八間堀川問題

 

5 水海道市街地直前

八間堀川の破堤原因に関する仮説を提起します

1-25, Feb., 2016

 

 

 「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」は、基本的には外部の「報道関係者」や「専門家」を名乗る、いささか慎重さに欠ける人たちが積極的に流している風説 rumor なのですが、ひとつだけ地元に起因する要因があるようです。鬼怒川が決壊してもその氾濫水を八間堀川(はちけんぼりがわ)が押しとどめてくれるはずだ、という果たされなかった願望です。実際には若宮戸(わかみやど)由来の氾濫水は、常総市北部どころか下妻(しもつま)市南部でもすでに八間堀川を水没させており、あとから合流した三坂(みさか)町由来の氾濫水も圏央道以北ですでに八間堀川の東西でひと続きの水面をなしているのですから(本項目2ページ)、川崎町や平町での八間堀川左岸堤防からの氾濫の有無にかかわらず、北からおしよせてくる氾濫水が八間堀川東岸全域を浸水させることになるのですが、当時も今もそのような情報に接する機会のないところで、浸水が起きてしまったことの原因を地理的にも心理的にも至近の地点で起きた八間堀川の破堤にもとめるというものです。

 八間堀川の堤防が八間堀川東側一帯の浸水を防いでくれるのではないかという期待、にもかかわらず「破堤」して東岸一帯が浸水してしまったことによる失望、その結果として囁かれる平町(へいまち)や十花(じゅっか)町から水海道市街地にかけての水害は「人災」だったという告発は、いずれも明確な形で表明されたものではなく、書籍・新聞はもちろんインターネット上でさえ見出すことのできるものではありません。ライブ放送された三坂町での激烈な氾濫を見てさえここは大丈夫だと思ったのは、その距離の遠さという相対的な隔たりゆえにではなく、八間堀川堤防というトポロジー(位相幾何学)的な絶対的隔絶のゆえだったのです。道路の盛り土などであればところどころ途切れていて結局は役に立ちませんが、堤防なら完全に繋がっているうえ、なんと2重になっているわけですから完璧なはずだったのです。

 そのような願望(と失意)があったことを当 naturalright.org が知ったのはずいぶん最近のことで、この項目(八間堀川問題)を半分以上書いてしまったあとでした。なるほど、それですべてが論理としてつながった、と思えた瞬間でした。それを教えてくださったのは、もちろん「報道関係者」や「専門家」ではありません。

 

 おしよせる氾濫水を、八間堀川の右岸堤防がその川表(かわおもて)側の法面(のりめん)ではなく、川裏(かわうら)側の法面によっておしとどめるということは、堤防の本来の趣旨に反する効能ですが、たしかに堤防の規模に対して氾濫水の量が十分に少なければそのようなこともありうるかも知れないのです。内水氾濫すなわち堤内地での排水停滞による氾濫、あるいは今回でいえば、小貝川の右岸堤防が常総市南東部の氾濫水をおしとどめたこと!などがこれにあたります。

 しかし、1981年の小貝川(こかいがわ)水害においてさえ、八間堀川が氾濫水を押しとどめたのはごく一部の区間(約1.5km)に過ぎなかったのです。小貝川水害についてはのちほど少し触れることにしますが、今回の鬼怒川水害においては、小貝川水害の25倍にも及ぶ推定5000万トンの氾濫水が、後背湿地だけでなく自然堤防さえ一部を除いて水没させてしまったのです。鬼怒川東岸の自然堤防と小貝川西岸の自然堤防の間の後背湿地の最低標高ラインに開削された八間堀川は、全体が水没してしまい氾濫水を東西に分離する効果はまったく発揮しなかったといわなければなりません(自然堤防 natural levee については、八間堀川問題の2ページと若宮戸に関するページを参照ください)。

 グーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真が撮影された9月11日午前10時ころには、北部の若宮戸から新石下(しんいしげ)ではすでに氾濫水位は大幅に低下し水面の連続性は見られませんが、三坂新田や沖(おき)新田などの中間部では、水位のピークを10時間程度すぎてもかなりの堤防が連続的に水没していたほか、堤防が一応水面上に出ていたところでも各所で河道への流入や流出がおきていたのです。南部では11日午前8時の八間堀水門の開放により緩慢ながらも水位低下が始まっていたのですが、それでも八間堀川右岸の氾濫水と河道、さらに左岸氾濫水との連続性は終わってはいないのです。

