北京の寺院を見て、中国寺院と日本寺院のあまりの違いに驚かされました。似ても似つかないと言っては言い過ぎですが、日本の仏教寺院は中国の寺院とは、あまりにもかけ離れていたのです。日本の寺院の伽藍は四合院形式を取らず、かといってそれにかわる構造原理をもつわけでもありません。いわば日本寺院の伽藍は構造をもたず、断片の集積体であるというべきでしょう。
これは事実の問題であり、優劣の問題ではありません。低次と高次ということでもありません。価値判断とはまったく別に、事実関係をきちんと把握すべきなのです。
鐘楼 - 中国と日本
中国の寺院では、たいてい第一主殿のうしろの四合院の左右には鐘楼と鼓楼が配置されていました。いずれも二層式で、鐘や太鼓は内部に収納されており、外からは見えないようになっていました。日本の仏教寺院では鐘楼はどこの寺にもありますが、中国のように鐘が外から見えないものと、柱と屋根だけで壁がなく鐘がむきだしになっているものとがあります。後者の方が多いでしょう。
北京・戒台寺の鐘楼
二層になっており、一層目は石製、金のある二層目は木造で壁があります。一層目の壁をなくすことは構造上、絶対に不可能です。
(チベット仏教寺院である北海公園の瓊華島内の永安寺の鐘楼の写真もごらんください。)
奈良県平群(へぐり)町・朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の「鐘堂」
(http://www.sigisan.or.jp が公開し、使用を許諾している写真)
二層になっていますが、二層とも木造です。ただし、あきらかに中国の石製(あるいは磚)の一層目の形態を模しています。
奈良・東大寺の鐘楼
日本の寺院で一般的な形態です。一層式で屋根と柱だけです。壁がなく、鐘がむきだしになっています。
鼓楼 - 鑑真の唐招提寺
鼓楼(ころう)はどうでしょうか。
日本の寺院を見て回るときには、建物については金堂や塔、あるいは山門ばかり目がいって、「鼓楼」などというものは、ほとんど気にもしてこなかったのですが、唐招提寺にそれらしい建物がありました。
「平成の大修理」を終えた唐招提寺金堂
境内に掲げられている案内図によると、金堂と講堂の間の中庭の東側に鼓楼、西側に鐘楼があります。右上の写真の中央の小さな建物が鼓楼です(画面右は金堂の背面、左は講堂の正面)。鼓楼は、金堂の次くらいに印象にのこる建物で、ガイドブックなどでも必ずとりあげられます。
いっぽう鐘楼はあまり注目されず、唐招提寺のウェブサイト(http://www.toshodaiji.jp/index.html)にも、まったく言及がありません。案内図からもわかるとおり(金堂の左上の小さな建物)、鼓楼と中心軸をはさんで左右対称になっているわけでもなく、鼓楼よりはるかに小ぶりです。
さて、その鼓楼ですが、ウェブサイトの説明によると、
名称は「鼓楼」ですが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれています。 外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、縁と高欄が取り付けられています。 堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)が安置されています。
別のページの説明によれば、そもそも鼓楼は創建当初には存在しなかったようです。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
さらに境内に立っている説明文(下の写真)には、「もと経蔵だったと推定される鼓楼」とあります。ようするによくわからないということのようです。経蔵だったものが鼓楼になり、とうとう仏舎利をおさめるに至ったというのです。図書館?がいつのまにか墳墓になってしまっています。日本の寺院というのはあまり堅苦しい様式には拘泥しないようで、建物の名称・用途もきわめて流動的なのです。
結局のところ、唐招提寺においては、鼓楼はある(あった)けれども、中国の寺院のように第一主殿と第二主殿の間の中庭に鐘楼と鼓楼が左右(東西)対称に建てられる四合院構造を形成している、ということはないようです。
