エジプトはナイルの賜物

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 ローマ帝国は、黒海も含めた地中海全域を支配した空前絶後の国家でした。このローマ帝国を引き継いだのは、イタリアからジブラルタルまでの部分を除き、地中海沿岸の80%を支配したオスマン帝国です。現代のローマ帝国をめざすEU(ヨーロッパ連合)は、そのオスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国まで版図に加えましたが、ジブラルタルからエジプト・シリアまでを併合するのはおそらく不可能でしょう。それどころかギリシャで躓いてしまいました。

 地中海全域で、もっとも枢要な土地はエジプトです。オスマン帝国は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を征服(1453年)したのち、エジプトを征服(1517年)するのに、64年もかかりました。当時エジプトを支配していたのは、無敵のモンゴル騎馬隊を唯一正面から撃破(1260年)したトルコ騎兵軍団のマムルーク王朝でしたが、おなじくトルコ族のオスマン帝国もおおいに手を焼いたのです。ローマにしても、ローマ史上もっとも有能な軍人政治家といえるカエサルが、しかもその男ざかりの時期にエジプトに乗り込んだのに小娘クレオパトラに手もなく籠絡され、不肖の子分オクタヴィアーヌスが決着をつけるまで18年もかかりました。

 ナポレオン・ボナパルトは、ピラミッドの下でかっこつけたつもりですが、間もなく行き詰まって全軍を置き去りにしてパリに逃げ戻り、ブリュメール18日のクーデタでフランス革命を収束させ共和国を手に入れました。フランス征服よりも、エジプト征服の方がはるかに困難であり、ナポレオンはロゼッタ村でみつけた石碑さえイギリス軍に横取りされてしまいました。ひるがえって、アレクサンドロスは、ペルシャ帝国征服の第一歩を、イラン高原ではなく遠回りしてエジプト征服から踏み出したのですが、それに成功した時点でアケメネス家のペルシャ帝国などもはや敵ではなかったのでした。

 エジプトは、地中海どころか、世界で最もゆたかな土地でしょう。これに匹敵するのは、ガンジスの流域と、長江流域、そしてカリフォルニア盆地くらいでしょう。エジプトの豊かさをもたらしたのはもちろんナイルです。

 ナイルを、まず飛行機から眺め、ついでカイロの対岸のギザとその近郊(左上地図)のナイルの緑地、そしてカイロの南、約500kmのクソール(新王国時代の首都テーベ、赤バルーン、拡大図は左下地図)におけるナイルの豊かな流れと緑濃い「谷」の様子をみます。