 このページではこの常総市南部での状況を検討することにします。

 

 

(1)常総市南部における八間堀川右岸氾濫水の優越

 

 沖新田南部から十花町・箕輪(みのわ)町にかけての水田地帯、水海道(みつかいどう)市街地にかけての氾濫水の流れの概要を、グーグル・アースから出力した俯瞰図に書き込んでみます(赤は八間堀川で3つの橋の名称を入れてあります。黄は盛り土上の国道294号線です)。

 これまでは北を上にしてきましたが、ここでは趣向を変えて、あたかも氾濫水の流れを追っているかのように、進行方向となる南を前方に望む図としてみました。このあとさまざまの地図等を引用するときにいちいち天地を逆にしなければならない不都合はありますが、新しい観点の導入です。

 青矢印は氾濫水の進行方向を、橙矢印は赤の八間堀川の右岸堤防から河道に流入した地点を示します。上大橋(かみおおはし)の北西入り隅の川崎排水機場の破堤地点の手前(下図の橙矢印1)と下流側(同2)、大橋(おおはし)の手前(同3)、さらにそこと相平橋の間(同4、5)などで、右岸を南下した氾濫水が、八間堀川の右岸堤防を越えて河道へと流入している状況は、本項目3ページと4ページで見てきました(橙矢印4については「保留」としてきましたが)。

 この先の「水海道ロードパーク」手前(同6)、相野谷(あいのや)町の国道294号線とのクロス部分(同7)、そして水海道市街地北部の常総線鉄橋手前(同8)、桜橋下流側(同9)において、右岸を南下してきた氾濫水が、相次いで八間堀川右岸堤防を越えて河道に激しく流入しています。

 

 個々の地点での流入の証拠については個別に示すとして、ここでは視点を大きく引き上げたグーグル・アースの地図写真をみながら、大づかみに氾濫水の南進と河道への流入のメカニズムについて、あえて仮説をも含めて述べてみます。

 

 本項目の2ページ以降見てきたとおり、八間堀川は後背湿地最深部においてほぼ完全に水没していたわけですから、あまり左岸と右岸の区分に拘泥すると判断を誤ることになります。高低様々の自然堤防、南進する氾濫水に直交しあるいは併行する道路の盛り土、鉄道線路、巨大建築物など、氾濫水にとって一時的・部分的あるいは最終的なさまたげとなる障害物は数々あり、逆に無数に張り巡らされた農業用の用水路と排水路や小河川などは、氾濫水の一部を導く経路となったのです。しかし決定力をもったのは、つくばみらい市と水海道市街地東部の洪積台地のほか、高めの自然堤防とその上に建造された堤防のみであり(一番はっきりしているのは、南東部の小貝川堤防です)、小さな排水路と比べれば圧倒的な規模をもつ八間堀川でさえ、巨大河川鬼怒川からの氾濫水の前にはまったく防護壁としての効果は持たなかったのでした(1986年の小貝川に対してもそうだったのです)。ですから、過度に拘泥するきらいはあるとはいえ、なにせこのページ自体が「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」に捧げられたものでありますから、あえて、左岸堤内と河道と右岸堤内にわたる氾濫水の運動にこだわることにします。

 

(a)氾濫水の量は、一貫して右岸側の方が多いようです。若宮戸起源の氾濫水は最初はすべて右岸側に入ったこと、とりわけ、その4倍程度あるとされる三坂町起源の氾濫水もいったんはすべて右岸側に入ったこと、左岸に入った氾濫水は早い時期に曲田(まがった)の自然堤防によりかなり右岸側に移行したこと、圏央道以北では、東岸より西岸の方がわずかながら標高が低いこと、などの要因が重なり、右岸側が量的にも優勢だったと思われます。なにより圏央道のラインにおいては、右岸側が圧倒的に広いのです。

