慰霊塔のあるR2の西側、奥はR4。かつてR2とR4の間にR3があり、その手前に河川区域境界線が引かれていた。
2015年9月10日には2m以上冠水した。(2015年12月撮影。紅白鉄塔は対岸のもの)
23, June, 2019
前ページでは、次のように問題を設定し、一応(2)まで検討しました。
(1)まず「河川区域」がどのように設定されていたかを確認し、
(2)ついで、「河川区域」の外でどのように地形の改変がおこなわれたかをたどり、
(3)それによって、「河川区域」の設定が失当であったことをあきらかにしたうえで、
(4)それでは、どのように「河川区域」を設定すべきであったか、検討する、
このページでは(3)を扱います。なお、結論としては(1)で確認した若宮戸河畔砂丘における「河川区域」が失当であったことを立証するのですが、そのなかで、別の問題である「河川区域」内での掘削の実態について触れることになります。ですから、1966(昭和41)年時点での「河川区域」設定そのものがすでに根拠のないものであったことを示すだけでなく、いったん設定された「河川区域」の趣旨目的を完全にないがしろにして、「河川区域」の内側での掘削を放置してきたという、まことに呆れ果てた国土交通省河川行政の本態も摘示することになります。
じつは(4)まで終わらせるつもりでしたが、そのためには、そもそも「河川区域」とは何かをもうすこし検討すべきであると思い至りました。この問題は、次ページで「河川区域」の制度的変遷について多少検討したうえで考えることにします。
前ページで河川区域境界線を告示した図面をみましたが、まさのあつこの YahooNews 記事からスクリーンショットしたもので、25kから26kまでの不鮮明なものでした。このページではそれより鮮明な写真を詳しくみることにします。
告示の地図にこだわるのは、3年前に見た時の記憶と、その後見たすべての図とに違いがあったからです。画面中心右上、山折りのすぐ脇で、境界線がポコッと河道側に小さく膨らんでいます。ところが、その後見たあらゆる国交省文書ではこのポコッがありません。どうでも良いような些細なことではあるのですが、そのウチとソトとではあれほど決定的な差異があると豪語しているのに、これだけでなく、若宮戸の河川区域境界線が図面によってどれもこれも微妙にずれているのはなぜなのでしょうか。図面上ではちょっとでも現場では数メートルの違いになります。しかも、このズレを、(「鹿沼のダム」以外は)誰も気にも留めないとはどういうことでしょう。
それに前ページで、国交省はデタラメに線引きしたとは言ったものの、デタラメはデタラメなりにそうなる原因・理由があるに違いないのですから、そのデタラメの由って来るところを指摘しなければならないとも思うのです。そのことを考える上で、この「ポコッ」に注目するのはあながち的外れでもないのです。
右は、同じ範囲を「地理院地図」の「治水地形分類図(更新版)」で、向きを合わせて表示したものです。
地図が横倒しになっていますが、半円マークが「河畔砂丘」です。なお、里程表示(利根川との合流地点からの河道中心線の長さ)が一般的でなく、24.25kを24.2kと、24.75kを24.8kというように表記していますのでご注意ください。
ちなみに、「B社」による掘削は25.35kの前後200mです。下流側の深さ6mの押堀ができた若宮戸第2の氾濫点(別ページで詳述)は、国交省が不正確に24.75kと言っていますが、ただしくは24.63k付近です。
告示の地図の中心部を拡大してみます(クリックして、虫眼鏡ツールでさらに拡大表示します)。細部が見えない状態では、何の意味もない粗略な図のようにしか見えませんが、50年以上経ってだいぶ褪色して淡い段彩らしきもの(あったのかどうかもよくわからないのですが)がほとんど消えてしまったとはいえ、それでもいろいろな情報を読み取ることができます。
この朱線の「河川区域」境界線が、なにゆえここに引かれたのかを、前ページでみた地形図や航空写真をもういちどよく眺めて探ることにします。つまり、地形との関連があるのかないのか、あるとすればどのような地形と関連するのかを見出したいのです。
そうすると、国土地理院の地形図はあまり役に立ちません。5万分の1地形図では地形描写があまりにも大雑把なのです。前ページでもそうでしたが、重ね合わせをすると何から何まで合わないのです。
