2 下流優先の実際=豊岡町

 

Oct., 27, 2019

revised / Aug., 31, 2021

 

 国土交通省は、鬼怒川水害の国家賠償請求訴訟において裁判所に提出した書面のなかで、曖昧で根拠のない「下流優先論」「上下流バランス論」を主張しています。1965(昭和40)年の河川法改正により茨城県から管轄権限が移った際、不適切な河川区域境界線を設定(1966〔昭和41〕年)したために、氾濫を防いでいた若宮戸(わかみやど)の河畔砂丘の掘削を許してしまったうえ、堤防の整備を怠って放置したことにより、2015年9月に2か所(24.75k〔正確には24.63kと25.35k=ソーラー発電所地点)での大氾濫をまねいたのですが、この半世紀にわたる大失態を言い逃れるために、若宮戸に築堤すると「下流」の危険箇所の氾濫を引き起こすことになるので、その「下流」の対策を優先させた、という理屈です。

 このページでは、「下流」の旧水海道市の2か所のうち、まず右岸の豊岡町について、2015年の水害以前に国交省がどのような措置を講じたのかをみることにします。

 

 2002(平成14)年水害における豊岡における水害範囲について、誤って記述をしていた点を訂正しました。また、2002年洪水の痕跡水位データを入手したので、記事中に記しました。(2021年8月)

 


右岸11k付近の「豊岡町地先」

 

 鬼怒川左岸に、結城(ゆうき)郡石下(いしげ)町と合併して常総(じょうそう)市となる以前の、水海道(みつかいどう)市の中心市街地があります。江戸時代から明治時代にかけて水運の重要拠点として繁栄して商店街が発達し、茨城県立水海道第一高等学校と第二高等学校のほか、合併後の常総市役所もそこに所在します。

 その対岸、鬼怒川右岸のかなり広大な大字が豊岡(とよおか)です。関東地方整備局が、若宮戸に築堤しなかった理由としてあげる「豊岡町地先」(下左写真、http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000051861.pdf 当分閲覧できるとは思いますが、念のため、ダウンロードできるよう保存しておきます)とは、そのうちの豊水橋(ほうすいきょう。豊岡と水海道から一字ずつ)のたもとの一画のことです(「地先」は住居表示のない河川区域内の土地を、住居表示のある隣接地の「先」だとして指示する語です。今は「地先」であるにしても、水害にあった当時(2002〔平成14〕年)は人が居住している住宅地だったのですから、「地先」と呼ぶべきではありません。ただし、後述のとおり、現在の河川区域の指定にもおかしな点があります)。

 「地理院地図」https://www.gsi.go.jpの「2004年以降」の航空写真に写っている黄丸の住宅地です。右岸の高水敷にその一画だけが出っ張っている、なんとも不思議な街区です。

 この2002(平成14)年の「豊岡町地先」の水害がどのようなものだったを明らかにするために、1960年代から2015年までの50年あまりの状況変化について、航空写真・衛星写真・地図を総覧することにします。

 

ダウンロード
鬼怒川 直轄河川改修事業(2012年、関東地方整備局)
000051861.pdf
PDFファイル 6.7 MB


 

 下右は、同じく「地理院地図」にある1960年代の航空写真です。現在の豊水橋の鉄製橋梁は1965(昭和40)年に架橋されることになる3代目(赤線)で、それまでは、30mほど下流の2代目豊水橋が両岸を結んでいました。

 不思議な形の「豊岡町地先」は、2代目豊水橋の右岸・豊岡側のたもとの街区だったのです。そこにいたる道路は今も残っていて、妙に広い道路なのがなんとも不思議だったのですが、そういう由来なのです。

 2代目豊水橋の左岸・水海道側のたもとは、2015年水害の際に浸水した観水公園(下左写真 http://ameblo.jp/goemonn-dog/ 八間堀川問題 8参照)です。これもまた、ここだけ建物がないのが不思議に思える場所ですが、先代豊水橋の取り付け地点だったわけです。

 




