鬼怒川三坂堤防の特異性と崩壊原因

 

5 三坂堤防の特異性

 

Oct., 5, 2020 ( ver. 1.)

Oct., 10, 2020 

 

(i) 三坂における河道付け替え

 

  次は、山本晃一(河川総合研究所長)らの論文「鬼怒川下流部の粘性土・ 軟岩露出河道の侵食特性」における鬼怒川の流路変遷図です(『河川総合研究所報告 第20号』2014年、河川財団・河川総合研究所、51ページ https://www.kasen.or.jp/Portals/0/河川総合研究所報告_20-1.pdf)。

 

 20世紀初頭の鎌庭捷水路はもちろんのこと、40kから30k付近、さらに7k付近については、この図を見るまでもなく地形図にかつての流路の形をそのまま残している道路や耕地境界が記されているので、どこが旧河道だったかは容易にわかるのですが、この図には、地形図等ではわからない旧河道が描かれています。水海道(みつかいどう)の八間堀(はちけんぼり)水門から豊水橋(ほうすいきょう)左岸・水海道元町(もとまち)・水海道本町(ほんちょう)にかけての一帯は、右岸一帯の更新世段丘(いわゆる洪積台地、凡例では「台地」)から切り離すように鬼怒川が割って入って流れるのが不思議だったのですが、どうやら現在の河道は利根川合流直前の大木開削(江戸時代初期、報告書の地図の左上)同様、人工河道のようです(下左)(それでも水海道本町の更新世段丘は左岸のままです)。また、鎌庭(かまにわ)の大蛇行のあと、なんと鬼怒川は現在の若宮戸(わかみやど)の河畔砂丘の東を流れていたようです(下右)(この状態では、冬の季節風に対して風上側の西岸になる若宮戸では河畔砂丘は発達しません)。


 さて本題です。鬼怒川は、石下(いしげ)橋の下流で東に流れたあと(もちろんその頃は橋はありません)、三坂で現在の河道に戻っていたようです(図の中央あたり)。まさに、2015年に破堤した地点です。報告書の図はA4版1枚に「下流部」を全部押し込んであるため、このとおり解像度が極端に悪いので、報告書と同じく「地理院地図」(https://maps.gsi.go.jp/)の「治水地形分類図(初版)」(トップ>土地の成り立ち・土地利用>地水地形分類図>初版)に旧河道を描き写します。

 これまでの地図・衛星写真と向きをあわせて、河道から左岸を見上げるようにします。江戸時代末の1848(嘉永1)年の絵地図には、上の若宮戸・水海道はもちろんこの三坂も、現在の河道で描かれています。人為的な河道の付け替えがおこなわれたとすれば、それ以前でしょう。

 江戸時代には上流にダムもなく、砂の掘削もほとんどおこなわれていないでしょうから、砂州や河畔砂丘がたいへん発達していたにちがいありません。山本の報告書の旧河道はフリーハンドで大雑把に描いたという程度ですから、コース取りもさることながら、なおさらのこと川幅についてはあまり拘ってもしかたがありませんが、低水路の幅を表現しているものと受け取ることにします。というのは、「治水地形分類図」の「旧河道」について、この鬼怒川に限らずさまざまの例を見ると、おおむね低水路、まさに河道を描いているのです。現代風にいえば堤防から堤防まで、つまり河川区域の幅で描くところでしょうが、なにせ堤防のある区間より、堤防のない区間の方が多いのですから、河道=低水路と見るのは当然です。

 なおまた、「旧河道」とはいっても、本流が一本だったと限るわけではなく、いく筋かに分かれていた可能性もあるでしょう。洪水の時に分流したり流路が突然変わったりを繰り返していたのです。

 

 三坂で現在の河道に至ることになる部分をこんどは「治水地形分類図(更新版)」を背景地図にしてさらに拡大表示してみます。あわせて、決壊した195mの6区間(Fが最初に破堤した区間で、そこから上下流に側方洗掘によりC区間からG区間までの165mが破堤)、さらに水害前の堤防の河川区域境界線(白実線=基本的に堤内側法尻線と一致しますが、幅広部の「法尻」では白破線です)、2013年ころの高水敷と低水敷の砂州(だったところ)の段差(青線)、2013−14年の採砂によってできた高水敷の段差(緑線)、そして水害後の9月12日に水面上に見えていた粘性土盤面のエッジ(コバルト)を描き加えてあります。

 

 

 

(ii) 河道付け替えに際しての堤体強化策

 

 ガソリンスタンド裏手のヘアピンカーブの少し上流にあった、堤防の不思議な膨らみ具合の理由はこれだった可能性があります。低水護岸というほどのものがあったのかどうかはわかりませんが、低水路の左岸の末端箇所です。旧河道を斜めに横断する形で新河道の左岸堤防を建造するにあたって、旧河道を横断する部分は当然弱点になるので、強度保持のためにこのような膨らみが残された、という可能性です。

