣り合っているのですが、その境界線近くの「三坂町上三坂」で決壊したのです。下左が「新石下」、下右が「三坂町」の範囲です。ふたつの大字の間が大房です。青の矢印は常総市新石下1302の下館河川事務所鎌庭出張所、赤の矢印は三坂町上三坂の越水(のち決壊)地点です。

 

 じつはグーグルマップと人口統計ラボでは、表示が異なっており、両方を見ていたために、この部分は当初同一ページ内で矛盾したことを書いていましたが、グーグルマップに従って訂正しました。住所の間違いを指摘しておいて自分で間違っていたわけですが、当該場所の住居表示の複雑さと「地先」表示の曖昧さ故に、インターネット上のウェブサイト間でさえ矛盾があるのです。このように、このページで取り上げた地名認識上の錯誤は、いとも簡単に起きるのです。なお、グーグルマップの表示は画面に表示があるようにゼンリンのデータによっているようです。ゼンリンのデータは最も信頼性が高いとは思うのですが それが各行政機関等(国交省下館河川事務所、国交省国土地理院、国交省気象庁、茨城県庁、常総市役所、郵政省、東京電力、NTT、などなど)の使用しているデータと完全に一致しているのかどうかは実のところまだわかりません。人口統計ラボの表示との齟齬の背景にこのような複雑な事情があるのかもしれません。再度調べて必要があれば訂正します。

 なお、2006年10月1日に合併して常総市となった結城(ゆうき)郡石下町と水海道市の、郵便局による旧町名・旧大字名と現町名・現大字名ならびにその対応については、水海道市: http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=8&city=1082111&cmp=1、結城郡石下町: http://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=8&city=1085231&cmp=1 に記載されています。地名の読みなどもわかります。

 

常総市新石下

 鎌庭出張所(青矢印)があります

常総市三坂町

 上三坂地先で越水(赤矢印)がおき、ひきつづいて決壊しました


 

 もちろん「左岸21k」という里程は正しく伝達されているわけですから、このような取り違えが生じたことは信じがたいものではあります。しかし、現に起こった以上、それには当然理由はあったわけで、推測として出張所の名称と所在地の食い違いを指摘したものです。

 

地先名錯誤に気づかなかった理由についての推理

 

 次に下館河川事務所がこの間違いすぐに気づかなかった理由を推測してみます。

 ここで、「若宮戸」と比較すれば事態ははっきりします。下館河川事務所は、「若宮戸」であれば、何が起ころうとも絶対に間違うはずがなかったのです。

 前年の一連の騒動があり、不十分な対策しかしていないことは自分自身が一番よくわかっているのですから、数日続いた豪雨におそらく下館河川事務所全体が戦々恐々としていたはずです。案の定、目の前で「越水」し(堤防がないので定義上「決壊」ではないものの)氾濫の激しさはもはや「決壊」というほかない状態に立ち至り、みずからの対応の不十分さが引き起こしたおそるべき事態に、騒然としていたにちがいありません。数百メートルにわたって「高さ2メートル」(実情は不明)も掘削された地点に、ただ土嚢を積んだだけの効果の期待できない対応しかしなかったことが、下館河川事務所の段階での意思決定であったのか、それともさいたま市の関東地方整備局など上からの指示だったのかはわかりません。いずれにしても、もしこのあとの「三坂町」での決壊という空前の大水害がなかったとしても、この「若宮戸」ひとつで下館河川事務所がその存在理由を完全に喪失するほどの大事件だったのです。

 「若宮戸」以外についてはどうだったでしょうか。下館河川事務所は、小貝川の81.9kmを含む合計181.5km、すなわち「関東地方整備局管内で最も長い区間を担当」(http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate_jimusyo.html)しているのですが、鬼怒川については上平(うわだいら)橋上流(栃木県塩谷郡塩谷町及び宇都宮市地先)から滝下(たきした)橋(茨城県守谷市地先)までの延長98.5kmを管轄しているのです(鎌庭出張所は、このうち長塚橋から滝下橋までの31.8km〔http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/gaiyo10/h23ijikanri%20kinu.pdf p. 48.〕)

 

守谷市板土井地先の滝下橋下左岸の管轄の標識 上流側が下館河川事務所鎌庭出張所、下流側が利根川上流河川事務所守谷出張所


 