「豊岡町」の築堤前後の状況

 この水海道・豊岡付近を「地理院地図」の「土地の特徴を示した地図 > 治水地形分類図(初版)」でみると下のとおりです。茶地に赤横線が更新世段丘(洪積台地)、茶地に赤ドットが自然堤防、薄緑が後背低地です。上で黄丸を付した街区は後背低地にあるとされます。西側の更新世段丘との間になんらかの護岸のようなものがあったように図示されています。

 「治水地形分類図(更新版)」(右図)だと高水敷に分類しています(「高水敷」と明記しているわけではなく白抜きにしているだけですから、曖昧ですが)。それはともかく、この更新版だとこの街区全体は3方を高さ・幅ともに規格どおりの完成堤防(黒実線)で囲まれているように描かれています。これでは2002(平成14)年の浸水はありえないでしょう。明らかな誤記です。

 なお、標高はT.P.値ですから、Y.P.値より0.84m小さな数値になります。有効数字桁数が違うのですが、おおよそ1mくらい小さい数値になるとみておけばよいでしょう。

 


 

 さらに「地理院地図」で、「標準地図」と半透明にした「起伏を示した地図 > アナグリフ」を重ねたものが次です。後背低地に対する自然堤防の標高差は小さいうえ、境界部に崖を形成しないので、ほとんど陰影として反映しませんが、更新世段丘(洪積台地)はこのようにかなりクッキリと表現されます。北西からの斜光によって、北西側は明るく、南東側は陰になります。

 

 

 標高を推測するために、問題の範囲を拡大し「3D表示」したものを示します。もちろん高さを強調表示してあります。河道に向かって垂直に延びているのは現在の豊水橋の西岸(右岸)部分の盛り土です。更新世段丘や豊水橋のたもとで国道354号(現道)に面するガソリンスタンド敷地の地形がよくわかります。

 

 更新世段丘であれば鬼怒川の水位が上昇しても浸水しない、と単純にはいえません。あくまで地形構造全体とその時々の水位との相対的関係によって、浸水するか否かはその都度決まるのです。

 小貝川右岸の曲田(まがった)のように、自然堤防であっても、1986(昭和61)年に直近の豊田(とよだ)排水樋管部での小貝川堤防の破堤による氾濫がおきた際にも、そして今回2015年に鬼怒川の若宮戸と三坂から氾濫した際にも、集落全域が浸水しなかった例もあるのです(別ページ参照)。三坂の破堤点直下の自然堤防地帯にしても、かなり標高が高いので若宮戸からだけの氾濫水ではおそらく浸水すらしなかったでしょう。それが直上の破堤によって土地はおおきく抉られ、建物や樹木は地盤ごと流失したのです。

 概括的にいえば、この11k付近の左右岸の更新世段丘は浸水しにくいといえます。しかし、更新世段丘のなかでも標高が相対的に低いところは、水位が上がれば浸水するのです。2015年9月10日に左岸の水海道元町(みつかいどうもとまち)で数か所での溢水が起きたのがその例ですが、これについては別ページで詳細に検討しましたが、さらに次ページでも検討しなおします。

 また、現地に立つと、問題の一角は南北に人工的な擁壁が見えることもあって、更新世段丘に入り込んだ侵食谷のような印象を受けます。「地理院地図」の「土地の特徴を示した地図 > 土地条件図」では「段丘下位面」に分類しています(下図の赤横線)。

 何十年も前に日没後にここに立ち寄ったことがあります。暗かったので高水敷や河道が見えたわけではないのですが、当時は県道だった国道354号から車で降りて行った時に、ずいぶん低い土地に住宅があるのが印象に残りました。

 ついでにいうと、このあと見る2015年9月11日のグーグルの衛星写真で、越水した痕跡があるように見える豊水橋の上流側(後日現地で伺ったところ、堤防からの越水ではなく、内水氾濫でした)は、「治水地形分類図」の「更新版」では更新世段丘ですが、「初期版」では後背低地、「土地条件図(初期整備版)」では、なんと高水敷です(下図の黄地に茶ドット)。国土地理院や地理学者でも見解が分かれる微妙な地点なのです。

 

 

