鬼怒川水害まさかの三坂 10

 

 

高水敷掘削箇所の崩壊 1

 

Feb., 22, 2020

 

 住宅1の住民の方が撮影されたVTRについて本項目の6ページと7ページで検討した際には、堤防が写っている部分だけを取り出しましたが、その前後のカットには住宅9とその周囲の氾濫水の様子も記録されています。そこから、2枚を切り出します。

 1枚目は、1階から南東方向の住宅9を撮ったものです。蔦が絡んでいるフェンスの手前が、画面左奥の道路から住宅1へ続く道(幅員3.6mの私道)の上を流れる氾濫水です。

 

 次は、2階のベランダから撮影したものです。

 住民から提供されたVTRについて、関東地方整備局はいくつかのカットの選択・繋ぎ合わせをおこなったでしょう。まさか前後の入れ替えはしていないとは思いますが、時刻も不明です。ビデオカメラの時刻合わせがおこなわれていなかったとしても、カットごとの相対的時刻はわかるはずですが、公表データからは削除されています。

 したがって、スライダーの数値は実際の時間差ではありません。内容から見ていずれもD区間がE区間側から破堤しはじめるころで、数分からせいぜい10分程度の時間差だと思われます。13:00ころだと推定されます。(7ページ参照)

 住宅9が傾いているのはカメラのアングルのせいです。建物が外溝とコンクリートの基礎ごと北側に落ち込んで傾く前の状態です。住宅2との間から流れてきた氾濫水と、住宅1と2の間からの氾濫水とがぶつかりあい、画面左下部あたりにいったん落ち込んでいるようです。ただし、そこに吸い込まれているわけではありません。

 

 前ページでみたとおり、「水煙」現象は、篠山水門のCCTVで見る限り、13:49から14:10まで連続的に起きているのですから、このVTR画像のかなり後です。14:00前後には、破堤したC区間からダイレクトに氾濫水が突進してきているのですから、13:00ころよりさらに激烈になっていたはずです。「水煙」は、その氾濫水を掻き分けるようにして、かなりの圧力と量の水塊が地中から噴き上げた現象なのです。

 新堤防上から見た、この付近の現状です。(2019年9月)

 地盤が流失したうえ、1階部分を氾濫水が貫流して大破した住宅2は補修不可能だったようで、地盤を再建した上で建て替えられました。

 住宅1は、1階部分は大きく損傷しましたが、外壁も含めて大掛かりな補修をしたようです。ビデオに柱が写っていた二階のベランダも交換されています。住宅2と堤防との間にあった車庫は更地になっています。

 住宅9は、当初は基礎ごと引き揚げて傾きを直し、補修したのだと誤認していました。しかし、そのような工事は不可能です。同じ平家で、寄棟屋根、外壁のサイディングの形や色も同じですが、よく見ると窓やドアの位置が少し違っています。全部撤去のうえ、地盤を再建して立て直されたのです。(2020.2.28. 訂正)


 東側の道路からみたところです。(2020年2月)

 右側のコンクリートと一部アスファルト舗装道路が住宅1への二間道路、左側の砕石敷道路が住宅2への二間道路です(にけん=3.6m)。いずれも河道側へ緩やかな上り傾斜になっています。住宅1と住宅2の敷地はいずれも「旗竿地」です。右手前は加藤桐材工場です。

 道路は元の通りに再建されたようです。住宅2に入る道路面から、再建された住宅9の西側軒先までは、約3.6mです。水害前後で屋根の高さは極端には変わっていないでしょうから、水煙は道路面から約3mほどの高さまで噴き上がっていたようです。もちろん噴出したのはその下からです。


水煙は何だったのか? 水はどこから来たのか?