 東京理科大の大槻先生の推定では若宮戸から1000万トン、三坂町から4000万トンです。特段の根拠はありませんが、当 naturalrigh.org はそれほど離れてはいないとみます。25.35km地点の溢水幅は200mあり三坂町を上回っていたうえ、浸水深も2m程度はあったこと、さらに24.75km地点での溢水も、若宮戸山の奥まったところでのできごとだったため目立たないだけで、かなり激烈な流入だったのです。

 

(b)10日14時の航空写真を見ると、左右両岸の氾濫水が圏央道直下まで到達していますが、右岸側の方が浸水深が深くなっています。時間的にも左岸より早く南下してきたように思われます。

 圏央道から南の東岸の川崎町の住民の方は、次のように証言しています。「9月10日17時30分ころ勤務先から帰宅した。その時点では周囲は浸水していなかった。18時30分ころ用水路・排水路を伝わって水が出てきたので、平和橋・参矢(さんや)橋のある北側の道路まで様子を見に行った。19時になると家のところまで水が迫ってきたので車で南へ逃げた。」

 毎日新聞記事によると、左岸側の平町の住民が10日の夕方、2階のベランダから右岸に氾濫水が押し寄せるのを見たあと、夜になって左岸が氾濫に見舞われたと言っています。ただしそれが八間堀川の決壊だけによるかのようなニュアンスですが

 

(c)ところが、この先では左岸側の方が面積がひろいのです。すなわち、小貝川堤防手前の十花町から箕輪町、長助(ちょうすけ)町などに至る低平な水田地帯が広がっているほか、さらに、小貝川の堤防が西へと延びてきて狭くはなっていますが、そこから新八間堀川左岸の水海道市街地、さらに隣接するつくばみらい市などが続きます。一方、優勢だった右岸の氾濫水は、まもなく水海道市街地を東西に貫く新八間堀川で行き止まることになります。ただ、こういう書き方をすると、まるで氾濫水が意志をもち、あらかじめ先を見通したうえで流れたかのような目的論的説明になってしまうので気をつけなければなりません。左岸では氾濫水が行き止まって水位が上昇することがないのに対し、右岸では八間堀川右岸堤防と東側の鬼怒川左岸堤防近くの自然堤防によって行き止まり、相対的に水位が高まったのです。こうして右岸側から八間堀川河道への流入、河道から左岸堤内地への流出が起きたのです。

 

(d)すなわち、右岸を南下してきた氾濫水は、斜めに行く手を阻む八間堀川右岸堤防に相次いで乗り上げて河道へと越水し、おそらく、川崎町排水機場わきと、大生小学校前の2か所、合わせて3か所で左岸堤防を破り、百間堀(ひゃっけんぼり)排水機場の樋管(ひかん)から噴出して左岸堤防の河道側を洗掘し、さらには「水海道ロードパーク」の上流側と下流側で右岸堤防をも乗り越えて河道へ流れ込み、そして右急カーブを切った八間堀川左岸堤防から、左岸堤内に流れ込んだのです。

 

 

(2)右岸の地形的特質と氾濫水の破壊的な挙動

 

 ここで、橙矢印8や9であれば、障害物が真正面に立ちふさがっているのですから、そこから氾濫水が流入するのはわかりやすい現象といえます。しかしほかはどうでしょうか。そこで、地形的な原因をもあわせて探ってみることにします。国土地理院の「電子国土web」で、レーザー測量による標高を確認しながら(reference4 参照)、南下する氾濫水の挙動を推定してみます(日付はグーグルを除く写真の撮影日です)。

 

 橙矢印1、2すなわち、川崎排水機場そばの破堤地点近くは、とくに低平な後背湿地になっています(だから排水機場をこの場所に作ったのです)。破堤点の対岸にあたる右岸堤内は標高10.7mで、正面にはじつに高さ14.6mに達する上大橋(かみおおはし)がスキーのジャンプ台のように聳え、行く手を阻んでいます。氾濫水は右岸堤防を乗り越えて河道内に流入し、正面の排水機場の樋管部分の堤防から越水し、堤内側法面を侵食したものと思われます(写真は上大橋〔大橋のカミにあるから上大橋〕を東から見たもので、右手が排水機場です。2016年1月11日)。



 橙矢印3は、急激に接近する堤防と国道294号線の盛り土に挟まれ、標高10.4mの水田を流下してきた氾濫水が、左側で14.4mに達する大橋に阻まれ、一部は大橋のたもとを乗り越え、一部は八間堀川右岸堤防から河道へと流入したものと思われます。