航空写真はどうかというと、そこが森林であるか、それとも伐採されて裸地になっているか、あるいは耕地か草地になっているか、などの区別はつきますが、伐採前の森林の状態では地面の起伏、つまりそこが〝畝〟 ridge であるか、それとも〝畝〟の間の「谷」であるかは、ほとんど識別不可能なのです。たとえば現在の樹木に覆われたR1の残丘を例にとると、それと平坦地の樹木とは、衛星写真はもちろん下手をすると間近で撮影した地上写真ですら簡単には区別がつかないのです。何枚かの写真を慎重に見較べるか、端的には現地で確かめないと判断できません。R1でさえそうですから、それより比高の小さなR2、R3、R4が樹高10m以上の密集した樹林に覆われていると、各リッジ(ridge 〝畝〟)とリッジ間の「谷」との区別はつきません。
リッジと谷の配列具合がもっともよくわかるのは、たいへん意外なことですが、1880年代に作成された「迅速測図(じんそくそくず)」です。標高値は1箇所しか入っていませんが、砂丘の〝畝〟 ridge がかなり詳細に描き込まれています。河道付近がその後おおきく変化していますが、変化していない道路を目印に、もともとの〝畝〟の状態をかなり詳細に特定できます。
もうひとつが、市道東0272号線以南のR3については、森林が伐採されたが、まだ掘削前の〝畝〟が写っている1968(昭和43)年の航空写真です。R1の場合や、2014年の「B社」によるR2の200m区間のように、たいていは森林の伐採と砂丘の〝畝〟の掘削は連続しますから、伐採後で掘削前の剥き出しの〝畝〟の状態がうまい具合に写真撮影されることはほとんどないのです。市道東0272号線以南のR3では、理由は不明ですがこの間隔が長かったようです。
下に、左列を迅速測図、右列を1968年航空写真とし、上から順に、①単独、②R2図との重ね合わせ、③告示された河川区域境界線との重ね合わせ、④R2図と境界線の重ね合わせ、を配列します(スマートフォンの小画面では、まず左列、つぎに右列となります)。いずれもクリックすると単独で表示され、さらに虫眼鏡ツールで拡大表示します(元データのURLは、前ページに示してあります)。なお、ここまでは告示の図面の向きにあわせましたが、以後は北を画面上にします。
R3を示す青線は、迅速測図から読み取ったものですから、迅速測図と一致するのはあたりまえですが、それが1968年航空写真とかなり一致します。つまり、この時点この区間のR3は、森林を剥ぎ取られた状態で、砂丘としてはおおむね元の状態だったということになります。
とはいうものの、大雑把には一致するのですが、1968年写真の②を見ると、迅速測図から写し取ったR3の形状とは少々異なります。
画面左上、Y字路の左側の道が横切る砂丘はかなり河道側に膨らんでいます。
画面下方、堤防の60度屈曲部と河道のあいだ、砂丘は迅速測図から読み取った青線に対し角度がついて、斜めに走っています。それが、市道東0280号線をはさんだ北側にも同じ角度で続いています。
明治以後の人為的改変なのか、もともと写真のとおりの形状なのかはわかりません。
そうしてみると、そこから画面中央左、森林が残っているところにかけて、砂丘がその角度で延びているのかもしれません。
今の話とは別の件ですが、画面中段右の白い部分では、市道東0280号線からの出入り口をつくったうえで採砂の真っ最中です。迅速測図を見ると、ここに①小さな〝畝〟があったのです。掘削後、均されて稲田になります。②9月10日にはカサンドラクロスの巨大な押堀から吹き上げられた砂がここに堆積します。水害後ただちに③盛り土に土嚢3段積みのハイブリッド式仮設堤防がつくられ、ついで④築堤のための砂と粘土などのブレンド作業場になります(写真は2018年12月。紅白鉄塔は対岸のもので送電線の下、新設された堤防あたりがカサンドラクロス。右奥が慰霊塔のあるR2。その手前がブレンドされた土砂)。
この地点に4回、砂が堆積したのです。1回目は風成、2回目は水成、あとの2回は人為。
航空写真で〝畝〟が見えるのは、天井の木目や雨染み、あるいは壁紙やカーテンの模様が、人の顔などの形に見える子どもみたいだと嗤われそうです。さらに別の資料との比較も必要でしょうが、〝畝〟は、おそらく森林のなかで(南からたどると)右に振れたあとすぐさま左に振れ、そこからさきほどのY字路の方に延びてたのでしょう。
境界線はその曲折にあわせて引かれていたように思われます。
すなわち、市道東0280号線以北の河川区域境界線は、R3の麓(川裏側=堤防でいえば堤内側法尻〔のりじり〕)に引かれたのです。迅速測図ではR3と境界線が絡み合っているのですが、1968年の航空写真からの推定で、よりすっきりするのです。