 次は、1965(昭和40)年に鬼怒川の管轄権を茨城県から引き継ぎ、翌1966(昭和41)年に建設大臣(現国土交通大臣)が告示した「河川区域」(赤実線)の図です。現在の3代目豊水橋は1965(昭和40)年に開通したのですが(http://www.joso-kankou.com/data/doc/1364307968_doc_8_0.pdf)、この図では先代の2代目豊水橋が現役で、現在の3代目豊水橋は建設中になっています。

 

 ついでに、先代豊水橋の道路面の標高を見ておきます。上の地図で河川区域境界線のすこし河道側に「17.75」とあります。その左(南側)の高水敷に「15.2」とありますから、橋の路面は2.5mほど高かったことになります。2002年に浸水した「豊岡町地先」の標高はのちほど見ますが、そこから橋へは上り勾配になっていたようです。これが右岸側です。

 左岸側はどうだったでしょうか。右岸側のこの「17.75」地点が現在は残っていないのとは対照的に、左岸の初代と二代目豊水橋の取り付け部は今も残っています。さきほど見た「観水公園」です(右写真。新造堤防上から2019年10月撮影。煉瓦造は五木宗商店)。「観水公園」からは2015年洪水の際に20cm程度溢水しました(別ページ参照)。この地点の詳細な標高データは持ち合わせていませんが、豊水橋左岸地点の洪水位は17.87mでしたから、それに近い17.7mくらいでしょう。右岸側の「17.75」と符合します。

 下は、対岸から2016年2月に撮影した「観水公園」で、中央右側の煉瓦造り(黄色の手摺の左)が初代豊水橋の橋台で、中央左側のコンクリート造りが二代目豊水橋の橋台です。初代の橋台は激特事業による堤防の堤内側に埋没しました。左端の緑が三代目豊水橋で、道路面の標高は21.8mです。

 


 ここから、「豊岡町地先」における国交省の措置の状況をみることにします。

 GoogleEarthProによる、2005年2月6日の衛星写真画像です。方位も回転させ、例によって河道側から見上げるように表示します。

 すでに若宮戸、三坂、大山新田・小絹を見た際に利用しましたが、MacOS、WindowsなどパーソナルコンピュータのOS上で作動する「GoogleEarthPro」は、過去の衛星写真画像に切り替え表示することができます。(以前は有料でしたが、今は無料です。アプリケーション版のほかウェブブラウザ版もありますが、タブレットやスマートフォンのグーグルアースでは過去の衛星写真は表示できません。)

 画面上方、15個並んでいるアイコンの真ん中あたりの「時計」をクリックすると、時間軸があらわれ、スライダーで(地点により区々ですが)十数枚を切替表示できます。

 

 国交省文書が指摘する豊岡の浸水被害があったのが2002(平成14)年ですから、その2年半ほど後です。

 下に、先回りして、この写真に築堤工事完了後の堤防の位置などを描き加えたものを示します。

 

 

 次は、上の写真から7年余り経過した2012(平成24)年3月16日の衛星写真です。(その間にも堤防完成後のものは数枚あるのですが、鮮明なものということです。)

 

 

 同じように、新設堤防(白線)の位置などを書き加えます。上流側始点は国道357号豊水橋橋梁の右岸側道路(歩道あり)の側面、下流側終点は右岸11kの標石の手前の更新世段丘(洪積台地)の崖面(緑破線)です。堤長110mの“山付き堤”(下流側の「山」=更新世段丘に「付く」堤防)で、天端標高は上流側始点がY.P. =19.926m、下流側終点がY.P. =19.160mです(工事完了後の実測値。上流側は国道354号にとりつくので傾斜して高くなっています)。工期は、着工が2006(平成18)年10月31日、竣工が2008(平成20)年3月31日(かろうじて2007〔平成19〕年度)です。

 国道354号・豊水橋の上流側(黄線)と、坂巻排水樋管の下流側(図示していませんが)は、いずれも既設の堤防区間です。なお、このあと両区間とも鬼怒川水害の「鬼怒川緊急対策プロジェクト」(http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/shimodate_index041.html)で嵩上げ・拡幅工事の対象となりますが、この白線の新設堤防は、2007〔平成19〕年度に完成したものがそのまま現状となっています。嵩上げ・拡幅の計画もありません。

