この「24.75k」については、本来24.63kとすべきところ、国交省が不適切にも「24.75k」としていたのです。本www.naturalright.org もだいぶ長い間この誤謬に従ってしまいました。「24.75kにおける氾濫」等を、「24.63kにおける氾濫」等に訂正します。

 すでに作成した文章・図の記述を全部訂正するのは困難ですので、元の記述のままとしますが、どうかこの点ご承知ください。


若宮戸の河畔砂丘 4 24.75kの氾濫の本質

整地は終わったが、住宅は撤去前。奥は慰霊塔と対岸の紅白鉄塔

 

20, Dec., 2018. (改訂 20, Jan., 2019)

 

 ウェブサイト「平成27年関東・東北豪雨災害〜鬼怒川水害〜」(http://kinugawa-suigai.seesaa.net)に、つぎのような記述があります。(http://kinugawa-suigai.seesaa.net/article/443550297.html

 


 

いささか長い前置き

 

 24.75kの氾濫は、さきに見たとおり、シミュレーションと称する、あらかじめバイアスのかかった後追いの研究を含め、国土交通省やそれに追随する国策派研究者たちの多くによって無視され続けています。若宮戸25.35kと三坂は、ヘリからの一大スペクタクル・ショーの垂れ流しのおかげでいまさら隠しようもないのですが、24.75kの当日の氾濫の目撃者は午前6時30分まで踏みとどまっていた近隣住民数人と、おそらく午後にたどりついた産経新聞のカメラマンだけです。雲霞のごとく若宮戸に飛来したであろう報道企業のヘリコプターは、ソーラーパネルにだけカメラを向けたので、24.75kは空撮動画のフレームから外れてしまって、かろうじて国交省と防災科学技術研究所の航空写真が数枚ある程度です。若宮戸25.35kと三坂に匹敵する大氾濫だったのですが、3年もたったのにその氾濫の全貌はまったく明らかになっていません。ゼロ査定のまま永久にお蔵入りとなる気配が濃厚です。

 国策治水・国策利水を批判してきた人々の間でも、24.75kの軽視・無視の傾向は強く、現地調査のうえで一応の分析をおこない、その成果を公表しているものはみあたりません。そのような中、この「平成27年関東・東北豪雨災害〜鬼怒川水害〜」の運営者はひとり気を吐く存在で、24.75kの氾濫メカニズムについて分析している事実上唯一の存在です。八間堀川に関しては、当 naturalright.org とはおおいに見解を異にするところですが、当方が中途半端な分析のまま3年間休眠しているあいだに、膨大な資料を集積し、とりわけそれをウェブサイト上で、もったいぶったり隠したりすることなく提供し続けていることには、衷心より賛嘆と感謝の念をいだくものです。

 現在、 kinugawa-suigai.seesaa.net が提供する情報を無視して鬼怒川水害を分析することは、ほとんど不可能でしょう。(国交省から不公正な優遇措置をうける国策派研究者は別ですが。そうは言っても、かれらは発表論文の内容はもちろん、そもそも研究の方向性や目的まで規制されているのです。)当 naturalright.org の「若宮戸の河畔砂丘」はここまで、近くに住んでいる暇人として現地を歩いて撮りためた写真を並べてきましたが、このページでは、 kinugawa-suigai.seesaa.net の恩恵をうけ、24.75kの氾濫の因果関係をあきらかにしようと思います。 kinugawa-suigai.seesaa.net の見解を批判することもしますが、それはkinugawa-suigai.seesaa.net に促されて事実究明をせんがためのものであり、こうした探求行為は、kinugawa-suigai.seesaa.net の働きかけ抜きにはありえないことなのです。情報の共有と、相互の批判抜きにものごとの真相があきらかになることは、絶対にありません。情報を出し惜しみし、自己の見解を批判にさらすことを回避し、批判を受け止めることをせず無視しているのでは、結局その見解はいつまでたっても短慮の域をでないでしょう。

 以下、長い前置きにあわせて、いささか長いページとなりますが、24.75kの氾濫についての検討をはじめます。

 

 


(1)市道東0280号線は氾濫の原因か?

市道東0280号線の切り通しが氾濫の原因だったとする説

 

 24.75kの氾濫のメカニズムについて、唯一見解を述べた kinugawa-suigai.seesaa.net の記述をみることから分析をはじめます。長々と前口上を述べたため、 kinugawa-suigai.seesaa.net の見解がページの上の方に行ってしまったので再掲します。

 


 

 

 kinugawa-suigai.seesaa.net は、「遅くとも昭和22年には、この道路ができ、自然堤防が切り開かれています」としています。この市道東0280号線を作る際に、河畔砂丘が掘削されたと考えているようです(河畔砂丘〔かはんさきゅう〕を「自然堤防」とする混乱があります)。市道東0280号線の前身となった道路を建設するために図中のBの細い地形とAの部分を切り離し、そこが切り通しになっていたため、2015年9月10日の水位上昇によって、そこから氾濫が起きたというものです。

 kinugawa-suigai.seesaa.net は、市道東0280号線のための河畔砂丘の切り開きを認識していながらこれを放置した国交省に河川管理上の責任があると主張するもので、損害賠償請求の民事訴訟ないし国家賠償請求訴訟を意識しているようですが、その前提事実となる氾濫の原因としては、市道東0280号線ないしその前身となる道路建設のための河畔砂丘(「自然堤防」)の掘削を挙げているものです。以下、この見解について検討します。

 まず、ここで問題になっている現在の常総市道東0280号線の若宮戸(わかみやど)河畔砂丘内の区間は、「迅速測図(じんそくそくず)」(大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部、1886〔明治19〕年完成)を見ると、すでに19世紀末には存在していることがわかります。河畔砂丘内ではルートもまったく同じです。画面中心の十字マークが〝カサンドラ・クロス〟です(下に防災科学技術研究所のウェブサイトから引用。http://map03.ecom-plat.jp/map/map/?cid=20&gid=524&mid=2261 画面左下の選択ウィンドウのとおり「基本地図」の「迅速測図」を選択し、上の「主題図」の各チェックボックスのチェックを外します。迅速測図は、沼津高等専門学校のウェブサイトでも閲覧可能です。reference4のページ参照)。