すっきりすればそれでいいというものでもないでしょうが、このおかしなポコッを説明できる他の理由がみつかるまではこの推測を採用してもさしつかえないでしょう。
なお、1968年の航空写真でR3の正確な形状・位置がわかるのであれば、それに合わせてリッジの概要図を訂正すべきかもしれません。しかしながら、全体としてきわめて正確であった迅速測図と航空写真との食い違いであることを考えると、もしかしてその80年以上のあいだに人為的な改変がおこなわれた、という可能性も否定できません。その経緯を示す資料でもあれば、いつの段階で改変があったかを見極めて、ある時期から概要図を入れ替えることもできるでしょうが、今のところは迅速測図準拠の概要図を、各時期の地図や航空写真に重ね合わせることにします。
以上のとおり、1965(昭和40)年の新河川法施行による国(建設省)の鬼怒川直轄管理開始時点での河川区域境界線は、市道東0280号線、ならびに市道東0280号線以北ではR3の東側のふもとに引かれたのです。問題は、それが「河川区域」の指定という点で妥当だったか否か、です。それを考えるために、もういちど告示の図面にもどり、この地点の地形をできるかぎり読みとってみます。
いくつか目立つ箇所にマーキングしたほか、標高の数値(Y.P. 値。地形図などのT.P. 値より 0.84m大きな値になります)の主なものに吹き出しで数値を摘記しました。左上に「?」としたところは「29.8」とありますが、「19.8」の誤記でしょう。
黄線は市道東0280号線、赤線は市道東0272号線で、茶破線丸は大型の慰霊塔建立以前につくられたらしい、小型の慰霊塔です(右写真の手前/2015年12月)。青丸はさきほどR3の曲折があったと推測した地点です。注目点をいくつか挙げます。
❶ 白丸をつけたところには、桑畑のマークがあります。ここは森林伐採のうえ耕地化されていたわけです。ほかの植生はすべて針葉樹のマークです。今もとくに慰霊塔周囲に残っている松の自然林でしょう。
❷ 左上、橙楕円をつけたのは「砂採取場」です。この時期までは、高水敷が採砂の場だったようです。掘削しすぎて高水敷が低水敷になってしまったようです(次ページ参照)。高水敷の砂をとりつくしてしまったあと、1960年代後半に河畔砂丘のリッジとりわけR1の掘削が始まることになります。
❸ 左下の緑字は堤防の天端の標高ですが、下流側の23.5mは、2003年測量の23.155m、あるいは2011(平成23)年測量の23.580mとほぼ一致します。
❹ その屈曲部から画面右上にかけての赤数字を結んだ線がR2です。23m前後の高さがありますが、下流側の堤防への取り付き部分では急激に低くなっています。「山付き」の状態にはなっていません。堤防が堤防天端より高い山にドン付きすれば「山付き堤」なのですが、そうではありません。そのほか、(この図ではわかりませんが)黄線の市道東0280号線や赤線の市道東0272号線も切り通しになっていて、洪水を押しとどめるのは不可能です。そのうえ、2014年にこの25.35k地点の前後200m区間を、「B社」が19.7m程度まで掘削することになります。
❺ この時点ではまだ掘削されていないR1はまったく無視されています。経緯から見て無視ではなく隠蔽です。紙からはみ出すわけでもないのに描かないのですから、明らかな作為です。国土交通省は、若宮戸河畔砂丘の最高峰であるR1については、掘削以前からすでに黙殺していたわけで、このあと採砂のための完全な掘削を黙認した姿勢は、すでにあらかじめ告示の図の描き方に、かくもはっきり現れているのです。
やっと本題です。こうして引かれた河川区域境界線は妥当だったか否かについての検討にはいります。(下流側から上流側へ遡っていえば)堤防が24.63kでR1に山付きになって終わるその地点から、若宮戸河畔砂丘の上流端の26kまでの区間において、河川区域境界線を市道東0280号線の路肩とR3の川裏側の麓に引いたことは妥当か、についての検討です。
まず、R3の川裏側の麓に引いたことの当否です。これについては、これまでしばしば参照してきたサンコーコンサルタントや建設技術研究所の文書の詳細な地形図は、いずれもR3掘削後のものなので残念ながら利用できませんから、この大臣告示の図面から推測するほかありません。あらためて確認するとこの図面では、〝畝〟(リッジ)は明記されていないのです。そこで、本末転倒ではありますが、R3の川裏側の基底部に境界線が引かれた事実から、逆にR3の位置を推定することにします。循環論法すれすれですが、ほかの航空写真とも照合した上でのことですから、蓋然性は高いのです。