 写真は流入地点から大橋を見たものです。写っているドラム缶は不法投棄物の可能性もありますが、グーグル・アースの2015年9月20日ころの写真に写っていることから、漂流してきたものである可能性も高いように思われます(2016年1月27日)。



 国道294号線の盛り土と八間堀川の右岸堤防によって作られた鋭角の入り隅に到達し、百間堀排水機場(前ページ参照)に至る排水路によっても加重された氾濫水は、ついに正面に国道354号線の相平橋(あいひらばし 平町〔へいまち〕と相野谷〔あいのや〕町から一文字ずつ)から「相平橋西」交差点にいたる標高差4.5mに達する盛り土が現れて、行く手を阻まれます。完全に袋小路に追い込まれた氾濫水は、レフト・ウィングが八間堀川右岸堤防を乗り越えて河道内に流入し、2箇所で左岸堤防を洗掘して破堤に至らしめました(仮説。矢印4)。

 センターでは排水路から樋管を通って相平橋の手前で右岸堤防をくぐって河道に噴出し、正面の左岸堤防を洗掘しました(矢印5)。

 下は大橋から右岸堤防に入り、破堤地点を見たもの。奥が国道354号線の相平橋(2016年1月11日)。

 八間堀川の自己流による越水破堤であれば遠心力の作用するカーブ外側が破壊されそうなものですが(水位も流速もあがります)、このようにカーブ内側の左岸堤防が2か所も破堤しています。右岸を乗り越えてきた大量の氾濫水によるものと考えるのが自然です(仮説)。

  上は百間堀排水機場へ続く排水路。機場の向こうは国道354号線(バイパス)で、左が相平橋、右が国道294号線との「相平橋西」交差点(標高14.8m)です。水田面(10.3m)から4.5mの標高差があります(2016年1月27日)。

 下は、相平橋上から上流方向を見たもの。左が百間堀排水機場の排水樋管で、真正面の左岸堤防の川表側法面を洗掘しました。左岸から河道への流入の痕跡はなく、ほかにこの現象を説明する事実はみあたりません(仮説、2016年1月11日)。



 「水海道ロードパーク」は、国道294号線の南行き(上り)車線から自動車用の斜路をあがったところにトイレやベンチがあります。この部分はさらに高く(14.6m)、水田との比高は4.1mです。浸水深が低下した後のグーグル・クライシス・レスポンスの写真でも水面から出ていますし、あとで見ても損壊箇所や浸水痕もみつかりません。ここだけは水没を免れたようです。水をかぶったとしてもごく浅かったようです。

 レフト・ウィングとセンターが八間堀川に流入したのに対し、ライト・ウィングは、排水機場手前で国道294号線に乗り上げて「相平橋西」交差点で信号無視で国道354号線を横断し、そのまま勢い余ってロードパークの幅広の堤防の天端へと到達し、八間堀川の河道に流れ込んだのです(矢印6)。

 下の写真はロードパーク側から、氾濫水が迫ってきた方角を振り返ったところです。その下は右岸のロードパーク北端付近の天端です(2016年1月27日)。

 橙矢印1、3、4、5と違って、ここで左岸堤防の川表側の洗掘や破堤が起きなかったのは、コンクリートによる護岸工が施されていたためです(仮説)。

 


 2016年9月11日9時25分の、国土地理院による航空機からの垂直写真です。グーグル・クライシス・レスポンスが10時ころですから、その直前です。右岸堤防天端から八間堀川に流入している波濤が見えます(0136-qv をトリミング)。

 

 2016年9月11日9時35分の、国土地理院による航空機からの俯瞰写真です(GSI_0696-qv.jpg をトリミング)。左下隅は雲、その右は窓の反射ですが、相平橋周辺の波濤がただならぬ勢いです。