 地形・堤防の形状が複雑でわかりにくいので、このあと写真で示しますが、新設堤防白線の西側(画面上方)の舗装路と、更新世段丘崖面緑破線の東側(画面下方)の舗装路は、一見堤防天端の舗装のように見えますが、いずれも新設堤防を斜め横断する坂路です。

 

 

 2002(平成14)年に浸水被害を受けた「豊岡町(地先?)」を囲い込むように築堤したのではありません。豊水橋上流側の堤防と下流側の更新世段丘の崖面を弧状の堤防で接続するために、十数軒の住宅を全部移転し、道路を含めた街区だったところに堤防を建設したのです。国交省文書がどうして「豊岡町地先」と間違ったことを書いたのか、その理由はここにあったのです。2002(平成14)年の水害時には「豊岡町」だった地点が、立ち退き・築堤によって堤体真下とその河道側の土地が「豊岡町地先」になったのを、先走って言い換えてしまった、ということです。

 

 ただし、この区画は、今でも「地先」にはなっていないのかもしれません。下は、「直轄河川利根川水系鬼怒川管理基平面図」(縮尺3000分の1、下館河川事務所鎌庭出張所)(reference5に収録)のこの部分です。凡例の「河川区域界の位置」と「官民境界の位置」とが、同じ黒細実線で区別できないうえ、さまざまの線が途中で途切れていたり、「河川区域界」が、大臣告示図と食い違っていたりで、とんでもない状態です。それにしても、この街区は、築堤後の今も、堤体直下の土地を含めて、河川区域ではないようです。住宅等はいっさいありませんが、厳密に言えば?いまだに「地先」にはなっていないようです。

 国交省の用語は、これに限りませんが、正確性を著しく欠き、ほとんどデタラメなのです。それも、(若宮戸の「自然堤防」が典型ですが)もっとも重要な点でいつもそうなのです。

 




 以下、ほかの衛星写真や、図面、地上写真で補足します。

 次は、2014(平成26)年3月22日の衛星写真です。三坂や若宮戸、さらに大山新田・絹の台の時にも同じ日付の写真を見たので参考までに。

 

 2015(平成27)年9月11日、つまり水害の翌日10:00ころの衛星写真です。だいぶ水位はさがりましたが、高水敷は一部がまだ冠水しています。更新世段丘崖面下の路面や坂路には泥が堆積しています。豊水橋の上流側の青屋根の住宅前の道路に、すこし越水した痕跡があるように見えます。(後日現地で伺ったところ、堤防からの越水ではなく、内水氾濫でした。2005年2月6日の衛星写真画像でも、内水氾濫の痕跡の泥が見えます。)

 

 2018(平成30)年5月15日の衛星写真です。



 iPhone のiOS やiPadのiPadOS上のグーグルで「3D」表示にしたものです(パーソナルコンピュータ〔Windows、MacOS、Linux〕でも同じ画像が表示されます)。このとおりの実写画像ではありませんが、多方向から撮影した航空写真画像から立体画像を構成する3D画像です。

 トラックが駐車している新設堤防の立体形状がよくわかります。堤内側の2棟のアパートはもとからの低い土地に建っています。その向こう(画面左上方)の住宅は約2mの擁壁の分だけ高い更新世段丘上にあります。

 180度転回した画像です。

 画面左上の赤屋根の建物脇から堤防に上がる歩行者用階段の下から、画面右へと新設堤防へ登る坂路があり、堤防を斜めに横切って、今度は更新世段丘の崖面下の高水敷に降りる坂路になります(一見水平に見えるのですが)。

 これらの坂路と斜交したあと、堤防は、天端の舗装はありませんが、ソーラーパネルの載っているクリーム色壁の家の方へカーブし、そこで「山付き」になって終わります。

 次は地上写真です。

 対岸の観水公園(先代豊水橋の左岸側取り付け部)から、豊岡の新設された堤防をみたところです。豊水橋を渡る国道354号のすぐわきから、橙壁のアパート2棟の左のクリーム色壁の住宅までが堤防です。そこから左は更新世段丘崖面です。(2019年10月15日。12日夜から13日未明にかけてこの付近を北上した台風19号により増水し、筑西市やつくばみらい市・守谷市で氾濫しましたが、だいぶ水位が下がってきました。)

