ゴールドラッシュ 1

 

 

アメリカ合州国領「カリフォルニア」の成立

 

 

 カリフォルニアのゴールドラッシュといえば、ひとやま当てようと人々が大挙して押し寄せ、てんでんばらばらに川底の土砂を平ナベに入れて揺すって金粒を選り分けた.....、というのが在り来たりのイメージです(上の写真は、http://www.parks.ca.gov/?page_id=1081)。1848年1月24日、現在の州都サクラメントでフェザー・リバーに合流する支流アメリカン・リバー沿いのコロマ Coroma で、ジェームズ・マーシャル James Marshall という男が製材所を建築中、川からひいた水車用水路に光るものをみつけ、拾い上げてみると金の粒( fleck )だった。マーシャルの雇い主で1830年以来現在のサクラメントを拠点に一帯を開発していたジョン・サター John Sutter が口止めしたが、あっという間に噂は広がり全米はもちろん世界中から「49年野郎ども fortyniners 」が押し寄せ、以後数年間カリフォルニア一帯で、金探しの大騒動が繰り広げられた......、という具合です。

 しかし、これはあまりにも一面的で、カリフォルニアにおける金採掘の歴史のごく一部を見ているにすぎません。

 1848年1月の時点では、カリフォルニア州 California State は存在しません。カリフォルニアが州 State になるのは1850年のことですが、それどころかカリフォルニアはアメリカ合州国の領土ではなく、1821年にスペインから独立したばかりのメキシコの領土の一部、北西部の一角でした。

 

History and Life, The World and Its People, 1987, Scott, Foresman and Company, p. 460. アメリカ合州国の高校の世界史教科書です。何冊か見たうちでも比較的平易な記述ですが、それでも総ページ800ページ以上です。

 

 広大なメキシコ領土の北東部に入り込んだアメリカ合州国の住民らが、メキシコ政府による奴隷制制限に反発し、その地域一帯のメキシコからの独立を宣言(テキサス共和国 Republic of Texas )したうえでアメリカ合州国への編入を申し出ると、あろうことかそれをアメリカ合州国政府が待ってましたと受け入れ、1845年12月に正式にアメリカ合州国領土として併合 merge してしまいます。これが現在のテキサス州の全部とニューメキシコ州・カンザス州・コロラド州・ワイオミング州の一部です(下の地図の橙)。

 つづいてはじまった米墨戦争(アメリカ合州国対メキシコ戦争、1846−48年)に勝利したアメリカ合州国は、テキサス併合を確定させただけでなく、講和条約のグアダルーペ・イダルゴ条約によりメキシコから「カリフォルニア」を奪取(「割譲 cede 」、一応1500万ドルを支払う)するのですが(下の地図の緑)、条約締結日はマーシャルの「発見」から9日後の1848年2月2日です。

 

 

 なお、日米の高校世界史教科書をはじめとして、1848年に奪取した地域一帯を「カリフォルニア」というのですが、これは現在のカリフォルニア州のことではありません。カリフォルニア州はもちろんそこに含まれますが、そのほかアリゾナ州・ネヴァダ州・ユタ州の全部とニューメキシコ州・コロラド州・ワイオミング州の一部を含む広大な領域です(上の地図の緑、ibid., p. 479.)。

 戦争の結果、戦勝国が戦敗国から領土の割譲を受けるのは、それを禁止するパリ不戦条約(1928年)や国連憲章(1945年)以降の現代にあっては端的に国際法違反の不正義にほかなりませんが、テキサス併合から米墨戦争にいたる時点のアメリカ合州国国内においても、正義に反する政府の違法行為を批判する者がいました。たとえば、『森の生活』( Walden, or Life in the Woods, 1854、〔飯田実訳、岩波文庫版、1995年〕)で有名なヘンリー・ディヴィッド・ソロー Henry David Throeau は、奴隷制と不正義の侵略戦争を批判し人頭税を滞納しため、1846年7月に逮捕されました(身内が本人の意思に反して未納分を支払ったために一晩で釈放されます)。米墨戦争集結間際の1848年1月、ペンシルベニア州コンコードでおこなった講演(「国家に対する個人の権利と義務」)の原稿が Resistance to Civil Government であり、のちに Civil Disobedience と改題されて出版されます。

