教育勅語の「徳目」は現代に通じる普遍性をもつのか

 

 

Ⅰ 教育勅語を擁護する発言は何に基づくのか

 

 

 2018(平成30)年10月2日、文部科学大臣・教育再生担当大臣に就任したばかりの柴山昌彦(自由民主党・弁護士)は、定例記者会見で「教育勅語」について問われて、つぎのように述べた。

 

教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形でですね、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのは、私は十分にあるという意味では普遍性を持っている部分が見て取れるのではないかというふうに思います。〔……〕やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容についてですね、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというようにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというようにも考えております。http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1409897.htm (アンダーラインは引用者、以下同じ)

 

 2014(平成26)年4月8日、当時の文部科学大臣の下村博文(自由民主党)も、教育勅語原本を国立国会図書館に移管する際の記者会見で、同様趣旨のことを述べた。

 

教育勅語そのものの中身は、至極全う〔真っ当〕なことが書かれているというふうに思いますし、当時、それを英文、あるいは独文等にして、ほかの国でもそれを参考にしたという事例があるということも聞いておりますが、その教育勅語のその後の活用のされ方ということについて、軍国主義教育の更なる推進の象徴のように使われたということが問題ではないかというふうには思います。http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1346282.htm

 

 日本国憲法の規定に基づいて設置されている文部科学省の一機関である文部科学大臣は、何を根拠にこのような発言をするのか。「教育ニ関スル勅語」は、全文わずかに315文字で、簡単に入手できるし容易に読めると思われがちだが、こうした憲法違反で時代錯誤の発言を平気でする人たちが、何を見てこういうトンチンカンなことを言うのかは、重要な問題なのである。この点から検討を始めることにする。

 「教育勅語」、正式名称「教育ニ関スル勅語」3 末尾に全文は、1890(明治23)年11月30日付けで発表された。大日本帝国憲法制定の翌年である。そして、下村博文のいうとおり「軍国主義教育の更なる推進の象徴のように使われた」あとの1946(昭和21)年3月3日、文部省は省令によって「國民学校令施行規則及び青年学校規程」等の一部を停止し、「修身」が教育勅語の趣旨に基いて行わるべきことを定めた部分を無効とした。次いで同年10月9日、「國民学校令施行規則」の一部を改正し、君が代の斉唱、御真影(ごしんえい)奉拝、教育勅語奉読に関する規定を削除した。これによって、教育勅語は教育の指導原理としての効力を失った。11月3日に日本国憲法が公布され、翌1947(昭和22)年5月3日に施行されたが、それに先立って教育基本法(1947年3月31日、法律第25号)が制定された。

 そして、1948(昭和23)年6月19日、日本国憲法のもとで、衆議院本会議は教育勅語排除決議を全会一致で採択した。

 

 民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである

 思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである4  http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/0512/00206190512067a.html

 

日本国憲法第98条の規定はつぎのとおりである。

 

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

 

なお、日本国憲法前文第1段落につぎの一文がある。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

 同じ日、参議院も「教育勅語等の失効確認に関する決議」を採択した5  末尾に全文〉。

 しばしば誤解されているように、教育勅語はこれらの国会決議によってはじめて排除され失効したのではない。教育勅語は、国会決議以前にすでに失効している。衆議院の決議は、その末尾にあるとおり、失効しているにもかかわらず全国の学校でいまだに保管されている教育勅語の謄本を全部回収するようもとめているのである。参議院の決議は、すでに失効していることを確認するものである。

 以上のとおり、教育勅語は失効し、排除されている。したがって、政府機関の公式の法例集には掲載されていない。下村博文の記者会見は教育勅語原本の移管に際しての記者会見であるから、その時点までは大臣であれば勅語の原本を見ようと思えばそれも可能であったろうが、まさか畏れ多きお勅語の原本を広げて勉強するなどということはしていないだろう。そして原本の移管後となっては、大臣の柴山昌彦は、もう「教育ニ関スル勅語」を見ることはできないのである。文部科学大臣でさえ見ることができないのであるから、それ以外の者は教育勅語にアクセスすることは不可能である。「電子政府の総合窓口」略称「e-Gov (イーガブ)」の法令検索機能によって検索しても、「教育ニ関スル勅語」は「該当するデータはありません」となるhttp://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0100/(なお、形式的には改正され、実質的には「排除」された「大日本帝国憲法」も同様である)。文部科学省のウェブサイトでは、「白書」等のページの「学制百年史」で教育勅語への言及はあるが、勅語の本文は掲載していないhttp://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317571.htm  ならびに  /1317610.htm

 教育に関する国の行政機関である文部科学大臣が、公式な記者会見の席で、もはや文部科学省の公式文書ではなく、憲法の規定により排除され、もはや省内には存在しない文書について語るというのは、手続きのうえから問題ありとしなければならない。

 

 

 

Ⅱ もっとも普及している「国民道徳協会訳」

 

 

 などと重箱の隅をつつくように手続き的なことにばかりこだわってみせると、そのへんにいくらでも教育勅語の文章を掲載した印刷物やネット情報はあるのだから、それを見ればいいだろうという人がいるかもしれない。どこの何で文書を見ようがかまわないというわけである。しかし、まさにここに教育勅語解釈の岐路がある。虎ノ門の文部科学省にすでに原本はなく、日本国中の学校でももはや謄本は保有していない。そのうえ、現在効力を有する法令や詔勅ではないので、大学の法学部で講義がおこなわれることはないし、司法試験にも出題されない。司法修習所で学ぶこともない。東京大学法学部に在籍し、司法試験を受験して司法修習所で職業訓練を受けた柴山昌彦は、じつは教育勅語については一切勉強したことがないのである。だから新聞記者の前で「同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか」と、勅語のどこにも書いてないことがまるで実際に書いてあるかのようなデタラメを言ってしまうのである。

 子供時代に暗誦させられたうえ、さんざん講話を聞かされ、「修身」授業で内容を延々叩き込まれて育った、現在80歳代なかば以上の人は別として、教育勅語の擁護者たちはいかにして当の教育勅語について知るのであろうか? 以前からあるのが、勅語の復活をめざす勢力が配布するパンフレットや書籍であるが、当今はそれに加えて検索エンジンが拾い出すウェブサイトやブログ記事が手近にある。ありとあらゆるウェブサイトから情報を拾ってくる検索エンジンの Google (グーグル)で「教育勅語」を検索すると、Wikipedia (ウィキペディア。インターネット上の無料で閲覧できる「百科事典」)の記述のほか、「明治神宮」による紹介、そして Wikipedia を引き写したウェブサイトがいくつか、そして大半が教育勅語を賞賛する個人による「ブログ」などがぞろぞろと出てくる。

 「明治神宮」が神社自体の紹介を後回しにしてトップページに掲載するのが、教育勅語の原本らしきものの写真と勅語の「口語文訳」、そして「教育勅語の十二の徳目」の一覧表である http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html。ところが、原本の写真は解像度が低く判読がむずかしいので、どうしてもつぎの「国民道徳協会訳文」を読むことになる。この「国民道徳協会訳文」の素性や明治神宮との関係は不明だが、衆議院議員だったこともある佐々木盛雄の訳であるとする指摘があるようで、佐々木の「教育勅語の口語文訳(著者の謹訳)」にかなり似ている佐々木盛雄『教育勅語 − 日本人のこころの源泉』1986年、みづほ書房。明治神宮のウェブサイトには「夫婦は仲睦まじく解け合い」と、意味不明の誤字があることからして、既成の「国民道徳協会訳」をどこからか拝借し、字句の変更や写し間違いをしながら掲載しているのだろう。

 そのほかのあまたのウェブサイトやブログも、どれがオリジナルでどれが引用(パクリ)なのかはわからないが、たいてい同様の「口語訳」や「十二の徳目」を掲載している。教育勅語を擁護する人たちは、従来からあるパンフレット・書籍のほか、インターネットでこれらの「口語文訳」や「教育勅語の十二の徳目」をみたうえで、現代にも通ずる徳目があるので、学校で児童生徒に教えるべきだとか、さらにはこれらの普遍的徳目を教えないから現代の(自分たちを除く)日本人がみな堕落したのだ、などと揃いも揃って同じようなことを言っているようである。

 まず「十二の徳目」としてまとめられている部分をみていこう。「明治神宮」のウェブサイトに掲載されているのはつぎのとおりである。

 

孝行    親に孝養をつくしましょう

友愛    兄弟・姉妹は仲良くしましょう

夫婦ノ和  夫婦はいつも仲むつまじくしましょう

朋友ノ信  友だちはお互いに信じあって付き合いましょう

謙遜    自分の言動をつつしみましょう

博愛    広く全ての人に愛の手をさしのべましょう

修学習業  勉学に励み職業を身につけましょう

智能啓発  知識を養い才能を伸ばしましょう

徳器成就  人格の向上につとめましょう

公益世務  広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう

遵法    法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう

義勇    正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう

 

 これは、教育勅語に記されている「徳目」を抜き出して、列挙したということのようである。教育勅語の3番目のセンテンスはつぎのとおりである。

 

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

 

(なんじしんみん、ふぼにこうに、けいていにゆうに、ふうふあいわし、ほうゆうあいしんじ、きょうけんおのれをじし、はくあいしゅうにおよぼし、がくをおさめぎょうをならい、もってちのうをけいはつし、とくきをじょうじゅし、すすんでこうえきをひろめ、せいむをひらき、つねにこっけんをおもんじ、こくほうにしたがい、いったんかんきゅうあればぎゆうこうにほうじ、もっててんじょうむきゅうのこううんをふよくすべし)

 

 各々の「徳目」をみる前に、とりあえず「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」に注目しよう。教育勅語の問題点として、必ず、しかも最初に指摘されるのがこれであるが、「十二の徳目」では、「義勇 正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう」になっている。あとで「修身」教科書を見ることにするが、そこでは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」は、戦争において軍人はもちろん非武装の市民であっても、皇国のために生命をささげるべきであることを説き教えるものであり、「真心を尽くす」などという程度の、ほのぼのとした内容ではない。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」には、教育勅語の本質的・中心的内容がはっきりと現れているのだが、「十二の徳目」はそれを誤魔化し、いったい何のことだかまったくわからなくして、呑気に「真心」でお茶を濁している。本当の趣旨を大っぴらにしたのでは具合がわるいことを自覚しているから、こういう見え透いた小細工を弄するのである。教育勅語復活を企図する人たちでさえ、この項目は問題含みだと思っている証拠である。

 

 

 

Ⅲ 「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」だけが問題なのか

 

 

 それではのこりの項目は問題ないのだろうか。文部科学大臣の柴山昌彦は、さきの記者会見でこう言っていた。

 

同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容についてですね、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというようにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかな

 

 芝山昌彦のいう「同胞を大切にする」とか、「国際的な協調を重んじる」とかの「徳目」は、教育勅語のいったいどこに書かれているのだろうか。「朋友相信シ」が「同胞を大切にする」で、「博愛衆ニ及ボシ」が「国際的な協調を重んじる」だというのかもしれないが、語義・趣旨はまったく別物であり、完全なすりかえである。これは「現代的にアレンジ」の範囲を逸脱している。

 記者会見場でこういう見え透いた虚言を拝聴した新聞社や放送局の記者たちは、事実に関する誤りを指摘するわけでもなく漫然と聞き流し、言われた通りに原稿を書いてしまうのである。大臣同様、記者クラブに所属する記者たちも教育勅語の本文をまともに読んだことがないようである。

 「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」はいささか問題含みであるのであまり強調しないにしても、すくなくとも残りの「徳目」は普遍的な道徳律であるというのが、教育勅語復活推進論の定型パターンである。ところが、教育勅語の復活傾向を批判する人たちのなかにも、そのようなことを言う人がけっこういる。岩波書店が2017(平成29)年に発行した『教育勅語と日本社会』(以下、単に「岩波」)は、昨今の教育勅語復活の動きを分析し批判する書籍である。分担執筆者の見解はかならずしも一致するわけではないようだが、執筆者のひとりはさきほどの教育勅語の第3文の「徳目」についてつぎのようにいう。

 

