若宮戸における河川管理史

9 建設省が統制した河畔砂丘掘削

1960年代後半にRidge1は一挙に掘削され、尾根筋にあった石裂山大権現碑などは、真っ平になった14m下にまとめて下ろされた。

遠景はRidge2の25.50k地点に落ちる夕日。Ridge2の尾根筋が浮かび上がり、形がよくわかる。(2021年12月)

 

Feb., 6, 2022

 

このページの概要

 

  第2クォーター(おおむね25.00-25.50k)のRidge1(ごく一部を除く)とRidge2の一部、ならびに両ridgeの間の「谷」は1968(昭和43)年までに掘削されました。第1クォーター(おおむね25.50-26.00k)のRidge1の尾根部と東斜面は、1968年以降、下流側半分が1972(昭和47)年までに、上流側半分が1975(昭和50)年までに掘削されました 。

 第3クォーター(おおむね24.50-25.00k)は、一部は1967年以降掘削が始まっていますが、大部分は1968年以降、1973年までにRidge1(一部を除く)とRidge2の一部、ならびにRidge1とRidge2の「谷」が掘削されました。第3クォーターにおける掘削については、5ページで主としてRidge1ならびにRidge1とRidge2との「谷」の掘削状況について一瞥してありますが、ここではRidge2の東側法面とりわけその土地所有上の境界線と、実際の掘削の位置関係に注目します。(以下、クォーター区分の「おおむね」は省略)

 

西斜面を残して掘削された第1クォーターのRidge1

 

 5ページで概観した第1クォーター(26.00-25.50k)の掘削状況について、再度検討します。

 写真は、1975(昭和50)年1月3日の国土地理院の航空写真(CKT7418-C106B-28)の若宮戸河畔砂丘の上流部(第1クォーター)を拡大し、a点とb点を記入したものです。

 1枚の航空写真・衛星写真だけでは、樹林が伐採されただけなのか、それとも砂丘の〝畝〟の掘削低平化まで進行しているのかを判断するのは難しいのですが、年月を経た変遷をたどりさらに測量図などを併せ見ることで、いずれなのか判断することができます。この地点では、a点からb点までほぼ一直線に、西側(画面上方・河道側)だけを残し、東側(画面下方)が掘削低平化されています(中間付近で緑の樹林が途絶えているように見えますが、他が常緑広葉樹で緑色なのに対して、ここは落葉後の落葉広葉樹なので薄茶に見えているのです。おそらくクヌギです)。

 5ページで見たとおり、第1クォーターは1968年8月22日の時点ではまだほとんど手がつけられていなかったのですが、下流側半分は1972年9月18日までには掘削され、のこる上流側半分も1975年1月3日までには掘削されました。

 公図や掘削後の土地利用の仕方などから、この一直線に揃った掘削は一人の地主の行為ではないことがわかります。数人の地主が同一歩調をとって若宮戸河畔砂丘の第1クォーターのRidge1の西斜面だけを残して、中軸部の尾根から東斜面をごっそり掘削しているのです。このことについて、5ページで次のとおり推測しました。

 

 建設省(国土交通省)/関東地方建設局(関東地方整備局)/下館工事事務所(下館河川事務所)が、〔……〕土地所有者たちを誘導した、ということです。その時期は、1960年代後半から1970年代前半にかけてです。

 にわかには信じがたい結論ですが、こう考えないことには、この一直線を境に実行された掘削という現実、すなわち一直線を境にして砂丘を温存したという現実に対する合理的な説明はつかないのです。合理的といっても、それが氾濫防止という目的に照らして妥当だったかどうかとは、別の話です。合法的だったかどうかとも別の話です。ただたんに、事実経過を辿ったうえで辻褄のあう説明としては他のようではありえず、こうでも考えない限り説明がつかない、ということです。

 他のようではありえない、というのはたとえば次のようなことです。すなわち、土地所有者(たち)が、氾濫防止の観点から、掘削しても良い範囲と掘削すべきでない範囲を判別し、砂丘の掘削による砂の転売と宅地化・耕地化を実行した、という可能性はないでしょう。あるいは、石下町役場や茨城県庁が、氾濫防止の観点から、掘削しても良い範囲と掘削すべきでない範囲を判別し、砂丘の掘削による砂の転売と宅地化・耕地化を規制した、という可能性はないでしょう。

 

