資料と現地調査がきわめて不足しています。補正を続けますので、まだ信用?しないでください。あしからず。


16 若宮戸以外の河畔砂丘 draft

 

 Oct., 14, 2020 ( draft 1)

Oct., 17, 2020 ( draft 2)

 

グーグルアースで表示した常総市小山戸町の河畔砂丘

(MacOSやWindowsのウェブブラウザ版、航空写真による3D画像)

 

 地理院地図の治水地形分類図(初期版)では、鬼怒川流域の河畔砂丘 river bank dune は若宮戸(わかみやど)だけです。かつてはほかにも存在したものの、現存するのは若宮戸だけという認識のようです。もっとも、その若宮戸ですら、かつては河畔砂丘だったところ、というべきかもしれません。水害後の激特事業による堤防新設以前、さらには例のソーラーパネル業者による蛮行(東から2列目の〝畝〟ridge の掘削)以前においてさえ、一番東側の最高峰の〝畝〟ridge がもはや存在しない、正確に言えば痕跡3箇所を残して跡形もなく破壊されてしまっていたのですから。

 治水地形分類図(更新版)では、鬼怒川流域の河畔砂丘として若宮戸の他に、中三坂に小さなものが図示されています。

  さらに、同じ地理院地図でも土地条件図になると、鬼怒川の「下流部」でこれらの他に、2箇所の河畔砂丘があります。下妻市の中居指と常総市の小山戸(こやまど)です。

 ただし、治水地形分類図(更新版)の中三坂は除外されています。それどころか更新世段丘(洪積台地)になっています。そのほか、河川関連だけでも3つの地図にはかなりの食い違いがあります(高水敷・低水敷については下流優先の実際=豊岡町)。また、同じ河畔砂丘についても各図で範囲がかなり違っています。どれも国土交通省国土地理院(旧建設省国土地理院。茨城県つくば市)が作成した地図なのですが、混乱気味です。いずれも鬼怒川水害における重要地点についての枢要な点であるだけに注意しなければなりません。

 それらを見てゆくことにします。若宮戸との比較、とりわけ現時における最重要課題としての若宮戸における河川区域設定(1966年の建設大臣告示)の是非、というより非であることは今更いうまでもないことなので、どこに河川区域境界線を引くべきだったのか、という課題を解決することが目的です。

 

 このページでは、まず常総市小山戸町の河畔砂丘です。

 (またしても「戸」です。若宮「戸」と小山「戸」。目に付くところでは、「戸」というと、一戸から九戸〔四戸は欠番〕の話ばかりですが。このあたり一帯はアイヌ語起源の難読地名がたくさんあります。まさかアイヌ語で「砂丘のこと」なんてことは?……。)

 土地条件図です。画面中央の黄地に伏せ半円の地点が小山戸の河畔砂丘です。

 黄が自然堤防、薄緑に茶細横線が後背低地、臙脂が更新世段丘(いわゆる洪積台地)、その改変地は赤横線、黄地に茶ポチは高水敷、白地に茶ポチが低水敷です。黒太線は堤防、濃紫太線は護岸です。画面下は、水海道(みつかいどう)市街地、その北部を横断して鬼怒川に合流するのが八間堀(はちけんぼり)川下流部の新八間堀川です。

 この河畔砂丘を、地元では「吹上(ふきあげ)砂丘」あるいは「吹上山」と呼んでいるようです。若宮戸の河畔砂丘は水害後に「自然の堤防」と称され、それがいつのまにか「自然堤防」になり、水害をめぐる議論は大混乱に陥ったままですが、こちらでは、その成因と本質がただしく認識されていたのです。

 水流によって砂州や高水敷に堆積した砂が、冬の北西季節風(「日光おろし」)によって吹き上げられ、東岸に砂丘列を形成するのであって(西岸から吹き上げられた砂は河道に落ちる)、自然堤防が氾濫水による砂の堆積作用によるものであるのに対し、風による砂の堆積作用によるという点で、決定的に異なる地形です。河畔砂丘 river bank dune は自然堤防 natural levee とは別の地形名であり、自然堤防の一種でも、その部分集合でもありません。自然堤防の上にできる、などと言っている人がいます。河畔砂丘の下にいまでも自然堤防があるとでもいうのでしょうか? 思考が混乱しているのです。

 

 グーグルアース(MacOSとWindows のアプリケーション版)の衛星画像です。以下の各種地図にあわせて西を上に回転させてあります。

 右下は、国道354号とその料金所、および水海道大橋です。旧道は今も水海道市街地を横断し、豊水橋(ほうすいきょう。西岸の豊岡〔とよおか〕と東岸の水海道から1文字ずつ)を渡りますが、こちらの新道は有料(普通車210円)の水海道大橋で鬼怒川を渡河します。料金所の脇が常総市立水海道中学校、河畔砂丘の北端近くが常総市立水海道第六保育所です。