 

 右は奥の豊水橋・国道354号から伸びてくる堤防。左はそこに登ってくる坂路。

 遠景は筑波(つくば)山。(2019年10月、以下同じ)

 堤防上から堤内側の南西方向を見たところです。クリーム色壁の住宅の北側(上流側)、橙壁のアパートのある低い土地との間に高さ2mほどの擁壁があります。

 同じく堤防上から堤内側の、こんどは北西方向を見たところです。

 衛星写真に写っている赤屋根は今は廃業したガソリンスタンドの建物の陸屋根でした。

 ここは3m以上の擁壁があります。水害をさけるためというより、国道をとおる自動車相手の商売なので、その標高にあわせるために嵩上げをしたのでしょう。

 堤防の下流端。赤頭の標石は「河川区域」の境界表示です。左側の草地が河川区域です。フェンスの向こうはクリーム色壁の住宅敷地です。

 上の写真の奥にみえるもうひとつの河川区域境界標石とその手前にある、11kの距離標石です。

 堤防の下流端から、下流方向へ続く更新世段丘の崖面です。左は堤防から高水敷に降る坂路で、泥は2015年10月13日の洪水が残していったものです。


若宮戸に築堤しない理由とされた豊岡町の浸水はどの程度だったのか?

 以上の準備作業を前提にして、ここから、いよいよ国交省が若宮戸の築堤を後回しにした理由だとしている、「平成14年7月洪水常総市豊岡町地先」の水害について、具体的にあきらかにする作業にはいります。

 そんなことは、いまさら“あきらかにする”までもなく、どこかに書いてあるはずでそれを見ればすむ話だ、というところでしょう。ところが、国交省の資料は冒頭にも示したこの写真一枚と、そこにつけられた「平成14年7月洪水常総市豊岡町地先」のひとことだけなのです。地図もありませんから、浸水した範囲はどこで、その面積はどれほどかはいっさいわかりません。浸水深はどの程度で、損害はどのようだったか、何も資料が残っていないのです。

 下館河川事務所は、鬼怒川の流量観測は毎年定期的におこなっていて(下館河川事務所が直接行うのではなく、かなりの料金を支払ったうえで測量会社に委託して実施するのですが)、洪水があればその水位・氾濫した地点・浸水範囲を観測して記録しているのです。


 別ページで示したとおり、2015(平成27)年9月の大水害や、2019(令和1)年10月の台風13号による水害については、測量会社から提出された報告書に、平面図・縦断図・痕跡水位一覧表とその前提となる測量の記録が掲載されているのです(ただし、そこで指摘したとおり、2019年の水害については、記録を改竄して事実を隠蔽しています)。

 どの範囲が浸水したのかを記載した地図などをさがしたのですが、公表されている文書類はまったく見当たりません。2002(平成14)年の流量観測業務報告書の開示を請求したところ、「すでに廃棄した」というのです。保存年限の10年を過ぎたからだというのですが、永久に保存すべき洪水・水害の記録が何も残らないのです。紙にしたところで2000ページ程度ですし、ディジタルデータでせいぜい数ギガバイトのpdfですから、毎年のものを全部保存したところでたいした負担になるわけでもないのに、全部捨てたというのです。江戸時代や明治期の洪水ですら、なんらかの記録は残っているのですが、それよりひどいのです。

 浸水範囲については、この際現地で聞くのが一番なので、当時から近くに住んでいらっしゃる住民の方に伺ったところ、下のとおりでした。要するに、立ち退きによって建造した堤防敷と堤外の高水敷になった範囲です。その面積は、約0.4haです。

 

