3 高裁判決の背理

勤務場所にこだわる理由 


 札幌高裁がここまで「勤務場所」にこだわるのはなぜだろうか。勤務場所を離れた教員には校長の監督が「事実上及ばない」という主張の少し前に次の記述がある。


教育公務員たる教員としての小学校教諭に対し支給さるべき給与の対価に対応する勤務は、特定営造物たる学校、すなわち、当該教員に対し勤務場所として指定された教育を施すための特定の施設と切離されたものではなく、右「勤務」の基本は、「指定場所において所定の勤務時間内に果すことを予定された具体的、個別的な教育を施す業務」に携わることにあるというべきである。(理由、三、1)


 「営造物」という聞き慣れない語が用いられているが、これこそ特別権力関係論といわれる法理論に特有の用語である。特別権力関係論は19世紀後半のドイツ帝国において、君主の権力の強大化のために人民の権利の制限を正当化する法理論として提唱された。日本には美濃部達吉らによって翻訳・紹介され、大日本帝国憲法体制における天皇の権力強化のための理論として用いられた。

 特別権力関係論においては、公法上の営造物利用関係、具体的には、国公立学校と学生との関係、国公立病院と入院患者との関係、刑務所と在監者との関係は、一般的な権力関係すなわち国家と一般国民との関係とは区別される特別な権力関係にあるものとされた。特別権力関係に組み入れられた学生・入院患者・在監者は、一般権力関係において国民に認められる権利を保持しないものとみなされ、国公立学校・国公立病院・監獄当局はいかなる法的制約を受けることもなく、学生・入院患者・在監者に対して無制限の権力を行使しうるものとされた。特別権力関係は公法上のものであるので、私法である民法の適用を受けず、行政権力の行為については、一般の司法裁判所に訴訟を提起することはできないものとされた。

 同様にして、公法上の勤務関係とされる国家と官吏との関係は、私法上の一般的な勤務関係すなわち民間企業における雇用主と被雇用者との関係とは区別される、特別な権力関係にあるものとされた。すなわち官吏は、天皇および天皇制国家に対して無制限の忠誠を尽くさなければならず、無限定・無定量の職務に従事する義務を負うものとされた。官吏は、一般権力関係においては認められる国民としての権利を行使し得ず、いかなる懲戒処分にも服すべきものとされた。官吏に対する行政権力の行為は、一般の司法裁判所の裁判には服さないものとされた。

 戦後、大日本帝国憲法は廃止され日本国憲法体制に転換したほか、主要な法律も改正された。とりわけ国公立学校を含む学校制度や公務員制度は学校教育法・国家公務員法・地方公務員法などの法律にもとづいて運営されることとなった。特別権力関係論はその存立の基盤を失ったようにみえた。しかし、戦前、オットー・マイヤーの特別権力関係理論の翻訳・紹介の中心人物だった美濃部達吉が、戦後も憲法学・行政法学の第一人者として君臨したほか、弟子の田中二郎(東京大学教授・最高裁判事)らの力により、公法・私法二元論を前提とする特別権力関係論はしばらくの間、有力な法理論として存続した(田中二郎『新版 行政法 上巻』全訂第2版、1974年、弘文堂、89~95頁)。

 今日では、特別権力関係論は有力な学説というほどではなくなったが、さまざまの形でその残滓が存在する。たとえば国家公務員の労働基本権制限と政治的行為の禁止という形で、戦前の官吏制度における特別権力関係的な要素が残っている。地方公務員も同様に労働基本権の制限をうけるほか、政治的行為の制限は国家公務員の場合より緩いうえ刑事罰は科せられないが、教員に関しては教育公務員特例法により国家公務員の規定が準用(刑事罰は除外)される。

 また、現在さまざまの場面で行政庁に「自由裁量権」があるとする法解釈が持ち出される。勤務場所を離れて研修を行なうことの承認は、授業の支障の有無を確認したうえで支障ががなければ承認するが支障があれば承認しないというものであって、法解釈上いわゆる覊束(きそく)行為とみなされるべきものであるが、文科省解釈においては授業の支障の有無にかかわらず校長は当該研修について承認不承認のいずれとするのも可能であり、自由に決定する権限を持つとする。「自由裁量権」論は、一般的には特別権力関係論が衰退し、それにとってかわるものとしてあらわれてきたと看做されているが(植村栄治『行政法教室』2000年、有斐閣、102頁)、勤務場所を離れて行なう研修の承認に関する「校長の自由裁量権」論は、ストレートに特別権力関係論を前提としているものといえる。


札幌高裁判決の混乱


 さらに具体的にみてゆくと、札幌高裁判決が展開する特別権力関係論には少々おかしなところがある。

 特別権力関係論は、官吏(公務員)の雇用関係ならびに国公立学校などの営造物における在学関係において、それぞれ特別な権力関係が成り立つと主張するのであるが、判決は学校という営造物における児童・生徒・学生の在学関係ではなく、学校という営造物の一部である教員に関して特別な権力関係が成り立つと言っている。学校という営造物の人的側面の一角を構成する教員というとらえかたをしたうえで、当該教員が、勤務先である学校という営造物を「離れる」際には、職務専念義務を果たし得なくなるのだから、職務専念義務の免除手続きが必要となるという理屈である。

 公務員については、全般的に特別権力関係が成り立つというのが通例の特別権力関係論の主張である。学校・病院・刑務所など営造物の人的要素を構成する公務員もそうでない公務員もいるのであって、営造物の一部をなす公務員だけが特別権力関係に入るわけではない。ところが判決の論理でいくと、営造物である学校・病院・刑務所の職員である公務員についてだけ特別権力関係が成り立ち、それ以外の公署に所属する公務員については特別権力関係が成り立たないことになってしまう。これは、従来特別権力関係論において提唱されたことのない珍奇な新説である。