 


国交省による原因不明氾濫説

 

 次に、水害のはるか以前に「自然堤防が切り開かれ」ていたとする見解に対して、まさにこの2015年の水害によって、「自然堤防が失われ」たとする国土交通省の説明を見ます。

 2015年10月13日づけで掲載された「『平成27年9月関東・東北豪雨』に係る鬼怒川の洪水被害及び復旧状況等について(平成27年10月13日18:00時点)」という文書(http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000633805.pdf)において、国交省は「若宮戸地先の下流部(24.75k)からも溢水。いわゆる自然堤防が失われ、深掘れ(6m程度)が発生」としています。国交省は、水害直後にウェブサイトで公表した文書や写真の多くをすでに削除していますが、この文書は3年たったいまも掲載していますから、現在もなお公式見解として維持しているようです。若宮戸河畔砂丘での溢水に関する2ページ分を引用します。

 

 

 おもに25.35kの件が中心であり、24.75kはついでに少しだけ触れている程度です。ぶっきら棒な片言の日本語によるごく短い説明なので何をいっているのかさっぱり要領をえません。河畔砂丘 river bank dune というべきところをわざと「自然堤防」(natural levee)と誤称し、呆れたことに「自然堤防」の解説までしています。作為的に用語上の混乱をもちこんで話をややこしくしているのです。押堀(おっぽり)を「深掘れ」と呼ぶのも作為的なスリカエです。「深掘れ(ふかぼれ)」とは、国土交通省中部地方整備局によれば、「激しい流れや波浪などにより、堤防の土が削り取られること。深掘れを受けた箇所が広がると堤防が弱くなり、危険性が高まる」とされます(http://www.cbr.mlit.go.jp/kisojyo/explanation/)。24.75kの押堀は堤防からはだいぶ離れていますから、「深掘れ」ではありません。関東地方整備局(さいたま市)は、国土交通省のなかでもとりわけ無知であるか、もしくは虚言癖があるようです。

 24.75kについては1ページ目の写真に青破線の矢印をひとつ記入してあるだけで、その氾濫水がどのようにして河道からその押堀ができた地点(知らんふりをしていますが、ちょうど河川区域の境界線です)まで流入したか、そしてそこからどのように(河川区域外の)耕地や住宅地に流入したかについては一切述べないなど、まるで説明になっていません。

 2ページ目に掲載している段彩図と併せ考えると、まさに水害の当日、2015年9月10日に、24.75kで河畔砂丘の洗掘が起きたと主張しているようです。とはいうものの、この「段彩図」にはいろいろとおかしなところがあります。

 

 「H27標高段彩図」で、里程表示の「24.75k」の位置がずれていたり(右の「地理院地図」「治水地形分類図 更新版」は「XX.25」を「XX.2」と、「XX.75」を「XX.8」と表記するのですが、ここで「24.8」とあるのが正しい「24.75k」です)、河道から押堀に向かう弧状の赤矢印が図からはみ出している杜撰さもさることながら、左の「H18標高段彩図」における市道東0280号線の描線は妙に太いうえ、くっきりと不自然な陰影がついています。とても幅員3mもない未舗装路には見えません。とりわけ黒破線円中心の河畔砂丘(「自然堤防」)を横断する部分では、まるで河畔砂丘を乗り越えているかのような3D的?画像になっています。航空測量データに基づいて作成されたとしたら到底ありえないものです。

 右の「H27標高段彩図」のソーラーパネルも不自然な明瞭さです。家屋がぼんやりしているのに、ソーラーパネルが一枚ずつ識別でき、しかも陰影をつけすぎてまるで北斜面に見えてしまうなど、操作をやりすぎて馬脚を現しています。「A」地点のすぐ南西側にある同じニワトリ小屋が左図と右図でまったく違っていて、右図ではクッキリし過ぎているのも同様です。強調する範囲設定を誤ったのでしょう。


 なによりおかしいのは、6mの深さがあるなら、凡例のとおり濃青になっていなければならない押堀が、周囲の緑青とまったく同じ色になっていることです。つまりあの巨大な押堀「深掘れ」)が存在していないのです。さらに、24.75k線と25k線の間の土地のうち、慰霊塔のある〝畝〟の北東側(黒破線円の上側)は激烈な氾濫によってかなり地形が変化しているのですが、ここでもあるはずの押堀がありません。いっぽう、〝畝〟の南西側(黒破線円の左側)ではかなりの広さにわたって青が黄緑に変化し、つまり1m以上も標高があがったことになっていますが、このような事実はなかったのです。「被災後」図だけにある「標高凡例」欄のボケ具合も不釣り合いです。

 人為的な修整がだいぶ施されているように見受けられます。お絵かきソフトで書き加えたのではないでしょうが、描画対象の設定、強調度合い、斜め光線のあて方などを、一枚の画面内でも部分的に、自由自在に変えられるのでしょう。もし河川区域境界線と一致する市道東0283号線の路面が、kinugawa-suigai.seesaa.net がいうように、水害以前に河畔砂丘を切り開いて横断していたとすると、知っていながら放置していたことになり国交省の責任を自白したことになってしまうので、それを回避するためにわざと市道東0283号線が河畔砂丘を乗り越えているようにクッキリ強調したら、立体感表現をやりすぎて蛇行してしまった、ということでしょう。つまり、「110年に一度の豪雨」によって、その時までは存在していた河畔砂丘(「自然堤防」と誤称)が、この部分で洗掘されて溢水が起きた、とするストーリーです。

 

 