 

 鬼怒川平面図(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinugawa-heimenzu1.pdf)の、ほぼ同じ範囲です。

 なお、国土交通省は、河川区域境界線については国家機密か何かと勘違いしているようで、公表している、いかなる地図にもその所在を記すことは、絶対に、なにがあっても、しません。元データは国土交通省が作成し、それに基づいて自治体が作成公表する洪水ハザードマップだとさすがに結果的には記述せざるをえないのですが、なんとそれすら描かず、河川区域にほかならない遊水池のどまんなかが、白抜きのまるで安全地帯のようになっている事例すらあります(誤解を招くハザードマップ参照)。さすがのグーグルの地図にもこればかりは載っていません。その重要機密事項については、以下の地上写真のあとに、大臣告示等で示します。

 さきほどのグーグルの衛星写真でも、そう思ってみればまごうかたなき河畔砂丘なのですが、平面図や地形図の類ではそうは読み取れません。読み取り能力の問題なのではなく、作図者がそのように描いていないからです。しかし、現地を見るとまさに河畔砂丘です。見逃しや勘違いの余地は絶無です。誰が見ても河畔砂丘です。

 

 2回目の東京オリンピックが延期になった2020年=令和2年、すなわちコロナ元年10月の小山戸の河畔砂丘を下流から上流に向かって歩きます。ここ数日は雨続きでしたが、束の間の晴れ間、近くの第六保育所の園児が砂丘南側の堤防を走り回り、徒歩や自転車で縦断する人がひっきりなしです。

 おおむね、進行方向を撮影します。上流から下流方向を撮影した場合には、「R」と記します。

 

 R 砂丘に入る前に、12k距離標石から下流方向を見渡したところです。左岸堤防がゆるやかに右カーブした先に、八間堀川排水機場の巨大な建物と、八間堀水門の赤いゲート板が見えます。

 

 回れ右して、左岸12kから上流方向をみたところです。八間堀水門左岸からこの小山戸の砂丘の南端までは、激特による改修対象外です。

 

 堤防が終わり、小山戸の砂丘に入ります。砂丘の南面です。

 

 上の写真の上り勾配頂点の手前です。アスファルト舗装は幅員3mです。この地点はあきらかに人為的な切り通しです。

 

 河道側の斜面

 

 砂丘に入って約70m、12.25kの標石です。

 

 堤防横断図(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-2.pdf)です。向きが写真と逆になります。


 90度右(=東)を向き、標石と崖上の距離標石との間に5mのスケールを渡したところです。上下夫々1mたりません。

 

 崖を登って12.25kの距離標石からさきほどのアスファルト路面と標石を見下ろしたところです。「堤防横断図」では、こちらの標石が「堤防高」測定地点ということです。傾いている(いったん掘り起こして雑に埋め直したということでしょう)路肩の標石はただの目印のようです。

 

 同じ12.25kの距離標石から河道と反対側(=東)の崖面にスケールを渡したところです。このあたりは竹藪になっています。いったん森林を伐採したようです。切り株らしいものも残っていません。ということは多少は採砂をしたのかも知れません。

 

 

 R 路面脇の標石自体が路面より50cmほど高いのですが、そこから崖上の距離標石(堤防高地点)までの標高差は1.5mほどあります。

 

 R 幅約2mの元の舗装にm、約1m付け足したようです。逆順ではないようですが、継ぎ足した1mに亀裂が走っています。山形になっていますが、全体としては河道側斜面の反対側への雨勾配がつけられています。

 

 写真だとわかりにくいのですが(平面図には表現されています)、このあたりの路面は下っていて、その先で上りになります。地元の人の話だと、採砂をおこなって砂丘が低くなったということのようです。

 

 河川区域境界標石らしきものが数多く立っています。左が河道側ですから、標石までが河川区域です。その右は河川区域外となり、なおかつ私有地です。しかし若宮戸と違って(多少、砂をとったようですが)、この辺りの砂丘は(樹林を含めて)保存されています。

 50年少々前までは、砂州(低水敷)が発達し、地元の子供たちはよく遊んだとのことです。「夏、裸足で歩くと砂が非常に熱かった!」 東京オリンピック(前回の)のころに採砂が急激に進行し、砂州は消退したとのことです。

 

 12.25k標石から約200mで12.50k標石があります。河道のカーブの内側なので間隔が狭まっています。

 

 R 上流側からみたところです。右が河道、左の崖面に5mスケールを置いています。

 