 太田昭宏国土交通大臣(当時)が、「鬼怒川の堤防は全部が同レベルでできていた」と豪語した件については、別ページ以下で検討したとおりで、「同レベル」といっても「100年に一度」とか、「30年に一度」ではなく、じつに「10年に一度」の降水であっても耐えられないというのが鬼怒川下流域の堤防の全体傾向だったという意味での「同レベル」です。しかも、その後だんだんわかってきたことですが、堤防の高さは場所によってまちまちで波打つように上がったり下がったりしているのです(現地の写真を参照ください。国交省文書については改めて指摘します)。その意味では、同じ「レベル level」ではないという意味でも「同レベル」なのです。このおそるべき「同レベル」の堤防が何十kmもあるのですから、どこが危険かと問われれば、全部が危険だと答えるほかないという惨状です。したがってまた、現地を頻回に巡視していた職員や請負企業の従業員であれば別ですが、下館河川事務所のデスクワークの担当者にしてみれば、どこもかしこも危険地点なのだから特段「左岸21k」だけを意識していたわけでもなく、里程表示の「左岸21k」と「新石下地先」の矛盾に気づかないということもありえただろうと思われるのです。

 「若宮戸」での氾濫以後も水位は上昇し続け、下館河川事務所は落胆している場合ではなく、鋭意活動を続けたに違いありません。あえて言えば、組織の面目と自分の立場が危うくなって気落ちしたのは上級管理職員だけであり、この日、水害防止のための職務についた一般職員や、下請け企業の従業員たちはまさに命がけの活動をしていたのです。11時10分から11分に写真を撮った車両にしても、ここが危ないと想定して「三坂町上三坂地先」を目標地点として向かったのではないようです。たまたま越水地点に通りかかったところで越水を発見したものと思われます。

 こうして、越水箇所が発見されたのですが、新石下にある鎌庭出張所から情報を受けた下館河川事務所は、「左岸21k地点」を「新石下地先」と誤認して常総市役所への「情報提供」や記者発表をするにいたった、と考えられます。

 

 以上の推測はここに書いた限りの理由によるものであり、それ以外に何らの根拠もありません。無理な仮定が多すぎて妥当な推測の範囲を超えていると言われればそのとおりです。拘泥はしませんし、ほんとうの事情があきらかになれば撤回します。しかし、現時点において下館河川事務所はこの地先名取り違えの原因については説明していませんし、「現地調査の結果」修正したと言っていることからも、どこかにうっかりミスが入り込んだことはたしかでしょう。

 さて、次に進みます。この推測の当否にかかわらず、11時42分の「21k地点で越水、避難してください」と「情報提供」したとする下館河川事務所の説明には若干の疑義があります。すなわち、ここで本当は「21k地点、新石下地先で越水」と言ったのではないかと思われるのです。このあとも記者発表を含めて「新石下」のまま「通報」がおこなわれているわけですから、この時だけたんに「21k地点」と言って、「新石下」とは言っていないというのは不自然です。ファクスとか電子メールなどの補助的手段も併用したのかもしれませんが、そもそも「ホットライン」ということで主には電話で直接会話したのでしょうから、当然「新石下地先」と言ったと考えられます。すくなくとも、ここで「三坂町地先」あるいは「三坂町上三坂地先」と言うことは、絶対にありえません。もし「三坂町地先」と「ホットライン」で「通報」していたとすると、その後、13時20分に「はん濫発生情報」として「常総市新石下よりはん濫しました」との(ファクスによるものと思われる)「通報」があった際に、受けた常総市役所側で誤りに気づいたはずです。そうすれば修正発表がかなり遅れて翌朝になることはありえないのです。もし「21k」とだけ言って、聞いたほうの常総市役所職員が「三坂町地先ですか?」と確認したということもありえません。

 

地先名錯誤の結果についての推理

 

 11時42分時点で越水の事実を知ったのに、なにゆえ常総市役所はただちに直下の三坂町上三坂に、避難指示を発令しなかったのかについては、次の想定が成立します。

 

 以上のような経過から、当然、常総市役所は、三坂町上三坂地先の堤防で越水が起きているとは受け取っていないのです。常総市役所は、「新石下地先」で越水がはじまったと受け取ったのです。「若宮戸」での「越水」を受けて、常総市役所は「新石下」の北半分(県道土浦境線〔東の土浦市と西の猿島郡境町を結ぶ県道24号線〕以北)にはすでに2時25分に避難指示を発令し、「新石下」の南半分(同県道以南)にもすでに4時00分に避難勧告を発令してあったのです。「21k地点 新石下」での越水という「情報提供」にもかかわらず、直下の「三坂町上三坂」への避難指示発令がおこなわれなかったことの原因として推測できるのは以上のような経緯です。