 じつは、当 naturalright.org も、2015年11月に、上の国交省文書を見た上で、24.75k地点の氾濫経路についてつぎのとおり述べました(鬼怒川水害の真相 若宮戸)。字下げして引用します。

 河川水(9月10日の最高水位は21.16mと推定されます。)は、標高20.2m程度の川側の砂丘(残丘)を越え、おそらく砂が採取されて平坦になった部分(下の写真イ、標高17.0m)へ、矢印のように流れ込み、ついで矢印の狭い部分(20.9m)を通り抜けて、氾濫後に国交省が長さ117.5mの「土嚢の堤防もどき」をつくる平坦な部分(16.8m)に流れ込み(ここの落差が大きいため、そこに落堀〔国交省文書の「深掘れ(6m程度)」、下の写真ロ〕を形成したようです)、最後に矢印の狭い部分(18.4m)から噴出して矢印の先端部にあった納屋(下の写真ハ)を破壊して道路(18.1m)を隔てた向かいの家まで押し流し、そこから一気にひろがって氾濫したものと思われます。

(以上の土地標高データは、国土地理院の「地理院地図 電子国土web」の航空レーザ測量によるものです測定間隔は5m四方、誤差は±0.3m、http://maps.gsi.go.jp/development/demapi.pdf〕。9月10日の鬼怒川の最高水位については、別ページ参照ください。ただし、そのページではY.P. 〔江戸川工事基準面〕で「22m」と表示しているので、地形図などのT.P.〔東京湾中等潮位〕より0.84m大きな数値になります〔Y.P.=T.P.+0.84〕。したがって、9月10日の最高水位とされるY.P. 値の「+22m」は、T.P. 値では、「+21.16m」となります。〔http://www.ktr.mlit.go.jp/tonege/suii/hyou.htm


 

 「地理院地図」における標高情報は、その後、水害後のものに変更されており、とりわけ問題の部分は押堀ができた状態のものになり現在にいたっています。このため、水害前のデータとして文中に示した「20.9m」が厳密にはどの地点のものなのか、今となっては示しようもないのですが、それはともかく、この記事では、この地点が国土交通省がいう若宮戸地先における最高水位より標高が低かったと指摘するのみであり、水害前にこの地点の地形がどのようであったか、とりわけ市道東0280号線がどのようであったかは、まったく考慮していなかったということです。

 最高水位やこの地点の標高のデータを含め、これではいかにも大雑把すぎます。現在手に入る限りでのもっとも詳細な標高データをもとに、さらに氾濫水の水位について妥当な推測をおこなったうで、24.75kの氾濫のメカニズムについて考察することににします。

 


24.75kの氾濫は市道東0280号線からの流入ではじまった

 kinugawa-suigai.seesaa.net のいうように河畔砂丘を掘削して市道東0280号線が設定されたことが氾濫の原因となったのでしょうか、それとも国交省広報文書のいうように2015年9月10日にはじめて河畔砂丘が洗掘されたのでしょうか。あるいは、そのいずれでもないのでしょうか。事実はどうだったのかを、検討することにします。

 kinugawa-suigai.seesaa.net が提供している文書中の標高図と、グーグルの衛星写真を重ねてみます。まず、グーグルの衛星写真画像、つぎに標高図、最後に両図を重ねて表示します。

 最初がグーグルの衛星写真です。GoogleEarthProとGoogleMaps のいずれでも、オプション設定により、水害直後の2015年9月下旬の衛星写真を表示することができます(現時点における Windows, MacOS, Linux パーソナルコンピュータ用)。特殊処理による3D表示ができるので、当サイトでもしばしば利用しています。特殊処理の具体的内容は皆目見当がつきませんが、お絵かきソフトによる人為的な画像というわけではありません。多方向・多角度で撮影した衛星画像から再構成するのでしょう。水害被害地についてのこのような表示の提供がいつまで続くのかわかりません。まさか元データを取り込むことはできませんから、せいぜい今のうちに見ておくこととします。

 中心が押堀、画面左が水管橋で、その間の四角い土地は、おそらく1960年代に若宮戸河畔砂丘の中央の〝畝〟を掘削して平らに均したもので、一時は牧草地になっていた草地です。押堀側に縦に見えるのは、跡形もなくなった市道東0280号線のかわりの工事用迂回路で、鉄板が敷き詰められています。画面右下では押堀から噴出した大量の砂をあつめています。その砂は中央下で押堀の北東側(画面下方)を整地するのに使っているのかもしれません。「カエサルのものはカエサルへ。神のものは神へ」というところでしょうか。9月17日までは25.35kの仮堤防(土嚢の堤防もどき)建造に集中し、その完成後いままさに24.75kの仮堤防の土台部分の建造に着手したばかりのようです。25.35kでは土嚢の3段積みですが、ここでは、ここで途切れている既存の堤防の天端高にあわせるため、下半分は土盛りでその上に土嚢の3段積みのハイブリッド構造です。完成は9月25日午前7時30分ですから、この写真は9月18日ないし19日というところでしょう。土盛りはまさか現地調達の砂というわけにはいかないと判断したようで、拡大すると外から持ち込んだ岩石混じりであることがわかります。

 

 

 つぎが、この範囲の詳細な標高を表示した地図です。「平成15年度 若宮戸地先築堤設計業務報告書」(2004〔平成16年3月)に掲載されている図の一部を拡大したものです。2015年水害の10年以上前の築堤案です(ウェブサイト「平成27年関東・東北豪雨災害〜鬼怒川水害〜」から引用。この情報提供がなければ、以下の考察はできませんでした。http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-8-4.pdf  3〜4ページ)。前年2002(平成14)年の浸水を受けて、国交省が設計会社に案を作成させたもののようです。現況の測量図に堤防案を書き込んであるのでいささか邪魔になりますが、各地点の標高データが書き込まれているうえ、市道東0280号線についてはそれが切り通しになっていたり、盛り土になっていたりするところまで図示されています。

 