 

 CCTVの動画から「水煙」現象を発見したのは当ウェブサイトが唯一、と言いたいところですが、その前後を26分間もとばして静止画像を切り出して公表しているところをみると、関東地方整備局はこの現象を認識しているに違いありません。

 「鬼怒川水害の真相 三坂町 1」以下で、関東地方整備局が当初、三坂の破堤原因を「越水」一本槍で行こうとしていたところ、身内のはずの東京大学工学部沖大幹(おき・たいかん)研究室の若手の長靴のひと踏みであえなく挫折し、越水とパイピングとの共働原因論に転換した事情について見ました。その後、「パイピング」共働原因論の傍証がいくつか出てきましたので、それらを見てゆくことにします。

 「水煙」は、「パイピング」がおきたことを立証する事実である、というのがこれから提出する仮説です。

 「水煙」現象と関係がありそうな、そして「パイピング」と関係がありそうな事象が、左岸21k付近の高水敷の形状と、そこにできた「開口」です。 以下、いささか煩雑ですが、順に、高水敷の段付き、ついでそこにできた開口を、示します。

 

(1)高水敷と低水敷の段差、あるいは高水敷の第1の段付き

 

 パーソナルコンピュータ(Windows, MacOS, Linux)のグーグルアース(GoogleEarth Pro)では過去の衛星写真画像を選択表示できます(画面上のアイコン群の中ほど、時計マークをクリックすると、左上にスライダーが現れます)。これは2013年6月4日の画像です。水害の2年あまり前です。描き込んだ中心の黄十字は水煙の地点です。

 

 左岸21k付近の高水敷はいささか複雑な形状を呈しています。少々遠回りですが、その複雑さについて瞥見しておかなければなりません。

 「複雑な形状」と言いましたが、困ったことにこの高水敷については国土地理院の地図でも様々な表記がなされているのです。

 下に「地理院地図」(https://maps.gsi.go.jp/#16/36.099212/139.966872/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1)の「ベースマップ」(左上)と、画面上のボタン「情報」ボタンをクリックした「土地の特徴を示した地図」の中の「治水地形分類図」の「初版」(左下)と「更新版」(右上)、さらに「土地条件図」(右下)を示します。いずれもさきほどのグーグルアースの衛星写真と同じ方位(左が北)になるよう回転させてあります。画面中心にデフォルトで表示される黒十字が水煙の地点に来るように、位置合わせをしてあります。


 

 右下の「土地条件図」では、河道に接している白地に青点が低水敷、黄地に茶点が高水敷とされています(https://www.gsi.go.jp/common/000191088.png)。したがって、左下の「治水地形分類図・初版」の白地に茶点は低水敷ということですが、高水敷は白抜きになっています。左上の「ベースマップ」と右上の「治水地形分類図・更新版」では、その高水敷と低水敷が全部白抜きになっています。高水敷ないし低水敷を白で表示しているというのではなく、無表示ということです。アジア太平洋戦争中の地図で軍事施設が白抜きだったのと同じ?です。

 高水敷と低水敷の区別などそれほど難しいことではないと思っていたのですが、そうでもないようです。

 

 ここで想起するのは若宮戸(わかみやど)のことです。河畔砂丘(かはんさきゅう) river bank dune を「自然堤防 natural levee 」と呼称するような、きちんと勉強している高校生なら到底やらないようなとんでもない誤謬が、いまだに是正されないのです。是正されないどころか、これまで若宮戸の河畔砂丘を「いわゆる自然堤防」と言ってきた国土交通省は、鬼怒川水害の国家賠償請求訴訟において、突然、若宮戸の河畔砂丘は「砂堆(さたい)」だと言い出したのです(「鹿沼のダム」参照)。

 この点については国土地理院の説明がそもそも不適切で、「砂州・砂堆」と「河畔砂丘」とを混同・誤解させるような説明をしているのです。たとえば、「治水地形分類図解説書」(https://www.gsi.go.jp/common/000106990.pdf)で、「砂州・砂丘」について次のように述べています(6ページ。以下、ボールド体・傍線は引用者)。

 

「砂丘」は、風によって運ばれた砂が堆積して比高2〜3m程度以上の丘になった地形をいい、「砂州や砂堆」は波浪や沿岸流によって形成された地形をいう。

「砂州・砂丘」には、「砂丘(河畔砂丘も含 む。)」、「砂州」及び「砂堆」を一括して区分する

 