徳目の後半は、近代的なものである。明治維新後、西洋の権利と義務の概念や、フランス革命やアメリカ独立戦争といった世界史は、学校教育や書籍を通じて常識となっていった。「博愛衆ニ及ホシ」と言われると、当時の人々は現代人同様に、自由・友愛・平等とフランス革命を想起したはずである。〔……〕この第三文の明確な登場人物は、明治天皇と同時代の臣民であるが、言外には中国古代の儒教の創始者や、西洋近代の思想家・政治家が存在しているのである。10 高橋陽一「教育勅語の構造」岩波、13−14頁

 

「後半」の範囲ははっきりしない。「近代的なもの」だというのに「中国古代の儒教の創始者」が「登場」するのは支離滅裂である。「西洋の権利と義務の概念」が「常識となっていた」とか、「現代人同様に、自由・友愛・平等とフランス革命を想起したはず」という。公布からアジア・太平洋戦争時まで50年以上にまたがるので一概にはいえないにしても、高等教育を受けた一部のエリート層はともかく、教育勅語にもとづく「修身」を教え込まれる一般の児童生徒までそうだというのは妥当性を欠く。「西洋近代の思想家・政治家」とはロックやルソーを指すのだろうが、そのようなものが第3文の「言外」に存在するというのは、勅語全体の構造や作成の歴史、解釈運用の実状を考慮するまでもなく失当である。

 さらに、別の筆者は、「〔起草者の一人である〕井上毅は『皇祖皇宗』の解釈に対して、『皇祖』は天照大神〔アマテラスオオミカミ〕ではなく神武〔じんむ〕天皇を指し、『皇宗』は『歴代ノ帝王』をさすと記している」と指摘した上で、つぎのようにいう。

 

教育勅語は、意図的に超越的な根拠を排除している〔……〕それゆえ、「皇祖」や天皇の神性も強調されていない11  齋藤公太「『国家神道』と教育勅語」岩波、43−45頁(ボールド体は引用者、以下同じ)

 

 アマテラスまでさかのぼると「神話」だが、途中の神武までなら「神話」でないというのである。神武天皇が実在の人物であり、その事績が歴史的事実であるということのようである。

 『日本書紀』によると、現在の宮崎県あたりにいた彦火火出見(ひこほほでみ、後の神武天皇、当時45歳)が、「東の方によい土地がある。それがきっとこの国の中心だろう」と言って、東方遠征に乗り出した。それから6年め、東方遠征の困難な事業をひととおり済ました彦火火出見は言った。

 

「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」12   『日本古典文学大系67 日本書紀 上』1967年、岩波書店、212頁

(りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや)

 

 現代語に翻訳する。

 

「国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家にすることは、また良いことではないか。」13  宇治谷孟訳『日本書紀(上)全現代語訳』1988年、講談社学術文庫、107-08頁

 

 その翌々年、彦火火出見は現在の奈良県橿原(かしわら)市で即位した。これが万世一系(ばんせいいっけい)の皇統(こうとう)の初代に位置する神武天皇であり、この年が皇紀(こうき)元年である。大日本帝国は、皇紀元年は西暦紀元前660年に当たると算定して、1940(昭和15)年に「紀元二千六百年」の祝賀式典を全国で挙行し、全国民に奉祝させた。

 この「六合」や「八紘」は、紀元前2世紀の前漢の歴史書『淮南子(えなんじ)』にある語である。「六合」とは、天地と東南西北、すなわち上下と四方のあわせて6方向に広がる空間を言う。地上世界の中心には、東西に3つ、南北に3つ配列される「九州」(3×3=9。それぞれ千里四方)がある。これが「中国」である。「九州」の外側、東西南北(四方)と、東南・南西・北西・北東の四隅、あわせて8方向にあるのが「八殥(はちいん)」(それぞれ千里四方)である。「八殥」の外側の8方向にあるのが「八紘(はっこう)」(それぞれ千里四方)である。「八紘」の外側にあるのが「八極(はっきょく)」(8方向にある極地)である。「八紘」の「紘」とは、「維」すなわち天地を繋いでいる綱のことであり、天と地とはこの綱により、8箇所(4つの隅と東西南北4方向)でつながっている。14  楠山春樹『新釈漢文大系 54 淮南子 上』1979年、明治書院、210-13頁「八紘」は、それ自体は「八殥」の外側の、天とロープでつながっている8箇所のことであるが、転じて「八紘」とその内側の領域全体をも指すようになり、通例この意味で用いられる。神武天皇は、500年後に書かれる書物から引用して科白を言ったことになる。これらが史実であって「神話」ではないというのが、執筆者の見解のようである。

 この2人のニューフェイスの珍説に先立ち、著名な宗教学者の島薗進は、おなじく岩波書店発行の自著で次のように述べていた。

 

〔「爾臣民父母ニ孝ニ」から「国権ヲ重シ國法ニ遵ヒ」までの〕部分は、普遍的な意義をもつ道徳が述べられており、現代の公民教育においてもある程度、通用する内容かも知れない。人間関係を「親子」「兄弟」「夫婦」「朋友」に分けて説くのは、儒教的な伝統を継承するものだが、そこに露わな宗教性は込められていない15  島薗進『国家神道と日本人』2010年、岩波新書、36頁

 

教育勅語には皇統の連続性を尊ぶ内容や、天皇が臣民にカリスマ的な権威を及ぼすような語り口が組み込まれてはいたが、そこで天皇の神的起源が文面にはっきり示されているわけではない。〔……〕教育勅語の中ほどに説かれている教えの道徳的側面は、国家神道に特有のものではない。むしろ儒教など東アジア的な伝統に基づきつつ、ある種の普遍性をもつ人倫の教えである。16  同、63−64頁

 

 曖昧な記述だが、国家神道と儒教を峻別したうえで、国家神道における儒教的要素の取り込み・混淆の事実を否認する立場からの主張である。そのうえ、儒教は宗教ではないという見解のようである。このふたつの前提からすると、教育勅語の「徳目」部分は国家神道を前提とするものではないということになる。まさか「一旦緩急あれば」までは含めないとはいえ、それ以外のすべてが「現代の公民教育においてもある程度、通用する」とまで言うとなると、教育勅語復活推進論者の主張と区別がつかない。

 

 

 

Ⅳ 「十二の徳目」の検討

 

 

 学校には教育勅語の謄本を収める「奉安殿」が設置され、児童生徒は登下校のたびにその場に立ち止まり、直立不動でうやうやしくお辞儀するよう強いられた。儀式の際には、校長が勅語謄本を捧げ持ち大声で詠みあげるのを、頭を垂れ微動だにせず聞いていなければならなかった。子どもの理解力をこえる小むづかしい語句ばかりで、とりわけ低学年のうちは何を言っているのかさっぱりわからない。児童らは最後の「ギョメイギョジ」で、やっと終わったことを知りホッと一息ついたという。

 週あたり3時間も授業時間が割り当てられる「修身」においては、教育勅語の本文とそれにもとづく教材が展開され、全児童が勅語の暗誦を強制された。意味不明の語句が、まだ習っていないどころか卒業まで待っても結局習うことのない何十もの知らない漢字を用いて表記される。語彙もおよそ子どもの理解力を超えていて、結局のところほとんど意味もわからず、ただ鸚鵡がえしにするだけである。高学年になると、さらに暗写(記憶だけをたよりに紙に書くこと)を求められる。師範学校でさんざん叩き込まれた教師でさえ完璧にできる者は稀有であるのに、児童は教科「国語」で習うこともない漢字で書くよう要求されるのである。17  岩本努『教育勅語の研究』2001年、民衆社、61-80頁

 何年にもわたって、いやというほど聞かされ詠みあげさせられ書かされるのだが、どうみても名文とはいいがたい。さすがの教育勅語復活推進論者でさえ、その内容を(だいぶ誤解曲解したうえで)称揚することはしても、その文体や詠み上げた時の音の響きの美しさを褒めるものはただのひとりもいない。詩文にするのは無理にしても、もうすこし語数(文字数)を整えるなり、少しは韻を踏むなり、あるいは格調高く対句表現をとりいれるとかすればよいものを、何の工夫もない315文字がダラダラと続くだけである。たとえば、『孟子』から「五倫」を拝借しておきながら、ひとつ抜いて「四倫」にしたうえ、もとは揃っていた文字数もバラバラにしてしまうから、リズムも何もない。音の響きも褒められたものではなく、チンというなんとも珍妙な一人称が冒頭いきなり出てくるが、まさか笑うわけにもいかない。さらに、コーソコーソーとかギョメイギョジとかの半端な重ね音が耳障りである。しかもそれが、まさに天皇陛下ご自身やそのご先祖様を指す語であるのだから余計に具合が悪い。

 「チン思うに」というから、チンが心のなかで考えているのかと思えば、思った途端に発声してしまっている。呼びかける相手である児童生徒を含む一般大衆を、「わが臣民」と言ったり、「なんじ臣民」と言ってみたりで一定しない。6つあるセンテンスの長さはバラバラで、全部の調子が異なっているから読んでも聞いてもどうにも収まりがわるい。

 最悪なのが徳目列挙の第3文で、異様に長いうえどこで区切るのかわかりにくい。せめて内容がキチンとしていれば、内容によって形式が浮かび上がり分節箇所もあきらかになるのだが、字句には曖昧性がつきまとい散漫なままダラダラと続く。主要な内容とされる「十二の徳目」の構成、構造がわかりにくい。復活推進論者はそんなことにはまったくおかまいなしで、なんとなく区切ったものを漫然と並べるだけである。

 短い文章の解釈は、きわめて難しい。基本的概念の定義もされずそれが多角的多面的に説明されることもない。主張内容について的確な実例が示されることもなく、基本的主張が敷衍されることもない。あまり長大だと読むのに苦労することになるが、主張を表現し相手に伝える上では一定の分量は必要だろう。教育勅語は、漢字仮名含めて全文わずか315文字で、「徳目」部分は111文字しかない。これでは理解するのはたいへん困難である。

 教育勅語の場合、そこで用いられている語は、あらたな意味をこめた新たな用法ではなさそうなので、一般的用法をふまえて、その思想的・宗教的背景や意味内容をさぐることにする。この場合、制定後55年以上にわたって、それがはたした機能を度外視して、教育勅語それ自体の文字面だけを追うのは、失当である。勅令も法令のひとつであり、学校教育の指導的原理を提供するものであった以上、学校教育とりわけ「修身」教育においてどのような役割を果たしたかを無視して論ずるべきではない。下村博文のいうように「軍国主義教育の更なる推進の象徴のように使われたということが問題ではないか」として、使われ方だけが問題だっただけだとしていながら、実際にはその「使われ方」など一切考慮することもせず、勅語それ自体は「全う〔真っ当〕」だと決めてかかるのは、無責任である。教育勅語施行55年あまりの解釈・運用の経緯を度外視して、教育勅語を評価するわけにいかないのは、たとえば日本国憲法の解釈や評価にあたっては、制定後70年余りの歴史のなかで憲法解釈が成立し変遷していることを考慮にいれなければならず、たんに文字面だけ分析するわけにはいかないのと同じである。

 これから詳細に検討する「十二の徳目」は、教育勅語第3文の「徳目」部分を分離分解して列挙したものであり、語の区切り方にもおかしなところがある。そもそも「徳目」の数が「十二」なのかどうかも怪しい。致命的なのは第3文末尾の「以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」を無視していることである。これら「十二の徳目」には、包括的に「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」という究極目的があらかじめ設定されているのである。児童・生徒が「十二の徳目」を身につけるのも、皇室が天地と同じくらい永遠に繁栄するようお助けし、お尽くしするためなのである。教育勅語が宣言する大日本帝国における学校教育の目的は、臣民と呼ばれる児童・生徒の成長発達をはかることではない。

 さらに、この第3文には、前置きとして第1文と第2文が先行し、そして第3文を「是ノ如キハ」と受ける第4文、「斯ノ道ハ」として受ける第5文、さらに結語としての第6文へと続くのだが、それらを全部等閑視して、第3文だけを孤立させそこだけ注目させようとするのは詐欺的方法である。これはたとえ教育勅語を正当化し擁護する立場からの解釈としても、その内容を曲解するものというほかない。