 それにしても、じつに根拠薄弱です。国土地理院の「治水地形分類図(初期版)」・「治水地形分類図(更新版)」には、この旧河道は描かれていませんし、山本晃一らの論文には旧河道について根拠・出典が示されているわけではありません。このような旧河道があったことは明晰で clear 判明な distinctive 事実というのではなく、ましてやその左岸堤防との接続・付け替えの痕跡が、問題にしているこの幅広部分であると考えるのはほとんど妄想であるかのごとくです。旧河道があったかどうかですらハッキリしないのに、よりにもよってその旧河道の左岸が接続したのがこの幅広部だというのは、あまりにも虫が良すぎるというものです。

 しかし、いくつかある可能性のひとつとして、まさに仮にそうであったと想定した上で、この三坂の破堤地点におけるさまざまの事実を再検討し、いったん分解(分析)したそれら事実をこの仮定のもとで、体系的に再構成(総合)してみてもよいのではないか、と考えるのです。というのは、決壊・破堤した三坂の左岸堤防は、旧河道を締め切ったうえでそこを横断するようにして建造されたという仮説は、たんにG区間の幅広部分と関係する(かもしれない)というだけでなく、これ以外のさまざまの事実と関連している(かもしれない)のです。最終的には、この地点で2015年9月10日に起きた決壊・破堤のメカニズムを解明できる(かもしれない)ということです。すなわち、「越水による破堤」などという絵空事ではない、真の破堤原因です。

 破堤・決壊した三坂の左岸堤防は、その上・下流側の区間とくらべるときわめて異質なのです。ところが、現物は跡形もなく流失してしまったうえ、その上・下流側も「激特」事業により拡幅・嵩上げが完了して、比較しようというその比較対象ももはや存在しません。しかし、残されていて現在一般的に参照しうる地図・図面・衛星写真・現場写真を見ると、この旧河道を横切って建造された(かも知れない)100m少々の区間の堤体は内部構造はともかく、すでにその外形において極めて異質なのです。

 

 「越水したのに破堤しなかったB区間の謎」に挑戦した清水教授らは、もっぱら堤内側の事情にばかりこだわった挙句、場所まで取り違えて迷回答を公言したのですが、その前に、そのB区間を含めた決壊・破堤した区間の断面形態、とくに堤外側(河道側)の形態について、すこしは考えてみるべきだったのです。

 すでに水害直後に、政令の定めるところでは計画流量が毎秒5000㎥を超える河川にあっては、天端幅は6m以上でなければならないところ、決壊・破堤区間の堤防の天端幅がその基準を大幅に下回っていたとする疑問が提出されました(この経緯に関しては、水害直後に書いたページ〔堤防自体は全域にわたり同レベルにできていた3〕参照。下に新聞記事と政令)。

 

2015年9月25日の読売の東京本社版(13S)

地方面(31ページ、「茨城 首都近郊」)

河川管理施設等構造令(昭和51年7月20日政令第197号)


 

 ところが、それに対する国土交通省関東地方整備局の回答は、一向に要領をえないものでした。窓口は例の高橋伸輔河川調査官ですから、それを見れば一発で事実があきらかになるような写真・地図・図面などの基本的データは、絶対に出さないのです。提示されるのは、素人役人がお絵かきソフトで描いた空間認識を誤らせるような図形と、粗略であるだけでなく、問う側の思い違いにつけ込んでわざと事実関係を誤認させるような説明文ばかりです。

 若宮戸(わかみやど)に関する「自然堤防」詐術、測量の「測線」をサカナの「側線」と誤記する素人による河畔砂丘の断面図、土嚢積みについての印象操作、「24.75k」の数値誤記など、まことに効果絶大であり、結局のところ若宮戸における氾濫の実態はよくわかないままです。24.75k(正しくは24.63k)における氾濫はなかっとことになり、25.35k(ソーラーパネル地点)では「封印」のお札同然の「品の字」土嚢をめぐる無意味な論争を法廷に持ち込ませて、判事と原告の時間とエネルギーを浪費させました。こうした猫じゃらし問題に引き込んで無意味な論点を作り出し、河畔砂丘の全体構造の認識とその掘削・破壊の事実の解明を阻止しているのです(若宮戸の河畔砂丘参照)。