 

「新石下」の区域

中央を横切るのが県道土浦境線(茨城県道324号線) 黒の矢印が「三坂町地先」の決壊地点

 

 

 これ以外には、「若宮戸」での「越水」への対応だけで手いっぱいになり、他に気がまわらなくなったという新聞記事などの論調があります。しかし、常総市役所は「若宮戸」以降もたたみかけるように他地域に批判勧告・指示を発令しているのですから、そのような憶測は成り立ちません。「住民からの通報」によるとされる三坂町中三坂上・中三坂下への避難指示を除くと、多くが右岸への避難指示です。左岸の「若宮戸」とは関連しない右岸への避難指示をあいついで発令していることからも、常総市役所が「若宮戸」だけに気を取られて判断停止状態にあったのではないことはあきらかです。

 

 現に越水が起きてしまってからの避難勧告や指示発令には、時間的な遅れという根本的な問題が指摘されるところです。しかしその場合でも、越水・決壊現場近くでは激流となるものの、一般的には氾濫水の流下速度は人間が歩く速さを下回ることから、越水・決壊地点に近い所とそうでない所は分けて考えなければならないなど、事情は複雑です。しかし、今、結論めいたことを書くのは妥当ではありませんから、さらに検討をしたうえで改めて論ずることとします。


 さて、いささか先走りすぎました。まだ「三坂町上三坂地先」堤防は越水であり、決壊にはいたっていません。

 さきの「内水排水ポンプ車」の国交省職員が最初に越水を現認してから50分後に、同じルートで「状況把握員」が巡回用車両で通りかかりました。同じく、第2回「鬼怒川調査委員会」の資料の写真です。1枚目は、さきほどの写真もそうでしたが、堤防の天端が「同レベル」でなく、高さに違いがあることがはっきりわかる写真です。文面からみてこの「状況把握員」は、50分前(11時10分頃)に国交省職員が越水を現認した件は知らないようで、「越水開始直後と思っていた」と言っています。実際には少なくとも50分間は越水が続いていたのです。3枚目、4枚目から、越水した氾濫水によってすでに堤内(川裏)側の法面(のりめん)が大きくえぐられている(「洗掘〔せんくつ〕」)ことがわかります。決壊目前です。ライトバンで通過するのは命がけです。


 

 3枚目と4枚目を拡大してみます。氾濫水が堤防の土を洗い流して掘りすすみ(「洗掘」)、深い穴「落堀(おちぼり、おっぽり)」ができているのが見えます。11時11分の「内水排水車」の国交省職員の写真には「落堀」はないようですから、約50分間でこのように「落堀」が形成され、ここまで拡大していたことになります。

 3枚目は赤い腰壁の家屋のすぐ上の地点での「洗掘」の様子です。映像は画面左で切れていますが、「洗掘」が幅広く進行しているように見えます〔訂正=下記参照〕。4枚目はおそらくその少し下流側で、助手席側のドアミラーには撮影者の手とカメラも見えます。こちらでは「洗掘」による「落堀」の形成は、一点に集中するように進行し、それだけ深い穴を掘っているように見えます。

 

以下、若干注記します。

 この建物は当然流失したのだろうと思っていたのですが、2015年10月27日に現場をみてきたところ、この赤い腰壁の建物はだいぶ破壊されてはいましたがほぼそのままの位置に残っていて、落堀らしきものも見当たりませんでした。たしかに3枚目と4枚目は状況が異なります。破堤して消失し、再建された205mはこの下流10mほどのケヤキらしい大木(下の「河川巡視員」の写真に写っています。)より下流でした。この部分の堤防は越水しただけで破堤していませんでした。近日中にこの部分を書き直し、あわせて現状の写真もここと別ページに掲載します。(10月27日記) 訂正:大木の上流側50mと下流側150m、あわせて約200m

 「7週間後の三坂町」に一部の写真を掲載しました。(11月2日)

 国交省や国土地理院の地図ではわかりませんでしたが、Googleの写真を拡大してみたところ、この部分は決壊が下流側から進行してきてここで止まり、ケヤキを頂点にして斜めに堤防が残ったことがわかりました。ようするにここはかろうじて川裏側が半分のこった状態で、それで建物やケヤキが流失せずに残ったようなのです。のちほど別ページに写真を載せます。(11月4日記)