青数字のR3の標高が、21.3m、22.8m、22.96m、20.3mと並んでいます。河道側とR2側はいずれも19m少々ですから、R3は高いところでは比高3m以上、低くても比高1m程度はあるわけです。国交省はこの相対値をもって河川区域境界線とする理由としたのでしょうが、私たちとしてはこの相対値をもっていきなり判断するわけにはいきません。たんに比高の有無やその大小だけで決定することはできません。肯定はもちろん否定するにしても唯一の決定要因にはなりません。
さりとて、「河川区域」設定の際の原則なるものがあるわけもないのです。そんなものがあれば、検討の余地はなく即座に当否を判断できるわけです。とりわけ、ここでよくやるように河川法第6条や河川法施行令第1条の条文解釈による単純な演繹的立証をしてみせたところで、決め手にはなりません。自然地理上の事実や河川工学の方針を無視した法律論・条文解釈で決着がつくはずはありません。(この点は、若宮戸の河畔砂丘14 で、旧河川法における「河川区域」と現行河川法における「河川区域」の決定的なちがいを確認した上で、若宮戸の河畔砂丘16で論じます。)
そこに接続する(接続し損なっている場合もある)堤防の天端高、さらには計画高水位、計画築堤高、そして氾濫時の最高水位などと比較して、検討することにします。
もちろん、水位だけが問題なのではなく、流速、水位上昇・下降のパターン、とくに水位上昇の総時間、さらにその場所の土質や地盤の状況、さらには植生など地表面の状況や工作物の設置状況などなど、考慮すべき事項は極めて多岐にわたります。
それをいうと、無堤地区どころか堤防のある区間についてもそれらの要素を全部考慮しなければならないのです。いくら「河川区域」境界線の引きかたは決まっている(両岸堤防の川裏側法尻)とはいっても、その前提となる堤防の有効性・安全性について一切考えないで、たんに堤防の有無だけみて、堤防がありさえすればその川裏側法尻に線を引っ張ればいいというものではないのです。堤防について天端高だけしか考慮しないなどありえないわけで、天端幅、法面の傾斜・段附、土質、洗掘防止手段の有無と内容、平面的形状、地盤の状況、流速・流量とその時間的変化、さらには高水敷や低水敷の状況などが、要考慮事項です。
そんなことにはおかまいなしに、(ホントは自分で決めたくせに、まるで自然法則でもあるかのように言いふらし)引きかたは決まっているんだからと何も考えない線を引いてしまい、それでいいと思っている現行の河川法運用実態には問題があるわけです。その単純素朴ぶりは普段は全然注目もされないのですが、それどころか、いざ破堤して大問題になってもたいていは天端高と水位の抽象的関係だけ見て原因を論じたつもりになっているのです。三坂(みさか)の破堤原因について検討した堤防調査委員会も最初はそうだったのですが、近くで浸透痕跡を見つけて即座に公表するという晴天の霹靂的横槍が入り、そういう要因もある可能性も否定できないかもしれない、とモゴモゴ言いながらも軌道修正したのですが、そのことに新聞テレビはもちろんのこと、反国策派専門家も気づかないという状態なのです(別項目参照)。
そういう単純素朴ぶりでは、堤防のない区間については途端に論拠がなくなるわけで、どこに線をひくべきか、あるいは引かれた線が妥当だったのか失当だったのかを判断しようにも、手も足もでないことになります。堤防の時には抽象的に水位にだけ拘ったのだから、せめても無堤地区についても水位を追跡すればいいのに、その最低限のこともしないのです。話が一巡して、これから立証しようとすることを先に言ってしまうことになりますが、この1966(昭和41)年の大臣告示を出すにあたって、水位のことすら考えずに線を引いてしまったあげく、その後もたびたびあわやの氾濫があり、あげくに民間企業の技術者から3箇所危ないですよと教えてもらっていたのに、それらを全部無視して再検討もしないわけです。