 この浸水範囲の標高と、その西側(画面上方)一帯の標高がどのくらいか、検討することにします。5万分の1地形図や2万5千分の1地形図では詳細な標高は到底知り得ません。この一帯の標高を知ろうとすると、さきほどの管理基平面図のような3000分の1程度のかなり詳細な地図によらざるをえません。下は、同じ縮尺の「鬼怒川平面図」(https://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/kinugawa-heimenzu1.pdf)です。(それでも等高線がないのでいささか不都合ではありますが、一応現地を見てあるので、以下のとおりかなり詳細に記入してある各地点の数値で判断することにします。参考のために、あとに現地の写真を示します。)

 地図を見る前に、2002(平成14)年の洪水時の最高水位をはっきりさせなければなりません。先述のとおり国交省は観測データを廃棄してしまったのですが、重ねて尋ねたところ、そのうち距離標石ごとの水位(「痕跡水位」)だけを摘記した一覧表があるというのです(reference5に収録)。そんな回りくどいことをするなら、元の報告書を保存しておけばよいのに、意味不明の行動です。豊水橋右岸地点の水位データは、廃棄した報告書には記載されていたはずですが、摘記されていないので、すこし下流のR11.00kのデータを参照します。

 2002(平成14)年の洪水時の右岸11.00kの痕跡水位は、Y.P.=15.720mでした(以下すべてY.P.値)。なお、この地点の計画高水位(HWL)は、17.26mですから、(有効数字桁数が一致しませんが)それより1.54m低かったのです。なおまた、2015(平成27)年9月の水害時は17.68mです。2002(平成14)年の洪水位より1.96m高かったのです。2019(令和1)年10月の台風13号の際のデータは先述のとおり隠蔽されていますが、うかつにも隠し忘れた測量時の記録簿によれば17.10mです(別ページ参照)。

 2002(平成14)年の洪水時の標高を記した地図はないので、2013(平成25)年の測量データにもとづくこの鬼怒川平面図の数値で、豊岡の浸水地点とその周辺の標高を見ることにします。

 図中の標高数値はY.P.値で、国土地理院の地形図などのT.P.値に、0.84mを加えた値です。2002(平成14)年の洪水時にどの範囲まで浸水したか、およその見当をつけることにします。

 

 

 浸水した「豊岡町地先」一帯はすべての建物が撤去され、堤防が建造されたので様子が大きく変化しています。2002年時点の標高はわかりませんが、国交省が一枚だけ示した写真からすると、洪水位の15.720mを下回っていたことは明らかです。あの写真はおそらく洪水位が下がった時点のものでしょうが、それでも膝上まであるのですから、かなり低かったようです。15m程度、あるいはもっと低かったかも知れません。

 西側の土地にところどころ記された標高を、洪水位(15.720m)より高いものは赤四角で、低いものは青四角で示しました。

 洪水が及ぶのは、豊水橋と11.00kの標石の間ですが、現在堤防の内側になっている2棟のアパートのある土地は、17.1mとあるので、浸水しなかったことになります。アパートの南側(地図画面では左側)の住宅は2m弱の擁壁の上にあり(下左写真。左が新造堤防。2019年11月)、アパートの北側のガソリンスタンドは国道354号の路盤の高さまで3m以上盛り土してあるので(下右写真。右が新造堤防でその向こうの豊水橋上にバックホウを積んだトラック。同)、いずれも浸水していません。

 


 

 さらにこれらのアパート・住宅・ガソリンスタンドの周囲はどうでしょうか。右岸に広がる更新世段丘は標高19m前後ですから、当然浸水していません。

 更新世段丘の背後には、標高12.5mから13.6mの侵食谷がありますが、更新世段丘によって隔てられているので、ここも浸水していません。

 

 地図に等高線がないので、かわりに写真で傾斜の具体を示します。現地に立てば、地面の傾斜は判明なのに、写真だといささかわかりにくいのですが、何枚か示します(2021年8月撮影)。