 相平橋の北、ロードパーク手前での右岸からの流入はかなり激烈です。さきほどの写真の10分後ですが、刻々と状況が変化しているようです。

 堤内の氾濫水が破堤点(相平橋上流側左岸)から河道に流入している地点でも、川幅いっぱいの、かなり目立つ波濤が生じています。

 遡って、大橋手前右岸の流入の波濤、上大橋(画面左端)下流右岸からの2か所の流入でも白い波濤が見えます。そのほか、上大橋と大橋の中間点でも堤防天端が隠れています。

 なにより注目すべきは、相野谷浄水場(相平橋西交差点の左下=北西。巨大タンクが2つと建物群)脇で、国道294号線から百間堀浄水機場方向に伸びる噴射するような波濤です。これにより、この楔形の部分では水が澱んでいるのではなく激しく流れていることがわかります。この地点での氾濫水の出口は、排水機場から八間堀川河道に抜ける樋管以外考えられません。そうすると、この場所に9時から10時頃の写真で大量にたまっていた浮遊物(稲わらなどでしょう)が、夕方にはほとんどなくなっている理由もあきらかです。いったん南下してきたものが行き止まり、そのあと逆流して東の方に流れ去ったのではなく、樋管から八間堀川河道に噴出していったに違いありません。

 

 2016年9月11日15時40分に、国土交通省がヘリコプターから撮影した相平橋です。自衛隊、消防など30両ほどの車両が見えます。おそらく前夜からここにいたのでしょう。

 相平橋東交差点の浸水痕により、国道294号線の舗装面上を南下してきた氾濫水が、そのままロードパーク手前の右岸堤防から河道に流れ込んだことがわかります(IMG_1396.JPG)。

 ロードパークから見た左岸の様子です。コンクリートブロック(といっても住宅のブロック塀のものなどはまったく違います)の切り立った護岸と、転落防止用のフェンスが見えます。

 ロードパークの対岸にある産廃処理施設です。従業員の方が9月10日の夜、コンテナ型のボックスを2段重ねた建物の上段で就寝していたところ、腰高窓の窓枠のすぐ下まで水が来たそうです。八間堀川左岸堤防から激しく越水していたとのことですが、それとは別に平町方向からも氾濫水が南下してきたとのことです。

 普通の住宅よりは低いとはいえ、完全に2階の床上浸水です。川からの越水だけでは堤防から10m以上離れた建物を、堤防の天端の高さで水没させることはありえません(下は、グーグル・アースによる距離の測定)。


「水海道ロードパーク」の先、八間堀川が東へと向きを変え、そのまま南下する国道294号線と捻れるように交叉する地点では、10.3mの水田を流下してきた氾濫水は、突然右カーブする八間堀川の右岸堤防によって急激に右転回するのですが、レフト・ウィングは一挙に16.0mまで上昇して八間堀川を渡河する国道294号線の坂路を滑り上がり、国道と右岸堤防の間の紡錘形の入り隅から河道に流入しました。

 その際、左の2015年9月20日ころのグーグル・アースの写真のように、右岸天端の立ち入り防止柵を、一体的に川表側へ倒しています。もう一枚角度を変えた写真で河道側に倒れたフェンスがはっきり見えます。

 2016年1月27日現在、削られた法面と柵の再建工事中です。

 左岸堤防の川表側の洗掘や破堤が起きなかったのは、コンクリートによる護岸工が施されていたためです。左岸堤防の川裏側法面は激しく洗掘されています。護岸がなければ破堤していたことでしょう(仮説)。


 さきほどと同じく、2016年9月11日9時25分の、国土地理院による航空機からの垂直写真です。グーグル・クライシス・レスポンスの直前です。右岸堤防天端から八間堀川に流入している波濤が見えます。ちょうどフェンスがぱったりと倒れた地点です(0133-qv をトリミング)。

 国土交通省が、2016年9月11日11時57分にヘリコプターから撮影したものです。

 もともと解像度が低いものをトリミングしたので、粒子が荒れていますが、正午近くになってもまだ右岸堤防から河道へ流入しているのがかろうじてわかります(IMG_1325.JPG をトリミング)。

 橙矢印6から7にかけての左岸堤防の川裏側法面一帯は、河道からの越水によると思われる洗掘痕が多数見られます。大生小学校近くで2か所も破堤しているわけで、ここで八間堀川の自己流が天端を越えるほどあったはずはありませんから、相平橋より下流で右岸から河道に入った氾濫水が、そのまま河道を斜め横断して左岸堤防を越水したものと考えられます(上流での破堤以後の洗掘だとした場合の仮説ですが、ここの越水は証言により深夜の出来事ですから、上流の破堤より前に起きたのではなく、ほぼ同時か、後だった可能性の方が高いと思います)。