 下は、2014(平成26)年度に築堤設計業務を委託された建設技術研究所が作成納品した文書中の図です(5ページ)。茶線は「河川区域境界線」だというのですが、1966(昭和41)年の大臣告示図とは食い違っているうえ、途中で断線し、この一直線部分では境界線が描かれていないのです。これについては、こう推測しました。

 

 それにしても、河川区域境界線を偽って(誤認して?)砂丘掘削をさせなかったとあっては大問題になるので、その区間をわざと彩色せずその存在を隠したということなのかもしれません。

 

 

 

 この建設技術研究所の図に、1966(昭和41)年に建設大臣が告示した河川区域境界線(マゼンタ=赤紫実線)、下館河川事務所作成の「管理基平面図」の河川区域境界線(ストロベリー=苺破線)、わざと記入しなかった「河川区域境界線」(グレープ=紫一点鎖線)の想定線を描き加えます。「河川区域境界線」は、正式・非公式、真・偽、明記・隠蔽とりまぜて3本あるのです。

 

 

 隠蔽された3本目の境界線について、上のように推測したのですが、前ページで見た建設技研の資料の別のページに隠し損なった線が描かれています。

 何かを隠したり、偽りを述べるのは簡単なことですから、不始末を隠して責任逃れをしたくなると、ついついやってしまうのでしょう。しかしいったん嘘偽りを言ったり書いたりすると、必然的にいろいろ矛盾を生じることになります。いかなる齟齬もきたさないように、嘘に合わせて全部を完璧に再構成するのは至難の技、端的には不可能です。途切れるはずのない河川区域境界線が尻切れにしてしまうような杜撰さでは、同一文書の他のページを変造し忘れるのも当然です。2019(平成31)年10月の水害の際、下館河川事務所と示し合わせ都合の悪い痕跡水位データを隠蔽した新星コンサルタントが、同じ資料中の別ページに、うっかり削除前の図を載せているのと同じ失態です(別項目参照)。

 少々別の事情があるかも知れません。発注者の下館工事事務所・下館河川事務所の身勝手な都合で嘘偽りを押し付けられた会社にしてみれば、そんなことは社内でも大きな声では言えないわけで、遠回しにコソコソやらざるを得ないでしょう。まじめに職務に取り組む従業員がかならずしも御上のご都合に忠実に動くとも限らず、渋々嘘偽りの捏造業務に従うにしても、敢えて真実を紛れ込ませることもないとは言い切れません。そうなると常日頃から命令するだけで自分で仕事をするわけでもない、拙劣な能力しかもたない経営幹部は、嘘偽りを無矛盾的に貫徹させるのに四苦八苦することになります。全部をチェックして書いてはならない事実を見つけ出し、注文者の注文どおりの嘘偽りに訂正し尽くす力量はないわけで、頭隠して尻隠さずの間抜けな仕儀になるのです。

 解像度の低いピンボケ図ですが、「河川区域」として第1クォーター部分まで青破線が引かれています。この部分を拡大します。

 

 

 大臣告示の本物の河川区域境界線とはまったく位置・形状が異なり、一見したところ管理基平面図の線に似ているのですが、位置合わせをして重ね合わせると、それともずれています。そして、さきに推測した線と一致するのです。

 1975年の航空写真にこの3つ、すなわち、1966(昭和41)年に建設大臣が告示した河川区域境界線(マゼンタ=赤紫)、下館河川事務所作成の「管理基平面図」の河川区域境界線(ストロベリー=苺破線)、上のページから抽出した河川区域境界線(青)を描き込みます。

 

 〝畝〟の西斜面を一直線に残し、〝畝〟の尾根部と東斜面をごっそり掘削したのは、建設省・関東地方建設局・下館工事事務所が、この偽りの・非公式の・裏「河川区域境界線」(青)によって誘導管理統制した結果であることは明白です。管理基平面図の苺破線もそうですが、捏造境界線の青線が25.65k付近で突如直角に右左折して内陸側に移る不自然さは、こうした事情によるものでしょう。

 そんなのは邪推だ、根拠がない、たまたま実際の掘削線と一致するように見えるだけだ、という向きには、「河川区域境界線」が何本もある理由、築堤設計図書中でさえ不一致がある理由、50年近くあとの設計文書中の線形が掘削でできた絶壁と一致する理由、をじゅうぶんな根拠を示したうえでご説明いただかなければなりません。