 

 この Civil Disobedience は通例「市民の反抗」ないし「市民の不服従」と訳しますが、ここで civil を「市民の」「市民的」と訳すのはいささか不適訳というほかありません。 political 「政治的」と区別された civil 「市民的」とはいったい何のことなのでしょうか。政党との関連を有するものである political に対して、非政党的(「無党派」)という趣旨で civil 「市民的」の語が使われているのかもしれませんが、そういう勝手な用法は、哲学や政治学の議論を誤解することになるだけなく、ひいては現在における「政治」に関するあらゆる議論を混乱させるだけですから、改める(=やめる)べきなのです。19世紀のソローについては、17世紀のイングランドでの用法のまま、civil を political と同義のものと理解するのが順当でしょう。( civil の語義については、別項目を参照ください。)

 

 「ゴールドラッシュ」の時期はふつう1849年からの数年間とされます。「ゴールドラッシュ」は、アメリカ合州国によるカリフォルニアの領土化以後の事象と見なされているわけです。しかし、金の「発見」はすくなくともスイス人サターがメキシコ政府統治下で継続してきた開発にともなう事象であり、数週間のちがいとはいえその時点ではカリフォルニアはアメリカ合州国領ではなくメキシコ領であったのです。ゴールドラッシュの歴史は、アメリカ合州国一国の歴史の枠内にはおさまらないのです。「49年野郎ども fortyniners 」が押し寄せた時点をもってゴールドラッシュの開始とすること自体、金採掘の歴史をアメリカ合州国の歴史の枠内に無理やり納めるためのトリックというほかありません。

 

 さらにいうと、そもそもマーシャルによる金の発見を、カリフォルニアにおける金採掘の歴史のはじまりとすることも失当です。1821年のメキシコの独立以前、カリフォルニアはスペイン領であり、あちこちで金が「発見」されていたのです。どうしてその時点でゴールドラッシュが始まらず、1848年以降「ゴールドラッシュ」となったのかというと、テキサス併合(1845年)とカリフォルニア併合以降は、アメリカ合州国人の侵入・移住は国家間関係(国際問題)ではなくなり、「不法移民」としての危険をおかす心配もない単なる国内移動としてきわめて容易になったからです。

 19世紀後半のこの時期、同様の「ゴールドラッシュ」は、アメリカ合州国内はもちろんオーストラリアでも相次いで生起するのですが、金があることがわかっていたとしても、たとえばスペインやメキシコにとっては、人口の即時かつ大量の投入をおこなうことは不可能だったし、かりに可能だったとしてもそうする決定的要因とはならなかったのです。しかるに、北アメリカ大陸やオーストラリア大陸では、増殖したイングランドを中心とする移民とその子孫のうちの現状に満足できない多数の余剰人口が、選鉱鍋ひとつで?手っ取り早く獲得できる金めがけて殺到することになるのです。

 

 そもそも以上の経緯にしても、先住民(ネイティブ・アメリカン native american 、いわゆる「インディアン」)のことは完全に無視されています(ただし、ネイティブ・アメリカンが「無視」されているのは、歴史叙述上のことであり、実態としては「無視」どころか、軽蔑・利用・土地奪取・迫害・追放・虐殺の対象でした)。

 スペインやポルトガルが到達する以前の南北アメリカ大陸びネイティブ・アメリカン、イングランドが到達する以前のオーストラリア先住民アボリジニーにとっては、イングランド人やアメリカ合州国人にとってそうであったようには、金 gold は社会的行動の決定的な要因とはなりえないのです。ピカピカ光るし、割れたり錆びたり腐ったりしないので、装飾に用いるには好都合かもしれませんが、せせらぎに落ちているものを拾うくらいならまだしも、川底の土砂を盛大に浚渫したり山容が変わるほど山を崩してまで手に入れるべきものではありえません。ましてや、ほかのものをすべて放り出してまで収集に専念すべきものではないし、他人を出し抜いたり、強盗殺人までして独り占めするようなものでもありえないのです。貨幣としての貴金属のもつ意味が普遍的継続的に重大化する社会の成立がなければ、「ゴールドラッシュ」という異常な現象は起きようがないのです。