 三坂町でもそうですが、堤体の土質は非常に好ましくない状態です。


 なお、左岸フェンスの損傷については、本ページではdraftの段階では今回の水害によるものと推測しましたが、水害以前にも多少の損傷があったようで(グーグル・マップのストリートビューなどでも少しわかります)、現在のところ不明として、言及しないことにします

 この点について、国土技術総合研究センター「台風17号及び18号による鬼怒川被害 現地調査報告(第 2 報)」(http://www.jice.or.jp/cms/kokudo/pdf/reports/disaster/07/20152kinugawa.pdf#search='台風17号及び18号による鬼怒川被害+現地調査報告%28第+2+報%29'33−34ページ)では、右岸から河道への流入と河道から左岸への越水の事実があった、と結論するにあたり、右岸天端から垂れ下がった浮遊物、左岸川裏法面の洗掘とあわせて、フェンスの損傷を根拠のひとつにしています。


 橙矢印8は、低平な水田(後背湿地)に流れ込んだ氾濫水が、右岸堤防と常総線鉄橋がつくる入り隅に追い込まれて八間堀川の河道に流入したものです。

 橙矢印9は、いよいよ八間堀川排水機場のある洪積台地に行く手を阻まれ、八間堀川右岸堤防から河道へと流入したものです。

 常総市南部に至ると、あまりに浸水深が高いため、自然堤防(黄)も完全に水没してしまい、洪積台地だけが浸水を免れました。

 これらについては、次のページで写真を示します。



 

(3)1986年小貝川水害における最終到達点としての相平橋

 

 上大橋手前で堤防を破壊し、大橋手前では河道に流入した後、百間堀排水機場へ続く排水路に導かれ、相平橋を頂点とする楔状の区画へ氾濫水が突進し、八間堀川右岸堤防を乗り越えて一挙に左岸堤防を破壊したうえ、排水樋管の対岸の堤防を洗掘したのですが、じつはここは1986(昭和61)年の小貝川水害の際に氾濫水が押し寄せた最南端だったのです。黒線で囲まれたドットの範囲が浸水域です。

 氾濫水は八間堀川左岸では現在の国道354号線(バイパス)を暗渠で横切る排水路をとおってその先(南)まで到達したようですが、排水路から少し溢れる程度だったようで、この国土地理院の地図では浸水区域には含めていません(常総市のハザードマップのうち、小貝川についての方は、1986年の浸水区域としては含めています。しかし同図は、相平橋近くを除くなどいささか不正確なようです)。

 当時は地図のとおり、水海道市街地を出て現在の相平橋東交差点で直角に曲がり、つくば市を経て土浦市にいたる「県道土浦野田線」のバイパスが走っていたほか、相平橋東交差点以北の国道294号線は開通前でしたがすでに盛り土はつくられていましたから、八間堀川右岸を南進する氾濫水は、今回と同じように八間堀川右岸堤防と国道294号線の盛り土によってつくられる楔状の区画に流れ込んだのです。ただし、水量が今回の25分の1だったため、氾濫水はこの「県道土浦野田線バイパス」と開通前の国道294号線の盛り土によって前進を阻まれたのでした。

 そのうえで、今回の破堤地点を見ると、今回同様十花町から平町の線状集落の西側まで浸水していたことがわかります。この場合、もともとの小貝川堤防の破堤地点は八間堀川左岸の合併前の結城郡石下(いしげ)町本豊田(もととよだ)であり、そこから南下してきたのです。今回のように、はるか上流であれ目前の平町の破堤地点であれ八間堀川を超えてきたのとは異なります。

 また、水量が少なかったため、八間堀川右岸を越えて河道に流入したり、あるいは百間堀排水機場の排水樋管から噴出するようなことにはなっていません。当然、今回のような左岸堤防を破壊するようなことにもなっていません。

 このように、1986年においては氾濫水はの流入があっても破堤にいたらなかったわけです。今回の鬼怒川の3か所からの流入量がいかに膨大であったかがわかるのですが、このとおり小貝川水害の事例を参照することによっても、「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」がいかに荒唐無稽な fantasy にすぎないものであるかが明確に示されるのです。