 上の2枚を、それぞれ半透明にして重ね合わせて表示すると、つぎのようになります。

 クリックしたうえで、虫眼鏡ツールを使うと拡大表示できます。そうすると小さな文字で書かれた等高線や測定点の標高データも読み取ることができます。いずれもY.P.値です。T.P.値より0.84m大きな数値になります。地形図などと照合するときは注意が必要ですが、さきほど出てきた「若宮戸地先の最高水位Y.P.+22m」など、氾濫水の水位データとそのまま比較できます。

   

 次に、主な地点の標高の数値を大きく表示してみます。矢印の先の文字を拡大しています。茶文字は市道東0280号線の標高データです。

  さらに、河畔砂丘を切り開いた草地から押堀にかけてを拡大してみます。草地の縁はさらに切り崩されて小さな崖面になっています。押堀になった部分は18.43mと18.12mの差の30cm程度ですが、南西側(画面上方)だとそれより大きいようです。とはいえ、水害後に見た限りでは、写真のとおり崖というほどのものではありません。

 その崖の左(南東側)に見えるのは迂回路の鉄板です。市道東0280号線と高圧送電線の交点がカサンドラ・クロスです。


 

 ちょうどカサンドラ・クロス(市道東0280号線と高圧送電線の交点。押堀の中心点。ほかでは通用しないこの用語については、若宮戸の河畔砂丘 2を参照)を境にして、画面下側(北東側)で市道東0280号線は切り通しになっていたことがわかります。カサンドラ・クロスより画面上側(南西側)は、崖の図示があり市道東0280号線の片側が盛り土のようになっていたことがわかります。19.949m地地点と19.73地点の中間点より南西側は流出せず残っているので、写真で見るとすくなくとも1.5m程度の段差があります。(「若宮戸の河畔砂丘 2」を参照)。

 青矢印は、この標高地図のデータから、耕地や住宅地側への氾濫水の最初の流入経路を推測して記入したものです。そのプロセスをできるだけ細分化して推測すると以下のようになります。(「最初」だけです。)

 

 ① 氾濫水はまず、18.22mあるいは18.27mなどの数値が示す通り18mそこそこの草地に到達する。

 ② ついで、ほんのわずかの崖(の記号部分)を越して、整地され植林されていたらしい18.43mとある四角い部分へ入る。

 ③ ついで水位を上げた氾濫水は、画面下側(北東側)の19m等高線を超え、19.18mとある地点にいたる。

 ④ さらに水位が上がると、そこから盛り土になっている市道東0280号線の19.73mとあるあたり、その前後10mくらいの範囲に流入する。市道東0280号線のこの部分は、河畔砂丘の中央の〝畝〟が分枝してできる中間地点の「谷」であり、それぞれの分枝(標高19.949mと、標高19.979m)から20cmほど低くなっている。カサンドラ・クロスに近い地点で市道東0280号線が最初に浸水するのは、この部分である。その両側が切り通しでこの部分が盛り土になっているのだけを見ると、うっかりしてそこが高いと勘違いしやすいが、19.73mとあるのはもっとも標高の低い地点と思われる

 ⑤ さらに水位が上昇すると、さきほどの全体図の上方(南西方向)の市道東0283号線との交差点(標高19.415m)側からも、途中の19.949m地点をも冠水させて氾濫水がカサンドラ・クロス方向に流入し、④に合流する。

 ⑥ 同じころ、氾濫水ははじめて市道東0280号線から、19.979mとある地点あたりで河川区域外となる北西側、つまり画面右下の稲田に少しずつ流出し始める。

 

 以上のプロセスは、氾濫水の最初の流入についてのものです。流入が続き、さらに水位が上昇して流量・流速ともに増大すれば、それにより市道東0280号線はもちろん、河畔砂丘のこの部分は急速に洗掘が進み、ついには草地の標高18mと同じ標高まで、さらにはそこから砂丘を掘り込んで、押堀を形成することになるでしょう。

 国土地理院の「地理院地図」のデータだと、押堀の中心近くの最も深い地点はT.P.値で12.9m、すなわちY.P.値で約13.7mです。洗掘前のもとの標高は押堀南端部で19.18m、市道東0280号線のおそらく最も低い部分で19.73mです。市道東0280号線を基準にすると押堀の深さはちょうど6mということです(有効数字の桁数が区々ですが)。これが国交省文書に言う「深掘れ(6m程度)」です。

 以上は、標高データを記した地図から合理的に推測できることですが、目撃証言による実際の氾濫開始状況と一致します。すなわち、住民の方の証言は次のとおりです。

 

「午前6時頃、市道(東0280号線)から田んぼへ、水がちょろちょろ出始めた。午前6時30分ころには、田んぼの水は腰の深さになった。」

 

 読図による推測と目撃証言は一致します。

 流入地点の市道東0280号線の標高の測量データは19.979mです。なんとミリメートル単位のデータですが、大雑把に20mということです。そして、標高データから推測できる通り、最初に「市道からちょろちょろ」と氾濫が始まったことがわかります。「ちょろちょろ」は言葉通りです。まさに氾濫開始の時点でその状況を確かに見ていたことがわかります。しばらく前に始まったらしい、とか、見に行った時にはすでに始まっていた、とかいう伝聞や推測ではなく、それ以前からずっと見守っていたうえでの目撃証言です。信憑性はきわめて高いのです。

 午前6時頃に、この地点で氾濫水の水位が約20mだったというのは、確実性の高いデータとして、以後、ほかの事象の解釈の根拠として用いることができるでしょう。

 「ちょろちょろ」から30分で、標高17.80mの稲田で「腰の高さ」、つまりおおむね1mまで冠水したということです。すなわち画面右側の平地(18.51m)への流入も始まっています。

 

 以上のとおり、24.75kの氾濫水は、最初に市道東0280号線の約40mの区間を「ちょろちょろ」と流れ始めたことは、標高図のうえからも、なにより目撃証言からも明白です。

 そして、この「ちょろちょろ」がだんだん水量と水深を増し、このカサンドラ・クロス地点を激烈に洗掘し、流入口の断面積を劇的に拡大していったと推測できます。これは、結果として残された押堀や、氾濫水の攻撃をうけた耕地や住宅の状況からの、ほぼ確実な推測であるといってよいでしょう。

 

 


もし市道東0280号線がなかったらとしたらどうか?

