銃後奉公 笠間1943

     笠間駅到着直前のJR水戸線下り電車

右奥が笠間駅、背景は市街北東の佐白山 (さしろさん、いわゆる「御城山 おしろやま」)

 

軍都宇都宮1943 のつづき)

 

 ラバウルから送還された祖父を宇都宮の陸軍病院に見舞った話につづいて、もうひとつ、亡くなる少し前にはじめて母が語ったのは、陸軍病院を退院した祖父が笠間の自宅に帰って来た日のことです。

 2年前の1941(昭和16)年7月に、祖父は、ほかの出征者たちといっしょに笠間駅頭で万歳の歓呼の声に送られて宇都宮に向かったに違いありませんが、2年後の帰還はただひとりの寂しいものでした。いっしょに出征した町の人たちはまだ誰一人帰ってきていないでしょう(さきの資料によれば、戦争が終わったあとになっても、生きて帰る人は、5人にひとりもいなかったのです)。

 その祖父を笠間駅で出迎えたのは、母(祖父の長女)ひとりでした。同居していた祖父母の養母は、出征の翌年に亡くなっています。祖母は家にいたのか、それとも仕事にでていたのかはわかりませんが、お国のために命を捧げるどころか病気で戦線を離脱しひとり生きて帰った夫を、世間の手前もあって駅まで迎えに行くことはできず(祖母も当時は国民学校の訓導でした)、10歳の娘にその役を託したのでした。

 2年ぶりに帰ってくる夫を駅まで出迎えることすらできない社会状況について、『笠間市史 下巻』(1998年、笠間市)によってたどってみます。

 

 1939(昭和14)年1月、「警防団令」により、従来の「防護団」と「消防組」が統合され、警察の指揮下で活動する「警防団」が各市町村で結成されました。笠間町では、笠間農学校(現在の茨城県立笠間高等学校)や笠間国民学校(現在の笠間小学校)を会場とする西茨城郡内町村警防団幹部対象の防空教育訓練が実施されました。

 笠間町は、結局のところ連合国軍による戦略爆撃(「空襲」)の対象となることはありませんでしたが、1943(昭和18)年3月19日から21日まで、警戒警報発令による灯火管制を実施しています。銃後奉公会が各市町村に設置され、「軍人援護体制を確立する」ために「銃後における戦意の昂揚と、戦力増強に邁進」するよう通達されています。

 1942(昭和17)年2月、大日本帝国は、「大政翼賛会」傘下に従来の「国防婦人会」・「愛国婦人会」などを包括する「大日本婦人会」を結成し、20歳以上の「婦人」を強制参加させました。目的は、軍事援護事業のほか、貯蓄奨励運動、戦時生活確立運動(標準服奨励・勤労奉仕等)、健民運動(結婚奨励・結核予防)、教育訓練運動、動員運動(竹槍訓練・勤労報国隊)などの活動への動員でした。翌年6月の全国都道府県支部長会議での決議文には、次のような語句が並んでいました。

 

誓って飛行機と船に、立派な戦士を捧げましょう。

一人残らず決戦生産の完遂に、参加協力いたしましょう。

長袖を断ち決戦生活の実践に、決起いたしましょう。

 

 兵士を送り出した「留守家族」や、戦死者を出した「遺家族」の家には、「誉れの家」の標札が掲げられたようです。

 下の表は、日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけての笠間地区の戦没者数です

(『笠間市史 下巻』469ページ。笠間町・大池田村・北山内村・南山内村は、1955〔昭和30〕年2月11日に合併し〔笠間町〕、さらに1958〔昭和33〕年2月15日に稲田町〔旧西山内村〕を合併したうえで、同年8月1日に笠間市となります。なお、2006年2月20日に友部町・岩間町と合併し、現在の笠間市となります。)

 

 

 祖父が生還したのは1943(昭和18)年9月ですから、まさに戦死者数が激増する時期でした。帰還後も約2年間にわたって戦争は続き、膨大な数の戦死者が出ます。「陸軍」とあるのは、多くが祖父と同じ宇都宮の第五十一師団に徴兵され、パプアニューギニアなどに送り込まれた兵士に違いありません。人口2万人あまりのこの小さな町村で、10年ほどの間に961人の戦死者をだしているわけです。祖父は、早い時期にマラリアに罹患したもののそれによって命を落とすことなく、すでに制海権を喪失しているにもかかわらず輸送船が撃沈されることもなく、無事に帰国できたのです。ほとんど偶然というべき「幸運」が重なることがなければ、祖父は962人目の戦死者になっていたに違いありません。

 祖父母と母・叔母・叔父は当時、笠間稲荷神社近くで借家住まいでしたが、おそらく留守宅には、前述の「誉れの家」の標札が掲げられていたのでしょう。しかし、多くの町民が天皇陛下のため立派に命を捧げるなか、なんらの戦功をもあげることなくひとり生きて還ることとなり、「誉れの家」の標札も取り外されたに違いありません。祖母は、宇都宮の病院まで夫を迎えにいくことはもちろん、笠間駅で出迎えることすら遠慮しなければならない状況に置かれていたのでしょう。家から笠間駅までは2kmあまりです。宇都宮駅から陸軍病院までの距離の半分ほどとはいえ、10歳の子供がひとりで駅まで歩き、同じようにただひとり列車で帰ってくるその父を待つことになったのです。

 

 

 現在のJR水戸線笠間駅

(小山駅13:03発、笠間駅13:59着、友部駅行749M便)