 カリフォルニア州におけるネイティブ・アメリカンに関しては、のちほど別ページで少々言及します。

 

 

カリフォルニアにおける金採掘

 

 

 本題にはいり、カリフォルニアにおける金採掘の歴史を概観します。

 上の、カリフォルニア州における金採掘地点の地図(William B. Clark, Gold Districts of California, 1970, California Division of Mines and Geology, plate、縦100cm・横110cm)から、一番混み合っているあたり、サクラメントからその東北部一帯をスキャンして引用します。

 南北170km、東西180kmの範囲です。緑が現状の河川や都市・郡などの地名、赤が主要道で、黒丸と黒字が金採掘がおこなわれた地点です。

 

 

 (以下、カッコつき符号の地名は、下の縮小図に該当箇所を示します。なお、縮小図に並べて、1848年当時の水系図のほぼ同じ範囲を引用します。ただし、東側が欠けています。〔 Hubert Howe Bancroft, History of California, vol. VI, 1888, The History Company, Publishers, p. 4.  https://archive.org/details/histofcalif02bancroft  の p. 27.〕)

 

 北西方向からの(あ)本流サクラメント・リバー Sacramento River が真北から流下する(い)支流フェザー・リバー Fether River を併せたあと、北東からの(う)アメリカン・リバー American River と合流する地点が、現在の(え)州都サクラメント Sacramento (左下の緑字)です。サクラメント・リバーはここから直線距離にして約100kmでサンフランシスコ湾にいたります。サクラメントは内陸舟運の拠点として発展したのです。サクラメントの東北東方向、アメリカン・リバーをさかのぼると例のマーシャルが金のナゲットを見つけた(お)コロマ Coloma (黒字)があります。

 

 このゴールドラッシュのページで訪れる地点をあらかじめ列挙しておきます。

 図の中段西側に、 (か)Sutter (緑字)とあるのが、メキシコ時代にこの辺一帯を開発していた、自称スイス軍元中尉、じつは逃亡犯の詐欺師ジョン・サター(さきほどのマーシャルの雇い主)に由来するサター郡 Sutter County です。その右上に小さくユーバ・シティー Yuba City (緑字)とゴールドラッシュ時代の(き)州都メアリーズビル Marysville (緑字)があります。メアリーズビルの東方、地図の中央に、現在も当時の街並みや水圧採鉱の機器類が残る(く)ネヴァダ・シティー Nevada City (黒字)と、金鉱企業エンパイア・マイン Empire Mine が20世紀なかばに閉鎖するまでの約100年間に地下1600mまで採掘した(け)グラス・バレー Grass Valley (黒字)があります。

 メアリーズビルの北に見える(こ)オーロビル Oroville (黒字)は、現在のオーロビル・ダムのやや下流、フェザー・リバーがシエラ・ネヴァダ山脈を下りきって平坦なセントラルバレーに出たところです。その北の空白部が海岸段丘面の(さ)テーブルマウンテン Table Mountain で、その北東部の崖を水圧採鉱法で破壊して金鉱石を採取した地点が(し)チェロキー Cherokee (黒字)です。

 


 

 

 

5つの金採掘法

 

 カリフォルニアでの金採掘は、次の5つの方法でおこなわれました(https://www.nevadacitychamber.com/images/gold_mining.pdf)。

 

(1)選鉱鍋( panning )

 河床の土砂をすくい取り、金属製の平らな鍋 pan に入れて揺らして土砂を取り除き、鍋底に残った比重の重い金を選り分ける。

 

(2)洗鉱樋( sluicing )

 河床の土砂をすくい取って長い樋に流し入れ、篩(ふるい) sieve や捕砂溝 riffle で金を選り分ける。

 

(3)水圧採鉱( hydraulic mining )

 高圧の水を噴射して山腹を洗い流して金を含む土砂を入手し、そこから金を選り分ける。

 

(4)浚渫(しゅんせつdredging

 河床の鉱脈瘤(こうみゃくりゅう)から機械によって土砂を掘削してすくいあげ、金を選り分ける。

 

(5)岩盤採鉱( hardrock mining )

 竪坑 vertical shaft または斜坑 inclined shaft で地中深くの金を含む石英鉱石を採掘し、金を選り分ける。

 