 

 しかし、この市道東0280号線の切り通し部分がなければ24.75kの氾濫がおきなかったと即断することはできません。市道東0280号線が唯一の原因であり、市道東0280号線さえなければ24.75kからの氾濫は起きなかったと断定できるか否か、すこし考えてみることにします。

 たとえば、市道東0280号線に流入する直前の土地が18.43mまで掘削されていなければ、そこから市道東0280号線の19.73m地点への流入は起きなかったはずで、その場合は市道東0283号線との交差点(19.415m)から流入し、途中の19.949mの峠を超えて、おなじく19.979m地点で稲田への「ちょろちょろ」が始まったことでしょう。この場合、氾濫開始が数分遅れる程度でしょう。

 しかし、市道東0280号線が氾濫の原因だったという主張の妥当性を検討するうえでは、この程度の副次的要因をあれこれ「たら、れば」で持ち出しても意味がないでしょう。この際、市道東0280号線が存在せず、この区間の砂丘がもとのままだったらどうかを考えてみることにします。

 

 次は、さきほどまで使っていた標高図に、市道東0280号線部分の切り通し部分を全部埋め戻した場合の等高線を書き加えたものです。青が標高20m、赤が21mです。左側(南東側)に22mの小さな盛り上がりがあるのですが、北西側の22mはかなり遠いので、切り通し部分の標高はもともと22m未満だったと判断しました(いずれもY.P.)。

 

 

 

 ここでいきなり9月10日の最高水位とこの地点の河畔砂丘の〝畝〟の標高を比べてしまうのではなく(その結論は明白です)、さきほどまでと同様に、河川水の水位が徐々に上昇するにしたがって、どのような現象が起きたのかを推定することにします。

 堤防案の線が邪魔なのですが、それを除外して眺めると、等高線のうねりが気になります。若宮戸の河畔砂丘「十一面山」の今となっては最高峰である中央の〝畝〟のかろうじて残った末端部分が堤防に取り付いている部分で、等高線がおおきくS字形を描いているのです。

 

 天端が市道東0282号線となっている左岸堤防(下の衛星写真の茶)を下流方向から辿ってくると、水管橋(25.5k)をくぐったあと、突然、右に60度屈曲し、この少し上流側で、若宮戸河畔砂丘「十一面山」のかつての最高峰だった東側の〝畝〟の南端(現在はこの東の〝畝〟はほとんど消失し4つの残丘を残すだけになっています。この地点ははその最南端の残丘)に到達し、そこで終わります(赤の市道東0280号線との丁字路)。東側から砂丘に入った市道東0280号線が標高差3mほどの坂を登ってきた頂です。そこのY.P. 値は、22.8mですが、この60度屈曲部の測量データは22.868mです。ミリメートル単位まではともかく、要するに同じ高さです。

 

赤=市道東0280号線

黄=工事用迂回路

茶=市道東0282号線

緑=市道東0283号線

紫=名のない道路

 

 60度湾曲部にさきほどの若宮戸河畔砂丘の中央の〝畝〟の東側の分枝の末端がとりついているのですが、等高線が北側(画面では右下方)に湾曲しています。ようするに砂丘の末端と堤防は、かろうじてかすっている程度であって、本来の意味での「山付き堤」とはなっていないのです。

 国土交通省は、言葉として「山付き堤」だと言っているのではありませんが、そのように勝手に誤解してもらえるような下手な図を捏造しています。さきに見た段彩図の「H18標高段彩図(被災前)」の黒破線丸の右下外に注目してください。中央の〝畝〟の東側の分枝が、堤防の60度屈曲部に「山付き堤」よろしくくっついています。これにうっかり騙されてしまった多くの人がここを「山付き堤」だと勘違いしているようなのです。「山付き堤」などという業界用語はともかく、市道東0280号線による切り通しは氾濫水を呼び込むのに、ここはしっかりブロックしていると思い込まされてしまったのです。

 


 

 

 山付き堤が接続する「山」は、山付き堤より標高が高いに決まっています。堤防が「山」に取り付いた途端に、その「山」の方が低くなってしまっていてはそれは「山」ではなく、当然洪水を防ぐ効果はありません。若宮戸河畔砂丘「十一面山」の東の〝畝〟の残丘は、堤防天端より数十cm高くなっていますから「山付き堤」の状態になっていたのですが(ただし、前述のとおりその後、東の〝畝〟はほとんど掘削されてしまいましたから、現在は「山付き堤」ではありません)、中央の〝畝〟の末端は、等高線が示す通り、21m以上22m未満ですから、数cmたりないどころか約22.8mの天端より80cmから1.8mも低いのです。

 という次第で、かりに市道東0280号線のための切り通しがなかったとした場合、それより50mほど下流のこの地点が2015年水害における最初の溢水地点になっていた可能性があります。下の図のとおりです。

 

 

 以上は、市道東0280号線の切り通しがなく、河畔砂丘の中央の〝畝〟がここまで連続していた場合の想定です。

 ところが推測はこれで終結しないのです。

 画面左下の左岸堤防の60度屈曲部の天端の標高は22.868mで、そこに21mの等高線と一部で22mの等高線で表されている河畔砂丘のごくごくせまい部分がつながっています。氾濫水は最高水位時にはすくなくとも21m以上には達しているでしょうから、これらの数値だけからみてもこの部分もギリギリ冠水していた可能性があります。