そこへソーラービジネスによる利得以外にはまったく無頓着な「B社」の社長が25.35k付近200m区間を突然掘削し始めた時も、巡視ルートから外していたので気づきもせず、近くに住んでいる住人からの通報にもまったく動ぜず、絶対大丈夫だと言い張り(鎌庭〔かまにわ〕出張所長)、しぶしぶ土嚢の「品の字」積みでごまかそうとした(下館〔しもだて〕河川事務所長他)わけです。それが1年あまりで住民の言ったとおりになり、ふつうならお詫びして責任をとって辞任のうえ組織改廃すべきところ、開き直って土嚢の一番高いところは元の砂丘の畝の一番低いところにあわせたなどと、小学生でも納得しないデタラメを並べていまだにその非を認めないのです。この的外れの議論に、受験科目でないので科目「地理」をまじめに勉強しなかったのか中学生が習う「自然堤防」も知らない新聞テレビの記者や治水問題の専門家と称するひとたちが、いつまでも迂闊に引きずり回されることになるのです。「品の字」土嚢の天端?の水位にこだわってみせる一方で、隠蔽工作が奏功して事実がほとんど知られていない24.75k(ただしくは24.63k)の氾濫については、比較的単純に水位の観点からだけで十分にその機序を説明できるのに、いつもの国交省の主張の文法的否定形で反論する定型パターンが使えないため、立論のしようもなく沈黙を余儀なくされているのです。
議論をもどして「河川区域」境界線を決めるにあたって、水位だけで論じて良いかどうかです。もちろんダメですが、水位がまず最初に注目すべき要因であることは否定できません。水位の観点からみて失当となれば、「その余のことについては判断するまでもなく」(全部の論点を考えるのが面倒なもので、入り口の議論だけで済ましてさっさと棄却判決を書きたい時の判事の言い訳を援用)失当だと言ってよいでしょう。水位は合格となった時は、当然「その余のこと」についても考える必要が生ずるわけです。
もう結論を言ってしまいましたが、議論をもどし、とりあえず水位の観点からR3の川裏側に線を引いたことの当否について検討します。視界から消えてしまいましたので、告示の図に吹き出しをつけた図を再掲します。
青数字のR3の標高の、21.3m、22.8m、22.96m、20.3mは、下流側の堤防の60度屈曲部24.5k付近の天端高23.5mと比べると、もっとも高いところでもこれに及ばず、全体としてはるかに低いのです。R2でさえ足りなかったのですが、R3は標高の高い部分がすくないうえ、R2より低いのです。これを2011(平成23)年測量結果にもとづいて設定された計画高水位(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinu-1-3.pdf)である22.170m(24.75k)や2015年水害時の氾濫水位の約22mとくらべると、ごく一部がそれを上回るのみで、全体として全然足りないのです。
以上の通りですから、R3はそのまま残っていたとしても、氾濫水を押しとどめる効果はすこしは発揮するかもしれませんが、決定的なものではありえないでしょう。
ついで、市道東0280号線の路肩に河川区域境界線を引いたことは妥当かどうかです。1966年以後の各リッジがひどく掘削される以前の地形図ということで、ちょっと古いのですが、前ページで時代順にみたうちの(は)1928-45年の国土地理院の五万分の一地形図(埼玉大学教育学部・谷謙二教授の「今昔マップ」で表示したものです。http://ktgis.net/kjmapw/index.html )に、マーキングしたものです。
橙線がR3、黄色破線が市道東0280号線です。なお、60度屈曲してR1にドン付きする堤防はまだありません。
どうしてこの地形図を出してきたかというと、1966年に告示した河川区域を決定する際に、必ず見ていた地形図だからです。いささか粗略ですがR3は北側ではR2やR1などと一体になる高まりへと続くのですが、南側では小さくなって最終的には途切れています。1966年時点ではさらに縮小していたかもしれませんが、いずれにしても、R2とR3の間の谷は閉じずに、開いているのです。
増水すればここから氾濫水が水色矢印のとおり、侵入してくることが、容易に推測できます。
この地形図を見ていないなどということは、絶対にありえません。かりに見ていなかったとしても、この程度のことは、なにも本格的な測量などせずとも現地で容易に看取できることです。1970年代以降のように、森林がほとんど伐採されてしまって視界がひらけてはいませんが、破線の市道東0283号線が通っていますから、歩けばそんなことは一目瞭然です。