 三坂の破堤区間の堤防に関して繰り出した猫じゃらしは、まずは次のようなものです。

 この区間の堤体は全体として幅広だったうえ、一部区間ではアスファルト舗装を施した天端の川表側に、舗装していない天端があり、しかも舗装面より一段高い段付きになってるのですが、そのことを端的に示す図面や写真は徹底的に出し惜しみし、説明さえしません。そうして、「天端幅」について問われると、水害当日の写真や衛星写真などから舗装面は3mしかなかったのが明らかなのに、いやもっと広くて、天端幅は5.7mあったと主張するのです。尋ねた方にしてみればおかしな話だと思いつつ、図面も写真も説明も抜きなのでそれきりになってしまったのです。そこで追究していれば、つぎの重大な点に気づいたはずですが、関東地整の猫じゃらしに幻惑されて話はそれきりになってしまったのです。

 というのも、これはまさに偶然なのですが、その段付き部がちょうどL 21k地点だったことに関係するのです。

 250mおきの堤防の規格(寸法)の一覧表(鬼怒川の例は、https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-3.pdf)があります(250mというのは、ある時期の河道中心線の河口もしくは本線への合流点からの距離ですから、そこから両岸に線分を引いた堤防上では必ずしも250mにはなりません。またその250mごとの地点が堤防のないところだった場合、一覧表ではそのことも無視され、あたかも堤防があるかのごとく記述されます)。国交省の役人はもちろん、立場の如何をとわず治水利水や土木工学の「専門家」たちはその一覧表をもとにして、エクセルで折れ線グラフを描き、計画高水位と比較して堤防の高さが足りているとか足りていないとか論じているのです(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-1.pdf、2011〔平成23〕年測量にもとづき下館河川事務所が作成)。ある観測点から次の観測点までの250mはワープしてしまい無視するわけですが、もしその間に高低差があったりすると問題です。盛り上がっているのであればよいのですが、もし低いところがあると、増水時にそこから氾濫(「越水」)しかねないのですが、そんなことには一切頓着しないのです。

 水海道(みつかいどう)市街地のL11kのすぐ上流、八間堀(はちけんぼり)水門近くのL11.25kとの間(実際の距離は350m)の、豊水橋(ほうすいきょう=右岸豊岡〔とよおか〕と左岸水海道間に架橋)直下がまさにこれで、9月10日には実際にごくわずかとはいえ溢水(いっすい。堤防ではないので「越水」とはいわない)していたのですが、一覧表やグラフだけで判断するとそんなことはちっともわからないのです。

 これは、水害の翌日、2015年9月11日、10:00 ころのグーグルの衛星写真です(パソコン版 GoogleEarthPro )。黄緑矢印が「溢水(いっすい)」箇所です(堤防がないところなので「越水」と区別するとのことですが、ようするに氾濫です。浸水したのは矢印の頭までだったのですが、水位があと20cmか30cm高ければ、土嚢積みを越えて大氾濫になっていたところでした)。以下、当日の写真は、地元住民の方のブログ(http://ameblo.jp/goemonn-dog/ その後閉鎖)からの引用です。2枚は観水公園(先代豊水橋の取り付け部分)の状況(12:00ころ)、3枚目は上の地図中の一番右の黄緑矢印地点で、見えているアスファルト天端は、堤防の終点(始点?)の勾配部分です(その後12:20までの間)。いずれも13:00の最高水位以前の状況です。比較写真は、5か月後の同じ箇所です。緑の橋梁が豊水橋です。

 1枚目の遠方に堤防の終端(始端?)が見えますが、そこから上流側は八間堀水門までは更新世段丘(洪積台地)の無堤区間となっています。そのうち豊水橋より下流ではこのように特に標高が低いため、溢水したのです。L11k地点はあの堤防終端の100mほど先で、そこは、Y.P. = 19.407mなので、9月10日の最高水位Y.P. = 17.974m(近くの鬼怒川水海道水位流量観測所のデータ)ではまだ余裕があり、Y.P. = 18.730m の L11.25kもかろうじて氾濫を免れたのですが、データの谷間の地点でこのように大氾濫寸前の小氾濫状況だったのです(八間堀川問題8下流優先論3参照)。




 

 話を戻します。三坂の破堤区間の堤防に関して、関東地方整備局が繰り出した猫じゃらしについてです。上の水海道元町(もとまち)の件は、250m刻みのまばらな一覧表やグラフにたよってばかりいると重大な点で判断を誤るという実例でしたが、三坂は輪をかけて複雑なのです。

 とりあえず、250mきざみの一覧表をみてみます。

 

 さきほどの「天端幅は5.7m」の件ですが、関東地方整備局の説明はたしかにウソではなく、表の記載のとおりだったのです。その前後の地点は概ね3mなのに、ここだけ突然5.7mなのです。たしかに、ほかにも8.7mとか8.2mなど随分広い天端幅はありますが、それらは常総きぬ大橋(L20k)や石下(いしげ)橋(L23k)などの橋梁の取り付け部で、河川以外に理由があるものです。(ただし、現状では理由のわかりにくい箇所もたくさんあります。堤防天端に昇降する坂路取り付け部の例もあるのですが、それらのなかにはかつての河道の付け替えの名残りもあるかも知れません。そうなると話が循環してしまうので今は触れないことにします。)