 最高水位については試算表を右に掲げます。鎌庭(かまにわ)水位観測所(27.34k)の数値は公表されています。次の観測所はいきなり鬼怒川水海道(みつかいどう)水位観測所(10.95k)になってしまうのですが、その間は一様の勾配があると仮定すると、水位は1kmあたりで40cm少々下がるようです。25.25kで氾濫水の最高水位が22.0mとのことなので、それにあわせて謎の定数を加除して24.75kでは21.8mとします。(そもそもその「最高水位」をどこでどう測ったのかもわかりません。現地には痕跡水位を記したらしい赤テープを巻かれた樹木がたくさんあるのですが、高度計を持たない素人の悲しさ、それを読み取ることができません。写真は全部撮ってあるので手遅れではありませんが……。公費で取得したデータを持っている研究者らは基礎データ全部を公表する気はないようですから、今のところはこの数値によって推測をつづけることにします。この程度の腰だめの数値操作も、シミュレーションの世界では「線形内挿」と称するようです。)

 かりに河畔砂丘の末端部が標高22m近くあり、氾濫水の最高水位がせいぜい21m少々だったとすると、かろうじてセーフです。ただし、それは水位の数値を表面的に見たときの話であって、浸透に対する砂丘の脆弱性や、何らかの理由により氾濫水がよどむのではなくかなりの流速をもって流れる場合の洗掘の可能性を考慮すると、机上の空論としてのシミュレーション的発想では考えもしない溢水が起きることもありうることです。

 いっぽうで、砂丘末端の標高が21m少々しかなく、氾濫水の最高水位が22m近かったとすると、完全にアウトです。しかも、(あとで写真を見ますが)こちらの方が蓋然性が高いのです。

 いかにも素人くさい「たられば」噺で恐縮いたしますが、あながち見当外れでない根拠を3点示します。(最後のひとつはほとんど落語の落ちです。)

 


(い)設計会社の見解

 国土交通省の広報担当とか、これから活躍するであろう訴訟担当のように、なにひとつ現実を見ず、たぶん現場にも一回もいったことがないうえ、基本的な用語も知らない無知で傲慢な役人が嘘八百を並べると、最初の方で見たあの電気紙芝居(パワポ)になるのですが、下請け企業の技術者が事実を書けば次のようになるのです。さきほども見たサンコーコンサルタント株式会社が作成した「平成15年度 若宮戸地先築堤設計業務報告書」(2004〔平成16年3月)(http://kinugawa-suigai.up.seesaa.net/pdf/waka-8-3.pdf)の図(第4章の末尾ページ、3-11)です。築堤の必要性を説く文書ですから、弱点を隠蔽する必要はなく、正直に弱点を指摘したのです。

 若宮戸河畔砂丘全域図(ただし、堤防のある南部は含まない)の次に、25.35k、24.75kを拡大します。

 

  指摘されている危険箇所は、つぎのとおりです。

 

①「養鶏場上流の低地部」

 25年近く前ですから、ソーラーパネル設置以前です。のちのち「B社」が掘削し、下館河川事務所が申し訳程度の「品の字」土嚢の2段積みをする場所です。

② 「道路部」

 市道東0272号線の切り通し

③ 「下流端部の低地部」

 24.75kです。

 

 ③については、②のように「道路部」としての市道東0280号線の切り通しだけが指摘されているのではないことに注目ください。③の楕円は砂丘のおおむね標高23m地点から堤防までを広く囲んでいます。標高21mでも足りない、22mでも足りない。すくなくとも堤防天端の22.8mを下回る地点は危険箇所だという判断です。この点からも、市道東0280号線の切り通しが24.75kの氾濫の原因であるとする指摘は失当です。ここは市道東0280号線(の切り通し)がなくても氾濫危険箇所なのです。

 この区間100mほどが全部危険箇所なのです。もちろん市道東0280号線の切り通しは危険性を高めますが、それがなくてもしょせん砂丘のその部分は標高22mもなかったのです。そして、山付き堤がとりついている「山」だと思い込んでいた部分も、同様に22m以下しかないのですから、ここは「山付き堤」の状態にはなっていなかったということです。

 

 

 水害の10年前の状況を見ておきます。グーグルアースのオプションで表示される「過去の映像」から、スライダを一番左にセットして表示される2005年2月6日撮影の映像です。時代を感じさせる粗い画素の画像です。

 茨城県による鬼怒川水管橋の工事中ですが、仮設の工事用道路が、この左岸堤防の60度屈曲部を乗り越え、問題の砂丘末端部を通って元牧草地まで抜けています。市道東0280号線は市道東0282号線との丁字路部とそこまでのアクセス部分は拡幅が難しいので、この仮設道路をつくったのです。高圧送電線を含め、ここは河畔砂丘末端部で標高が低いことから、さまざまの建造物が集中しています。

 

 

(ろ)事実

 この「山付き堤」もどきの部分で、実際に2015年9月10日に洗掘・溢水がおきていました。

 

 水害後、仮堤防建設のために、堤防の60度屈曲部から押堀ぎわに降りる坂路が作られました。

 その河道側は、標高21m以上22m未満の砂丘の末端部です。

 左側の土嚢は何のためのものかわからなかったのですが、どうやらこの部分もかなり洗掘されていたようです。ということは、この砂の坂路も、たんに通路として作ったというだけでなく、洗掘痕ないし押堀を埋めたということなのかもしれません。

 坂路を堤防天端近くまで登ると、カーブ外側に大量の小型土嚢が積まれていました。(破堤には至らなかったものの)法面が洗掘され決壊した堤防の応急的な補修によく用いられる方法です。

 この状態は、一見たいしたことはなさそうに見えますが、数百トンの土嚢が積まれているものと思われます(もう一桁上かもしれません)。もうすこしで破堤したかも知れない状態です。よほどのことがないと堤防はこのようなことにはなりません。氾濫水がこの部分をかなりの流速・水量で攻撃したということです。