風によって形成された(=風成)地形と水によって形成された(=水成)地形を、区別しないで「一括して区分する」というのですから、混乱しないはずはありません。

 別の箇所でも次の通り解説しています。

 

砂州・砂堆は現在及び過去の海岸、湖岸付近にあって波浪、沿岸流によってできた、砂または礫からなる浜堤、砂州・砂嘴などの微高地。砂丘風によって運ばれた砂からなる小高い丘

 

砂州・砂堆は……浜堤、砂州・砂嘴などの微高地」と同語反復する始末ですし、「海岸、湖岸」だけあげて、肝心の河川は脱落しています。何を言っているのかほとんど意味不明です。

 被告国の訴訟担当者らはおそらくこの国土地理院の記述をにわか勉強したあげく、河畔砂丘を砂堆だと強弁しはじめたのです。判事がこれを踏襲して判決文を書くようなことになれば、重要判例として判例集に登載され、将来にわたって日本の法曹(と河川行政当局)の愚昧ぶりを曝け出すことになるでしょう。

 

 それにしても、河畔砂丘と自然堤防の混同、ひいては河畔砂丘と砂堆の同一視は、ただの無知による誤解ですが、高水敷と低水敷はいささか事情が異なるようです。

 国土地理院は「土地条件図」と「治水地形分類図・初版」においては高水敷と低水敷を区別していたのですが、その後、「治水地形分類図・更新版」と現在の地形図では区分するのをやめてしまったのです。何も描かず(草地等の表記を除く)、何とも明記しないというのが国土地理院の方針になっているようです。さきに、豊岡地区についても記述の食い違いを指摘しましたが(ダムと堤防 2)、高水敷を図示しようとすると難しい事情に遭遇することになるようです。

 本筋から外れてしまうのですが、無視するわけにもいきませんので、簡単に触れておきます。

 次は、国土交通省による「高水敷」と「低水路」の解説です(http://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/jiten/yougo/03_04.htm)。「低水路」は「低水敷」のことです。

 


 

 砂州は、高水敷と低水敷のいずれなのでしょうか。この「解説」では、そういう面倒な要素は無視しています。

 さきほどの「土地条件図」では、低水敷として表記されているのは、砂州(寄州 side bar と中州 braid bar )です。それらは高水敷には含めないようです。一般的には、砂州は高水敷に含めるようですし、鬼怒川に関する国土交通省の文書でも高水敷として扱っています。初歩的なことだと思っていたのですが、そう単純なことではないようです。高水敷の定義および範囲についての議論は後ほどすることにして、この左岸21k付近の地形の問題に戻ります。

 

 さきほどの4枚の地図のうち、「土地条件図」で高水敷と低水敷の境界になっていた線は、ほかの3枚では15mの等高線になっています。補助的な等高線の間隔である5m間隔にたまたま該当したからであって、これがもし12mとかあるいは18mだったらまったく引かれなかった線です。とにもかくにもこの15mの線で描画されているのは、その河道側を低水敷というのであれば、低水敷と高水敷に標高差があるということです。あるいは河道側も高水敷だというのであれば、この地点において高水敷が段付きになっているということです。

 この段付きは、「鬼怒川平面図」に詳細に描かれています。ただし、地形図等は T.P. であり、「鬼怒川平面図」は、Y.P. ですから、0.84mだけ違った表記になります。地形図の T.P.  15mは、「鬼怒川平面図」では、Y.P. 15.84m、すなわち約16mになります。文字は逆さになりますが、方位を合わせてあります。(橙十字は「水煙」の地点です。)

 Y.P. 14m程度のところが「土地条件図」でいう低水敷で、Y.P. 17mから18mのところが「土地条件図」でいう高水敷であり、その間が3mほどの崖になっているということです。砂州を高水敷に含めるのだとすると、高水敷が3mほどの崖をはさんで2段になっているということです。

 

 この段付きについては、のちほど詳細に検討することにして、これとは別の段付きについてみることにします。

 少々回り道をしたのですが、次なる第2の段付きが問題となる箇所なのです。このふたつを混同しないように、あえて第1の段付きについても一瞥したものです。

 