 次は、同じ3線を2013年度のサンコーコンサルタントの平面図中に描いたもの、さらに迅速測図から読み取った〝畝〟の形状(緑:Ridge1〔実線はT.P.=20m、破線はT.P.=30mの等高線〕、上流側の堤防、掘削前のRidge1の尾根上から移された「石裂山大権現(おざくさん・だいごんげん)」碑(「り」、ページ冒頭写真参照)などを記入したものです。

 

 若宮戸河畔砂丘は、第2クォーターから第4クォーターでは複列構造をとりますが、最上流部の第1クォーターでは、単列構造になっています(一列しかないのに「第1の畝」というのも変ですが、構造からこの区間の〝畝〟もRidge1の一部とみなします)。また、〝畝〟は、風上側(西側・河道側)は緩斜面、風下側(東側)は比較的急斜面になります。

 第1クォーターの掘削では、〝畝〟の尾根から東斜面までが掘削され、西斜面だけが残されたのです。残された法面の東側が絶壁状になっているのは、もとの〝畝〟の断面形状の特徴なのではなく、安定的な傾斜にせずギリギリまで砂を取った結果です。洪水をおしとどめる地形になっていたことなどお構いなしに、すこしでも多くの砂を掬い取って利益をあげること、そしてできあがる平坦地をすこしでも増やして転売利益をあげること、だけを目論んだ地主らの行為の結果です。50年近く一応持ち堪えて洪水をおしとどめたものの、残された〝畝〟の状態はかなり不安定な状態になっています。これについては次ページで検討します。

 


第2クォーターのRidge2は掘削されていた

 

 第1クォーター(25.50-26.00k)における掘削については、建設技研の設計図書に載っている裏「河川区域境界線」によって、1960年代後半から1970年代前半(すなわち昭和40年代)までの間に、建設省による事実上の統制のもとに実施されていたことが、かなりの確度で推認できたのですが、第2クォーター(25.00-25.50k)・第3クォーター(24.50-25.00k)については事情がことなります。すなわち、建設大臣が告示した河川区域境界線(マゼンタ=赤紫)、下館河川事務所作成の「管理基平面図」の河川区域境界線(ストロベリー=苺破線)はもちろん、建設技研の設計図書から抽出した「河川区域境界線」(青)のいずれも、この時期の掘削状況とはまったく符合しないのです。

 サンコーコンサルタントの「第2案」(両端丸緑破線は、計画築堤高を充足しない区間)と、1975(昭和50)年の航空写真に、迅速測図から抽出した〝畝〟の形状などを描き入れます。

 第2クォーターでは、Ridge1から分岐したRidge2がほぼ直線を境にして東側が掘削され西側だけが残っているのですが、その線形がさきほどの第1クォーターの直線とひとつながりになっています。なんらかの作為を感じさせる線形です。(写真は、この一直線の掘削がほぼ終った1968〔昭和43〕年8月22日)

 第2クォーターはかなり広い範囲をひとりの地主(2014年にここに太陽光発電所を建設した県外の「B社」に譲渡した、地元の地主)が保有しているようですが、石裂山大権現碑地点(り)から第六天跡地(い)にかけては共有地であり、さらにその南北(画面の左右)はそれぞれ別の地主の土地、さらに市道東0272号線北側(画面右方)の現在陸田になっているところはまた別の地主の土地です。

 1968(昭和43)年8月22日の航空写真と、同じ範囲の公図を並べ、航空写真から読み取った掘削部分と保存部分の境界線を公図に描き入れてみます(紫点線)。この一直線と筆界が一致しないことがわかります。それぞれの土地は、その一直線を境にして東側(画面下)は掘削され、西側(画面上)は残されたのです。区画によって扱いが異なるのではなく、各筆の中で西側(画面上方)は伐採・掘削せず、東側だけ掘削・低平化してあるのです。しかも、全部がひとりの地主のものではなく幾人かの別々の地主の土地なのに、樹木を伐採して砂丘の〝畝〟を掘削・低平化した範囲と、伐採・掘削・低平化しなかった範囲とが、横一線に綺麗に揃っているのです。地主同士が相談し合い、誰か他の権威筋からの指示命令によることなく、自分達だけで自主的に足並みを揃えて砂丘の掘削をおこなった、という可能性も完全に否定できないかも知れませんが、どう見ても不自然です。