 その意味では、よくおこなわれるように勅語全体の文脈を勘案し、一挙かつ一体的に批判してお終いにしても良いのかもしれないのであるが、本稿では教育勅語全体の趣旨を解釈するための第一段階として、第3文における「十二の徳目」について検討する。怖れ多きお勅語を勝手にバラバラに分解したうえで、散り散りになった断片の中に普遍的ですばらしい道徳の根本原理があると言い張る復活推進論者たちのすくいがたい面従腹背ぶり、傲慢不遜と短慮をあきらかにするためにも、まずは「十二の徳目」の逐条分析をおこなわなければならない。

 ここで問うのは、これらの「徳目」が、柴山大臣のいうように「普遍性を持ってい」て、「道徳等に使うことができる」か否か、島薗教授のいうように「普遍的な意義をもつ道徳が述べられており、現代の公民教育においてもある程度、通用する内容」であるか否か、である。つまり、小学校・中学校における新しい教科としての「道徳」、中学校の科目「公民」、高等学校の教科「公民」において道徳教材としてもちいることははたして妥当なのかどうか、ということである18  そもそも小学校・中学校における「道徳」や高等学校の教科「公民」において、児童・生徒に対して「道徳教育」をおこなうことの是非という問題がある。たとえ道徳律としては妥当な内容だとしても、学校における道徳教育の現状、とくに枠組としての小学校・中学校における「道徳」や高等学校の教科「公民」の態様をみると、教材の内容の妥当性以前の問題がある。〈道徳 moral 〉の定義・意味内容をはっきりさせたうえで、「道徳教育」の実態を検討すべきであるが、ここでは現行の小中学校の教科「道徳」、高等学校の教科「公民」における「道徳教育」の場面に、教育勅語における「徳目」をとりいれることが妥当であるか否か、という観点に絞って考察する。

 学校教育でとりあげるからには、すくなくとも思想・良心の自由や信教の自由をおかすことがなく、あるいは特定の宗教のための宗教教育となることがない、というものでなけらばならない19  日本国憲法 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 教育基本法 (宗教教育)第15条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。。また、当然ながら民法などの現行法令に反する内容であってもならない。

 以下、勅語の語句と「十二の徳目」を併記し、順に検討する。

 

 

1 「父母ニ孝」/「親に孝養をつくしましょう」

 

 教育勅語の時代の親子の関係は、大日本帝国憲法下の民法によって規定される「家」の制度に組み込まれた、その時代に特有のものであった20  「家」制度については、川島武宜『イデオロギーとしての家族制度』1957年、岩波書店。「家」にあっては、家長は家族員に対する支配権を有し、家族員は家長に対する服従義務を負う。これは臣下に対する主君の支配権、主君に対する臣下の服従義務に対応する。教育勅語第2文において「孝」は、天皇に対する「忠」と一体のものとされているとおりである。

 家産の所有、婚姻の承認などの生活全般にわたる家族員の服従義務は、未成年である期間に限られるものではない。家長の座を継承するのは、基本的には長男であり、女子はもちろん次男以下の男子は、ほかの家族すなわち「家」を創始するか移るかしてそこを離れない限りは、死ぬまで家長に従属しつづける。夫婦である男女の関係は対等平等ではなく、夫の妻に対する支配、すなわち妻の夫に対する従属もまた民法によって定められている。夫が家長でなくても夫婦は支配従属関係にあるが、夫が家長であれば支配従属の関係はさらに強固である。

 「孝」とは、日本国憲法・現行民法下の、命を与え愛情をもって育んでくれた両親に対して子がいだく自然な愛情、あるいは感謝の気持ちに発するお世話などのことではない。「孝」は、家長たる親の支配下にあり、その保護(「恩」)をうけている家族員である者らによる、家長である父親に対する「恩返し」である。家長から家督を譲られて新たな家長となるであろう子の、父親に対する「恩返し」の義務はとりわけ重大である。したがってまた、「父母に孝」といっても、子の父に対する「孝」と、子の母に対する「孝」とでは内実はだいぶ異なる。前者こそが十全なる「孝」である。「父母」と並んでいるのだから男親と女親が対等平等なる「孝」の対象だというものではない。「家」制度の背景にあるのは、大日本帝国における儒教思想であり、それを重要な要素としてとりいれている国家神道のイデオロギーである。

 大日本帝国憲法・旧民法体制下の「親子」は、「家」を単位とする、支配者=庇護する者と、服従者=庇護される者との間の、恩顧と崇敬の関係であり、「孝」はそこで服従者=庇護される者に対して法的・道徳的に義務づけられた行為であるから、いかなる意味でも現代社会にもあてはまる「普遍性」はもたない。それどころか、このような家族形態とそれを正当化する道徳的観念は日本国憲法・現行民法に違反する。たとえば、現在の遺産相続において長男が母親や兄弟姉妹たちの相続を否定し、被相続人たる父親の財産の全部を自分ひとりで相続しようとする企ては端的に違法である。

 「家」における支配と従属、温情と報恩の関係としての「親子」関係は、血縁のある親と子の関係に限るものではなく、家族の外の、さまざまの社会的関係を律する秩序観念として適用される。雇用主と被雇用者、企業における上司と部下、学校教員と児童生徒、年長者と若年者、ひいてはあらゆる団体・組織における支配者と従属者、すなわち、「親分」と「子分」の関係としてひろく投影され、そこでの経済的関係・政治的関係・心理的関係に、支配と従属の軛、温情と報恩の感情を付加する。というより、血縁のある「親子」に、それに先立って存在する「親分−子分」関係があとから付加されたものが、「家」における「親子」なのである。

 以上のとおり、この「徳目」は、「普遍性を持ってい」て、「道徳等に使うことができる」とはいえないし、「普遍的な意義をもつ道徳が述べられており、現代の公民教育においてもある程度、通用する内容」でもない。

 なお、この「父母」から「朋友」まで、すなわち原文の「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の部分は、『孟子』の「滕文公(トウブンコウ)」の「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」という記述、すなわち「五倫(ごりん)」に基づくものであろう。そこから持ってきたことは明らかなのだから原文通りにすればよいのに、下手な小細工を弄してわざと変えてある。とりわけ、「五倫」の2番目の「君臣有義」が抜けているのが目を惹く。勅語の第2文に「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」とあり、第4文に「朕カ忠良ノ臣民」とあるが、これは一応、現在にいたる〝事実〟を述べているのに対して、もし命令文であるこの第3文に入れてしまうと、明治天皇が臣民に対して自分で自分への「忠義」を命令することになってしまうので、いくらか遠慮したということだろう。

 『孟子』を援用しているといっても、孟子の当時の家族のありかた、ないしは孟子がこうあるべきとした家族のありかたと、教育勅語の時代の家族のありかた、ないしは教育勅語が命ずる家族のありかたが同じだというわけではない。中国思想に限らず、たとえば西アジアや古代地中海世界、あるいは近代西ヨーロッパなどの「古典」とされる思想が形成されたそれぞれの社会と、それら「古典」を奉戴しそれを模範にしようとする後世の社会とは同じものであるはずはなく、おおいに隔絶していることはいうまでもない。まして、「古典」や「聖典」となった書物については後世の者らがそれぞれ自由に解釈するのであり、それぞれの言葉を発したとされる人たち自身の思想とは違ってしまうのが通例である。そもそも、「古典」や「聖典」の多くは、本人が書いたものではない。ソクラテス、ガウタマ・シッダルタ、孔子、孟子、ナザレのイエス、預言者ムハンマドなどの言行録は、いずれも弟子や知人ら、それどころか直接の知り合いですらなく又聞きしただけの者らの手により、本人の死後に、しばしばかなりの時間が経過したのちに、作成されたものである。そのうえ、長い年月の間にさまざまに解釈され、時として本人の考えからはまったく離れ、それどころか相反するものに変形されてしまうこともある。教育勅語が立脚する儒教思想とは、孔子や孟子の思想そのものではなく、後世において編纂された始祖の言行録が、さまざまに読まれ、解釈されたものである。そのような意味合いで、教育勅語の「徳目」は儒教の「五倫」を下敷きにした変形物なのである。

 

 

2 「兄弟ニ友」/「兄弟・姉妹は仲良くしましょう」

 

 上記1のとおり、教育勅語が命ずる家族形態は、大日本帝国憲法と旧民法が規定する「家」制度である。それは、日本国憲法と現行民法に違反する。「親子」がそうであるように、「兄弟」もまた、現代の日本国憲法・現行民法のもとでの「兄弟」とは異なる。前述のとおり、おおむね長男が「家」を相続することとされる。生まれる前から、長男と次男以下は平等ではない。出典の『孟子』「滕文公」に「長幼有序」とあるとおりである。教育勅語では、「兄弟に友」となっているが、長幼の序を否定し、兄弟の平等をうたっているわけではもちろんない。年長者と年下の者との差異は当然の前提として、そこに「親子」ほど圧倒的ではないが、相当程度の優位と劣位の関係性を与えているのである。この「長幼の序」もまた、「家」の外の、職場や学校、軍隊そのほかの各種団体における人間関係に投影され、先輩と後輩、上級生と下級生、古参と新入りの、わずかの差異を絶対化する優位と劣位の関係をつくりだした。

 「十二の徳目」は、勝手に教育勅語原文にはない「姉妹」を補っている。教育勅語復活推進論者はこういう改竄を平気でおこなうのであるが、「兄弟」と「姉妹」では、大日本帝国憲法体制・旧民法体制下の「家」において持つ意味はまったく異なる。夫と妻の関係については次項でみるが、兄弟姉妹関係も現代の男女関係とは大きくかけ離れている。家長の座を継承する、あるいは継承した者(たいていは兄)とそれ以外の兄弟(たいていは弟)との地位には絶対的な差異があるが、姉妹であれば、「長幼の序」はあっても、「家長」と「家族員」ほどの差異は生じない。こういうと「姉妹」である女性は気楽なもののように思えるが、それはあくまで姉妹間の関係の話であり、兄弟である男性と姉妹である女性の間の男女差別は、夫婦である男性と女性の差別とおなじく絶対的である。「家」における男女の差別体制は、現代においては日本国憲法および民法上は排除されているが、たとえば各種芸能の「家元」制度等においては存続している。女子を排除する男子相伝の継承制度が存続しており、女性は当該芸能団体の「家元」になることはできないどころか、たとえば歌舞伎や相撲などにあってはその正式メンバーとなることもできない。こうした閉鎖的団体秩序は一部では弛緩しつつあるが、天皇制度とりわけその継承関係においては、「皇統男子」の断絶を招来しかねず「家」の存続にとって逆効果であるにも関わらず継続している。

 以上のとおり、「兄弟に友」が命ずる人間関係は、日本国憲法・現行民法の規定にあきらかに違反する。したがって、「普遍性を持ってい」て、「道徳等に使うことができる」ものではないし、「普遍的な意義をもつ道徳が述べられており、現代の公民教育においてもある程度、通用する内容」でもない。

 

 

3 「夫婦相和」/「夫婦はいつも仲むつまじくしましょう」

 

 「親子」「兄弟」がそうであるように、教育勅語における「夫婦」もまた、現代の日本国憲法・現行民法のもとでの夫婦とは異なる。現在の家族は、対等な男女の結婚によって成立するものであり21  日本国憲法 第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。、そこに子が加わることも加わらないこともある。戸籍制度は世界的にも稀有な前近代的制度であるが、日本国憲法下においては子は婚姻によって戸主(多くの場合、父)のもとを離れて、夫婦で新たな戸籍を作るように変化した。戸籍制度でさえ、「核家族」化しているのである。芸能人などが婚姻した時に「入籍しました」と言うためか、それを真似する「一般人」もいる。しかし、旧民法下で、夫となる者がすでにその一員である戸籍に、妻となる者が新たに書き加えられる場合には「入籍」といえるが、現在は婚姻によって新たな戸籍が作られ、夫婦が同時に新しい戸籍に記入されるのだから、それを「入籍」と言うのは誤りである。ついでにいうと、「嫁」とは「家」の主つまり戸主である父から見た息子の妻のことである。すでに存在する戸主の戸籍に、あとから息子の妻が書き加えられるということがなくなった現代においては、制度上「嫁」というものは存在しない。まして、息子の妻ではない自分の妻を「嫁」という人がいるが、これはたとえ旧制度下にあっても誤った用法である。