 地図中の「交差点」を、「アパート」脇の道路からみたところ。アパート敷地境界のブロックとの角度から、道路が上り傾斜になっているのがわかります。

 このアパートは、浸水した区画より標高が若干高いので2002年にも浸水していません。

 「交差点」から、河道に向かう道路、すなわち先代の豊水橋の時代のメインストリートは、河道に向けて下り勾配になっています。

 「交差点」から、北側(地図画面では右)の国道354号をみたところ。

 かなりの上り勾配です。東(右)にいくとガソリンスタンド、さらにいくと豊水橋です。

 おなじ「交差点」で回れ右して南(地図画面では左)をみたところ。

 カメラを水平に構えています。沿道の住宅の写り具合でかなりの上り勾配なのがわかります。

 「交差点」から西(地図画面では上)に進み、地図に「19.2」とあるところから、北西(地図では斜め右上方)の国道354号方向をみたところ。

 向こう側の住宅の塀の基礎を見ると、国道に向けて上り勾配になっているのがわかります。


豊岡の築堤は、若宮戸築堤を後回しにする理由として妥当か?

 

 2002(平成14)年の「豊岡町地先」における浸水面積は約0.4ha(4000平方メートル)です。

 ちなみに、2015(平成27)年9月10日の若宮戸からの氾濫と三坂からの氾濫による浸水面積は、40平方キロメートル、すなわち40,000,000平方メートルです。氾濫水総量は、50,000,000㎥程度とみておくことにします。

 氾濫水総量の、算定根拠をまったく示さない国土交通省の公式発表は、34,000,000㎥です(http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000634942.pdf  )。これはダムでの貯水を過大評価(ほとんど虚偽)するために実際の氾濫量を過小評価するものであり論外ですが、国策派学者らはいずれも勧進元の国交省に気を使って、若宮戸の24.75k(正確には24.63k)からの氾濫をゼロ査定したり、あるいは若宮戸の25.35kの「溢水」点や三坂の破堤点からの流入の信頼性の低いシミュレーションで氾濫量を推定するという、土台無理な計算をしたうえで、概ねこの数値を踏襲=鵜呑みにしています。そのようななかで、土木学会の鬼怒川水害調査の「速報会」で東京理科大の大槻順朗は、氾濫総量を50,000,000㎥としています(https://www.youtube.com/watch?v=Nm0PJQtBlNs&app=desktop 1:08:00以降)。

 もし若宮戸の築堤が実行され、そこからの氾濫がなかったとしても、三坂での破堤は起きたでしょう。それどころか、若宮戸地点で氾濫することによる河道の流量減少と水位低下がないので、他地点での氾濫が起きた可能性もあります(下流には限りません。背水効果による上流での氾濫もありえます)。そうしたことは全部捨象して、三坂での氾濫だけが起きたと仮定し、その氾濫量は氾濫総量の6割程度、30,000,000㎥だったと仮定します(別ページ参照)。その場合、左岸の浸水面積がどの程度になるのかが問題になりますが、そんなものはだれも検討していません(国交省は雑駁な試算はしたに違いありませんが、当然お蔵入りでしょう)。若宮戸からの氾濫が起きなかったとすると、県道24号線の北側ほとんど浸水しないでしょうから、それだけでも浸水面積は相当少なくなります。三坂以南の自然堤防上の住宅地や耕作地などの浸水面積はある程度は少なくなったでしょう。しかし、若宮戸起源の氾濫水がなくても、三坂地点より下流側の後背低地の浸水面積はほとんど同じだったでしょう(浸水深は異なりますが)。三坂からの氾濫だけでも40平方キロメートルの6割から7割程度は浸水被害を受けた、と看做すことができるでしょう。つまり、若宮戸に築堤していれば、差し引き6ないし8平方キロメートル程度の氾濫を防ぐことができた、ということです。(以上、素人の愚考にすぎませんが、専門家の先生方がだれもやらないので仕方ありません……。)

 国交省の「下流優先」論は、豊岡での2002(平成14)年の4000平方メートルの浸水被害への対策を口実にして、2015(平成27)年の6,000,000から8,000,000平方メートルの浸水被害をつくりだす謬論にほかなりません。