 ロープの掛かっている2本の杭と、一本立ちの短い杭の向こう側から写したのが下の写真です。表示のピラピラの有無は別の日に撮影したことによるものです。

 工事用坂路を登りきり、少し進んで天端から河道方向をみたところです。左が水管橋、中央が元牧草地の草地、右が迂回路に駐車している車と砂丘の末端です。長さ2mの測定棒も写っています。

 画面右下の法面に土嚢が見えます。上や下の写真とあわせて見ると分かりますが、土嚢の最上段より砂丘の末端部分の方がさらに低そうです。

 

 この地点ではかなり激しい流入が起きていたのですが、誰も何も言っていません。筑西市(下館河川事務所)は当然知っているでしょうが、さいたま市(関東地方整備局)まで遠ざかるとわからなくなるようです。このページの最初の方で、関東地方整備局がカサンドラ・クロスの押堀を「深掘れ」にスリカエた件について見ましたが、この堤防の洗掘こそがまさしく「深掘れ」です。ややこしい話ですが、関東地方整備局の広報窓口の高橋伸輔河川調査官(当時)はここに本物の「深掘れ」ができていたことを知らなかったので、押堀を「深掘れ」とする大嘘をつけたのです。もっとも、本物の方のことも知っていてしらばくれていたとすれば、相当のものです。

 すぐ近くで押堀ができるほどの激しい流入がおきた時点で、水位は大幅に下がったはずです。三坂でも最初に幅20mほどが破堤すると、水位は一気に下がり隣接地点でそれまで起きていた越水は弱まったことでしょう(三坂ではそのあと、堤防の開口部がこんどは横から洗掘されることで破堤幅が拡大したのです)。カサンドラ・クロスの押堀が氾濫水を吸引していなかったならば、こちらの堤防法面脇が主要な氾濫ルートになったに違いありません。堤防の60度屈曲部の「深掘れ」はこの程度ではすまず、当然破堤にいたるでしょう。そうなると鬼怒川水管橋の損傷、さらには紅白鉄塔の倒壊もありえたかもしれません。

 

 この土嚢は衛星写真にも写っています。

 

 

 

(は)国交省の意図しない自白

 何回も見た「標高段彩図」です。青の吹き出しマークの指すところをご覧ください。「被災後」に、この地点が、赤から標高の低い黄に変わっています。これは加筆捏造ではなさそうです。洗掘が起きていたことをうっかり見逃し、黒破線丸で隠すこともせず公表してしまったようです。洗掘の事実は、現場は当然知っていることですが、さいたま市のオフィスビルの中にいるお偉方の耳には入らないのかもしれません。

 

 

 

 市道東0280号線の切り通しがなかったとしても、あるいは市道東0280号線そのものが存在しなかったとしても、24.75k付近にはさしわたし100m以上にわたって標高の低い地形が続いていたのですから、水位が上がればいずれどこかで最初の「ちょろちょろ」が始まることは確実に予見できたのです。それは特段の専門的知識を必要とするものではありません。等高線の読み方を習った中学生なら十分に可能なことです。しかも、サンコーコンサルタントが、水害の10年以上前に関東地方整備局下館河川事務所に提出した文書にも書いてあったことです。

 そして、現実には2か所で「ちょろちょろ」が起き、一方のカサンドラ・クロスでは巨大な押堀が形成されて激烈な氾濫の主要ルートとなり、他方の堤防の60度屈曲部では深掘れを形成したのでした。

 

 


(2)なぜ水は下流方向からやってきたのか

 

 

 水は低きに流れるもので、川の水は上流から下流へと流れるものです。ところが、24.75kの氾濫水は、下流方向からやってきたのです。目撃した住民の方は、

 

「水管橋の向こうから流れてきた。」

 

というのです。どうしてこんなことが起きたのでしょうか? 若宮戸の河畔砂丘の全体を見ればその理由は一目瞭然です。

 

 「若宮戸の河畔砂丘 2」のはじめ近くで見た防災科学技術研究所の航空写真「20150910-165553-nied」です。つまり、9月10日の16時55分53秒に撮影されたものです。

 水位は最高時の12時ころと比べ約1m低下しています。24.75kより下流の左岸堤防に注目してください。黄矢印で例示しましたが、増水した河川水が天端間近に迫っています。水管橋と紅白鉄塔の間に見える水面(右の黄矢印)まで、全部が一連のものであり、途切れることなく連続しています。



 その11秒前の写真です。すなわち「20150910-165542-nied」です。さきほどより下流側250mまで写っています。ところどころ樹木が頭を出しているのが高水敷です。サムネイルの黄の部分です。

 高水敷と堤防の間が河畔砂丘「十一面山」です(ただし水管橋付近より上流には堤防はありません)。冠水していないのは慰霊塔のある河畔砂丘中央の〝畝〟の一部だけです(青緑ライン)。あとは高水敷間際の西側の〝畝〟があちこちで寸断されながら水面から頭を出している程度です。ほとんどの樹林は冠水しています。もっとも深いところでは浸水深は3m以上にもなります。もともと下流に行くにしたがって砂丘は未発達であったのですが、砂の採掘によりほぼ消滅して、もっとも下流では樹林すらなくなって平坦地になり、洪水時には水面が広がるだけとなっています。

 



 次は16時40分33秒に、上流側から河畔砂丘「十一面山」のほぼ全域を鳥瞰した写真です(「20150910-164033-nied」)。黄が高水敷です。緑が河畔砂丘の領域です。もはや河畔砂丘だった領域と言ったほうがよい惨状です。

 十一面山は、全体がカマボコのような単純な形ではなく、基本的には3つの〝畝〟から成っていました。内陸側(東側)の〝畝〟がもっとも発達し標高も高かったのですが、4つほどの残丘を残してほぼ消滅しました。慰霊塔がある中央の〝畝〟は、現存する中では最高峰ですが、もともと水管橋以南(下流側)は未発達だったうえ、特に新石下市街地付近では完全に平坦でまばらな樹林が散開するのみとなっています。24.75kの押堀はこの中央の〝畝〟の南部にできました。25.35kのソーラーパネル設置のために掘削されたのは中央の〝畝〟の北部です。