 三坂のL21kは、それでなくても法定の規格を大幅に下回る堤高しかなかったのですが、それはどうやらその前後の約20mだけ他より数10cm高くなっている地点の話なのです。上流側の10数m先と下流側数m先との間に挟まれた約20mの区間だけ、アスファルト舗装された「天端」の河道側に、数10cm高くなっていて草の生えた土の「天端」があり、そこにL 21kの標石が打たれ、ポールが立っているのです。上流側の10数m先と下流側数m先では、その土の「天端」はガクンと下がり、脇のアスファルト舗装の天端と同じ高さになっているのです。

 実際に、9月10日には21kの標石とポールのところ(D区間)ではなく、その上流側(B区間とC区間)と下流側(E区間とF区間)の2箇所で、「越水」が始まったのです。L21k地点は上・下流側での越水開始確認(11:11)から2時間ほど経過してもまったく越水しないままに、12:50ころに最初に破堤した下流側のF区間から洗掘が進んできて、約10分後の13:00ころに標石とポールごと流失したのでした。

 これは、まさかの三坂3で見た、越水を最初に発見した国土交通省の大型車両(おそらく排水ポンプ車)の助手席から11:11に撮影された写真です(写真6)。B区間からC区間にかけてとE区間での越水状況がわかります。E区間の堤内側の法面下に氾濫水が貯留しています。

 D区間は越水していません。幅3mのアスファルト舗装された天端には、C区間とE区間から茶に濁った氾濫水が流れてきてはいるようですが、ほんのわずかです。雨勾配により高くなっている堤内側は雨水で濡れているだけで、向こうの樹木の暗い影が映っています。越水はしていません。

 問題は、アスファルト天端の川表側(河道側)に水面から出ている草の天端が見えることです。


 次は、関東地方整備局の鬼怒川堤防調査委員会の資料・報告書に掲載されている、水害前の同地点の写真です(描き込みも)。水害当日の写真は、ワイパーの形状や他のカットに写っているフロントアンダーミラーからわかるように、大型車両の助手席から撮影したので、カメラの高さが違いますが、画面左端には堤内法尻に並ぶ同じ三本杉も映っていますし、ほぼ同じ箇所です。右奥は常総きぬ大橋です。L 21k地点のポールとその右に距離標石らしきものも見えます。ダンプ道路のヘアピンカーブ地点に、堤内側に降りていくダンプカーが映っていますし、ポールの少し先のアスファルト天端にこの時期にできた泥だまり(つまりこの前後区間で最も低い地点〔E区間〕に、ダンプ通行に起因する水分を含んだ土砂が流れてきて溜まるのです)が見えますから、まさに高水敷と砂州(だったところ)で採砂がおこなわれていた2013年から2014年にかけてです。

 分かりにくいのですが、この草の生えている天端、段付きの上段の方の天端は、アスファルト面より30cm以上高いように見えます。幅は、なで肩になっているのでなんともいえませんが、アスファルト面と同じくらいありそうです。これをあわせたのが、集計表上の「5.7m」なのでしょう。それにしても、特異な形状です。

 このようなD区間の川表側の幅広部は、「天端」と見做すほかないでしょう。法面ではないし、法肩と呼ぶわけにもいきませんから。

 このように盛り上がっているわけではないにしても、同様の形状はこのD区間以外にもあったのです。

 次は、これもまさかの三坂3で見た、写真4(11:11a)です。遠景はずっと先まで映っていますが、D区間の手前(上流側)のB区間の全景です。茶に濁った水が斜めの線を描いているのは、雨勾配(川裏側法肩から川表側法肩への傾斜)とあわせて、手前から奥に向けて堤防天端の標高が下がっているためです(最低点はE区間です)。

 それはともかく、川表側に草が生えているのが見えています(「氾濫水斜境界」の書込みあたり)。これだけみると、法面(=斜面)のように見えてしまうのですが、そうではなかったのです。


 次は、GoogleEarthProで表示した2012年3月16日の衛星写真に、決壊・破堤6区間区分を描き入れたものです。

 B区間最上流端に川表側にはみ出して駐車している車が見えます(白丸)。片輪だけではなく、両輪とも外に出ているように見えます。このあと近くの堤防の状況を見ますが、そこはアスファルト舗装された3mの天端の左右はすぐ法面になっていて、車がはみ出そうものなら転落してしまいます。

(Googleの衛星写真は、当然垂直写真ではありません。地表は曲面ですし、レンズはある程度の画角があるわけですから。それらを補正して繋ぎ合わせているので、このように建物や自動車は斜めに映り込んでいます。)