 

 

 なお、この際ですから、1986(昭和61)年の小貝川の破堤による浸水域の全体も引用します。これだけは、南北逆転ではなく、通常の表示です。黄が自然堤防 natural levee、緑が後背湿地 back swamp、橙が洪積台地 diluvial uplandです(http://www1.gsi.go.jp/geowww/disa/disa_1986kokaigawa.jpg)。

 上方の小さな赤矢印が破堤地点です。当時の石下(いしげ)町本豊田(もととよだ)の豊田排水機場の排水樋管(ひかん)部分で洗掘が起き、破堤にいたったものです。取水口・排水門・樋管などの工作物は特に堤防との接続部分(「とりあい」)が弱点となり、決壊事由のなかでも目立つものです。

 

 

 本豊田の破堤点から流入した氾濫水は、北西方向では新石下の自然堤防の外縁に回り込んでその北東側の後背湿地を浸水させ、南西方向では今回浸水を免れた曲田(まがった)の自然堤防をも浸水させています。直上で破堤した場合は、比高の高い自然堤防地帯であっても浸水を免れないのです。今回の三坂町がそうでした。(訂正:曲田の集落のある自然堤防は、相対的に標高が高いので、1986年の小貝川水害でも浸水しませんでした。この2015年の鬼怒川水害でも、周囲の耕地は多少冠水しましたが、農家住宅は全く浸水しませんでした。浸水したのは最近建てた一軒だけでした。ここの記述は不正確でしたので、修正せずここに付記します。Dec., 2018)

 新石下南東部のわずか1.5kmの区間だけは八間堀川左岸堤防が氾濫域の境界になっています。しかし、そこを過ぎた氾濫水はさらに南下しながら、ほんのわずかながら相対的に標高の低い八間堀川西岸へも広がっています。1986年小貝川水害では今回の氾濫量と比べると圧倒的に少なかったのに、結局八間堀川は氾濫水を押しとどめることはなかったのです。1986年の時には八間堀川の堤防が氾濫水をおしとどめたので今回も大丈夫だと思った、などということはいかにしてもありえないのですが、よくあちこちで掲載される下の写真だけを見ていると、そのようなありもしない幻想に取り憑かれるのかもしれません。

 

 

 なお、この地図からわかるとおり、合併前の石下町の新石下の市街地と、おなじく水海道市の市街地は、いずれも浸水を免れています。それは(直上地点での破堤でなかったという点を除けば)偏に氾濫水の量の少なさゆえであり、地形的な特質やまして破堤箇所からの距離などが決定要因というわけではありません。

 

 

(4)水海道市街地東方への氾濫水の到達

 

 若宮戸からは午前6時前に、一方三坂町からは午前11時前(越水開始)に鬼怒川から氾濫した巨大な水塊は、そのごくごく一部が八間堀川河道をストレートに南下して9月10日の夕方いったん新八間堀川への雨水排水路から逆流して市街地を浸水させていましたが(深いところでも膝下、深さ20cmから30cm程度と言われていますが詳細は不明。いわゆる「内水氾濫」)、夜9時ころ(常総市役所の場合。全域については不明)、水海道市街地を西に見る相野谷町南端の後背湿地(現況は水田)からは関東鉄道常総線の盛り土を越えて、新八間堀川北岸の自然堤防上の水海道市街地の北半分を、南岸の八間堀川本川西の後背湿地(現況は住宅地)からは新八間堀川南岸に広がる自然堤防上の水海道市街地の南半分をいっきょに浸水させることになります。

 

 (i)八間堀川右岸の氾濫水

 

 八間堀川右岸を流下してきた氾濫水は、かなりの部分が八間堀川を乗り越えて左岸側に移りますが、残りは(比率は不明)、直角に近く折れ曲がった八間右岸堤防によって行く手を阻まれ、石洗橋と関東鉄道の間の水田を埋め尽くした後、おもむろに正面の八間堀川右岸堤防から八間堀川に「越水」することになります。

 

 

(ii)八間堀川左岸の氾濫水

 