この市道東0280号線の路肩に河川区域境界線が通っているのは、堤防がR1に山付きした終端から河道に向けて垂直に線を引こうとしたところ、そこにたまたま市道東0280号線が通っていたからというだけのことでしょう。堤防の堤内側(川裏側)法尻に河川区域境界線を引くのは、その堤防が氾濫水を(無限にではありませんが、一定程度まで)おしとどめるからですが、この線が引かれた地形にはそのような効果はまったく期待できないのです。河川区域境界線としては、無意味で実効のない不適当なものというほかありません。
2015年9月10日には、実際にそのとおりになったのです(若宮戸の河畔砂丘4参照)。この付近の計画高水位は、24.75kで22.170m、24.50kで22.080mでしたが、R2とR3の間の市道東0273号線との交差点付近に、「19.0m」地点があります。この付近では河道から垂直方向に氾濫水が入るのをR4がある程度は防いだものの、水位が上昇すると下流の23k付近から河畔砂丘部への流入がはじまり、そこから河畔砂丘内部を上流方向へ氾濫水が「遡上」してきたのです。2015年9月の水害時には、25.25kで22.0mという公式発表から考えてこの付近では21.8m程度の水位に達しています。市道東0280号線は19.0mしかありませんから、かなり早い時刻から氾濫水が越えていくことになるのです。 それも、R2とR3の谷の部分へだけでなく、この告示には等高線が描かれていませんが、R2を横断するあたりの市道東0280号線(最高地点標高は19.73mと思われる)からR2の東側(図の下方)へと流入し、ここに深さ6mの巨大な押堀(おっぽり、「落堀〔おちぼり〕」は誤称)をつくったうえで、河川区域外の農地や住宅地へ流出したのです。
なお、2015年9月の洪水の際にはこの付近では、わずかですが計画高水位には達していません。国交省と国策派治水利水学者らが、口をそろえて線状降雨帯による観測史上最高の雨量の話から始め、鬼怒川水海道(みつかいどう)水位観測所(左岸 10.95k )で計画高水位を超える既往最高の水位を記録したと、そればかり繰り返すもので、若宮戸でもなんとなく計画高水位を超えたかのように勘違いさせられてしまっているのですが、とんでもありません。雨量は想定外だったかも知れませんが水量や水位まで「想定外」だったわけではなく、それどころか直近の鎌庭水位観測所(左岸 27.34k )でもこの若宮戸河畔砂丘付近でも、築堤などの計画をたてるうえでの基準水位である「計画高水位」に達していないのです。
以上の通り、市道東0280号線が通っている地形ならびにそこに至る地形は、氾濫を防ぎうるものではありません。
〔iii〕〔iv〕の結論
堤防が24.63kでR1に山付きになって終わるその地点から、若宮戸河畔砂丘の上流端の26kまでの区間において、河川区域境界線を市道東0280号線の路肩とR3の川裏側の麓に引いたことは、水位の観点からみただけでも、あきらかに失当であったと結論づけることができます。「その余のことについては判断するまでもない」でしょう。
この河川区域の告示に等高線が描かれていないというのは、まことに象徴的なことです。ポツポツと標高を入れる半端なことをするくらいなら等高線をきちんと描くべきなのです。それを描かないというのは、流域全体でそんな面倒なことはやってられないという、ただの面倒くさがりなのではありません。そんな余計なことをしたら、土地の標高なんか無視して、ということはやってくるであろう氾濫水の水位なんか無視して、とにかく出来るだけ河川区域面積が減るように線を引っ張ってしまおうという、当時の建設省の、国土と国民に対する裏切りというほかない行政原則が、白日のもとに曝されるからなのです。
なお、2014年3月28日に、「B社」によるR2の掘削がはじまってまもなく氾濫の危険性を察知した住民が下館河川事務所鎌庭出張所(常総市新石下、写真)を訪問し、即座の対応を要請した際、出張所長はつぎのように言ったのです。
河川区域がどういうふうに決められているかというと、ハイウォーターいわゆる水が上がった時、これはいまこの線は洪水で1秒間に4千㌧水が流れるというときに、どういう水位になるかというのを計算して、それをこうやって結んでいったものなんですよ。つまりハイウォーターになってもここまでしか水がきませんと。
「ハイウォーター」とは、「計画高水位」のことです。所長は若宮戸河畔砂丘の河川区域境界線が「計画高水位」にあわせて設定されたと、あきらかな虚偽の説明をしたのです。
さらに、住民から「川の向こう側〔の方〕が土手〔堤防〕が高いみたいだ」と指摘されたのに対して、次のように答えたのです。