 同様に、GoogleEarthProで表示した2014年3月22日の衛星写真に、決壊・破堤6区間区分を描き入れたものです。

 同様にG区間最上流端に川表側にはみ出して駐車している車が見えます(白丸)。2年前のB区間の車よりさらにはみ出しています。G区間のすぐ下流側に2台駐車していますが、こちらはアスファルト舗装面の上です(緑丸)。はみ出すと法面になっているのでしょう。

 この三坂のL21k付近、B区間からG区間のヘアピンカーブあたりまでの約150mは、特異な形状だったのです。

 山本晃一らのいうように、ここがかつての旧河道だったとすると、G区間の川裏側の幅広部は旧河道の左岸低水敷の接合部だったと想定できるのですが、それは唯一の注目点ではありません。中心的な点ですらありません。

 このページで瞥見したように、かつて河道であった区間を締め切り、そこに新河道の堤防を建造したという仮説を立てることで、B区間からG区間上流部までの堤体がことのほか幅広になっていることも説明がつくのです。すなわち、旧河道上に堤防を建造するうえでは、その分厚い砂の層が堆積しているという、重大な基礎地盤の脆弱性を補うために、地盤改良と堤体堅牢化という2課題に取り組まなければならないのであり、そのうち、後者の堤体強化のために断面形状の拡幅を実行した、ということです。(地盤改良については、後で検討します。)

 

 関東地方整備局は詳細な堤防の形態図をもっているようで、時々それをチラ見させるのです。そういわれてみれば、グーグルの衛星写真からなんとなく窺われ、なにより水害当日の写真やVTRではっきりわかるとおり、D区間では川表側にアスファルト舗装面より高い未舗装の天端があり、それがG区間のヘアピンカーブ部まで続いていたのです。ほかのところで、アスファルト面から車幅の半分以上もはみ出そうものなら、確実に転落するだろうに、堤内側のことばかり気にして来たB区間でも、堤外側がこうなっているのです。

 そのことをチラ見程度にしておいて大声で告知することを決してしないのは、迂闊な「専門家」までコロリとだまされるような、なかなかに手の込んだ嘘の数々を捏造してきた関東地方整備局(高橋伸輔河川調査官)の行為としては、不思議といえば不思議ですが、要するにそこにはなにがあっても絶対に触れたくないということです。

 下手にそんなことを言うと、だったらそう簡単に破堤するはずないだろうに、あちこち危険箇所があった鬼怒川で、どうして三坂の左岸が唯一破堤したのかが問題になるのは不可避です(若宮戸は破堤ではありません)。そうなると、B区間は堤体幅が広かったから破堤しなかったなどと、苦し紛れに珍説を吹聴した清水教授や田中教授(埼玉大学)らがちょっと恥を晒すくらいでは済まないわけで、国交省の決定的な錯誤が露見するとわかっていたからでしょう。

 この決壊・破堤した195mのうちのB区間からG区間の上流端までの区間はかつての河道だったこと、そしてその河道をつけかえて、その河道だったところに堤防を建設したこと、当然そこは弱点となるため必要な強度を出すのに基礎地盤の強化とあわせて堤体幅の大幅増大をはかった、と考えるほかないのです。

 そのもっとも脆弱な地点で、関東地方整備局・下館河川事務所は2013-14年、つまり水害の直前にその脆弱な堤防の川表側法尻に近いところで(おおむね40m、ただし局所的に10数mのところもあります)、高水敷を差し渡し300mにわたり、深さ4mも掘り込むという、信じられない蛮行におよんだのです。下館河川事務所は、水害の前年には、若宮戸での森林の違法伐採を常総市役所が黙認した上で他県の業者が河畔砂丘を掘削するのを拱手傍観していたのですが、こちらはみずからの行為ですから、言い逃れは一層困難です(今は結論を疎明するだけにし、これも後で詳述します)。

 

 下左写真は、対岸(右岸)の20.75k−120m地点の堤防を下流側から見たところです(2015年10月、激特事業による改修前。車の右下路面に距離の赤ペイント)。右側が高水敷です。正面の高水敷の巨大竹藪の左に、篠山水門が見えています。トヨタ・プリウスの車幅は1745mmです。

 下右写真は、左岸20.25k地点の堤防を下流側から見たところです(2015年12月、同。赤リボンの棒が立っているのが距離標石)。右側が高水敷です。正面に常総きぬ大橋(20.5k)が見えます。天端アスファルトはこのとおり、激しくひび割れ、損傷しています。このほか、この付近は、川裏側法尻に今回の洪水による数箇所の浸透痕跡があります。破堤寸前だったのです。