 堤防断面図だと、崖の上で堤防高を測ることになっています。標石を見つけ損ないましたので、出直して調べたのですが、12.25kと違ってどこにもみあたりませんでした。ただし、上の写真で少し先(下流側)に紅白測定棒の立っているところがありますが、そこに何なのかわからない標石が打たれています。右図の「堤防高」はそこで測っているのかもしれませんが、国交省に訊いても「?」です。さらに右の崖下(斜面で10mほど下)にも何なのかわからない標石があります。


 路面から距離標石を見下ろしたところです。「堤防高」はここで測るのではありません。

 写真だと映りませんが樹々の隙間から河道の水面が見えます。小山戸砂丘は〝畝〟ridge は一列のようです(すくなくとも現存するのは)。

 

 河道側の崖を少し下って撮影。画面下から順に、距離標石(堤防高測定地点ではない)、崖面、アスファルト舗装道路、崖面と樹林。

 

 R 砂丘北端を抜けたところです。激特による改修堤防で天端の舗装幅は法肩のPCコンクリートブロックを含めて6mです。激特事業による新造ないし拡築・嵩上げ堤防の天端舗装幅です。

 

 R 激特補修区間を過ぎたあたりから、砂丘を振り返ったところです。〝畝〟ridge は一列のようです。手前は常総市立水海道第六保育所。

 

 激特による改修区間の北端から国道354号の水海道大橋をみたところです。画面右端が料金所。晴れていれば正面に筑波山が見えます。

 

 橋桁の下から上流側の岸辺(低水敷護岸?)にテトラポッドが見えます。

 


 ここから、河川区域と保全区域についてみることにします。

 前年の河川法改正による「水系一貫主義」への転換を受けて、茨城県の管理から建設省の管理になり、河川区域を建設大臣が告示しました。その附図(縮尺2500分の1)の一部をトリミングしたものです。2葉にわたるので、剥ぎあわせてあります。対岸が入っていませんが、両岸の赤線内が河川区域、つまりは鬼怒川、です。赤線の外は川ではありません。

 

 いわゆる直轄管理のはじまりです。それまでは鬼怒川は栃木県知事と茨城県知事で分け合って管理していた(ことになっていた)のですが、今後は利根川水系の一部として、小貝(こかい)川・思(おもい)川・渡良瀬(わたらせ)川などなど支流全部をひっくるめて、しかも本川たる利根川の一部として建設省が一元的・独占的に管理する(ことになった)ということです。とはいえ、もともとお国は「工事」の直轄はしていたわけで、ほんの形だけ都道府県知事が河川区域を告示していたのが、建設省が河川区域も告示することになったというのであり、はじめて鬼怒川の管理をするようになったというわけではありません。実質的には戦前はもちろん戦後のここまでも、なにからなにまで内務省=建設省が取り仕切っていたのです。

 

 南側(下流側)と北側(上流側)には堤防があり、そこは堤防の川裏側(堤内側)法尻(法面=斜面の下の線)までが河川区域ですが、小山戸の河畔砂丘の区間は、道路のおそらく陸地側(東側)の路肩が河川区域境界線です。上の写真だと道路の有無がはっきりしないようですが、クリックすると独自ウィンドウになり、さらに拡大表示できます。河川区域境界線の河道側にははっきりと二重線もしくは破線で道路が描かれています。

 

 アドビのイラストレーターであればもうちょっと綺麗に描けるのでしょうが、1960年代のこととて、そうもいかず、フリーハンドなので、線がズレまくり、路面と重なったり、ひどいところでは河道側になったりしています。とくに、2葉の地図をつなぎ合わせてあるのですが、とくに右葉の仕事が雑です。まだしも丁寧な方の左葉ではあきらかに路面の下側(東側、河道の反対)に描いてありあるので、全体にそのように解釈しておくことにします。いずれ、現地の標石と照合してみます。

 

 河川区域を決めた建設大臣告示に、冒頭に掲げた鬼怒川平面図を重ね合わせます。堤防や道路などの線形がに微妙ズレています。

 そもそも河川区域図は素人がテーブルの上に折り目のついた地図を広げて、手持ちで撮影したものですから、垂直に撮影できているかどうか怪しいものですが、それ以前に両図には誤差や図法上の歪み・省略もあります。距離標石の位置であわせると堤防の位置があわず、堤防線形をあわせると標石位置がズレます。困ったものです。

 

 なにより、堤防表記についての両図の図法に微妙なズレがあり、一致しません。告示も、平面図も、それぞれに堤防については通常の等高線では当然まったく表記できないので象徴表現するのですが、実物との不一致が生じます。しかも、両者は一致しません。当然、それに現物を加えた三者は三者三様に不一致です。とりわけ天端幅がかなり過大に描かれているようで、困ったものです。