堤防の規格はハイウォータープラス1.5mプラス余裕高というので堤防って設計するんです。堤防が必要なところについては。ところがこちら〔左岸の若宮戸河畔砂丘のこと〕については地盤が高いということで、いまのところ堤防をここで設計するということが事業として優先されてないんですよ。
これは、承諾のうえ録取したものを逐語的に書き起こしたものなので、正確な記録ですし、そもそも常総市役所の道路課長も同席しての要請ということで、下調べをしたうえでの回答ですから、言い間違いとか勘違い、とっさに出た根拠のない嘘の言い訳というようなものではありません。「計画高水位」にあわせて「河川区域」境界線を設定したというのもウソでしたが、「こちらについては地盤が高い」というのも大ウソなのです。対岸は「余裕高」1.5m分だけ高いと言っているようでもありますが、両岸のそのようなアンバランスは許されません。
鎌庭出張所は、日常的な河川巡回により、堤防の不具合や河川区域内での不法行為などの発見をおこなうのが主たる業務であり、鬼怒川の堤防の新設や嵩上げなどの企画立案をする部署ではありません。一般的な築堤方針とりわけ「計画高水位」とか「河川区域」設定の意味や具体的状況について、ひごろから熟知しているわけではないのですから、このような事項について説明するとなれば、下館河川事務所の管理職員同席のもとで専門職の職員から説明をうけて準備したにちがいないのです。担当しているはずのない築堤計画について具体的に述べたのはその証拠です。たんに、出先機関の末端の管理職が具体的知識をもたないという、よくある話のように聴き流すことはできない、重大な発言なのです。この発言は、下館河川事務所の公式の説明とうけとるべきものです。
この住民はただの素人ではありません。自宅から毎日状況を観察したうえでの指摘です。斜め上方から見ているのではなく、数百メートル先のものを水平に見たり撮影したりすれば、対岸堤防と掘削されつつある砂丘の標高差については、正確に判断できるのです(「鹿沼のダム」にこの逆井正夫さんが撮影した写真が一部公開されています。拡大すると対岸の堤防が見えます。naturalright.org も近々ページを作成する予定です)。鎌庭出張所長は、どうせ現地も見ないで下館のオフィスで打ち合わせをしただけなのでしょうが、ふつうならこの指摘を受ければ、青くなっていっしょに現地に飛んでいって(出張所には専任の運転手もいるのです)、なるほどそのとおりであることを確認するところでしょう。新石下から若宮戸まではゆっくり行っても15分もかかりません。国土交通省というお役所は、「河川区域」の意味もわかっていない者らが管理職員として鎮座しているだけでなく、その程度の感受性ももたずに国民の生命財産 property をあずかる重大任務を、日々漫然と遂行しているところのようです。
寿限無寿限無・国土交通省関東地方整備局下館河川事務所鎌庭出張所
最後に、R3の掘削について補足しておきます。
前ページで時期を追って地図や航空写真でみたとおり、現在、若宮戸河畔砂丘の中心部分(おおむね24.5kから25.75k )は大部分破壊されてしまっています。最高峰のR1は3つの残丘だけを除いてほぼ全滅、R2は比較的残存していますが、24.63k付近は早い時期に、25.35kは水害直前に大きく掘削され、ここが2015年9月10日の2大氾濫経路になっています。R3も1968(昭和43)年〔前ページの写真(と)〕にはまだあったのですが、1972(昭和47)年〔同じく(ち)〕にはほとんど掘削されてしまいました。(R4については未検討)
R3は、2015年9月10日時点で一部残っていた部分があったほか、わずかながら痕跡 trace があったのです。次は、GoogleEarthProで表示される、水害直後、9月20日ころの画像です。( Sidebar〔寄州ではなく、画面左に出るオプション一覧。寄州みたいなものですが〕の Layers > 3D buildings と一番下の Terrain にチェックを入れると表示されます。 GoogleMaps でも表示されます。ただしいずれも Windows、MacOS などパーソナルコンピュータだけです(以前は有料でしたが今は無料になった GoogleEarthProのインストール方法については別ページ参照)。タブレットやスマートフォンでは表示できません。)