 この付近の堤防はさきほどの250m刻みの規格表のとおり、ところにより少々幅広になっていた程度で、天端のアスファルトの左右はすぐ法面になっていて、はみ出して駐車する余地はありません。

 L21k付近以外の区間が安全だったのでは決してありません。堤防がなかった若宮戸は論外として、破堤した21k付近以外にも、このように破堤寸前だったところは数多あるのです。まさに鬼怒川の「下流部」は、「堤防自体は全域にわたり同レベルにできていた」というほかありません。しかし、三坂のL21k付近の約150m区間は、とりわけ特異な形状だったのであり、それだけ重大な理由があったのです。


 

 L21kの前後200mほどの幅広部がいつ形成されたかは、今のところはわかりません。最初から幅広に作ったというより、形状からしてあとから河道側に腹付けして幅広にしたと考えるのが自然でしょう。だとすると、河道の付け替えと、その増強はまったく別の時期におこなわれたことになります。

 付け替え以前の旧河道は、迅速測図以下、旧版の地形図にも一切描かれていないので、河道付け替えが明治以降ではないことは明らかです。一方江戸時代より前という可能性もありますが、ここでは江戸時代に河道付け替えがあったと考えることにします。

 結局最終的に問題になるのは、河道付け替えの際に新造された堤防に、あとから肉付けして幅広にしたのはいったいいつだったのか、ということです。このあと(iii)で見るように、河道付け替えにともなう新造堤防の幅広部分は地形図では表記されません。あまりにも微小な小地形なので、縮尺からみて到底描ききれるものではないということです。平面図上で表記するのが無理なら、ことなった記号を割りあてることで識別できるようにするという方法もありますが、あまりにも複雑なので事実上不可能でしょう。

 下館河川事務所あたりに図面が残っていて判明するという可能性も絶無ではないでしょう。しかし本気で探さないことには見つけることは不可能です。1966(昭和41)年に河川区域を告示する際に、手元に置いたに違いない従前の河川区域図(『茨城県報』掲載の附図程度の小縮尺のものでない大縮尺のもの)すら、もともと存在したことはあきらかなのに結局のところみつけられないのです。まして、公表用の文書ではない工事の設計図書となると、一見してどこの何についてのものかすらわからない膨大な量の図面の束でしょう(チラと見た近年の鬼怒川の激特事業の図面がそうでした!)。保存し切れるものでないのでとっくの昔に廃棄した可能性が高く、まさかスキャンしてハードディスク(あるいは長期保存用の磁気テープ)に保存してあるとも思えません。なにより、現在の関東地方整備局・下館河川事務所の職員でこのあたりの事情を知る人はいないでしょうから、発見は困難です。

 直接証拠が手元にないとなると、探索の努力は放棄しないものの、当面はありったけの傍証で攻めていくしかありません。

 

 

(iii) 河道付け替えに際しての堤体強化策の実例

 

 河道付け替えに際して旧河道を横断して築造する新堤防については、堤体強化策を講ずる必要があるので三坂の破堤区間の左岸堤防は堤体幅の顕著な拡幅をおこなった、というのが、(ii)において提出した仮説です。同様の事例が他にあれば、この仮説の傍証たりうるでしょう。蛇行する河道の直線化は、人為によらない自然現象としても起こるのですが、ここでは人為的なショートカットの開削による直線化です。

 激しく蛇行する河道の直線化は、それこそ日本中に枚挙に暇なしでしょうが、典型例として真っ先に思い浮かぶのは、石狩川です。高校の科目「地理」の定番です(高校「地理」と自然堤防参照)。下は、左岸に菱沼という三日月湖がある美唄市付近の石狩川を、地理院地図のトップ>土地の成り立ち・土地利用>治水地形分類図(初期版)と、グーグルマップで表示したものです。画面中心の左下、菱沼に沿う地形を「自然堤防」(治水地形分類図では薄茶)の典型例として、各社の教科書が横並びに掲載しているのです。ところが石狩川の自然堤防は、旧河道沿いに細々としかも切れ切れにできているだけで、当然ながら最初から堤防が連続的に建造された新河道沿いには、まったく発達しないのです。近代になって突如国内植民地に組み込まれた北海道において、大日本帝国による治水工事が一挙に断行された石狩川に特有の歴史的帰結です。

 これが当たり前だと思ってしまうと、きわめて複雑な自然的ならびに人為的流路変更の歴史をもち、千年以上の治水工事の積み重ねのうえに形成された、複雑極まる鬼怒川の「下流部」は理解困難です。「利根川東遷」により、それまで無関係だった利根川の一支流となってしまったことも、事態とその理解を極限まで錯綜させてしまいました。かくして教科書的イメージとは様相の異なる鬼怒川の自然堤防は完全に理解不能となります。学力優秀な新聞記者はもちろん、水理学・水文(すいもん)学や河川工学の「専門家」と称する工学博士や大学教授にして、自然堤防 natural levee がわからない、したがって河畔砂丘 river bank dune との区別もつかない、後背湿地 back swamp との標高差がわからない(ので、そのど真ん中に掘り込まれた八間堀川について真逆に誤解する)という、とんでもない悲喜劇が鬼怒川水害を舞台にして延々と上演されるのです(自然堤防をめぐる誤解八間堀川問題2参照。特に「専門家」の迷走ぶりについては、鹿沼のダム参照)。