隠元の萬福寺
宇治の平等院鳳凰堂の近くにある萬福寺(まんぷくじ)は、ガイドブックなどでは「七堂伽藍いっぱいにチャイナムードが漂っている」などと書かれています。なんどか行ったことがあるのですが、柱や梁は塗装されていないうえ瓦も黒く、日本のほかの寺院とさほど違いがあるようにも思えませんでした。しかし、中にあった仏像やとくにその配置の仕方が一風変わっていたという記憶はあります。北京の寺院を見たあとに、あらためて伽藍の構造を思い返すとたしかに中国の寺院の本質的特徴を共有しているのです。
左下に「総門」、斜めにあがって「三門」、以下、順に「天王殿」「大雄宝殿」「法堂」「威徳殿」が直線上に並んでいます。(http://www.obakusan.or.jp/haikan/index.html)
なお、別の件ですが、この図は、上方は北ではなく、東です。入り口は西側で、東に向かって伽藍が展開しています。主軸が南北方向で主殿はすべて南面するのが一般的ですが、東西方向というのもよくあります。北京の戒台寺や碧雲寺は東が入り口で主殿は西向きでした。しかし、萬福寺は逆方向で、これは稀です。背後に山(妙高峰)をいただくことが理由なのでしょう。東から西向きだと、当時は巨大な巨椋池(おぐらいけ)でしたから、湖水に向かうという、たぶんありえない伽藍配置になってしまいます。
方角の件はさておき、伽藍の構造、建物の順番をみてゆきます。
次の写真は、
「総門」/「三門」/「天王殿」/内部の「布袋像」/「布袋像」側面/布袋像と背中合わせの「韋駄天」/「四天王」/獅子に乗る人物? (以上天王殿の内部)/「大雄宝殿」/「法堂」/「鼓楼」(http://www.kyotofukoh.jp/report789.htmlから借用)
最後が有名な「魚椰(かいばん)」。ガイドブックで一番に強調されているので、こればかり印象に残っていて、全体構造における、ほかの日本寺院との本質的な差異にすこしも気づかなかったのでした。
萬福寺の「総門」は中国寺院の牌楼(はいろう)にあたる、とのことです。
これは北京・臥仏寺の牌楼、しかも瑠璃瓦で装飾されたきわめてゴージャスな瑠璃牌楼(るりはいろう)です。さすがに、日本では瑠璃瓦は手に入らなかったのでしょう。
これも比較のために、北京・北海公園・永安寺の鼓楼です。萬福寺の牌楼と中国寺院の牌楼はずいぶん違いがありますが、「鼓楼」の場合は中国寺院とたいへんよく似ています。
建物の色彩、あるいは牌楼が多少違うのを除けば、なるほど「チャイナムード」が漂っています。「ムード」どころではありません。本質的に中国様式であって、日本のほかの寺院とは完全に異なっています。
「総門」という名の牌楼はだいぶ姿が違っているとはいえ、鳥居ほどには変わり果ててしまってはいません(鳥居の起源が牌楼だったとしての話ですが)。奥行き=厚みがない、つまり「内部」を持たないため、当然「内部」に仏像(四天王とか金剛力士とか)を置くことはありえません。同じ「門」とはいっても、つぎの「山門」とは全く異なり、それが「牌楼」であることには疑いの余地はありません。
その「山門」を経て、「天王殿」にいたりますが、その名称もまったく中国と同じであるうえ、靴のままはいること、内部中央に主たる像としての布袋像があること、その周囲に通路を隔てて内側を向いた四天王像があること、布袋像と背中合わせのようにして韋駄天像が(当然反対側を向いて)あること、などすべて中国寺院そのままです。内部正面の金色の布袋像は、配置、姿形などまったく中国寺院と同じです。萬福寺は江戸時代に建立された、「黄檗宗(おうばくしゅう)」という禅宗の寺院ですが、それ以前に建立された京都や鎌倉に数ある禅宗寺院が、四合院様式をとらないこと、靴を脱いで板張りの廊下や畳敷きの本堂を歩くようになっていること、布袋像と韋駄天像の「天王殿」をもたないこと、などとはきわめて対照的です。
適当な写真がありませんが、「回廊」もあまり意味のない他の寺院のそれとはことなり、左右の建物と連結していて、まさに四合院様式により建設されていることがわかります。(「大雄宝殿」や「法堂」は内部は非公開なので、比較はできません。)