 前項でみたとおり、教育勅語は大日本帝国憲法と旧民法が規定する男女不平等の法制度に対応するものであり、「夫婦相和」という場合、当然その夫婦となる男女の不平等が前提となっている。

 さらにまた、現在、男女の組み合わせ以外の同性どうしによって形成される家族が社会的に成立する方向にある。その趨勢に対して、教育勅語推進勢力が、勅語中の「夫婦」の文言を持ち出して、男と女の組み合わせ以外の婚姻形態を非難することも考えられるが、そのようなことはまさに時代錯誤というほかない。

 以上のとおり、この「徳目」は、「普遍性を持ってい」て「道徳等に使うことができる」ものではないし、「普遍的な意義をもつ道徳が述べられており、現代の公民教育においてもある程度、通用する内容」でもない。

 

 

4 「朋友相信」/「友だちはお互いに信じあって付き合いましょう」

 

 1の「父母」の項目で触れたとおり、勅語原文の「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の部分は、『孟子』の「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信」という「五倫」から「君臣有義」を除いたうえで残る4項目の字句を変えたものである。ここまでの親子・兄弟・夫婦・朋友に関する4つの「徳目」は、一連のものとしてとらえるべきで、「十二の徳目」のようにバラバラに切り離してしまうのは、「五倫」の趣旨に反するものといえる。教育勅語を現代に蘇らせるべきだと勇ましいことを言っている人たちは、じつは「五倫」の趣旨を理解せず、それを蔑ろにしているのであり、したがってまたお勅語のありがたさをすこしも理解していないのである。

 教育勅語が施行されていた時代には、親子・兄弟・夫婦関係は大日本帝国憲法と旧民法によりそのありかたが厳重に定められていた。そういう意味で、それらは「家」制度という公的な規制のもとに置かれていたのであった。親子・兄弟・夫婦は、純粋に私的なものとはみなされていなかったのである。ところが、「朋友」は、そのような「家」制度には含まれないし、特段の法的制約は存在しなかったように見える。「朋友」は、たんなる古臭い言い方であって、単純に友人のことをさすように思われるが、そうではない。「朋友」の語は、「五経」22  『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』(しきょう・しょきょう・らいき・えききょう・しゅんじゅう)のひとつである『易経』が典拠であり、「同門の友人」を指す。一般的な友だちではなく、ある団体に属する構成員どうしのまさに同志的結合を意味するのである。

 「修身」の国定教科書は、この教育勅語の内容に沿って編纂されたものであるが、たとえば1943(昭和18)年発行の初等科4年生用のものに「松下村塾」という教材がある。

 

この塾で、松陰が教へた学問はいろいろある。もつとも松陰の力こぶをいれたのは、皇室を尊び至誠をもつて貫き、実行力を持つ、という精神を養ふことであつた。江戸時代数百年の間ねむつてゐた当時の人々をさとらせて、皇室を尊ぶやうにさせなければならないといふのである。〔……〕わづかに十八でふ〔畳〕の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に集つた青少年のなかから、久坂玄瑞、高杉晋作をはじめとして、明治維新のをり、身を以つて國事につくした大人物がたくさん出た。23  宮坂宥洪『「修身」全資料集成』2000年、四季社、443-45頁。同書で「修身」教科書の教材を総覧できる。

 

現代の学習塾などで友人どうし仲良くしましょうというのとは、まったく異なる。皇室を尊ぶという目的のために身を以って尽くす、特殊で閉ざされた組織内での「徳目」に他ならない。これを現代に復活させるとどうなるか? 松下村塾(しょうかそんじゅく)ならぬ松下政経塾(まつしたせいけいじゅく)あたりであれば、雑巾掛けをみんなで頑張りましょう程度だろうが、企業や学校に導入されれば、個人の独立性を無視し抑圧的な団体主義的心性を奨励する役割をはたす。いや、それは下衆の勘ぐりというもので、教育勅語は、友だちどうし仲良くすべきだという、ごくごくありふれた当たり前のことをいっているだけだという反論もありうる。しかしそうなると、勅語の「徳目」は、なんの裏付けも、さしたる深い意味もないありきたりの一般的なスローガンだと言っているようなもので、かえって崇高なお勅語を貶めることになる。それに、なにもその程度のものならわざわざ教育勅語から引っ張ってくる必要もないのである。

 さらに、身分秩序が支配する社会に適合的な儒教道徳としての「朋友相信」には、内と外との峻別という契機がつきまとう。さきほどの「松下村塾」は、最終期のアジア・太平洋戦争中のもので「皇室を尊ぶ」とか「身を以つて國事につくし」など、排外主義・国粋主義は行き着くところまで行ってしまっているが、初期の「修身」の「朋友」教材においてもすでに「朋友」たる者と「朋友」たらざる者との峻別がうたわれている

 

諺に、「朱に交れば、赤くなる。」といへり。平生、よき人と交るときは、知らず知らず、よき人となり、あしき人と交るときは、おのづから、あしき人となる。されば、朋友をえらぶこと大切なり24  同上書、64頁

 

 「朋友」でない者を排除し、選んだ「朋友」だけを重んずる態度がどんどん嵩じてくると、友にあらざれば敵という、二重道徳へと到達する。同じ町にすむ「外国人」に対して直接街頭であるいはインターネット上で罵詈雑言をあびせて脅迫する者たちが、この教育勅語の徳目によって、「外国人」も「朋友」だと思ってヘイトスピーチをやめるよう促されるとは考えられない。この二重道徳は、「朋友」ならざる者に対して「朋友」たる自分たちの利益や誇りを守る正当な行為だとして、民族差別・人種差別の推進者たちの暴言や脅迫を正当化する効果を発揮する。

 ところで、教育勅語は「徳目」として「博愛」をうたっているのだとして、このような排外主義とは無縁だとする反論が出てくるかもしれない。次にこの点を検討する。

 

 

5 「恭倹己ヲ持シ」/「自分の言動をつつしみましょう」

6 「博愛衆ニ及ボス」/「広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」

 

 「十二の徳目」中の5つめは次の6つめとワンセットで、「己れ」と「衆」で対句的表現になっているようにも見える。「己レ」の方の「恭」は訓は「うやうやしい」、つまり、ていねいで慎み深く何かをささげるという気持ちをあらわし、「倹」は「つつましくし、きりつめる」、というものである。このように自分を律し、しかるのちに「衆」をひろく、平等に愛する、というのである。これは、「四書」25  『論語』『孟子』『大学』『中庸』のひとつ『大学』中の「修身斉家治国平天下(しゅうしん・せいか・ちこく・へいてんか)」に引きつけたスローガンである。修身→斉家→治国→平天下の4段階が、たった2段階に切り詰められているが、まず自分一個をととのえてから、それをひろく社会に及ぼしていくというものである。(なお、この「修身斉家治国平天下」パターンは7、8、9、10でも現れるので、そこで少し検討を加える。)

 さきに、「博愛衆ニ及ホシ」と言われると、当時の人々も現代人同様に、自由・友愛・平等とフランス革命を想起したはずである。」という分析を紹介したが、これはあまりにも安易である。「博愛」の話をしているのに「友愛」ではチグハグだが、かつては「自由・平等・博愛」と言っていたのが、近年になって不適訳の「博愛」が「友愛」に訂正されたからということのようである。それはともかく、教育勅語制定時に「博愛」の語が大日本帝国内で一般的に「フランス革命」に直結したとするのは、何の根拠もない誤解である。そうであってほしいという願望なのかもしれないが、あまりにも突飛な思いつきである。

 

 天皇と博愛

 二字熟語「博愛」の典拠は儒教の経典『孝経(こうきょう)』であるが、伯爵佐野常民(つねたみ)が1877(明治10)年に創設した「博愛社」の名称としたのが、普及の端緒のようである。この「博愛社」に起源をもつ日本赤十字社の説明によると、西南戦争の悲惨な状況を見た佐野常民らが、官軍ならびに当時は賊軍である薩摩軍双方の戦傷者救護のための組織設立を提案したが、陸軍の反対により実現しなかった。そこで、奥の手を使う。

 

佐野は、征討総督有栖川宮熾仁親王〔ありすがわのみや・たるひとしんのう〕に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決し、1877年5月、熊本の司令部に願い出ました。有栖川宮熾仁親王は英断をもってこの博愛社の活動を許可されました。26  http://www.jrc.or.jp/about/history/

 

明治天皇の西郷隆盛贔屓はよく知られたことでもあり、「博愛社」は天皇家の威光のもと、のちに名誉回復する西郷隆盛率いる賊軍兵士をも助けたのである。陸軍首脳の当然の反応にもかかわらず、「博愛社」は無事設立された。「博愛」の語と天皇制との親和性ははじめからのものであり、「博愛」と聞いてまっさきにフランス革命の「自由・平等・博愛」を連想したはずだなどという解釈はまったくの的外れである。狭量なる靖国神社はその設立趣旨からしていったん逆賊となった者らを祀ることは絶対にありえないだろうが、まつろわぬ者どもまで救済する度量の広さを発揮した大日本帝国が、教育勅語で「博愛」を謳い上げるのはまことに相応しいのである。

 かくして、「己れ」を整え、しかるのちに、「衆」に対して「博愛」を及ぼすべきとなる。しかしながら、ここで、視点の動揺が露呈する。「實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓」であるこれらの徳目は、「子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」であり、「古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」というものであるので、「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」というのである。1939(昭和14)年発行の尋常小学校6年生用の「修身」国定教科書は、つぎのとおり「解説」する。

 

実に皇祖皇宗がおのこしになつた御教訓であつて、皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきものであること、又此の道はいにしへも今も変わりがなく、かつ國の内外を問はずどこでも行はれ得るものであることを仰せられてあります。最後にかしこくも天皇は御みづから我等臣民と共に此の御遺訓をお守りになり、それを御実行になつて、皆徳を同じくしようと仰せられれてあります。27  第四期〔1934(昭和9)年以降〕初等科修身六(『「修身」全資料集成』344-46頁)

 

これは、うっかり現代語訳すると勅語を改竄したことになり不敬罪となる怖れがあるので、もってまわって「解説」する風を装っているが、文部省による実質的な口語訳である。文意を勝手に捻じ曲げ、恣意的に訳しておきながら、自分ではまるで良いことをしたと思っている「国民道徳協会」や「明治神宮」は、この慎重さを見習うべきだった。さて、「皇祖皇宗の御子孫」とは歴代の天皇である。つまり、天皇は、家臣である民に対して皇祖皇宗が残した教訓である「徳目」を守れ!、と命令しているだけではない。皇祖皇宗の子孫である天皇自身が、臣民に対して、いっしょにこの「徳目」を守ろうよ、実行しようよ、徳を同じくしようよ、そう願っているよ!、と呼びかけているのである。

 ここに、教育勅語のもっとも根本的な矛盾が露呈している。大日本帝国においては、主君たる天皇とその家臣である臣民とでは、立場も果たすべき機能もまったく異なる。その差異は相対的差異などではなく、絶対的な隔絶である。「四民平等」を吹聴したところで、部落差別や琉球、アイヌに対する差別は厳然として存在する。部落差別や民族差別・人種差別と、天皇の制度は相互補完的なものであるから、主権者である天皇が統治する大日本帝国が身分制社会でなくなることは原理的にありえない。主君たる天皇と臣民たちのあいだには、確たる身分の違いがあり、あらゆる事項において立場の違いがある。天皇が御遺訓を守るのと、臣民が御遺訓を守るのとでは、その持つ意味が全く違う。端的にいうと、天皇は現に「博愛を衆に及ぼす」立場にいて、すでにその能力があり、準備もできている、それどころか現在進行形で「博愛を衆に及ぼ」している、はずである。そうでなかったらおかしなことになる。未熟な天皇が大日本帝国を統治しているとしたらとんでもない話で、そのような可能性があるなどといえばタダではすまない。