 話を河道付け替えにともなう新造堤防の拡幅にもどします。地形図等はもちろん衛星写真を見ても、石狩川において三坂と同様の堤防拡幅があるかどうかはわかりません。地形図は省略や誤記がつきものですし、衛星写真や垂直航空写真は基本的には土地の標高起伏はわかりにくいのです。まして、ごくごく小規模な土地形状ですから、実物を見ない限りほんとうのところはまったくわからないのです。あるともないとも言えません。(堤体の基礎地盤となると、完全にお手上げです。)

 

 いっぽう、2019年8月の水害にみまわれた佐賀県大町(おおまち)町の六角(ろっかく)川には、旧河道を横断する新造堤防部分に、旧河道の痕跡が残っています。地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)のトップ>年代別の写真>全国最新写真と、トップ>土地の成り立ち・土地利用>治水地形分類図(初期版)で表示したものです。

  同じく沖積平野を流れる河川なのでしょうが、鬼怒川とはずいぶん様相が異なり、面食らいます。治水地形分類図を見ても、自然堤防がほとんどありません。蛇行によってできた大きな弧の一部分がさらに蛇行して小さな弧ができています。右側のキノコ状の蛇行ぶりは、マンデルブローの自己相似形(https://www.wallpaperbetter.com/ja/hd-wallpaper-fseawをトリミング)を彷彿とさせます。その上流側=画面左に、Ω形の旧河道があります。他では河道直線化工事をしていないのですから、ここは洪水時に一挙にショートカットしたのでしょう。その短絡部の左岸堤防に旧河道側に出っ張った瘤のようなものが2つ(Ω形河道への入り口と出口)あります。

 次の2枚は、地理院地図の1974−78年と、「最新」の写真です。旧河道を横断して新堤防を建造した際に、同じ幅にするのではなく、その旧河道への出っ張りを埋め立てた上でそこだけ幅広の天端にしているのです。

 石狩川だと航空写真では痕跡の有無もわからないのですが、こちらははっきりとした旧河道横断対策工事として残っているのです。

 

 美唄市付近の石狩川と大町町の六角川は、いずれも大昔に特急電車で通過しただけで、降りて歩いたわけではありません。この際、GO TO travel しなければならないかと考えたのですが、そこまでしなくても、同じ鬼怒川で同様の事例を探すのが先決なのですが、あれこれ考えるまでもなかったのです。鎌庭捷水路(かまにわ・しょうすいろ)です。若宮戸のすぐそば、三坂からでも7kmも離れていません。あらゆる条件はほぼ同じと考えてさしつかえないでしょう。もしここにおなじような天端幅・堤体幅の拡幅箇所があれば、三坂堤防の特質が河道付け替えにともなう堤体強化策だとみなす傍証になるでしょう。

 地理院地図の治水地形分類図(初期版)です。東から、つくば市の更新世段丘(いわゆる洪積台地、茶に赤横線)際を流れる小貝川(こかいがわ)とその自然堤防(薄黄土)、最低標高部を八間堀川(はちけんぼりがわ)が流れる後背湿地(薄緑)、そして鬼怒川とその自然堤防、西岸の更新世段丘です。鎌庭は地図では千代川村ですが、現在は下妻(しもつま)市です。

 鎌庭捷水路の下流端のすぐ下、薄黄色が若宮戸の河畔砂丘 river bank dune です。大半が掘削されてしまいました。なお、河道側の白い部分も含みます。

 鎌庭捷水路工事は、内務省(戦後解体・組織改編され、自治省・厚生省・労働省・建設省等を経て、現在の総務省・厚生労働省・国土交通省等の前身)の直轄工事であり、着工が1928(昭和3)年、竣工が1935(昭和10)年です(https://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/rio/tokubetsu/02-03.pdf)。旧河道が青横線ですが、地名の由来であろう鎌庭(かまにわ)の大蛇行部が形式上廃止になったのは1936(昭和11)年です。(鎌庭捷水路については、「鹿沼のダム」参照。河道付け替えはやればいいというものではないようです。)

 

 グーグルマップの3D表示で北西方向から俯瞰したところです。(5方向から撮影した航空写真から立体画像を合成するようです。自由な俯角をつけて画像を表示できるものです。動いているものは消去されます。)