 さらに、同じ頃ですが、堤防直下を南北に走る県道谷和原筑西線(茨城県道354号線、もとの国道294号線)の道路冠水に気づいた「河川巡視員」が堤防上にあがって越水状況を確認の上、写真撮影をしています。国交省資料ではあとに掲載されていますが、赤い腰壁の家屋のあたりの越水状況からみると、上の「状況把握員」より少し前に撮影したもののように思えます。


 


 そして12時50分頃、とうとう堤防が崩れ始めます(決壊)。その様子は、対岸の「篠山水門」に併置された監視カメラによってはっきりと確認され、下館河川事務所は「鬼右21k」堤防の決壊を把握します。この監視カメラ(CCTV : Closed Circuit TeleVision 「閉鎖回路テレビ」)は動画映像を常時下館河川事務所に送信しているもののようです。動画ですが、資料ではそこから3枚の静止画像を切り出しています。

 対岸から撮影しているので、河川水が堤防天端に達したことなどは識別できても、対岸の堤防の川裏側法面で起きている洗掘や落堀の形成などはわからないでしょう。決壊して家屋が流される様子はよくわかります。

 なお、このモニター画面には下のように里程が表示(「鬼右21K」)されていますが、地点名はこの水門の名称(「常総市篠山水門」)であったため、地先名の誤り(「三坂町」を「新石下」と取り違え)には気づかないままです。 

 

 決壊を確認した下館河川事務所からその旨の「情報提供」があったのが、13時20分です。それに先立つ13時08分、常総市役所は鬼怒川左岸(東岸)全域に避難指示を発令しました。誤解しやすいのですが、常総市役所は決壊の事実を知ったのちに、避難指示を出したのではなく、その「通報」前に発令しています。

 

「空白」の1時間26分

 

 それにしても不思議なのは、11時42分の「ホットライン」から、13時08分の避難指示発令までの1時間26分の長い空白です。常総市役所は、新石下のうち県道土浦境線以南への避難勧告を避難指示に引き上げることをしていませんし、そのほかにも特段の避難勧告・避難指示の発令をしていません。それだけではありません。下館河川事務所も、特段の「通報」をおこなっていないようなのです。9月17日の記者発表文書に列挙された「ホットライン」は全部で7件あるのですが、そのうち「若宮戸」に関する5件では、「避難勧告、避難所の準備をしてください。」「避難勧告を行ってください。」「避難指示を出してください。」さらに「越水がはじまります。」と具体的にとるべき措置まで示していたのですが、この「新石下」と誤認された「三坂町」の場合は、11時42分の「ホットライン」で突然「避難してください。」と「情報提供」があり、その後、13時20分の「はん濫発生情報」での決壊を意味する「氾濫」の「通報」まで何もないのです。「若宮戸」に関しては、「情報提供」といっても、事実上は下館河川事務所が常総市役所に避難指示のタイミングを具体的にその都度〝指示していたのです。ところが、一層深刻な「三坂町」(その時点では「新石下」と誤認されていた)の場合には、このような段階を追った「情報提供」(〝指示〟)は行われなかったし、越水現認後の11時42分に避難を促して以降、常総市役所の動きが止まったように見えるにもかかわらず、なんとかしろと催促した様子もありません。

 「30回以上電話」していたという報道もあるようです(未確認)。国交省自身の発表文書では「ホットライン」は7回だけです。もしかして「電話」のことは書いていないだけなのかも知れませんが、書かない理由はありませんから、それはなかったものと考えてよいと思います。

 

 ここでもある程度の推測をおこなわざるを得ません。

 どうやら下館河川事務所は、上の12時00分の「状況把握員」と、12時05分頃の「河川巡視員」が、洗掘に及んでいた越水状況を現認したことを、9月10日の時点では知らなかったようなのです。というのは、上に抜粋した「状況把握員」と「河川巡視員」による現認の事実と写真については、9月28日に開催された「鬼怒川堤防調査委員会」の第1回会合の際の資料では、いっさい言及がなく、このふたつは10月5日の第2回会合の際の資料に、堤防直下の住民がおそらく携帯電話機で撮影した動画(のスクリーンショット)とともにはじめて登場したのです。しかも第1回の資料では、「11:46には越水があり」(p. 16.)としていたのです。洗掘についての言及はありませんでした。