 カリフォルニアの金鉱というと、このうち(1)とせいぜい(2)についてだけ触れて、(3)以降については一切言及しないというのがアメリカ合州国の一般向け歴史叙述の定型パターンとなっているようです。その翻訳輸入版である日本におけるアメリカ合州国史学ももちろん同様で、現地など一切見ずに子引き孫引き曽孫引きによって(1)について述べるのが通例です。

 下は、アメリカ合州国の子ども向けのパンフレット( Julie Ferris, California Gold Rush, Sightseers Essential Travel Guides to the Past, 1999, Kingfisher, pp. 16-17. )の挿し絵です。いささか客観性に欠けるような気がしますが、手前左が選鉱鍋、中央が洗鉱樋と捕砂溝で、手前右は篩のようです。

 

 

 

 次のグラフは、1848年から1965年までの金産出高のグラフです(前掲 Gold Districts of California, p. 6、重量ではなく金額で示したもので、貨幣価値の変遷について基準が示されていないのですが、いまはここから産出量の変化を読み取ることにします)。

 「ゴールドラッシュ」期の産出高はきわめて多大であったようです。この時期には(1)選鉱鍋や(2)洗鉱樋によってナゲットと呼ばれるような金塊も容易にみつけられたようです。しかし、数万人の「山師」たちが殺到し手当たり次第に探し回ったことで、1860年代はじめころ地表面の砂金鉱床の衰微 decline of surface placers が引き起こされ、「ゴールドラッシュ」は終焉します。

 この時期の「遺跡」は、おそらく全く残っていないでしょう。カリフォルニア州政府が設置する歴史公園で、マーシャルが金のフレークを発見した水車用の水路や製材所をわざわざ新造して展示し、見学者に選鉱鍋の体験などをさせているようです(http://www.parks.ca.gov/?page_id=484)。

 

 

水圧採鉱による自然破壊

 

 1870年代後半になると、巨大なウォーター・キャノン water cannon で山腹を洗い流し、金を含む土砂から金を選別する水圧採鉱 hydraulic mining により産出量が増大します。水圧採鉱は、1884年の裁判所命令により非合法化されてからも継続しておこなわれていたようです。たとえば次の写真は、オレゴン州南部からカリフォルニア州北西部を経て太平洋に注ぐクラマス川上流のウィーバービル Weaverville での水圧採鉱の様子ですが、撮影されたのはなんと1914年ころです。ウィーバービルでの水圧採鉱は、すでに1851年から始まったのですが、1862年から1918年まで大規模におこなわれただけでなく、さらに呆れたことに、1932年から1942年まで州高速道路建設工事の際にもおこなわれました。結局、ウィーバービルだけで合計で7000万立方メートルの土砂が掘削されました(Gold Districts of California, pp. 144-46. )。

 もとはといえば、川で選鉱鍋を使って採取される金塊や砂金は、水面より高い山体に含まれる金鉱石が侵食作用によって崩され河川に流れ込んだものです。それをあらかた取り尽くしたあと、こんどは自然の侵食作用にたよらないで手っ取り早く金鉱石を手に入れようというのがこの水圧採鉱法です。川の上流部において山を破壊するだけでなく、中下流に大量の土砂を流出させることで河床を上昇させ、とりわけ平坦なセントラル・バレーにおいては深刻な治水上の問題を引き起こすことになります。

 

 

 次は、サクラメント・リバーの支流のフェザー・リバーの上流域、チェロキー Cherokee 付近の景観です。海岸段丘地形のテーブルマウンテン Table Mountain の北東部分の崖が水圧採鉱によって広範囲にわたって破壊され、岩盤がむきだしになっています。(2017年2月に放水路が陥没し、決壊寸前になったオーロビル・ダムはここから南に13kmほどのところです。)

 

 

 このチェロキーで使われたものではありませんが、「ゴールドラッシュ」時代の街並みが残り、観光地になっているネヴァダシティーという町にウォーター・キャノンが展示されています。(ネヴァダシティーは、ネヴァダ州ではなく、カリフォルニア州にあります。)

 

 

 

 以下、浚渫と岩盤採鉱については、「ゴールドラッシュ2」に続きます。