(2)高水敷の第2の段付き

 これは水害の翌日、9月11日午前10時頃の衛星写真です。

 左岸21k付近の決壊区間には、上でみた第1の段付き(青線)と堤防(黄と橙で区間表示)との間の高水敷に、第2の段付き(緑線)がありました。それがまさに、この日この瞬間に、下がり始めた洪水の水位と一致したのです。これはこの前にもこの後にも起きなかった、ただ一度だけの現象です。

 

 この第2の段付きがいつ、どのようにして形成されたかについては、さきの第1の段付きの来歴とあわせて、次々ページで詳細に検討することにして、そこに生じた現象を見ることにします。

 


(3)高水敷の二つめの段付き部にできた〈連続開口〉

 

 「鬼怒川堤防調査委員会」の第2回会合の際の文書中の「堤防決壊のプロセス」の説明図です(https://www.ktr.mlit.go.jp/river/bousai/index00000036.html、25ページ)。〈越水・パイピング共働原因論〉への転換後のものですが、異なった区間(順に、B・D・C・全域)の写真を、あたかも同じ地点における一連の出来事であるかのようにいうもので、きわめて不適切なのですが、今ここでは「STEP4」に決壊区間の全景が写っているのでそれだけ見ることにします。

 

 正面やや右にB区間のケヤキ住宅2住宅9が見えます。ケヤキの左下には前夜のうちにB区間の洗掘断面に掛けられたブルーシートが見えます。手前が下流側の破堤末端です。

 手前左側で高水敷面から、完全に流失した堤防跡にできた押堀(おっぽり。「落堀」というのは誤用)へ氾濫が続いているのがわかります。この一枚だけでは何とも言えませんが、まるで鍾乳洞の「百枚皿」のように見えます。

 「9/11 7:08撮影」とありますから、翌朝になってもまだ流入がつづいていたことがわかります。越水に気づいたのが9月10日の11:10で(越水開始ではありません。3ページ参照)、最初にE区間が破堤したのが、一応「12:50」ということになっています(根拠薄弱です。5ページ参照)。しかし、いつまで氾濫が続いたのか誰も何も言っていないのですが(国策派学者による「シミュレーション」では、何らかの情報を「外挿」?しているようですが区々ですし、根拠も何も示されていません。)、このとおり、9月11日7:08にはまだ氾濫が続いていたことがわかります。

 

 つぎは、国土交通省が近畿地方整備局から呼び寄せたヘリコプター「きんき号」で撮影した航空写真です(IMG 1240.jpg)。9月11日の9:21ですが、三坂での氾濫はすでに終了しているようです。(さきほどの(2)末尾のグーグルアースの航空写真〔おそらく衛星写真〕は、時刻までは明示されていないのですが、地上の影の角度からおそらく午前10時ころだと推定できます(推定根拠は別ページ)。つまりこの直後です。)

 この地点では高水敷が2段になっています。河岸段丘のわけはありません。あとで詳しく触れることになりますが、砂の掘削によるもので、完全に人為的な理由です。

 仮に「上段」「下段」と言うことにします。9月11日の7:08には、さきほどの写真のとおり、下段は完全に水面下ですが上段が姿を表しつつありました。9:21には水位が下がり、上段がぼ水面上に出ています。氾濫は終わったようです。

 

 9月11日のこの時点では、水位は高水敷の上段をすこし下回った程度です。

 翌12日になると、さらに水位が下がり、高水敷上段の縁、水煙のあがった地点から河道に垂線をおろしたあたりに興味深いものが姿を現します。

 グーグル・クライシス・レスポンスが、9月12日の9:01から9:02に撮影した航空写真です(DSC1519、DSC1509、DSC1506、DSC1502)。

 グーグル・クライシス・レスポンスの航空写真については、これまでは若宮戸や八間堀川などを9月11日に撮影したものを見てきました。もちろん、三坂についても9月11日のものがあり、鮮明な画像が高解像度(2,400万画素)のまま公開されていて極めて重要なのですが、ここでは水位が下がって、第2の段付きの縁が見えるようになる翌12日の写真であることが重要なのです。