 旧河道(黄線)は途切れもなくよくわかります。もとの堤防・護岸の線もはっきりしています。黄線の内側の旧河道は、現在、耕地・公園のほか一部は住宅地になっています。白線で囲んだのが若宮戸の河畔砂丘(だったところ)です。

 旧河道の上流部を横断して建造された左岸堤防(黄実線)です。 概略で延長400m、天端幅20m、堤体基底部の幅45mです。

 

 まっすぐに俯瞰したところです。天端幅20m、堤体基底部の幅45mです。

 堤防を横断する樋管はなさそうです。

 上のサムネイルのコバルト矢印、旧河道左岸だったところの道路から現河道の左岸堤防に上がる坂路です。その左、樹木のあるところが拡幅部上流端です。(2020年10月、地上写真は以下同じ)

 黄緑矢印、現河道の堤防のアスファルト天端の川裏側は、このように数百個のテトラポッド置き場になっています。(グーグルの航空写真ではもっとたくさん積まれています。)

 おそらく2015年9月10日夜に、ここから三坂に搬出し仮堤防の基礎に敷設し、仮堤防撤去後は、ここに戻したのでしょう。

 旧河道の下流部を横断して建造された左岸堤防(黄実線)です。概略で延長400m、天端幅35m、堤体基底部の幅80mです。

 ただし、旧河道の右岸との接合部より上流部分も約250mにわたって拡幅されています(黄破線)。あわせて延長650mです。

 まっすぐに俯瞰したところです。天端幅35m、堤体基底部の幅80mです。奥左上が旧河道の左岸だったところで、もとの堤内側に排水機場があります。

 右岸ははっきりしませんが、天端幅黄矢印のあたりです。

 サムネイル中のコバルト矢印、拡幅部のなかばあたり、資材置き場の出入り口ゲートです。

 幅35mもありますから、スーパー堤防というほどではありませんが、もはや堤防の天端とは思えない景観です。

 画面左奥にちいさく見える水色のアーチ橋が、茨城県道56号線の大形(おおがた)橋です。鎌庭捷水路区間唯一の橋梁で、「いばらき100名橋」に選定されたとのことです。その左岸下流50m地点に鎌庭水位観測所があります。

 紫矢印地点の天端のうちアスファルト舗装部分は、幅員4.5mです。上流側の旧河道右岸から大形橋までの約350m区間は激特事業で改修されましたが、大形橋から下流区間は激特事業の対象ではないので、このとおり従前のかなり古い舗装のままです。

 黄緑矢印地点、旧河道左岸堤防のもとの堤内側に新設された排水機場(江連〔えづれ〕都市下水道若宮戸ポンプ場)です。遠方は筑波山。

 新河道竣工後、1936(昭和11)年12月22日、茨城県知事による新河道部分の河川区域指定と旧河道の河川区域指定解除の告示の附図です(1965〔昭和40〕年の河川法改正以前は、河川区域指定は都道府県知事がおこなっていました。以後は建設大臣の権限になります。ただし、鬼怒川など大河川の実質的な河川管理は、直轄工事という形で内務省=建設省が一貫しておこなっていたのです)(http://soumu.pref.ibaraki.jp/file/PDF/1936/193612/n1014.pdf

 上流側(橙丸)は、新堤防がすでに完成していて、幅広部分も読み取れます。下流側(青丸)の堤防は記されていません。

 タイトルの「廃川」が病だれになっているのはご愛嬌。

 ついでに、旧河道の現状です。

 湾曲部の北東のもっともカーブのきつい地点です。耕地になっているところが旧河道、右の道路が右岸、建物や樹木は左岸堤内、画面中央の大樹の背後が筑波山です。

 旧河道右岸の上流端近く、フェンスの向こうが旧河道で、現在は、下妻市役所リサイクルセンター敷地です。

 フェンスが立っているのがもとの右岸の堤防なのかも知れません。それにしても、ずいぶん低いのですが……。


 鎌庭捷水路の左岸堤防のうち、旧河道を横断する部分は脆弱な透水性土壌(砂)の上に建造することになり、極めて崩壊しやすいので、基礎地盤の強化と堤体の強靭化が必要となります。(見えない基礎地盤については別途検討の要ありです。)

 以上確認したとおり、この堤体強靭化のために堤体幅の拡大が行われていたのです。当然、天端幅も拡大しています。

 鎌庭捷水路の場合は堤内側に拡幅したのに対して、三坂の場合は堤内側ではなく堤外地に新たに盛り土していること(何れにしても旧河道であることには変わりなく、本質的差異はありません)と、拡幅幅がだいぶ異なりはしますが、三坂の堤防についても同様に堤体強化を目的として堤体拡幅が図られたと考えて良いでしょう。