 これら複数の地主に対して、横一線の東側までは掘削させるが、西側には一切手をつけさせなかった、そういう何者かがいたと考えるのが自然です。

 先ほど見た第1クォーターにおいては、この一本線の基準線は、非公式の、裏「河川区域境界線」でしたが、この第2クォーターでは容易に見つかる図面に描かれています(とはいえ、関東地整がウェブサイトで公表しているわけではなく、開示請求手続きで多少の時間と経費を費やすのですが。reference5参照)。

 「管理基平面図」と重ねたものが次です。区別のつかない細黒実線で紛らわしいので(まったく別種のものを同じ線種で描くという錯乱の極み!)ストロベリー破線でなぞってあるのが「河川区域界の位置」つまり河川区域境界線です。ただし(描いてありませんが)1966年大臣告示とはズレています。

 注目点はその次です。掘削による崖記号に河道側で並行している赤実線が「計画の堤防法線位置」です。築堤するとすれば従うべき堤防の外形、つまり「計画築堤高」と「計画断面」を充足する「計画堤防」の、河道に沿った縦断方向の天端の線形ということです。国交省河川工学のいう「計画」は、独特の意味があり、実際に期限を定めて築堤する予定がある、という意味ではありません(その前提となる「計画高水流量」「計画高水位」の「計画」も同様で、国民には意味不明の隠語です。どこの世界にも多かれ少なかれあるとはいえ、通常の意味とかなりズレていて、一般人を惑わすそのタチの悪さは建設業界・建築業界以上です)。若宮戸河畔砂丘には築堤するつもりはないが、もし堤防を作るとすればこの線形に沿わせる、という程度の意味のようです。

 もっとも、これまで見てきたサンコーコンサルタント(2003年度)や建設技術研究所(2014年度)が提示した数多の案も、水害後の激特事業によって築造した堤防も、どれもこれもこの線形ではありません。既設の建造物があるなど堤防敷とする土地買収の困難性、河川区域内に取り込む土地の地主に対する「遠慮」などの故でしょうが、これについては別途具体的に検討しなければなりません。

 

 この「管理基平面図」は2010(平成22)年版ですが、1967(昭和42)年から1968(昭和43)年に、実際にこの「計画の堤防法線」を基準線として、「計画堤防」の堤内側法尻あたりまで掘削させているのですから、半世紀前にもこのように定めていたのでしょう(下館河川事務所に尋ねても「わからない」とのことなので、現在調査中)。

 先に掘削によって崖面ができていて、あとから「計画の堤防法線」を引いたということはありません。もうしそうだとしても、その掘削範囲を規制した何らかの基準線があったはずですから、結局は同じことです。「計画の堤防法線」と崖面とは並行しているがズレているから無関係、ということもありません。「計画の堤防法線」は概ね堤防の頭頂部(天端)であり、建設省が「計画の堤防」の堤内側法尻から先は掘削しないように言い渡し、左様ですかと地主らがギリギリまで掘削して崖になったのです。

 以下、この範囲について、いくつかの地図や写真を見較べてみます。

 管理基平面図に、迅速測図から抽出したridgeを描き込みます(Ridge1:緑、Ridge2:黄、Ridge3:青)。掘削されたのはRidge1、ならびにRidge1とRidge2の間の「谷」だけではありません。Ridge2の東側(画面下方)斜面、さらに画面中央あたりで東側に大きく膨らんでいる部分が根こそぎ掘削低平化されたのです。

 

 

 1967(昭和42)年3月29日の航空写真に重ねると次のとおりです。解像度が低いのですが、黒い部分は伐採・掘削前、白い部分は伐採・掘削後の砂地です。第2クォーターのRidge2は、このあとの1年5か月で、崖になる線まで大きく掘削されたのです。

 

 次は、無届けで森林伐採と砂丘の掘削の最中の2014(平成26)年3月22日の衛星写真(GoogleEarth Pro)に「管理基平面図」を重ねたものです。

 

 次は、掘削後に大型土嚢を「品の字」2段積みしたあとの、2015(平成27)年2月2日の衛星写真(GoogleEarth Pro)に「管理基平面図」を重ねたものです。

  管理基平面図の河川区域境界線がわかりにくいので、その細黒実線にストロベリー破線を重ねてあります。「A社」の小規模太陽光発電所を斜めに横切っています。これだと、通常では許可されない河川区域内に喰み出して建造物を設置したことになります。本物の河川区域境界線はマゼンタ(赤紫実線)です。「A社」のソーラーパネル配置はこれにあわせたものだったのです。しかし、ソーラーパネルこそ河川区域内にはくいこんでいませんが、河川区域内まで森林を伐採したうえ整地してしまっています。「A社」の行為は河川法に違反するのですが、下館河川事務所はそれを見逃しているわけです。「管理基平面図」にズレた河川区域境界線を描いているくらいですから、河川の管理をキチンとできる組織ではないのです。