 たとえば、三坂では、アスファルト舗装された幅3mの天端(てんば)の河道側に土のままの(当然、草は生えていますが)天端が3m近くあり、しかもその一部区間はアスファルト面より数十センチ高いのですが、地形図には一切現れてこないし、平面図でも図法上は、アスファルト面よりまるで低いかのように、というより、河道側法面の中段に段付きがあるように表記されているのです。

 決壊した195m(そのうち破堤したのは165m)のうち(破堤しなかった上流側ではなく)下流側の30mほどを除く区間に川表側に「余盛り」?がありますが、そのうち、L21kの距離標石が打ってある地点の前後おおよそ30m区間で、草を差し引いても約30cm高いのです。

 小段は今や禁忌事項ですから、そんなものがあるわけないのですが、堂々と、平面図や、作成されただけで実施に移されることのなかった設計図書で、小段かそうでなければ法面に傾斜角の転換点があるかのように描かれているのです。それだけでも大問題なのに、実態は段付きや小段どころか数十m区間だけ盛り上がった上段なのです。なんとそこで堤防高を測っているという信じられないデタラメが横行しているのです。さきほどの堤防横断図にはそのように描いてあるうえ、鬼怒川堤防調査委員会の資料や報告書中の図にもそのような上段が描かれているのです。とんでもない食い違いです。訴訟でも現地三坂の堤防の外形寸法は大問題になっているはずなのに、そんなものは誰も気にもしない?のです。端的にいうと、その数字(たとえば「堤防高」、「天端幅」)が実物のどの地点を計測しているのかを視野の外において抽象的数値だけに拘り、無意味なやりとりを続けているのです。(そもそも堤体や堤体およびその左右数十メートルの基礎地盤の土質こそが本質的問題なのですが、本質を外したところで、しかもズレた議論をしているのです。鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因参照)

  図法がまずいのですが、さりとてどう描けば良いのか、適切な手法は見当たりません。

 

 もうひとつ話をややこしくするのが1966年の地図にある道路が、いまや影も形もないものも多く、あっても経路が結構ズレていることです。それが実物のズレなのか、図化に際しての歪みなのかも不明確です。

 しかし、さまざまのズレはあるのですが、最重要分での不一致は、こうした図法のズレや歪みではありません。河畔砂丘を縦断(図では横断)する道路は、大臣告示と平面図では、別物です。とくに中間地点で、河川区域境界線がそれに沿って引かれたであろう道路(逆ではないでしょう)が、平面図の崖上の線とほぼ一致するのです。なぜ経路が変えられたのかは今のところはわかりませんが、現地のこの区間で凹状に垂れ下がっているのが、まさにこの区間の新道です。

 現地の人の話だと、現在ある道路を作った際に、同時に採砂もおこなわれたというのです。もともとの道路は明治初年の迅速測図にもありますから、これが現在の道路だと勘違いすると、現地の人の勘違いだということになります。しかし、勘違いはこちらの方で、もともとおそらく〝畝〟の頂上を通るごく狭い、当然舗装などしていない道があったのでしょうが(若宮戸の最高峰の〝畝〟でもそうでした)、それと現在の幅員3mのアスファルト舗装道路は、コース取りからしてまったくの別物です。

 ということは、1966年の大臣告示による河川区域境界と、管理平面図の河川区域境界は異なるわけです。当今はいちいち大臣のお手を煩わすことなく、局長(関東地方整備局の)名で告示するとのことです。局長が変更を告示したに違いありませんが、宿題です。

 

 河川区域境界線が引き直されたものとして、これに、「管理平面図」(「直轄河川利根川水系鬼怒川管理平面図(鎌庭出張所)」、縮尺1/3000、平成22年3月、下館河川事務所)に記された保全区域の線を描きいれます。保全区域は堤防のある区間については河川区域線の外側(堤内側)の幅10mの範囲です。

 管理平面図の撮影はできませんでしたので、見ただけで再現したものですが、ポイントは押さえてあります。すなわち下流側は、堤防が途切れる平面図の森下(もりした)町と小山戸町の境界で弧を描いて終息します。上流側は、砂丘北側の12.50kの標石のやや下流で弧を描いて終息します。小山戸河畔砂丘の中ではどうかというと、上記の上流側の一部を除き、一切設定してありません。ゼロです。

 白矢印地点が森下町と小山戸町の境界です。告示では河川区域境界線が直角ですが、管理平面図では弧状(コバルト)です。管理平面図の背景地図は、今までみてきた平面図ですが、上述のとおり告示とは堤防の図法の違いがあり、砂丘上流端の堤防との転換点で保全区域の線の形状にズレが生じます(青丸)。

 なお、告示当時の道路の丁字路部分(赤丸)が管理平面図の保全区域線の終息点あたりと思われます。