日本国憲法前文と自民党改憲草案前文

 自民党は、2012〔平成24〕年4月28日、「日本国憲法改正草案」を発表した。この「改正草案」は、日本国憲法の前文を全部破棄して新たな前文をつくり、第1章「天皇」、第2章「戦争の放棄」を根本的に変更するほか、第3章「国民の権利及び義務」について重大な変更を加えることとしている。

 まず、日本国憲法の前文を、ついで「草案」の前文を分析する。(ページ末尾にそれぞれの前文を提示。日本国憲法とその英訳は、http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?ft=1&re=01&dn=1&x=0&y=0&co=01&ia=03&ky=日本国憲法&page=11。「草案」を含む『日本国憲法改正草案Q&A』は、https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf ただし、このリンクはその後「増補版」に入れ替えてあるので、文章作成時〔2013年10月〕の版はこのページの下のボタンからダウンロードされたい。)


○日本国憲法・前文


日本国民による憲法樹立


 ひとことでいうと、日本国憲法の前文において、「日本国民」は新しい憲法を樹立した。その際「日本国民」は、「この憲法」が立脚する「人類普遍の原理」、「政治道徳の法則」、「崇高な理想と目的」について述べた。

 段落を追って具体的にみてゆく。第1段落第1文(I-1)では、主語「日本国民 we, the Japanese people」は、「決意し」、「宣言し」、そして最後に「この憲法を確定するdo firmly establish this Constitution」 と、3つの述語をとる。

 第2文(I-2)の主語は「日本国民」ではなく「国政government」であるが、この文全体は、「人類普遍の原理」に関する「日本国民」の判断内容であって、後の第3文(I-3)の「かかる原理」であり、第4文(I-4)の「これに反する」の「これ」にあたる。

 第4文(I-4)で、「われら」すなわち「日本国民」は、人類普遍の原理に立脚するこの憲法に反する一切の憲法、法令、詔勅を排除する reject and revoke ことを宣言する。実際に排除の対象となった憲法は大日本帝国憲法(1989〔明治22〕年)である。大日本帝国憲法は形式上は日本国憲法へと「改正」されたことになっているが、実質的には日本国民によって「排除」され破棄されたのである。新憲法典の制定=新国家体制の樹立行為は、同時に旧憲法典の排除=旧国家体制の廃絶行為であった。

 なお、「これに反する憲法」は、英訳では constitutions と複数形になっている。将来、日本国憲法ならびに、それが立脚する崇高な理想と目的としての人類普遍の政治道徳の法則を否定するような、なんらかの「憲法」案が提起された場合には、それも「排除」の対象となる。


公正と信義による平和実現


 第2段落第1文(II-1)で、「日本国民」は、みずからの安全と生存を保持するのに、軍事力に訴えるのではなく、平和を愛する諸国民の公正 justice (=正義)と信義 faith に依拠することを決意 determine する。

 第2文(II-2)で、「われら」すなわち「日本国民」は、たんに戦争のない状態にとどまらず、「専制と隷従、圧迫と偏狭」の排除を、世界の人々とともにめざすと宣言する。第3文(II-3)で、「われら」は、全世界の国民all peoples of the worldの平和的生存権を確認 recognize する。


普遍的法則、崇高な理想と目的


 第3段落(III)で「日本国民」は、普遍的なuniversal 政治道徳の法則 laws of political moralityにしたがって国家の主権を維持する決意を述べる。

 第4段落(IV)で「日本国民」は、崇高な理想と目的 high ideals and purposes の実現のために、すべて all resouces をささげる決意をあきらかにする。



○自民党憲法草案・前文


日本国民ではなく日本国が語る


 日本国憲法においては、一貫して「われら日本国民」が、語っていた。自民党草案はどうか? 草案の前文は、各々1文ずつの5段落から成るが、最初の2段落(I)(II)は、「日本国」「我が国」が主語である。日本国憲法のように「日本国民」が憲法を制定することによって新しい国家を形成する、という文の構造になっていない。草案の前文は、矛盾だらけで空疎な言明が漫然と羅列されていることもさることながら、憲法制定者が遂行する憲法制定行為によって国家が樹立されるという近代憲法の形式・構造をとっていないことがなにより問題である。

 あとの3段落(III)(IV)(V)は、「日本国民」「我々」が主語となるが、「日本国民」はあらたに制定する憲法の基本原則や、それが立脚する原理については、一切語らない。語るに値する原理原則の持ち合わせがないようだ。チープで矛盾した言及がされるだけで、憲法原理について謳い揚げるでもなく、虚ろなハッタリが寒々しく並ぶ。憲法典として国内外の人々の眼に触れるに値する文章とは到底言えない、児戯にもひとしい恥ずかしい作文である。読むに耐えないが一応、中身を見ることにする。


曖昧な「歴史」と「文化」


 第1段落(I)の「長い歴史と固有の文化」の存在した期間と、「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」が存在した期間が、まったく照応しない。「国民統合の象徴である天皇」が存在したのは、日本国憲法が発効した1947(昭和22)年以降であり、それ自体はとても「長い歴史」とはいえない。草案のいう「長い歴史」は、おそらく神武天皇による国家創設(西暦紀元前660年〔皇紀元年〕)以来のことを言っているのであろう(www.mito.ne.jp/~iba-kou/kikanshi/1005.pdf参照)。この「長い歴史」は1947年以降の65年間の41倍もあり、同じセンテンスの中に並べるのは著しくアンバランスである。

 後半の、「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」期間は、前半の「国民統合の象徴である天皇を戴く」65年間には一致するが、「長い歴史と固有の文化」が存続したとされる2672年間には一致しない。「長い歴史」の全期間にわたって「三権分立に基づいて統治され」たと言っているようなもので、論外である。