 

 「計画の堤防法線」が25.43kあたりで途切れている理由ですが、そこより上流側については「計画の堤防」の予定がない、ということです。河畔砂丘の〝畝〟があるから、「計画築堤高」と「計画断面」を充足するので堤防はいらない、と判断しているようです。さきにみた2015年の建設技研と同じ判断です。

 この「計画の堤防の法線」の上流側末端は、のちに「B社」によって掘削される区間(25.23k から 25.43kまで)の上流端に一致します。建設省の統制下でRidge2の東側への膨らみ部分をザックリ掘削した地主は、跡地の非農業的活用を追求して家具工場を誘致(おそらく貸地)したものの、その撤退後は農地でないゆえの固定資産税負担もあり、手っ取り早く県外の業者(「B社」)に売り払ったというところでしょう。売電利益しか考えない他県の不在地主が相手では、下館河川事務所の法的根拠のない腰の引けた「行政指導」はもはや通用しません。「B社」は無届けでの森林伐採について常総市役所に目を瞑ってもらい(別ページ参照)、Ridge2の残っていた崖を全部掘削して、対岸の堤防の法面が直接見通せる状態にしてしまったのです。

 

 

第3クォーターのRidge2の掘削

 

 第3クォーター(24.50-25.00k)における掘削については、5ページで主としてRidge1ならびにRidge1とRidge2との「谷」の掘削状況について一瞥してありますが、ここではRidge2の東側法面とりわけその土地所有上の境界線と、実際の掘削の位置関係に注目します。

 第3クォーターの本格的掘削が始まる前の、1968(昭和43)年8月22日の写真です。第2クォーターの掘削がほぼ完了しているのに、第3クォーターのRidge1およびRidge1とRidge2との「谷」の全面的掘削はこれからです(画面右端の市道東0272号線の南脇(画面左側)は第2クォーターに含めます)。Ridge1の尾根を縦走する小道が見えます(昔は「と」地点から「ほ」地点まで尾根上を歩いて行けた、という住人の証言どおりです)。

 市道東0280号線脇で掘削が始まっています。これが第2クォーター掘削の先駆けです。迅速測図から読み取った、Ridge2の本筋から離れて短い〝畝〟ridge がある場所です。このあとこの区画(あとの公図参照)は全体的に低平化され、地下水汲み上げによって灌水する陸田になります。ここは2015年水害の第2の氾濫地点となり、巨大な押堀(おっぽり、いわゆる落堀〔おちぼり〕)ができます。

 この掘削のためでしょうか、市道東0280号線を越えて、すなわち河川区域内に食い込んで砂地が見えています。下流側堤防(橙)がRidge1に「山付き」する手前の堤内側もおおきく掘削されているようです。堤防末端付近の川裏側まで、すなわち河川区域内に食い込んで掘削整地しています。下館工事事務所はこれら河川区域内の土地を改変する行為をすべて黙認していたということです。

 2014(平成26)年の「B社」による掘削について、「河川区域外の行為なので規制できない」旨、言い訳していたのですが、それはまったくの虚偽だったのです。後述するRidge3の掘削も含めて、下館工事事務所は、河川区域内の掘削であっても地主の恣にさせていたのです。

  下は、4年後の1972(昭和57)年9月18日の航空写真です。4年間で、Ridge1のほとんどすべてが掘削されてしまいました。残ったのは「ほ」と「と」の墓地のみです。共有地の錯綜した所有関係の整理が難しいというより(同じ共有地でも「り」地点は完全に掘削低平化されています)、墓地の扱いに苦慮した結果でしょう。石碑や塔程度であれば気楽に扱い、乱雑にセメント漬けにしてしまえるのですが、さすがに相当量のご先祖様の遺骨と墓石を移すとなると、砂を売り飛ばした代金では足りないかも知れず、限界まで削って絶壁で囲んだうえで残したのでしょう。(写真は「ほ」頂上にある墓地の北側。擁壁は、ぎりぎりまで掘削するために作られたものに違いありません。画面左端のコンクリート板の土留めは東側の急斜面の崩落防止のためのもの、右の竹藪は北側(市道東0280号線側)の絶壁の土留めのためのものでしょう。