萬福寺は、1654年に僧侶11人と20人ほどの職人をともなって来日した中国僧・隠元隆琦(いんげん・りゅうき、1592-1673)が、幕府から土地と資金を与えられて創建した寺院です。さきにみたとおり唐招提寺の場合、鑑真の生前は、「戒律を学ぶひとたちのための修行の道場」(唐招提寺ウェブサイト)だったわけで寺院としての完成した伽藍を持たなかったのですが(もっとも「道場」とは何か、そもそも「寺院」とは何か、という問題は残りますが……)、萬福寺の場合は隠元とその一団が、日本の他の寺院とりわけ京都や鎌倉の「禅宗」寺院の例を一切顧慮することなく、可能な限り中国様式の寺院として創建したのです。
隠元がもたらしたのは、(インゲン豆のほか)日本で唯一、限りなく中国の様式に近い仏教寺院だったのです。
なぜ四合院にこだわるか
細部も重要でしょうが、全体の構造を無視して、部分の特徴にだけ注目するのはおかしな態度です。日本寺院の伽藍の構造についての説明で、「四合院」という語が出てこないのは、ないものについては説明のしようがないのだから仕方がないのかもしれませんが、日本人の著者らが、中国の寺院について述べる際に、「四合院」について絶対に言及しないのはどういうことでしょうか。そもそも木造建築群としての伽藍について論ずる時に、「四合院」という観点を無視しては、中国や朝鮮のそれとの比較など全然できないでしょう。比較ができないだけでなく、そもそも日本寺院の伽藍の成立や本質について、よくわからないということなのです。そうして国内だけの、細部の差異にばかり注目して、閉じ篭ってしまうのはいかがなものでしょう。
そのくせ、中国も朝鮮も一挙に飛び越え、シルクロードを一瞬で踏破して、突然ギリシャ神殿の柱との「共通性」(「エンタシス」!)というあやしげな言説に飛びつくのです。中国と日本の比較もきちんとしていないのに、唐突にギリシャ神殿がストレートに日本に影響するというのです。材質も違う、構造も違う、全体の形もまるでちがうのに、柱のふくらみぐあいと配列だけが完全に伝わるという支離滅裂な議論を展開しているのです。
なお、ギリシャ神殿の起源についてもおかしな見方が支配的です。日本寺院について伽藍の構造など無視して、細部にばかり拘泥するのは、ギリシャ神殿について伽藍の総体あるいは建物の全体に関する本質を置き去りにしたまま、「ドーリア式」「イオニア式」「コリント式」という、柱の上部や下部の装飾様式の瑣末な差異にばかり拘泥するのとまったく同じ態度です。
(ギリシャについては、ギリシャのエジプト・コンプレックス、ローマのギリシャ・コンプレックス、ヨーロッパのギリシャ/ローマ・コンプレックスという問題があるのですが、これについてはあとで Mediterranean のページで扱います。)
寺院建築という一見してわかる(?)はずの事柄についてさえ、見えるものも見ない、明らかなものを無視する、という態度が一般的なのです。そうしてわたしたちは、公費で、現地の専門家の案内付きで、世界中を踏破した「専門家」や「学者」先生たちによって、シロウト目にもあやしげな瑣末な議論や事柄そのものとはまったく無関係の話に誘導されてしまうのです。
仏教〈建築〉についてこうでは、仏教という〈思想〉の方はどうなのでしょうか。インドに起源がある仏教が、基本的には中国を経て日本社会にはいってきたのですが、すくなくとも建築において、中国と日本は根本から異なっているのです。問題はそのことにほとんど無自覚であるということです。そして日本社会は、仏教経典を基本的には漢訳仏典をつうじて学んできたのですが、建築においてさえ根本的なところでこれほど違っているうえ、違っていることに無自覚なままでいる日本人が、仏教思想についてきちんと理解しているのか、心配になります。本当は中国仏教を正当に継承し理解してはいないのかもしれません。しかもこの分野では、文字にできないとか師弟直伝だとか、見せてやらないとか言い出す人が続出するのです。
(もっとも、その先には、中国仏教がガウタマ・シッダールタを正当に継承し理解しているか、というさらに根源的な問題がありますが。)