 いずれにしても、憲法以前にすでにあらかじめ存在する国家について述べているにすぎず、憲法によってそのありかたが変更・決定される国家の今後について述べるものとなっていない。この憲法によって創設されるのではなく、すでにあらかじめ存在する国家について、いまごろあとから叙述するだけであれば、この憲法を制定する必要がない。すでにあらかじめ存在する国家の「長い歴史と固有の文化」について説明し、それが今後もそのまま継続することを、誰ともしらぬ傍観者が漫然と述べているに過ぎない。これは憲法constitutionではない。


他国を無視するエゴイスト国家


 第2段落(II)の「先の大戦」は、第二次世界大戦の一部としての1941年12月以降のアジア太平洋戦争だけを指しているものと思われる。日清戦争(1894–95〔明治27–28〕年)、日露戦争(1904–05〔明治37–38〕年)、満州事変(1931〔昭和6〕年)、日中戦争(1937–45〔昭和12–20〕年)などを全部除外したうえで、「我が国」の「荒廃」だけを話題にし、侵略した先のアジア太平洋地域の国家・社会・国民・民衆に与えた損害については、一切無視している。このように国際感覚ゼロで、「自国のことのみに専念し他国を無視」〔日本国憲法前文(III)〕するエゴイスト国家は、悪い意味で「国際社会において重要な地位を占め」ることになるだろう。

 この「先の大戦」以後のことを述べている場面で、「幾多の大災害」についても言及している。戦後の「大災害」として何を指しているのか曖昧であるが、阪神淡路大震災(1995〔平成7〕年)や東日本大震災(2011〔平成23〕年)だろうか。しかし東日本大震災については、「乗り越えて発展した」とは言い難い。とりわけ、福島第一原子力発電所事故については解決の見通しすら立たないなかでのこの記述は、きわめて無責任である。

 後半で「平和主義の下、世界の平和と繁栄に貢献する」と決意を表明するのだが、主語は「我が国」であり、憲法制定者としての日本国民ではない。日本国憲法前文第三段落は、憲法制定者である日本国民の決意・信条の表明であって、憲法の記述としてまことに相応しいものであるのとは、極めて対照的である。

 

人権尊重を命令される日本国民


 第3段落(III)で、やっと「日本国民」が登場するが、残念ながら何を言っているのかわからない支離滅裂な文の主語としてである。

 「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」とは、具体的にどういうことなのか? これ以上の放射能汚染から「国と郷土」を守るとしたら、すべての原発の即時廃止が必要だろう。また、あえて「自ら」と言う理由は何か? アメリカ合州国軍隊に頼るのをやめて日米安全保障条約を破棄し、今後は「自ら守る」ことにするのであろうか? いずれにせよ、自民党の原発推進、対米追随の党是とは矛盾する。

 なにより、「日本国民」が「基本的人権を尊重」する決意を述べるのは異様である。日本国憲法においては、日本国民はこの憲法が基本的人権を保障する gurantee よう定めたのだが、草案における「日本国民」は、自分で自分の基本的人権を「尊重」しなければならないと、憲法に命令されるていたらくである。救い難い状況である。

 そして、とうとう「和を尊び」である。自民党憲法草案は、「和を以て貴しと為し、忤ふる〔上に逆らう〕こと無きを宗とせよ」と命令する聖徳太子の「十七条の憲法」(604年)と同旨のものなのだ。草案は現代の立憲主義的憲法でないことは明らかである。

 「日本国民は……家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という一見意味不明の文言も、その観点から挿入されたとみることができる。しかし、現代国家は「互いに助け合って」形成するものではない。日本国憲法は押しつけ憲法だとして「人類普遍の原理」を斥けてはみたものの、自民党には代用品の「憲法」がよって立つべき何らの原理・原則の持ち合わせもなく、ついに聖徳太子を呼び寄せた。

 第4段落(IV)では、自由民主党の綱領の精神である「自由」を掲げたのだという(前記『Q&A』、6頁)。だったらついでに「民主」も書き込むべきだった。政党の綱領と憲法前文を同列だと思っている夜郎自大には、恐れ入る。


やっと憲法制定を決意するが…


 第5段落(V)にいたってやっと「日本国民」が憲法制定の決意を述べる。しかし、もはやそれは日本国憲法におけるような立憲主義的国家原理にもとづく憲法制定行為ではない。

 日本国憲法とは、国民となる「われわれ」が、自然権としての基本的人権の実現を目的として近代の国民国家 nation state の機構 constitution を日本国憲法体制 the Constitution of Japan として創設する行為であった。すなわち、憲法制定者である日本国民による、統治体制=憲法体制樹立という行為遂行的命題だった。

 しかし、草案における憲法制定は、新たな国家の創設のためではなく、神武以来の、聖徳太子を経た「我々の国家を末永く子孫に継承するため」のものである。そこでは手段としての国家の創設行為が遂行されるのではなく、目的としての国家の末永い存続のために、手段としての国民が継承行為を遂行させられる場となってしまった。草案の文言が、日本国民ではなく、日本国が語っているかのように聞こえるのはそのためである。⌘


日本国憲法 前文

 

 (I-1)日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言しこの憲法を確定する。(I-2)そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。(I-3)これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。(I-4)われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 (II-1)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(II-2)われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。(II-3)われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

 (III)われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

 (IV)日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

 

 

自民党草案 前文

 

 (I)日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される

 (II)我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する

 (III)日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する

 (IV)我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる

 

 (V)日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する

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