 いっぽう、臣民はといえば、本来「博愛を衆に及ぼす」立場にはない。臣民こそまさにその「衆」そのものである。臣民は「博愛」を「及ぼ」される対象なのである。臣民である衆がほかの臣民である衆に対して、「博愛を及ぼす」などということがありうるとはとても考えられない。そんな尊大なことを言ったとすればもちろん、さあ「博愛を衆に及ぼす」ことにしようとか、「博愛を衆に及ぼす」ことのできるような立派な臣民になるぞ、などと心ひそかに決意するようでは、「恭倹己れを持し」ている、つまりうやうやしく慎しみ深くあるなどとはとても言えない。天皇と臣民が同じ徳目を遵守するというのはどうにも理解しがたい。身分秩序を前提とする社会観、すなわちあらゆる事柄について「立場」による差異を当然のとこととする前近代的思惟構造をとっていながら、教育勅語が主君たる天皇と臣下である臣民とが同一の道徳を遵守すべきであると説諭するのはいかにもチグハグである。「博愛衆ニ及ボス」を「広く全ての人に愛の手をさしのべましょう」などと、デタラメに意訳して平気でいる復活推進論者は、ここに潜んでいる立場の違いを無視する混乱に無頓着でいられるのであるから、じつに呑気なものである。

 現代にあっても、病院を設立し運営する医療法人が、「愛」・「慈」・「恵」・「済」などの結構な語彙をその名称に掲げることが多い。教育勅語のヴォキャブラリーの「博愛」のヒントになったかもしれない「博愛社」はその嚆矢である。「愛」だとキリスト教の、「慈」だと仏教の理念の借用なのだろうが、いずれにしても、その発信源は神や如来(にょらい)・菩薩(ぼさつ)など、至尊至高の存在である。唯一絶対神でも崇高な存在者でもない法人やその経営者が、みずから「愛」・「慈」・「恵」・「済」を名乗ってしまうのである。高い位置から見下ろす尊大な心根が露呈していささか醜怪である。

 「博愛衆に及ぼす」という教育勅語中の言葉から受ける、なんとも言いようのない違和感は、この偉そうな感じ、恩着せがましさのゆえである。このような尊大さを、臣民である一般庶民に対して、身につけ発揮せよなどということは不自然だし、ましてそれを年端もゆかない児童に叩き込もうとするのは理解しがたいことである。

 神ならぬ臣民が、「博愛」を衆に及ぼすなど、至難の技である。というより不可能というほかない。誰をも愛せない、せいぜい特定の誰かを愛することができれば大したもので、それすらなかなか貫徹し得ずに、しばしば動物や物品、はてはヴァーチャル・リアリティー(仮想「現実」)を愛してしまうのが普通の人間であって、一切の選り好みなく人類の全員をひとしく愛する「博愛」ははるか彼方のところにある。つまるところ、「博愛衆に及ぼす」ようなだいそれたことは、人間にはおよそ不可能というほかない。もしそのような偉業をなしうるとすればそれは人間を超越した存在である。国家神道の教えるところによれば、神である皇祖皇宗の直系子孫であり、ご自身も神である天皇だけがそれをなしうるのである。

 なお、「博愛」以前に、「愛」の語が単独で今日のような意味合いで一般的に用いられていたようには思われない。文学作品中で多用したのは芥川龍之介だが、生年は教育勅語制定の翌々年の1892(明治23)年である28  http://kotoba.quus.net/syousetu/愛/、http://www.jrc.or.jp/about/history/

 

 「博愛衆に及ぼす」と「八紘一宇」

 しかし、「博愛衆に及ぼす」にはブレーク・スルーがある。大日本帝国の「八紘一宇(はっこういちう)」理念である。まず大東亜の解放を実現し、いずれは人類世界に冠たる国になり、神国日本が全人類に対して「博愛」を及ぼすようになる、という大層な野望である。

 成立したばかりの大日本帝国においても、すでに琉球やアイヌがその支配に組み込まれたが、この後、日清戦争(1894-95年)を経て1895(明治28)年に台湾が、さらに日露戦争(1904-05年)を経て1910(明治41)年に朝鮮が大日本帝国に併合されることになる。軍事征服による植民地化であれば被征服民族としての民族性は一応認められているが、「併合」とあっては民族としてのアイデンティティーも否認され、固有の言語・人名の使用すら許されない。そもそも解放されるべき民族性は抹消され、植民地支配からの解放は大日本帝国の解体による以外にはありえないことになる。

 大日本帝国の版図拡大はそれ以降一層亢進する。

 1940(昭和15)年7月26日、第2次近衛内閣の閣議決定「基本国策要綱」冒頭の「根本方針」において、大日本帝国の方針として「八紘一宇」の語が登場する。

 

皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国(ちょうこく)の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り。

 

 「八紘一宇」という建国の精神に基づいて世界平和を確立することを「根本」とし、この「根本」の上に、最初に大日本帝国を「核心」として、日本・満州・中国を強固に「結合」し、次にこれを「根幹」とする東アジアの新しい「秩序」をたてる。これが大日本帝国の国家としての方針(「国是」)だというのである。「八紘一宇」の語は、近衛文麿ら閣議出席者のオリジナルではない。さきにみたとおり、「八紘」は、その内側の「八殥(はちいん)」、さらにその内側の「九州」(中華世界)を含む人類世界全体を指す。そして、宗教団体「国柱会」の創始者田中智學(1861–1939)が、世界(「八紘」)を日蓮を中心とするひとつの家(「宇」)として統一するという意味の標語「八紘一宇」を作って使用していた29   日蓮宗においては、末法段階にある現世においては、穏やかに相手を導く「摂受(せつじゅ)」ではなく、相手を徹底的に論破して教化する「折伏(しゃくぶく)」をおこなうべきとされる。田中智學は「折伏」の対象に他宗派の信者だけでなく、天皇に対して不忠である者をも含める。田中智學は、大日本帝国憲法第28条(「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」)を改正して日蓮仏教を国教にし、「国立戒壇」を設置することをめざす。さらに「折伏」は、人間だけでなく国家もその対象とされ、他国をその宗教とともに否定することが宗教的義務とされる。田中智學は、『日本書紀』における「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや」との神武天皇のことばから四字熟語「八紘一宇」をつくった。これは法華経における「一天四海回帰妙法」と同じ意味をあらわすのだという。田中智學の「国柱会」の信者として、高山樗牛(ちょぎゅう)、石原莞爾(かんじ)、宮沢賢治(1896-1933)らがいた。石原莞爾(1889-1949)は、「満州事変」の発端となった満鉄爆破事件(柳条湖〔りゅうじょうこ〕事件)の中心人物である(当時、陸軍中佐で関東軍参謀)田中智學と国柱会については、伊勢弘志「大正期の思想潮流についての一考察」(https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/6104/1/sundaishigaku_131_1.pdf)、大谷栄一「戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観」(http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/otani31.pdf)(いずれもリンク切れ)。。「基本国策要綱」はこの語とそれが表現する理念を借用したものである。

 「日満支」の「満」とは、中国東北部に大日本帝国が樹立した「満州国」であり、形の上では独立国だが実質的には大日本帝国の植民地である。「支」は、大日本帝国により首都南京(なんきん)を占領され重慶(じゅうけい)に移った中華民国政府ではなく、汪兆銘(おう・ちょうめい)の「南京国民政府」を指す。大日本帝国は中国全土の征服をめざして軍事行動を開始したが、宣戦布告もしていないため、それを「戦争」と呼ぶことすらできず、当初は「北支事変」(1937〔昭和12〕年7月11日)、ついで「支那事変」(同9月2日)と呼んだ。さらに「国民政府を対手(あいて)とせず」と宣言し(1938〔昭和13〕年1月16日)、相手国政府とのいかなる交渉もできない状態をみずから作った。実質的な政府といえない汪兆銘の「国民政府」を中国国家とみなし、重慶政府を「対手」としないと宣言してしまった以上、いくら戦闘を続けたところで休戦交渉をおこなうことすらできない。これでは休戦も、したがって戦争の終結もありえない。当然「泥沼」へと進むことになる。

 中国支配の完成を「根幹」とする「大東亜の新秩序」を建設するという場合の「大東亜」は、字義上は東アジアだが、実際にはそれを大きく上回る地域を指すことになる。「仏印(ふついん)進駐」(北部:1940〔昭和15〕年9月。南部:1941〔昭和16〕年7月)により占領したフランス領インドシナ植民地、アジア・太平洋戦争に際して占領した東南アジア全域、西太平洋地域、そしてそれらの隣接地域が「大東亜」の範囲とされる。

 大日本帝国は、アメリカ合州国・大ブリテン連合王国(イギリス)・ネーデルラント王国(オランダ)・フランス共和国による植民地体制の解消をめざした。その限りにおいて、大日本帝国は表面的には、欧米帝国主義諸国による植民地体制からのアジアの「解放」をめざしたことになる。しかし、自らを「核心」とする植民地支配体制へと「大東亜」全域を再編しようとしたのであり、けっして帝国主義による植民地支配を終わらせようとしたのではない。大日本帝国は、「白色人」による「黄色人」に対する差別と支配にかえて、日本人によるアジア諸民族に対する差別と支配を樹立しようとしたのである。

 6の「徳目」である「博愛」は、儒教経典に起源を持つ用語を、国家神道にとりいれられた儒教倫理の発想によって組み立てたスローガンである。自分自身がフランス革命に共感するわけはないのに、「博愛」にはまさか反対できまいと高を括っている現代の教育勅語復活推進派は、うかつにもこのような畏れ多い含意に気づいていないようである。したがって、教育勅語復活推進論を批判するのであれば、「博愛」の文字面に幻惑され、このような含意に気づかないまま、国家神道的儒教倫理が近代ヨーロッパの社会契約論的革命思想と親和性があるなどと誤認してはならない。

 

 

7 「学ヲ修メ業ヲ習フ」/「勉学に励み職業を身につけましょう」

8 「知能ヲ啓発ス」/「知識を養い才能を伸ばしましょう」

9 「徳器ヲ成就ス」/「人格の向上につとめましょう

10 「公益ヲ広メ世務ヲ開ク」

/「広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう」

 

 「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」は、4項目に分解するのではなく一体的に理解すべきである。4分割して「十二の徳目」の3分の1を稼ぎ出すのは項目数の水増しには役立つが、教育勅語の本来の趣旨をないがしろにすることになる。

 「學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ 智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ 進テ 公益ヲ廣メ世務ヲ開キは、つぎのとおりの段階的構造をもっている。

 「7 學ヲ修メ業ヲ習ヒ」は「以テ」として「8 智能ヲ啓發シ」と「9 德器ヲ成就シ」の前提条件となる。そして、「進テ」つまり、7によって8と9を達成したうえで「10 公益ヲ廣メ世務ヲ開」くべきだと命ずるのである。文部省による英訳30  〔……〕bear yourselves in modesty and moderation ; extend your benevolence to all ; pursue learning and cultivate arts, and thereby develop intellectual faculties and perfect moral powers ; furthermore advance public good and promote common interests 〔……〕 末尾に全文では、7、8を列挙したうえで、それらによって(thereby)、「9 道徳的力量を完全ならしめ」、ひいては(furthermore)「10 公共善を発展させ共通利益を増進す」べきだとする。このように、7、8と9、10は順次上昇する一連の階梯構造となっているのであり、単なる並置ではない。個々人の能力と人格の陶冶を前提として、そこから社会全体への貢献に上昇していく道徳の体系構造は、『大学』中の「修身斉家治国平天下」に範をとったものとみて間違いない。

 「修身斉家治国平天下」は、さきにみたとおり、「恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」の背景にもなっていたが、ここで再び、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」の起源となっている。ただし、教育勅語では「斉家」部分は、項目1および2として独立してしまっているから、項目7から10は、「修身・治国平天下」に切り詰められている。