 豊岡の築堤と若宮戸の築堤は、二者択一というわけではありません。両方実施すべきことなのです。国交省が訴訟において苦し紛れに持ち出した「下流優先論」の論理そのものが間違っている、というだけの話です。「下流優先論」あるいは「上下流バランス論」は、信じやすい人をコロリと騙すような妙な説得力?があるようですが、そもそもこんなザル論法は言っている本人さえ信じていないのです。豊岡の対岸の水海道元町の無堤区間は放置しておいたため、2015(平成27)年9月にはあわや大氾濫寸前の溢水が起きています(次ページ参照)。さらに、それから4年も経った2019(令和1)年10月には、豊岡(R11.00k付近)よりもっと下流のつくばみらい市絹の台(L5.50k)の無堤区間で、築堤が遅れたために幼稚園の園舎が床上浸水したのです(別ページ、さらに別ページ参照)。

 豊岡についていうと、どんなにおそくとも1965(昭和40)年に現在の豊水橋が開通した時点で、先代豊水橋のたもとの街区について対策を講ずるべきだったのです。策はいろいろ考えられます。すなわち、堤防で囲む、地盤全体を嵩上げする、下流側の更新世段丘の崖面に繋がるように築堤する、など。それを放置したあげく、2002(平成14)年の浸水被害が水海道市街地から丸見えになったので、若宮戸など他の重要箇所を放置する一方で、ここだけいち早く対策して国交省の面目を維持した、というところでしょう(3つめの策を実施、すなわち2006〔平成18〕年着工、2008〔平成20〕年完了)。

 豊岡を40年以上も漫然と放置したあげくに浸水被害を生ぜしめ、あわてて築堤しなければならなかっただけの話であり、あとになって「下流優先論」などという的外れの屁理屈をつけたところで、若宮戸の築堤を後回しにする理由にはなりえません。

 


豊岡を放置した場合の2015年の氾濫被害想定

 

 ついでに、かりに豊岡に築堤しなかった場合、2015(平成27)年9月の洪水でどうなっていたかを考えてみます。

 2015年9月10日の最高水位は、右岸豊水橋地点で17.89m、右岸11.00kで17.68m(2002〔平成14〕年は15.720m)でした(左岸11.00k地点付近の鬼怒川水海道水位流量観測所では17.97m)。現在、堤防すぐそばにある2棟のアパートは床上浸水、その西側の住宅十軒ほどが床下浸水被害を受けることになったでしょう。しかし、豊水橋から降ってきた国道354号の信号機のある交差点(18.5m)や、図の上辺付近の住宅地(19.2m)までは浸水しません。新設堤防の下流端の住宅およびそこから南側(図の左方)の住宅地(19.0m)や西側(図の上方)の住宅地(19.9m)は、いずれもある程度の標高のある更新世段丘上にあるので、ここも浸水しません。この地点での浸水は、後背地に激流となって流れ込む、というようなものではありません。

 浸水面積は、最大でも10,000平方メートル(1ヘクタール=縦100m×横100m=野球のプレイグランドくらいの広さ)程度と推定するのが妥当でしょう(下図)。

 これでは狭すぎるという人には反証となるデータを示していただきたいと存じますが、それでも5割増しとか2倍ということはないでしょう。


 したがって新規堤防の建造によって「堤内地」となり、氾濫から守られることになったのは、差し引き6,000平方メートル(0.6ヘクタール)程度です。

 


 

 下に、地図ソフトウェア「スーパー地形」(iOS版)の図を示します(「スーパー地形データ」と地形図を重ね合わせ)。いささか解像度が低いのですが、上の「0.6ha」の部分、すなわち2棟のアパートと先に見た「交差点」周辺の標高の低い土地の様子がよくわかります。

 

 

 国土交通省が、若宮戸を後回しにしてまで優先的に堤防を建設する必要があったと主張する「豊岡町地先」の実情は、以上のとおりです。その根拠とされる「下流優先論」「上下流バランス論」が妥当なものであるか否かについては、なんらの逡巡も留保もなく、はっきりと断言することができます。

 しかし、それを述べるのは、おなじく若宮戸を後回しにして対応する必要があったという、対岸の水海道市街地について見てからにします。左岸の水海道の更新世段丘地点については、これとは別の、さらに重大な問題が露呈することになります。