 11時10分から11分に写真を撮影したのは国交省職員であり、直後に新石下の鎌庭出張所に駆け込んで知らせています。この現認を受けて、11時42分に「ホットライン」での「21k付近で越水。避難してください。」という「情報提供」になったのは明らかです。ところが、洗掘が進行し間もなく決壊するであろうことが明白である12時00分頃および12時05分頃の現認証言は、9月10日当日はもちろん、9月28日の第1回会合の時点でさえ把握していなかった可能性が高いのです。(なお、第1回資料で「11:46には越水があり」としていて、この11時10分から11分の写真のことも忘れているのですが、9月10日の時点で把握していたことは確実ですから、たんに9月28日の資料を作る際に忘れたものでしょう。しかし、このあとの2件は違います。)

 前々ページの末尾近くでみたとおり、9月10日の午前6時までの時点で、すでに「若宮戸」を含む5か所で越水が起きていたのですが、「若宮戸」は別として他の場所は決壊までには至りませんでした。11時42分の「ホットライン」の「避難してください。」は、現在の時点での印象では、当然鬼怒川左岸全域についてのものだったように受け取ってしまうのですが、もしかすると、この時点で下館河川事務所は、越水地点直下の住民に対する避難指示を想定していたのかも知れません。後者だと言い張るつもりはありませんが、さりとて前者であると断定する根拠も薄弱です。この文書だけではわからないとしか言いようがないのですが、あえて推測するとすれば、12時00分頃ないし05分頃の洗掘の事実を下館河川事務所は当日は確認していなかったらしいこと、さらに、常総市役所はもちろん下館河川事務所にあっても、決壊が差し迫っているとまでは思っていない対応状況であったように見えることなどから総合的に判断するなら、11時42分の「ホットライン」は広範囲の避難指示を求めていたのではないと見ることもできるのです。そうなると、越水地点は「新石下」だと誤認していたこともあり、県道以北の「新石下」には避難指示が、以南の「新石下」にも避難勧告がすでに発令されていたのですから、ここで特段の追加措置を求めて重ねて「通報」をおこなうことをしなかったことも、了解しうるのです。

 当事者たちの「判断の誤りや無為無策」を嘲弄するテレビや新聞の論調、さらには訳知り顔の「専門家」たちの高踏的な御託宣は、実際には、三坂町上三坂での大規模な決壊が起きたことを事後に認識しているからそう言えるだけの話であって、到底成り立つものではありません。私たちは、こどもじみた全能感にとりつかれた報道企業や学者先生たちの妄語に惑わされずに、事実を見極めなければなりません。

 もうひとつの事情を指摘しておきます。国土交通省関東地方整備局は、9月10日午前2時45分に、常総市役所に「リエゾン(情報連絡員)」を派遣しているのです(http://www.ktr.mlit.go.jp/saigai/kyoku_dis00000275.html)。「リエゾン」の説明も引用しておきます(http://www.ktr.mlit.go.jp/soshiki/soshiki00000091.pdf)。(リエゾンとはフランス語起源の英語 liaison で「組織間の連絡」、ないしそれを担う「連絡係」のこと。http://kensetsunewspickup.blogspot.jp/2013/06/no.html http://www.animateur.co.jp/michishita/?p=352 などに関連する記事があります。)

 

 

 「リエゾン」がどこから派遣されたかは書いてありませんが、おそらく下館河川事務所からでしょう。派遣の発表が午前2時45分ですが、その前後に出発したとして深夜に車を飛ばせば30分程度の距離であり、夜明け前には常総市役所に入り、市長や安全安心課の職員と常時コンタクトを取るにいたったことでしょう(上の国交省の説明中の写真にように)。こうしてみると「若宮戸」でのほとんど〝指示〟ともいうべき具体的な「情報提供」も、じつは電話を通じてだけおこなわれたのではなく、庁舎内に常駐する「リエゾン」の直接的支援という形で具体的に遂行されていたに違いありません。そうだとすると、常総市役所による避難勧告・避難指示の発令は、そのつど国交省下館河川事務所の了解のもとにおこなわれていたと考えられます。

 

 ここまでで、このページを閉じることにいたします。事実関係をもっぱら報道企業の提供する情報だけに頼って判断するのではなく、また後知恵で各機関を非難するのでもなく、みずから確認した事実のうえに妥当な推論を重ねたつもりです。今後、さらに事実確認につとめ、推測の妥当性を検証したいと存じます。