 項目7から10までの徳目は階梯上昇型体系構造をとっているのだから、その構造を解体して個々ばらばらにしたのでは、本来の趣旨を見失うことになる。項目7中の「修学」の語は『論語』に由来するのであるが、だからといってそれだけを取り出して、これを単純に儒教倫理であるとするのは表面的だろう。今もひろく実施されている「修学旅行」について、儒教倫理の体得をめざすものだと決めつけるわけにはいかない。しかし、「修身斉家治国平天下」パターンに倣った「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」として、階梯を逐次上昇していく体系構造化が図られているとなると、全体としてはもちろん、「修学」など単独では特段の問題性などないように見える各部分も儒教倫理的発想にもとづくものとみなければならない。

 「治国平天下」に相当する「公益ヲ広メ世務ヲ開ク」については、さきにみた「博愛衆に及ボス」と同様の困難が露呈する。すわなち、「皇祖皇宗の御子孫」である天皇と臣民との立場の違いである。「公益ヲ広メ世務ヲ開ク」は、天皇陛下ご自身におかれても、「皇祖皇宗の御子孫も一般の臣民も共に守るべきもの」として、個人から社会への上昇すなわち個々の能力と人格(神格?)の陶冶を前提として、そこから社会全体への貢献へと上昇していく体系的道徳に従うことを宣言しているのである。そして、臣民にあっても、個人から社会への上昇すなわち個々の能力と人格の陶冶を前提として、そこから社会全体への貢献へと上昇していく体系的道徳に従うことを命じているのである。しかし、臣民は「治」(おさめる)や「平」(たいらげる)の主体ではありえずその客体にほかならない。「公益ヲ廣メ世務ヲ開ク」は、「治国平天下」の段階には達していないと言い逃れるかもしれないが、社会の経営統治に主体的にかかわることであって、被治者としての恭順服従を超え、それとは次元を異にする統治側にたった主体性の発揮を求めていることは明らかである。被治者である臣民にみずらかの立場とはことなる立場を踏まえた行為を求めるのであるから、混乱は不可避である。前項の「博愛衆ニ及ホシ」におけると同じく、ここでも神の子孫であり支配者である天皇と、神ならざる被治者である臣民との立場の違いなどまったく頓着せずに、一緒くたにしている教育勅語の論理矛盾が露呈している。

 ここで、『大学』の「修身斉家治国平天下」スローガンには統治者と被治者の立場の違いはないのだという反論があるかもしれない。誰であれ、「修身」から出発し、順に努力を積み重ねることで、ついには「平天下」に到達する可能性をもつとする解釈である。このような解釈が妥当かどうか、『大学』の記述をよく見てみよう。第1段第2節の2段落は次のとおりである。

 

物(もの)格(ただ)しくして后(のち)知至る。知至りてのち意誠(まこと)なり。意誠にして后心正し。心ただしくして后身修(おさ)まる。身修て后家斉(ととの)ふ。家斉へて后國治(おさ)まる。國治まりて后天下平(たいら)かなり。31  赤塚忠『新釈漢文大系 2 大学・中庸』1967年、明治書院、44頁。

 

 朱子学派の儒教における「修身斉家治国平天下」のスローガンはこれを縮めたものだが、「物格しくしてのち知至る。知至りてのち意誠なり。意誠にしてのち心正し。心ただしくしてのち身修まる」が全部脱落し、後半の「身修てのち家斉ふ。家斉へてのち國治まる。國治まりてのち天下平かなり」だけになっている。そのうえ、各々の原因・結果関係も省略されてしまい、単に4項目が並置されている。かくして、身を修めることによって家を斉えることができる、家を斉えることによって國を治めることができる、國を治めることによって天下を平定することができる、しかもそれは誰であってもそうなのだ、と言っているかのごとくである。大日本帝国の臣民にあっても、そしてもちろん児童生徒にあってもそうなのであって、だからこそ学校で身を修めるべく教育するのであり、その機会のひとつが「修身」の授業である、というかのごとくである。

 この第2段落の前の第1段落は次のとおりである。

 

古(いにしへ)の明徳(めいとく)を天下に明(あきら)かにせんと欲せし者は、先づ其の國を治(おさ)めたり。その國を治めんと欲せしものは、先づその家を斉(ととの)へたり。その家を斉へんと欲せしものは、先づ其の身を修(おさ)めたり。其の身を修めんと欲せし者は、先づその心を正しくせり。その心を正しくせんと欲せしものは、先づ其の意(い)を誠にせり。その意を誠にせんと欲せしものは、先づ其の知を致(いた)せり。知を致すは物を格(ただ)すに在りき。

 

 これを逆順にしたのが、さきほどの第2段落である。第1段落冒頭の「古の明徳を天下に明かにせんと欲せし者」とは、赤塚忠の通釈では次のとおりである。

 

「古」は、古代思想家が政治道徳の範例を設定する時に用いる常套的表現であって、堯・舜・禹・殷・周〔ぎょう・しゅん・う・いん・しゅう〕などの聖代をさす。ここでは、とくに舜がこれに当たろう。朱子は、この句は天下の人すべてに明徳を明らかにさせることをいうと解しているが、それは拡張解釈であって、原文の意ではない

 

 主語を「天下の人すべて」にしてしまったのでは、まったく意味が通らなくなる。そのような恣意的な主語の置換によってしか成り立たない解釈は誤りである。明治天皇を含めた歴代天皇を「古の明徳を天下に明かにせんと欲せし者」と同列におくのもどうかとは思うが、ここにその定義上「治国」や「平天下」の主体たることが絶対にありえない大日本帝国臣民をあてはめることはできない。

 典拠にした『大学』の趣旨を完全に捻じ曲げた「修身斉家治国平天下」パターンによって作られた教育勅語第3文は、その発布から1945年までの時点でもすでに論理的不整合をおかしていたのである。当然、現代にも通じる徳目などではありえない。

 

 

11 「國憲ヲ重ジ國法ニ遵フ」/「法律や規則を守り社会の秩序に従いましょう」

 

 國憲の範囲はどこまでか

 教育勅語における「國憲(こっけん)」は大日本帝国憲法を指すのであり、大日本帝国憲法以外の「憲法」ではありえない。教育勅語が、日本国憲法や他国の憲法を「重」んずるべき「國憲」とみなす余地はない。

 教育勅語の具体化としての「修身」教科書の記述は次のとおりである。

 

帝國憲法は、天皇が大日本をおすべになるための國のさだめであつて、最も大切なものであります。明治天皇は、皇祖皇宗の御遺訓にもとづき、皇國の隆昌と臣民の慶福とをお望みになる大御心(おおみごころ)からこの憲法をお定めになり、明治二十二年の紀元節の日に御発布になりました。

 

憲法は、万世一系の天皇が大日本帝國をおすべになることを明らかにし、昔から変わらないわが國體(こくたい)の大本をしめしてゐます。32  第五期〔1941(昭和16)年以降〕初等科修身四、「十八 帝國憲法」(『「修身」全資料集成』461頁)

 

 現在、日本国憲法によって「排除」された大日本帝国憲法を「重ジ」ることは、日本国憲法に違反する。当然、教育勅語を現在の学校における道徳教育に用いることはできない。「國憲ヲ重ジ」は、現代に通ずる普遍性のある徳目とは言えない。憲法違反のとんでもない命令であり、そんなものを民間団体に属する右翼的心情をもつ人たちが叫んでいるだけならまだしも、憲法遵守擁護義務を負う文部科学大臣が容認推奨するなど到底許されることではない。即座に大臣を罷免され、国会議員を辞すべき行為である。

 教育勅語復活推進論者は、「國憲」は一般的に憲法を指すのであって、大日本帝国憲法に限ったものではないから、この徳目は一般的に憲法を、たとえば現代日本においては日本国憲法を重んずるよう説諭するものである、と主張するかもしれない。彼らは、日本国憲法を嫌っているからみずから日本国憲法を「重んずる」べきだと明言することは決してないが、受け取る側が勝手に教育勅語をそのように「誤解」することを内心期待しているかもしれない。日本国憲法を重んずることを説諭するものとしての教育勅語に反対することはできないだろう、教育勅語には現代にも通じる普遍性があるのだ、というわけである。

 勅語の「國憲」が、仮に、日本国憲法をも指すのだとしよう。しかし、そういうありそうもない仮定をしたとしても、推進論者の目論見は実現しない。現代の学校において、児童生徒に日本国憲法を「重んずる」ことを説諭するとなると、ただちに憲法上の問題を生ずる。近年の「立憲主義」の議論を通じて再確認されたことであるが、憲法制定権者である国民は日本国憲法を「重んずる」義務を負わない。憲法を「重んずる」義務を課せられているのは、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」である。日本国憲法における憲法尊重擁護義務規定は次のとおりである。

 

 第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

 Article 99. The Emperor or the Regent as well as Ministers of State, members of the Diet, judges, and all other public officials have the obligation to respect and uphold this Constitution.

 

 神の子孫であり、当然みずからも神である天皇がつくって臣民に与えた大日本帝国憲法は、臣民に遵守義務を課しているのであるから、教育勅語が臣民である児童生徒に「國憲を重んずる」ことを義務づけるのは当然の帰結である。しかし、日本国民が制定した日本国憲法が、児童生徒もその一員である国民に憲法尊重擁護義務を課することはありえない。誰であれまた何であれ、児童生徒に「國憲を重んずる」よう説諭し強制することは日本国憲法に違反する。つまり近代立憲主義憲法である日本国憲法の全趣旨に反する。

 なお、天皇が大日本帝国憲法を「重んずる」としてもそれは、大日本帝国憲法の規定に従って統治するという程度であり33  大日本帝国憲法 第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ、臣民が「重んずる」のとは内実が全然違う。これまでと同様、やはりここでも支配者である天皇と被治者である臣民がおなじ道徳律を遵守することの矛盾が露呈している。

 

 憲法と立憲主義

 ここで教育勅語が、「憲法」ではなく 「國憲」としていることについて見ておく。まず、「憲法」の語義を確認しなければならない。「憲法十七条」を日本最古の憲法としてあげる例が、立場のいかんを問わずよくみられる。日本には欧米とは異なる、しかもそれよりはるかに古い「憲法」の伝統があるというのである。大日本帝国憲法と日本国憲法とを比較対照する議論に「憲法十七条」が割り込んでくると、話が錯綜し取り留めがつかなくなるのであるが、まさにそこに復古派の目論見があるともいえる。「憲法十七条」の語は『日本書紀』中の記述のとおりであるが、この「憲法」の語義は、現代における「憲法 (constitution〔英語、フランス語〕, Verfassung〔フェアファッスンク、ドイツ語〕)」の語義とは異なる。穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)によれば、明治初期においては、「憲法」の語は今日でいう法律一般をさすのであり、国家の基本法という意味合いはなかった34  穂積陳重『法窓夜話』1980年、岩波文庫、176頁。同『続法窓夜話』1980年、岩波文庫、24頁。。明治初期においてそうであるのであるから、まして7世紀の『日本書紀』における「憲法十七条」と、今日の憲法を同じ意味だと思い込むのはとんでもない誤解である。そんなものをひきあいにだして、日本における「立憲主義」の伝統などというのはひどい時代錯誤である。

 大日本帝国憲法がまさに「憲法」を名乗って制定されたことは、一応は、近代西欧と北米における国家の基本法としての「憲法(constitution, Verfassung)の趣旨を斟酌したものといえる。そして、その際、「國憲」ではなく「憲法」の語が用いられたことで、日本社会にあっては従来法令一般を指した「憲法」の語が、以後は意味転換のうえ定着することになったといっていいだろう。もっとも、同年に発布された教育勅語が、「憲法」ではなく「國憲」としているのはいささかチグハグである。まさに「憲法」の語義の転回点ゆえともいえるが、まったく別のところで無関係の者らが作ったわけでもないのに、語法がバラバラというのは一貫性を欠き、教育勅語案文作成にあたった者らの考慮不足の結果とも言える。

