憲法遵守義務の誤解

国家機関の憲法尊重擁護義務

 

 日本国憲法は、天皇・摂政、国務大臣・国会議員・裁判官その他の公務員に、「憲法を尊重し擁護する義務 obligation to respect and uphold this Constitution 」を課している(第99条)。憲法制定者である国民が、天皇や公務員に憲法尊重擁護義務を課しているのである。憲法制定者である国民は、憲法遵守義務を課せられる対象ではない。

 これは、立憲主義のひとつの構成要素である。ただし立憲主義は、憲法第99条の憲法尊重擁護義務に尽きるのではない。第99条にいう「この憲法」とは、日本国憲法の全体をさすのであり、自然権思想や社会契約論という日本国憲法の基幹をなす論理、ならびにそれを前提する具体的条文を度外視して、ただたんに憲法をほかのあらゆる法律のうえにたつ「最高法規」ととらえたうえで、「最高法規」であるから「尊重擁護」義務があるのだ、と解釈してはならない。

 この誤った解釈だと、「立憲主義的」憲法でない、たとえば大日本帝国憲法のように自然権や社会契約論を前提としない「憲法」に対する絶対的服従義務としての「尊重擁護義務」との区別がつかなくなる。

 

 

自民改憲草案における逆転

 

 自民党による憲法改正草案は、天皇・摂政の「尊重擁護」義務を解除するいっぽう、あらたに国民に憲法尊重義務を課している(第102条)。(なお、国会議員等の公務員については、「尊重擁護」義務でなく、「擁護」義務を課すと表記している。)

  自民党ウェブサイトの 『日本国憲法改正草案Q&A』はつぎのとおり説明する(増補版、2013年10月。https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf)。

 

憲法も法であり、遵守するのは余りに当然のことであって、憲法に規定を置く以上、一歩進めて憲法尊重義務を規定したものです。なお、その内容は、「憲法の規定に敬意を払い、その実現に努力する。」といったことです。〔……〕公務員の場合は、国民としての憲法尊重義務に加えて、「憲法擁護義務」、すなわち、「憲法の規定が守られない事態に対して、積極的に対抗する義務」も求めています。

 

 自民党は、遵守<尊重<擁護という順番で、より強い義務だとするようである。第1段階の「遵守」から見ていく。

 冒頭でみたとおり、「憲法も法であり、遵守するのは余りに当然」という前提自体が誤っている。ここで自民党は、「憲法」は「最高法規」だから遵守するのは当たり前なのだ、と言っているにすぎない。「憲法も法であり」という場合の「憲法」は「近代立憲主義的憲法」のことではない。「近代立憲主義的憲法」にあっては、下位法である国会制定法とは異なり、国民に「遵守」義務を課すことはありえない。

 起草委員会事務局長礒崎陽輔などの草案作成者は「立憲主義」を知りつつそれを否認する“確信犯”なのではなく、「昔からある学説なのでしょうか」と無邪気にさえずり( twitter )ながら、無知にもとづいてそれを無視しているにすぎない。

 草案は、国民に第2段階の「尊重」義務を課そうとする。しかし、前提となる「遵守」義務すら成立しないのであるから、第2段階の「尊重」義務は成立不可能である。

 

 

おそるべき憲法“擁護”義務

 

 最後に第3段階の国家機関の「擁護」義務である。 『Q&A』のいう「憲法の規定が守られない事態に対して、積極的に対抗する義務」としての「憲法擁護義務」は、日本国憲法に対する憲法擁護義務とは内容的に正反対のものになりかねない。

 かりに草案のとおりの憲法が成立した場合、自然権としての基本的人権や社会契約論的な国家権力のありかたは全部否定され、かわって夥しい数の「国民の義務」が新設される。国家機関の「憲法擁護義務」は、国家機関が国民にこれらの義務を強制する根拠となりかねない。

 たとえば、政府の指定する「公益」「公の秩序」への服従、「緊急事態」宣言下での国防に対する協力義務などである。これらは基本法による全体主義国家体制の根拠づけというほかない。

 

 

「憲法を守る」という常識

 

 おなじみの伊藤真弁護士は言う(『憲法問題』2013年、PHP新書、30頁)。

 

「……憲法は国を縛るためのものなので、私たちが憲法を守る必要なんてないんですよ」と説明すると、多くの方はポカンとした表情でこちらを見ています。立憲主義は、世間でもまだ理解されていません。

 

 現代日本社会においては、自民改憲草案が国民に説諭するまでもなく、すでに、国民は「憲法を守る」べきであるという常識が支配的なのである。国民が憲法遵守義務を負っているという認識(誤解)は、いかにして形成されてきたのか? 

 

 

『あたらしい憲法のはなし』

 

 日本国憲法施行(1947〔昭和22〕年5月3日)から間もない同年8月2日、文部省は中学1年生用の教材として『あたらしい憲法の話』を発行した。

 

(A) 昭和二十二年五月三日から、私たち日本国民は、この憲法を守ってゆくことになりました。(一) (文末の数字は節番号。文頭のアルファベットは引用者が付した。)

 

 『あたらしい憲法のはなし』は冒頭から、国民は憲法を「守る」ものだとする。その理由はつぎのとおりである。

 

(B)もし憲法がなければ、国の中におおぜいの人がいても、どうして国を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの国でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。(一)

(C)みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を与えられました。〔……〕こんなりっぱな権利を与えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。国ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。(七)

 

 国民が憲法を「守ってゆかなければならない」理由の第一は、国の基本法だからである(B)。第二の理由は、憲法が基本的人権を与えてくれたからというものである(C)。この(C)の後半部は、日本国憲法第12条の趣旨を述べたものだが、前半部で基本的人権は憲法によって、保障されたguaranteedのではなく、「与えられた」conferredものであるという誤った説明がなされている。

 

(D)こんどの憲法は、みなさんをふくめた国民ぜんたいのつくったものであり、国でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、国民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。(一)

 

 ここでは、国民が憲法制定権者であることを述べておきながら、最高法規なのだから「守ってゆかなければなりません」という方向に話がずれてしまう。

 『あたらしい憲法のはなし』において「憲法を守る」というのは、日本国憲法の「改正」(ないし廃棄)を主張するうごきに対して、憲法を「守る」こと、いわゆる「護憲」を意味するものではない。施行直後のこの時点では、まだ、公然と「押しつけ」憲法を非難し、その「改正」・廃棄を呼号する動きはおきていない。

 『あたらしい憲法のはなし』発行の3か月前、憲法普及会編『新しい憲法 明るい生活』という小冊子が2000万部発行され(!)、全国の家庭に配付された。そこでも同様の説明が展開されていた。


日本国憲法

 第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


自民党改憲草案

 第102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

  2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。


 

 このように日本国憲法を廃棄しようとする勢力は、「憲法遵守義務」のなんたるかをまったくわかっていないのであるが、いっぽうの「護憲」勢力の側にも、いささか軽率な理解がひろがっている。次のページでこの点をさらに検討する。

 

 

 

 

 ここではとくに問題にしなかったが、日本国憲法第99条における「公務員」とは、公務員法制(国家公務員法、地方公務員法)にいう(一般職)公務員のことでは、ない。ところが、日本国憲法第99条における「公務員」と、公務員法制における「公務員」とを峻別せず、理由なく混同、それどころか同一視して議論するのが一般的である(法学者であっても)。

 「公務員」概念をめぐる反対論なき通説の誤謬については、次を参照されたい。