 札幌高裁は、控訴人川上教諭を敗訴させるためには教員の勤務は学校を離れてはありえないという論理を導きだす必要があった。そのために旧来の特別権力関係論の理屈だけではまだ不足するので、行政権力と公務員との特別権力関係に、「学校=営造物」における人的要素としての公務員という論理を接ぎ木したうえで、営造物たる学校を離れては勤務することのできない学校教員という硬直した存在を無理矢理に合成したのである。論拠としての特別権力関係論からも逸脱する荒唐無稽な論法である。


さらに別の原則を持ち出す


 さて、営造物をちょっとでも離れると勤務できないという自分でたてた理屈のおかしさは、判事自身も多少気になるようである。すなわちこの論理では、遠足や修学旅行などにおいて、児童・生徒を引率する教員は当然営造物たる学校を離れることになり、営造物の人的側面をなす教員はその間は勤務していないことになってしまうのだ。これはまことに不都合である。そこで判決は次のようにいう。


校外授業、校外指導等、勤務場所を離れてなされざるを得ないものがあることは、その本質が精神活動にあることからしていうまでもないが、右は人的、物的総体としての小学校に課された児童に対する直接的教育作用、すなわち右小学校の教育における活動の内容範囲として当然に予定されているものということができる(理由、三、1)


 「精神活動」とか「当然に予定されている」などとわけのわからない理屈をつけて、校外授業等が学校の教育活動の一部をなすというあたりまえのことを証明せざるをえない。だが、そういうのであれば、教育公務員特例法第22条によって「当然に予定されている」勤務場所を離れておこなう研修という本訴訟の中心問題で川上教諭の主張を認めざるをえないことになる。それを避けるためには別の理屈をつけなければならない。判決は、続けてつぎのように言う。


教員の「勤務」は、「勤務場所における教育を施す活動」を原則とする「特定教育施設の運営活動たる日常的業務に従事すること」であるというべきであり、教育を施す活動として右日常的業務といい得るものは勤務場所である施設外で行われてもなお勤務であり得るが、右教育を施す活動たる日常的業務に含まれないものは、たとえ勤務場所で行われても、対価として給与が支払わるべき「勤務」ではないといわなければならない。(理由、三、1)


 「勤務場所を離れて行うことができる」という教育公務員特例法の規定が存在していないのであれば別だが、明文をもって規定されている研修が勤務にはあたらず、給与支払いの対象ともならないというのは、憲法に違反するわけでもない法律について裁判所が恣意的に無効を宣言したも同然で、まことに異常な主張である。

 遠足などは「日常的業務」であるから勤務に該当するが、研修は「日常的業務」でなく、「たとえ勤務場所で行われても」勤務ではないというのである。直前まで、営造物たる学校における活動か否かが勤務であるか否かを決定すると主張していたはずなのに、とつぜん原則を変えて、こんどは「日常的業務」であるか否かが勤務であるか否かを決定するという原則を持ち出してきたのである。年に一度の遠足を「日常的業務」だとする用語法もおかしなものであるが、ついに「たとえ勤務場所で行われても」勤務ではないと言い出すのである。「たとえ勤務場所で行われても」勤務ではないのだから、まして勤務場所を離れては絶対に勤務ではないというわけなのだ。

 勤務場所を離れることと、日常的業務でないこと、というふたつの理由を適宜使い分けながら、研修は勤務にはあたらないという理屈を展開してきたのだが、判事たちはその融通無碍ぶりに自分でも後ろめたい気持ちになったものと見える。すなわち、日常的業務ではない研修を勤務場所でおこなったらどうなるかと自問し、次のように言っている。


勤務時間内においても、勤務場所においてなされる限り、服務監督権者である本属長の服務監督権行使が随時事実上可能であり、学校運営上の支障が生じないものとして、日常的業務すなわち勤務とはいえない研究修養についても、研修といえるものについては教員の自主性を尊重し、個別的な承認行為を要さぬものとして取扱うことを認めたものと解することができ〔る〕(理由、三、2)


 「個別的な承認行為を要さぬものとして取扱うことを認めたもの」という場合の承認とは、職務専念義務の免除の承認ということなのだろう。高裁判事たちのご都合主義は、とうとう職務専念義務を免除された状態で勤務場所にいる教員、しかも日常的業務でない研修をおこなっているため、職務に従事しているとはみなされない教員という、奇怪な存在を彼らの頭のなかに作り出してしまった。ここまでくると、高裁判決は、自壊を遂げたというしかない。


特別権力関係論に頼るのは無理


 以上、『新学校管理読本』が「参考」として掲げる札幌高裁判決における「特別権力関係論」的見解についてみてきたが、特別権力関係論自体は、「もはや現行法にはなじまない古色蒼然たる過去の遺物」である(原田尚彦『行政法要論』全訂第六版、2005年、学陽書房、93頁)。国民主権原理を無視し、皇帝/天皇の権力の絶対性を前提とし、国民の基本的人権の蹂躙を正当化する理論に存立の余地がないのは当然である。とりわけ、特別権力関係論が前提とする「公法・私法」二元論じたいが批判され、特別権力関係論はその前提条件を失っている(塩野宏〔田中二郎の女婿〕『行政法I』第二版増補、1999年、有斐閣、24–37頁)。

 現在、公務員制度に関して労働基本権制限の撤廃のための法改正の準備が進められいるところでもあり、2010年の今日、特別権力関係論を振りかざして行政当局の行為の正当化を図るのはたいへんな時代錯誤といえよう。(もっとも、『新学校管理読本』のコピーを配布するにあたり、永塚校長は、 そこに引用されている判決の全文を読んだわけではないだろうが……。)