 大日本帝国憲法が、一応は、近代西欧と北米における国家の基本法としての「憲法(constitution, Verfassung)」の出現を踏まえたものであるとしても、だからといって、大日本帝国憲法が「立憲主義(constitutionalism)」の原理のうえに拠って立つものだというのは、誤解である。学校教科書はもちろん、一般の歴史叙述にあっても、大日本帝国憲法制定によって日本における「立憲体制」が成立したとするのが通例である。しかし、それはせいぜい「憲法」を名乗るものが制定されたという程度のことに過ぎない。近代西欧・北米において成立した「立憲主義(constitutionalism)」とは、憲法制定権者すなわち主権者である国民35   nation 、 ひとりひとりをさすのではなく集合概念である。が自然権としての人権を宣言したうえで36  アメリカ合州国憲法(1787年)は制定時には人権宣言部分はもたず、1789年までに追加条項(いわゆる「修正条項」)第1条から第10条で人権が宣言された(「権利章典」)。日本国憲法では、第3章が人権宣言である。、国家を設立する行為を遂行するものであり、その際、国家の構成、しくみ、体制、構造(constitution)を定める文書としての憲法(constitution)が作られる、ということである。国家には立法・行政・司法の各機関のほか、王や皇帝がおかれることもあるが、それも憲法制定権者である国民によって置かれる国家機関のひとつである。立憲主義的憲法における王や皇帝は、憲法以前の、憲法以外にその存立根拠を持つ存在ではない。

 したがって、「神聖にして侵すべから」ざる、「万世一系の天皇」が「統治す」ることの宣言文書である大日本帝国憲法は、いかにしても近代の「立憲主義」に立脚するものではない。それどころか、「立憲主義」を否定するものと言うほかない。大日本帝国憲法という形でみずからを宣言する天皇制国家統治体制は、たとえばフランス革命(1789-99年)初期に成立したフランス王国の立憲君主制とはまったく異なる。そこでのフランス国王は1791年憲法によって設置された国家機関であるが、天皇は大日本帝国憲法によって設置されたのではない。それどころか、天皇が大日本帝国憲法を制定し、大日本帝国を樹立したのである。フランスの1791年憲法と大日本帝国憲法とでは、憲法と君主の関係はまったく異なる。

 大日本帝国憲法体制を安易に「立憲体制」と呼ぶのはやめるべきだろう。少し気をつかって「外見的立憲君主制」などと言うこともあるが、まるで憲法に外見と中身の区別、建前と本音の違いがあるかのようにみなして、「外見的」には「立憲主義」的である、とするのは失当である。そもそも「外見」においてすでに「立憲主義」的ではないのである。

 

 「國法」の範囲はどこまでか

 教育勅語における「國法」は大日本帝国憲法下の諸法令を指す。当然、勅令・詔勅も含まれる。さらに、教育勅語発布当時は未制定であっても、大日本帝国憲法下で以後制定されるすべての法律・勅令・詔勅が該当することになる。

 当然ながら、ここでいう「國法」には、大日本帝国以外の国家の「國法」は含まれない。すなわち外国の「國法」や、日本社会のものであっても大日本帝国憲法体制以外の時期の「國法」は含まない。江戸幕府や諸藩の法制度に「遵フ」ことは命令されない。大日本帝国は未来永劫続くと観念されているので、教育勅語はまさかそんなことは想定していないのではあるが、大日本帝国が崩壊してまったく異なる国家体制が成立したとして、そこでの「國法」に従うことを命ずることもありえない。とりわけ重大なことだが、国際法も除外される。

 「國法」の指す範囲はたいへん広範であるので、そのすべてをここで示すわけにはいかないが、たとえば、「家」制度を定めた民法上の規定、治安維持法などはもちろん、大日本帝国の国家体制、軍事体制を定めた法令、教育勅語およびそのもとでの学校教育についての法令がこれにあたる。

 現在にあっては、日本国憲法に「反する」として「排除」された大日本帝国憲法体制下の法令に「遵フ」ことは端的に日本国憲法に反する行為であるから、教育勅語を現在の学校における道徳教育に用いることはできない。したがって、教育勅語における「國法ニ遵フ」は、大日本帝国内においてのみ通用する特殊な徳目であり、現代に通ずる普遍性のある徳目とは言えない。

 

 標語「悪法も法なり」

 教育勅語の「國法ニ遵フ」の具体的教材として、「修身」の国定教科書はプラトンの『クリトン』に描かれたソクラテスを登場させる37  第四期初等科修身五、「第三 國法を重んぜよ」(『「修身」全資料集成』286頁)。ソクラテスが「悪法といえども法には従わなければならない」と主張したという話が、いまだにしばしば持ち出されるので、ここですこし検討する。

 「修身」の国定教科書によるとソクラテスは、死刑判決を受け執行を待つ牢獄にやってきた友人(教科書では「弟子」)のクリトンに、つぎのように語って脱獄のすすめを断ったことになっている。

 

「……私も、私の父母や祖先も、皆國恩(こくおん)を受けて一人前の人間になつた。國あつての私たちです。國法の命ずることなら、どんなことでもそれに従うべきである。私は我が國を愛し、死を決して三度も出征した。それ程愛する我が國の、神聖な國法を踏みにじつて、今さらどこへ逃げて行く気になれよう。クリトンよ、私たちは國法を守らなければならない。」

 

 カギ括弧で括ってあり、ソクラテスがクリトンに語った言葉をそのまま引用した体裁をとっているが、ソクラテスはこのようなことは言っていない。『クリトン』をうっかり読むとソクラテスがそんな風なことを言ったように誤読してしまいがちだが、これは完全な捏造である。

 下線をほどこした部分が、しばしば「悪法といえども法である」という標語に転化して人口に膾炙し、とりわけ「修身」教育を受けてきた人々にとっては疑いえない真理として、よく持ち出された。さすがにそうした年代の人がほとんど現役を退いた現在にあっては、この標語そのものを聞く機会も減ったが、いまでもときおり同様の言い草が、法律それ自体だけでなく、法にもとづく行政を標榜する政府方針を全部正当化するために用いられる。さすがにまともな書籍等でそのような主張は見当たらないが、日常会話やインターネットなどでの通俗的発言においては命脈を保っている。そのもとになった最有力の学校教材がこれのようである。

 『クリトン』は、ソクラテスの刑死(紀元前399年)の後、弟子のプラトンによって書かれたものであり、『ソクラテスの弁明』などいくつかの対話篇とともに「初期対話篇」に分類され、ソクラテスが実際におこなった対話を記録したものとされる。とはいえ、その大部分は又聞きであり、どこまで現実と一致するかはわからない。先述のとおりナザレのイエスや孔子、あるいはガウタマ・シッダルタなどは、みずから著作を残していない。かれらの言行はその当時の聴衆や、それを又聞きした者によって伝えられているのだが、さまざまの取捨選択や脚色が入り込み、場合によっては創作や改竄も疑いうる。伝えられている対話内容をそのまま議論の余地のない主張として理解してよいわけではない。

 さらに、ソクラテスとプラトンの関係には独自の問題がある。プラトンの「初期対話篇」はソクラテスの言行を再現したものであるとされ、いっぽう中期以降の「対話篇」は、まったく同じくソクラテスとさまざまの人物との対話という形式をとってはいるものの、それはもはやソクラテスが語るはずもない、プラトン独自の思想の表現だとされる。しかし、その線引きも一応のものであり、初期のものであってもいっさい脚色が加わっていないとは言い切れないし、あくまでプラトンの目から見た、プラトンの思考と解釈のもとでのソクラテスであるという事情は否定できない。

 もっとも有名な『ソクラテスの弁明』は、法廷での被告ソクラテスの弁明演説が大部分を占め、いささか異なった印象を与えるのであるが、初期対話篇における対話 dialogue は、ソクラテスがさまざまの主題について友好的もしくは敵対的な相手に問いを発し、それに対する相手の返答にさらに問いを発する、というプロセスが延々と繰り返される。しまいには対話相手のイライラが頂点に達し、そんなに他人の見解をけなしてばかりいないで、たまには自分自身の意見を言ったらどうだと逆襲されるのであるが、ソクラテスは自分は産婆のようなもので自分ではなく他人の思想誕生の手助けをするだけだとしらを切り、なにものかについて全てを知っていると威張っていた相手を、気がつくと当初の主張と正反対の主張をさせてきりきり舞いさせる。対話の終局はつねに課題未解決であり、一同は当初の問いに立ち返ることになる。いわゆる「無知の知」(無知の自覚)である。ソクラテスが用意周到に組み立てた、徹底的で根底的なアイロニー(皮肉)とパラドクス(逆説)に満ち満ちた対話は、傍目には面白がっていればすむとはいえ、ソクラテスの底意地の悪い罠に絡め取られて翻弄される当事者にとっては、到底許すべからざる屈辱体験となる。

 しかも、対話のテーマは一見すると現実離れした抽象的な問題のようだが、じつは都市国家アテネにおける社会的・政治的問題と直結するシリアスな事柄なのである。とくに、ソクラテス裁判とその直後の処刑にいたる短期間におこなわれた対話ともなればなおのことで、「國法」に対してとるべき態度について議論の余地のない在り来たりの考え方を、ソクラテスが「弟子」のクリトンに一方的に説教することなど到底ありえない。

 『クリトン』後半で、クリトンとのひととおりの対話を終えたあとで、一転してソクラテスがつぎのような仮定を持ち出して、クリトンに突きつける。

 

国法が、国家公共体とともにやって来て、ぼくたちの前に立って、

 どうぞ、ソクラテス、言っておくれ。お前は何をするつもりなのだ。そのお前がやりかけている所業〔クリトンのすすめに応じて脱走すること〕というものは、わたしたち国法と国家全体を、お前の勝手で、一方的に破壊しようともくろんでいることになりはしないかね。それともお前は、一国のうちにあって、一旦定められた判決が、少しも効力をもたないで、個人の勝手によって無効にされ、目茶苦茶にされるとしたならば、その国家は、転覆をまぬかれて、依然として存立することができると思っているのか。と、こうたずねるとしたならば、この問いに対して、またほかにも、この類の問いがなされるとしたならば、これに対して、僕たちは、クリトンよ、何と答えたものだろうか。38  『クリトン』50A-B、『プラトン全集 1』(田中美知太郎訳)1973年、岩波書店、138-39頁。(久保勉訳、岩波文庫販、79頁)

 

 ここでソクラテスは、「一旦定められた判決〔ソクラテスの死刑判決〕が、少しも効力をもたないで、〔脱獄と国外逃亡という〕個人の勝手によって無効にされ、目茶苦茶にされるとしたならば」どうか、という問いの立てかたをしている。「修身」教科書のように、「國法の命ずることなら、どんなことでもそれに従うべきである」か否か、などというとりとめのない一般化した命題をたててそれについて検討しているのではない。「どんなことでも」と命題の意味を無限に拡張してしまえば、検討はもはや不可能となる。

 もちろん、立てられた問いはこれひとつではなく、「ほかにも、この類の問いがなされる」のであるが、それをここで全部みるわけにはいかない39  『クリトン』における全論点について解説したものとしては、加来彰俊『ソクラテスはなぜ死んだのか』、2004年、岩波書店。。なによりソクラテスの対話において重要なのは、その結論なのではない。「初期対話篇」においてはわかっていたつもりの憶断がことごとく自家撞着に陥って解体し、読者をふくめた全員が最初の問いにふたたび連れ戻されるというものであって、なんらかの解決に到達するということは決してない。重要なのは、そのアイロニーとパラドクスに満ちた対話の全過程なのである。

 一点だけとりあげると、ソクラテスはそのヴァーチャル・リアリティーの「国法」につぎのように語らせてクリトンに提示する。

 

戦場においても、法廷においても、どんな場所においても、国家と祖国が命ずることは、何でもしなければならないのだ。そうでなければ、本来の正しさを満足させるような仕方で、説得しなければならないのだ40  『クリトン』51B-C、訳:142頁。(岩波文庫版、81頁)

 

わたしたち〔国法と国家〕は、何でもわたしたちの命ずることは、これをなせと、乱暴な仕方で指令しているのではなくて、これを提示して、私たちを説得するか、そうでなければ、これをなせと、選択の余地をのこして言っているのに、そのどちらもしていないからである。41  『クリトン』51E-52、訳:143頁。(岩波文庫版、83頁)