 今はRidge2の掘削状況に着目しているのですが、この河川区域侵犯ということでいうと、24.63kより上流の河川区域境界線に関連しても大問題があります。河川区域境界線(大臣告示による正式のもの=マゼンタ実線)を挟んで、すなわち河川区域の内外が森林伐採のうえ、Ridge3(青)の全部、Ridge3とRidge4(紫)との「谷」の全部、ならびにRidge2(黄)とRidge3との「谷」のうち西側半分が、一様に掘削されています。

 4ページで分析したように、すくなくとも上流側ではRidge3の東側法尻に、大臣告示(1966〔昭和41〕年)による河川区域境界線を引いてあったのです。これはすなわち、ここではRidge3は、「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防の対岸に存する土地」として指定されていた、ということです。そのRidge3を全部掘削低平化してしまったのです。「管理基平面図」には「いなば燃料運動場」とありますから、所有者のいなば燃料が工事をおこなったに違いありません。

 いくら計画高水位さえ充足しないうえ、24.63k地点で河川区域境界線が突然途切れて内陸側にワープしてしまう(4ページ参照)ので、実際には洪水をおしとどめる役割は果たさないものだったとはいえ、Ridge3は曲がりなりにも「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地」として河川区域に指定されている地形だったのに、それをあっさり掘削してしまったわけです。これを、下館工事事務所(現在の下館河川事務所)がまったく知らなかったはずはありません。正式に改変の申請がされたのか否かはわかりませんが(今となっては国交省としても調べようもないでしょう)、下館工事事務所が承認したうえでの行為に違いありません。2014(平成26)年の「B社」の行為は、水害被害を極大化させたという実質的意味では重大であるものの、形式上は違法ではないということなのですが、この「地形上堤防が設置されているのと同一の状況を呈している土地のうち、堤防の対岸に存する土地」として「三号地」に指定されている〝畝〟ridge を正当な理由なく掘削して「運動場」の一部にしたいなば燃料の行為と、それを承認した下館工事事務所の行為の形式的違法性は、類例のない重大なものといえるでしょう。

 

 建設技研の設計図書中の公図と見比べてみます。伐採・掘削された土地と、掘削されなかった土地との境目が、Ridge2の西側では筆界線と一致します。市道東0283号線までのRidge2の西斜面は伐採・掘削されていませんが(ただし、のちの鬼怒砂丘慰霊塔とその北西側、24.50kの北側などは樹木の間引きないし株立の一部刈り取りなどがおこなわれているようです)、市道の西側は(前述のとおり河川区域境界線の内外にわたって)完全に伐採・掘削されています。筆界線と掘削境界が一致するのは、そこが市道東0283号線としての市有地になっているからです。市道敷地になる部分を挟んで元の筆界線は連続していたのでしょう。

 Ridge2の東側は、土地の筆界線と掘削境界は一部を除いて、まったく一致しません。先に見た第1クォーターと同じです。なお図に「あ」「い」として示したところだけは、筆界線と掘削境界が一致します。ただし、「あ」は河川区域内です。この紫点線と堤防、市道東0280号線で囲まれた土地は、河川区域ですが掘削・整地されています(ただし、その後数十年にわたって農地にも施設用地にもなっていないので、採砂だけが目的だったようです)。

 

 

 ここでも、さきほどの第2クォーター同様に、管理基平面図と1972(昭和47)年の航空写真を重ねてみます。

 市道東0280号線と市道東0272号線との間については、やはりここでも「計画の堤防法線」(赤実線)の手前まで(どのくらい手前かというと堤防法線が天端だとすると堤内側法尻あたりまで)、横一直線にきれいに揃って掘削されています。第2クォーター同様、下館工事事務所がこのように地主らを統制したと考えるほかありません。本物の河川区域については、それをまったく無視して、「三号地」を掘削させるいっぽうで、管理基平面図の「計画の堤防法線」をあたかも河川区域境界線のごとくに扱って、それを基準線として、その手前までの掘削を許したのです。

 

 市道東0280号線より南側で、河川区域内の土地やさらに堤防の法面が侵害されていたことの理由もあきらかになります。すなわち、ここでは河川区域境界線は、大臣告示によるものも、管理基平面図によるものも、どちらも無視しておいて、市道東0280号線以北同様、「管理基平面図」の「計画の堤防法線」を侵すべからざる線、裏河川区域境界線として取り扱っていたのです。