画面中央の長方形、稲葉燃料の先代当主が造営した慰霊塔西のおなじく稲葉燃料の「運動場」付近は、おおむねY.P.=22.0mが9月10日の氾濫の最高水位だったようですから、4m程度冠水しています。白矢印は、おそらく増水時の最初の流入痕跡でしょう。右上のソーラーパネル地点同様、砂の色です。
黄楕円部分はほんのすこし、標高が高いようです。この1か月あとに地上を歩いた時にはすでに草が生えていたこともあり、気がつきませんでした。せいぜい10cmとか20cmくらいのわずかな凹凸のようです(このページの冒頭の写真は12月です。なんとなく凸凹しているような、いないような……)。あるいは土質の違いなのかもしれません。形状から見てR3の痕跡でしょう。最初の流入はこの部分をよけたようにも見えます。
(写真a)
さらにその北、道路を斜めに横断した先の橙楕円は、R3の残丘です。(さきほどの告示の地図の青楕円です。)黄緑線の市道東0272号線が横断している部分を東側から見た写真です。(2015年10月)
道路の左側はかなり盛り上がっています。これがR3です。道路が切り通しになり、さらにそれより北側、小林牧場の鶏舎のわきから「A社」のソーラー発電所になるあたりは、写っていませんが、完全に掘削され平らになっています。
写真のとおり、道の両側に青白縞のコーンがおいてあります。この写真を撮った時には何のことかわかりませんでしたが、「河川区域」の境界線を示すために水害後においたのです。R3の川裏側の麓のラインです。
ほかに2箇所、写真bと写真c のとおり、同じ青白縞コーンがありました。一見、立ち入り禁止バーを渡すためのもののようですが、いずれも「河川区域」境界線においた目印だったのです。脇道にそれますが、この青白縞の結界コーンの写真を2枚示します。
(写真b )
24.63kで途切れる堤防がR1にドンと山付きした地点。左が堤防、右がR1の南の残丘、このピークに登ってきた市道東0280号線をたどって向こう側へ降りていくと、右にハイブリッド構造の土嚢の仮堤防があり、降り切ったところで24.63kのカサンドラクロスに至ります(若宮戸の河畔砂丘2参照)。ここで終わる堤防の堤内側(川裏側)法尻(のりじり)の線である河川区域境界線が、市道東0280号線の右路肩へと330度屈曲するところです。天端は市道東0282号線なのですが、その堤防が載っている地面は「官有地」なのだから立ち入るべからず、というつもりのようです。(2015年11月)
(写真c )
この堤防を下流の石下(いしげ)橋方向へ560m下ったところです。奥は紅白鉄塔、左の樹林がR2です。(2015年10月)
河川区域境界線は堤防の堤内側法尻、つまり写真右方下に堤防にそって引かれているのであり、ここで堤防を横切っているわけではありませんが、立ち入り禁止のバーを渡す台としても使われています。
写真b と写真c の間の堤防天端は、市道東0282号線を兼ねています(GoogleEarth の距離ツールによる黄線)。
R2は、堤防の60度屈曲部の山付きもどきを経て、カサンドラクロス、慰霊塔、さらに「B社」が掘削して大氾濫を引き起こした地点に水害後に置かれた土嚢3段積みの仮堤防、その北の残丘へと続きます。
前ページとこのページは、「河川区域」の範囲の問題を検討してきました。すなわち、若宮戸河畔砂丘における「河川区域」はどこであり、それがどのような根拠で設定されたか、そしてその根拠は正しかったのかどうか、です。それについては、結論が出たのですが、いわばそのついでに、「河川区域」の中で、「河川区域」の外とまったく同様に、若宮戸河畔砂丘の掘削破壊がすすめられていたことが、具体的にあかるみに出ました。
2014年以降、今日にいたるまで、国土交通省は、「河川区域外の民有地」だったから、「B社」によるR2の掘削を拱手傍観せざるをえなかった、と言っています。「河川区域」内だったら、砂丘の掘削はさせなかった、という意味でしょう。しかし、そんなのは真っ赤な嘘でした。国交省は、若宮戸河畔砂丘においては、「河川区域」内での〝畝〟 ridge の掘削を自由にさせていたのです。
このことの意味は非常に重大です。鬼怒川水害の氾濫水量のおよそ半分は、若宮戸での半世紀にわたる国土交通省の行政行為が原因となっているのです。国土交通省は、他の場所でも同じことをしています。鬼怒川の三坂(左岸 21k の破堤点)付近でも、若宮戸同様、河川区域内での放埓な採砂により広大な高水敷がほとんど消滅し、それからほどなくして堤防が崩壊し、鬼怒川水害の氾濫水量ののこり半分がそこから流出しました。
国土交通省は、今後も他の場所で同じことをするに違いありません。