 

 ソクラテスは、「修身」教材のように「國法の命ずることなら、どんなことでもそれに従うべきである」などとは絶対に言わない。仮定の対話という迂遠な形をとってではあるが、従えない場合には法を「説得する」よう試みるべきだと言うのである。法に対する異議申立ての是認である。

 このような問いの前提となっているのは、都市国家アテネにおけるソクラテスの政治的権利である。ソクラテスが語らせる「国法」は、「悪法でも法なり」などと開き直って無条件的服従を要求するような愚かなまねはしない。そもそも「国法」が自らを「悪法」などと貶めることはありえない。「悪法でも法なり」などと言えば誰でもひれ伏すと思って、このスローガンを珍重してきた者たちの愚かさ加減は言うまでもない。それはともかく、ここでの「国法」は、お前たちが私のことをもし間違っていると言うなら、どうぞそのことを説得してみせなさいと、余裕綽々たるものである。ここに、ソクラテスやクリトンが都市国家アテネの正式メンバーたる成人男子市民であり、完全な政治的権利の持ち主であることが如実に示されている。同じ市民階級であっても政治的権利を持たない女性の場合には、ありえない議論である。また、アテネにおいて「知者(ソフィスト)」として大いに尊敬され、徳(アレテー)の教師を名乗った者たちの多くは他のポリスの出身者であって、アテネにおいては一切の政治的権利をもたないから、「国法」に従う義務もないかわりにそれを「説得する」資格ももたない。奴隷身分であっては論外で、一人前の人間として扱われることはない。

 「国法」に従うとか従わないとかいう問題を立ててそれについて論ずることができるのは、つまるところ民主政国家としてのアテネにおける政治的主権者である成人男子市民に限られる。ソクラテスの問いは、法への服従の限界の確定という普遍的な問題にせよ、まちがった判決に対して脱獄という違法行為をすることの妥当性という個別的な問題にせよ、国家(ポリス)の政治的主権者(成人男子市民)でなければおよそ意味をもたない。ということは、ソクラテスにとって脱獄=国外逃亡は、アテネの政治的主権者としての自己を否定することになり、それまで全生涯をかけて追窮してきたあらゆる事柄がすべて灰塵に帰することになる。当然そのような道はとりうるはずもないのである。「修身」教科書は、アテネの成人男子市民であるソクラテスの言説を拡張解釈(=捏造)した上で、大日本帝国の臣民であって政治的主権者ではない児童に「國法」への絶対的服従を説くのである。

 さすがに「修身」教科書執筆者はこの矛盾に気づいたとみえて、嘘に嘘を重ねて誤魔化そうとする。

 

 私たちは、帝國議会の議員を選挙し、あるひはその議員になつて、國の政治に加はることができるのであります。42  第五期初等科修身四「十八 帝国憲法」(『「修身」全資料集成』462頁)

 

あきれた大嘘である。1925(大正14)年までは男子の普通選挙権さえ認められていなかった。大日本帝国においては女性の選挙権・被選挙権はない。女子児童も学ぶ「修身」教科書の記述は、一見してあきらかな虚偽を教えるものであった。そもそも大日本帝国憲法体制においては帝国議会は、憲法制定・改廃の権限をもたないのはもちろんのこと、天皇の側近勢力や軍隊を統制する権限ももたないのであるから、たとえその選挙権があったとしても、臣民は「國の政治に加はることができる」存在であるとはいえないのである。

 全人口のごく一部の成人男子市民だけがポリスの正式メンバーとしての政治的権利を行使しえたアテネにおいて、まさにその正式メンバーの一員であったソクラテスが、その特権的正式メンバーであり続けるために、あえて死刑判決という「国法」に従ったことを、制限選挙制度下の大日本帝国臣民に対して模倣するよう強要することはまったく筋違いである。

 

 

12 「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」

/「正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう」

 

 「徳目」列挙の最後にやってくるのが「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」である。この「徳目」については、さきにみたとおり、教育勅語復活推進論者ですら問題含みであることは承知しているようで、「正しい勇気をもって国のため真心を尽くしましょう」などという、まったく趣旨違い、意味違いのでたらめな口語訳でごまかす以外に方法がないことをよくわかっているようである。しかし、教育勅語が命令する「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」は、「真心を尽くす」程度の心構えですむような、生易しいものではない。「修身」教科書がただしくも解説するところによれば、「奉ズ」の意味するところは直截かつ究極的である。

 

私たちは、ゆたかな資源を確保し、軍備を固めて、敵を圧迫し、ををしい心がまへを以て、建設をなしとげなければなりません。この大事業のためには身をささげ、力をつくすことが、だいじであります。

身命をなげうつて、皇國のために奮闘努力しようとするこのををしさこそ、いちばん大切なものであります。43  第五期初等科修身四、「二十 新しい世界」(『「修身」全資料集成』464頁)

 

 「身命をなげうつ」は、現代だったら比喩的表現止まりだろうが、ここでは比喩ではない。そのものズバリである。「真心を尽くす」どころか、生命 life と生活 life のすべてを差し出し、すべてを失うことを命令しているのである。ゆくゆくは「父母」も「兄弟」も捨て置き、「夫婦」であることも断ち切り、大東亜の征服のための侵略軍隊の一員として、支配殺戮の主体となることを強制され、ついには自らも飢餓と疫病に苛まれて死ぬことになる。「銃後」も安泰ではなく、「父母」「兄弟」「夫婦」としての生活を失い、食料・住居を切り詰められ、ついには焼夷弾、艦砲射撃、原爆による戦略爆撃から逃げることも禁止されて生命を差し出すことになる。生命すら失うに至っては、「正しい勇気をもって国のため真心を尽く」すことも不可能になる。

 教育勅語第3文は、この「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ズ」にいたって、自己破壊的本質をあきらかにする。教育勅語が説諭し称揚し命令するとおりにすると、臣民は、「父母ニ孝」を尽くすこと、「兄弟ニ友ニ」すること、「夫婦相和」することは実行不可能になる。徴兵されれば、故郷に残した「朋友」とは引き離される。侵略軍隊としての帝国軍隊においては不合理・不条理と非人間性が支配し「朋友相信」じるどころではない。食料に事欠き、病気になっても満足な治療を受けられなくては「恭儉己レヲ持」することも困難である。「博愛衆ニ及ホ」すことは、「八紘一宇」の侵略方針にすり替えられる。勤労動員と学徒動員で、小学生・国民学校生から帝国大学学生にいたるまでが学校から引き離され「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發」する機会も失う。徴兵され、侵略軍隊の一員として破壊と殺戮に明け暮れる生活では、「德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開」くこともままならない。残された家族も最低限の生活の維持すら難しい状況では、同様である。戦地であれ銃後であれ、ついに生命すら失うに及んでは、「國憲ヲ重シ國法ニ遵」うことさえ不可能である。強制された死を美化する道徳は、道徳の実現を不可能にするから、いかなる意味でも道徳的ではない。

 「一旦緩急アレバ」については文法上の間違いが指摘される。本来ならば、まだそうなってはいないという未然形の「アラバ」でなければならないところ、「アレバ」と已然形になっているので、すでに起きてしまったことになっている。これは単純な文法上の誤りなのだから、当然未然形の「アラバ」に置き換えて解釈すべきだというのである。しかし、古語の文法を習い始めた高校生でもあるまいし、それ相応の知識は身につけていた者らが喧々囂々の議論を重ねてつくりあげたはずなのに、揃いも揃ってこんなミスをおかして全員でそれを見逃すなどということは考えにくい。已然形であってはまったく意味が通らないというのであれば別だが、都合よく文法上の誤りとして片付けて勝手に読み替えるべきではない。教育勅語作成者は、もちろん意図して已然形にしたのである。

 「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」の語があらわれてくるのはまだ先のことではあるが、教育勅語制定時点において、江戸時代末期以来の薩摩長州等による国内征討内戦、西南戦争など、まさに「一旦緩急アレバ」の状況はすでに常態化していたのである。「緩急」は仮定的状況なのではなく、既成事実であった。そして1890(明治23)年の教育勅語制定からほどなくして、本格的な対外侵略戦争がはじまる。すなわち1894-95(明治27-28)年に日清戦争が起き、以後矢継ぎ早に日露戦争(1904-05〔明治37-38〕年)、第一次世界大戦(1914-18〔大正3-7〕年)、満州事変(1931〔昭和6〕年)、日中戦争(1937-45〔昭和12-20〕年)、アジア・太平洋戦争(1941-45〔昭和16-20〕年)へと途絶えることなく「緩急」状態が継続する。

 「緩急」などという難事を避け、平和的に「博愛」を及ぼす国になるという道もありうるのだが、大日本帝国はそのような道はあえて取らない。緩急に次ぐ緩急を厭うことなく引き受け、あるいはみずから緩急を作りだしたうえで、それを機会として世界に冠たる帝国をつくりあげようとする。大日本帝国臣民は、まさにこの「緩急」においてこそ天皇の股肱(ここう=手足のように忠義なる家臣)として、「博愛」を全世界の「衆に及ぼす」主体に昇華するのである。もちろん、「昇華」するような気がするだけで、実際には侵略先のひとびとの生命と生活を蹂躙剥奪し、みずからも、生活 life のほとんどすべてと、そしてついには生命 life を差し出すのである。教育勅語が命ずるとおりに「義勇公ニ奉」じてしまった帝国臣民は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」たいと思ってもそうすることはできない。もちろんもはやそれ以後は、「義勇公ニ奉」ずることはいっさい不可能になる。

 

 「十二の徳目」というまとめは、教育勅語の全体構成を考慮することなく、とりわけ第3文の構造を無視して分解したうえで、断片を単純に列挙したものである。本論は、もともとの構造に注目して再構成したうえで、それが含意する政治的主張と道徳的命法をあきらかにするこころみである。教育勅語は現代に通ずる普遍性をもつものではない、と結論づけることができるだろう。

 

(終)

 

 

 

 

関連資料

 

○ 教育ニ関スル勅語

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

御名御璽

 

注:本稿で検討する「十二の徳目」が列挙されているという第3文をボールド体にしてある。

 

 

○ THE IMPERIAL RESCRIPT ON EDUCATION  (明治政府による英訳)

 

Know ye, Our subjects 

Our Imperial Ancestors have founded Our Empire on a basis broad and everlasting and have deeply and firmly implanted virtue ; Our subjects ever united in loyalty and filial piety have from generation to generation illustrated the beauty thereof. This is the glory of the fundamental character of Our Empire, and herein also lies the source of Our education. Ye, Our subjects, be filial to your parents, affectionate to your brothers and sisters ; as husbands and wives be harmonious, as friends true ; bear yourselves in modesty and moderation ; extend your benevolence to all ; pursue learning and cultivate arts, and thereby develop intellectual faculties and perfect moral powers ; furthermore advance public good and promote common interests ; always respect the Constitution and observe the laws ; should emergency arise, offer yourselves courageously to the State ; and thus guard and maintain the prosperity of Our Imperial Throne coeval with heaven and earth. So shall ye not only be Our good and faithful subjects, but render illustrious the best traditions of your forefathers. The Way here set forth is indeed the teaching bequeathed by Our Imperial Ancestors, to be observed alike by Their Descendants and the subjects, infallible for all ages and true in all places. It is Our with to lay it to heart in all reverence, in common wish you, Our subjects, that we may all thus attain to the same virtue.

The 30th day of the 10th month of the 23rd year of Meiji.

(Imperial Sign Manual. Imperial Seal.)

 

注:本稿で検討する「十二の徳目」が列挙されているという第3文をボールド体にしてある。

 

 

 

○国民道徳協会訳

 

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い〔原文のママ〕、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。 

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

 

注:本稿で検討する「十二の徳目」が列挙されているという第3文に相当する部分をボールド体にしてある。

 

 

 

○ 参議院本会議 教育勅語等の失効確認に関する決議 昭和23年〔1948年〕6月19日44   http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html

 

 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。 

 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。 

 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。 

 右決議する。

 

 

 

 


(Aug., MMXIX)