 のこる水海道市街地のうち八間堀川左岸(南岸)には、八間堀川左岸=小貝川右岸を流下してきて氾濫水が、八間堀川右岸=鬼怒川左岸を流下し八間堀川をまたいだ氾濫水をもあわせたうえで、小貝川の右岸堤防によって西へと無理やりに向きを変えられ、長助町や新井木町の自然堤防地帯(黄)をも水没させつつ、北西側の八間堀川左岸堤防の右急カーブ(五反田付近)に沿って小貝川旧河道(青白縞)と八間堀川本川が流れる低平地に突進します。

 グーグル・クライシス・レスポンスの衛星写真は、9月10日午前10時ころの、ある一瞬に撮影されたものだと思われます。しかし、この項目の2ページ、3ページ、4ページで辿ってきたのですが、まるで別の時刻に撮影されたのではないかと思いたくなるほど、そこでの氾濫水の挙動には大きな違いがありました。若宮戸ではすでに水がひきはじめ、水面のつながりはなくなっていました。曲田(まがった)と三坂町を結ぶ線の南の、八間堀川を最深部とする後背湿地に南北に細長く延びる三坂新田・沖(おき)新田では、まだ氾濫水が八間堀川の堤防上を西に東に流れていました。南東部の十花(じゅっか)町では行き止まって、一見停滞しているようにみえて大きな時計回りの回転運動をしているような不思議な図形を描いていました。

 常総市南部にいたると、3ページから4ページにかけて見られたような歴然たる氾濫水の運動の軌跡を読み取ることも難しくなっています。そこで、さきに大生小学校西で破堤口に呑み込まれていった浮遊物の軌跡をたどった時の衛星写真画像の調整をここでも試すことで軌跡を辿ってみます。前の時よりも極端に硬質の、ほとんど中間階調のないところまで調整して、ある程度軌跡を浮かび上がらせてみました。

 これまでもそうですが、とくにこの場所では浸水からすでに12時間以上を経過しているだけでなく、それより南への流下が一応完了して、氾濫水の移動速度も移動量もごく小さなものになり、当然浮遊物を棚引かせたり入り隅に押し込めたりするエネルギーが極端に小さくなっているものと思われます。かなり拡大し(400%から800%)、少々深読みしすぎかと思うほどの痕跡でさえよみとらなけばなりません。ある程度やってみて大きな矛盾を生じていないようなので、次に示すことにします(ときどきテレビドラマでやっているような低解像度の画像から鮮明な高解像度の画像をちょちょいのちょいで“再現する”などという、子供だましのデタラメとは違います)

 

 

 高圧鉄塔や孤立した家屋などによる浮遊物の振り分けや、かつての流動方向を示唆するような淀んでいる浮遊物の行き止まり方向などから水流を推測したもので、それぞれの運動が同時に起きていたというわけではありません。衛星写真は、10日夜9時ころに市街地が浸水してからほぼ12時間を経過した時点のものです。最初に氾濫水が押し寄せた時の軌跡がこのようだったのか、それともある程度時間がたって運動方向が変化していて、変化後のものを読み取っているのかは確定しがたいので、注意しなければなりません。

 新八間堀川南岸の市役所側に流れ込んだ氾濫水の経路について見てみます。この時点では画面中央に茶で入れた道路とその西側のまとまった集落がやや抵抗となって、浮遊部の淀みのようなものを作り出しているように見えますが、それを挟んで西側がやや幅広の流れとなって、八間堀川にかかる巨大な橋から降りてきた国道294号線を横切り、一方東側の流れは新井木の集落を浸水させたうえで、さらに南西方向の水海道渕頭町、水海道天満町からつくばみらい市方面へと流入していったものと思われます。

 

 次は、茶の道路から西半分について、書き込みを削除したものです。この時点では、八間堀川右岸堤内から八間堀川河道への流入「越水」は終わっていて、左岸を流下する氾濫水が、新井木の小集落を洗いながら八間堀川左岸堤防と国道294号線の巨大な橋(新相橋)が終わったところで、一挙に新八間堀川南岸の水海道市街地方向へ流入しているようです。

 

 後背湿地をひたひたと押し寄せる数千万立方メートルの巨大な水塊が、とうとう水海道市街地に迫ってきたのです。