 


 

 最高水位から1m程度下がっていますが、河畔砂丘の南半分では、中央の〝畝〟の西側部分は、河道・高水敷と完全にひとつづきの水面になっています。水位の高い河道・高水敷側から河畔砂丘の一番西側の〝畝〟を「越水」して低い方に流れ込む、などという状態ではありません。25.35kのソーラーパネル地点でさえ高低差があって、水面が波立っていますが、南半分は、一見するとそのような水流の乱れもなく、航空写真ということで遠く離れていることもあって平穏な印象さえ与えます。

 顕著に水流が変化したのは、おそらく24.75kの押堀ができた場所だけでしょう。元牧草地の平坦部から砂丘の末端部を突き破ると、上から落ちたわけでもないのに、地中深くまで掘り進み、おそらく1万トン以上の砂を巻き上げてその先の稲田、さらにその先へと堆積させ、一挙にその先の住宅や耕地を破壊したのです。

 この項の最初の疑問点つまり、氾濫水は下流方向から遡上してきたのはなぜか、という点については上の写真で明らかです。つまり、河畔砂丘の南部は、河道に一番近い砂丘の〝畝〟は極度に未発達、それどころか南端近くではそもそも〝畝〟もなく、高水敷から何らの抵抗もなく、水が入り込んできたのです。そして、ほとんど傾斜のない水平な土地をまだ水が入ってきていない上流方向へと「遡上」したのです。もちろん、低いところから高いところへ流れるはずはありませんが、南から河畔砂丘部分にはいってきた氾濫水は、水管橋の下を北へくぐって元牧草地の低地にたまり、あとからあとからやってくる水で水位があがると、このページの(1)で見たとおり、隣接する18.43mの土地へと入り、ついには市道東0280号線の19.73mの部分から入り込み、19.797mの地点で、河川区域外の稲田へ、はじめは「ちょろちょろ」と、そのうち激烈に流れ込んだのです。

 もちろん鬼怒川の水位が上昇してくると、水管橋に近いところや上流側、さらに慰霊塔のある25k付近、さらにソーラーパネル地点に近い市道東0273号線からも流入がおきますが、漂流物の流れ具合などを見ると、それでも下流側からの流入は負けてはおらず、あいかわらず押堀部へと引き寄せられるように(低い方へと重力にしたがって)上流方向へ「遡上」しているのです。

 

 

 水管橋の下流側を拡大したものです。南端方面からの流れについてはこの写真ではよくわかりませんが、水管橋の下流側の低い〝畝〟のところどころから流入する水が、下流方向(右)へと流れ下るのではなく、(水位の低い)押堀方向、つまり上流方向へと、「遡上」しているように見えます。

 



 つぎに若宮戸河畔砂丘全体の標高がひとめでわかるよう、「地理院地図」の「色別標高図」を用いて表現してみます。

 まず、河畔砂丘の全体です。地点を示すのに、地図中に書くと煩わしくなるので、右に里程表示のある「治水地形分類図」を掲げますので、参考にしてください(ただし、たとえば24.25kを24.2kと、24.75kを24.8kと表記してあるので注意してください)。

 若宮戸の河畔砂丘「十一面山」は、おおむね23.4kから26.1kまでです。

 標高はY.P.ではなく、それより0.84m小さくなるT.P.値です。24.75k付近での最高水位がY.P.で21.8mだとすると、T.P.では21mとなります。つまり、小豆(16-17m)、紫(17-18m)、赤(18-19m)、桃(19-20m)は確実に浸水します。最高水位時には黄(20-21m)まで浸水します。

 24kでも鬼怒川の水位は30cm程度しか下がらないでしょうから、区別せずに検討します。



 3分割し、北から順に見ていきます。

 まず、25.35k、すなわちソーラーパネルの地点です。水害後のデータなので画面中心には、3段積み土嚢による仮堤防が見えますが、この地点については次のページで検討することにし、次に行きます。

 



 つぎに、24.75kです。

 高水敷のすぐ上、砂丘の西縁を走る一番西側の〝畝〟は黄と黄緑が半々で、Y.P.で22m近くの最高水位になると、その黄の部分から流入がおこることがわかります。

 (1)で見た通り、左岸堤防が60度屈曲する部分に接する砂丘の〝畝〟は黄であり、堤防の緑より低く、山付き堤でないことがわかります。最高水位に近くなるとここから溢水することが予想できます。

 水管橋は描かれていませんが、その24.5kより南は、写真で見ると樹林になっていて、標高の高い砂丘なのか、それとも未発達で標高が低いのか、あるいはまた平地なのかわかりませんでしたが、この段彩図でみると、市道東0283号線だけが桃で1mほど高くなっていること、さらにそのごく一部だけが黄です。それ以外は一様に赤であり、9月10日の早い時刻からほぼ全面的に浸水したであろうことがわかります。



 最後が24k以南です。

 23.5kあたりまでは、かつては河畔砂丘「十一面山」だったのですが、いまやほどんど砂丘は消滅し、赤(18-19m)の平地になっています。

 しかしここは紫の高水敷ではなく、それより1−2mあるいはそれ以上高くなっています。かつては河畔砂丘だったという所以です。

 この区間は、河道からの水は一切何物によっても遮られることなく、水位上昇によりただちに冠水することになります。

 そして、まだ冠水していない24k以北へと「遡上」することになります。500m「遡上」すると、ちょうど水管橋の真下の24.5kです。こうして、「水は水管橋の向こうからやってきた。」という目撃証言の現象が起きたのです。

 



 縮尺を小さくした、24.75kから1.75km下流の石下橋(23k)までの地図に、想定される氾濫水の「遡上」ルートを記入してみたのが下の図です。右に24.75kの水位を推測した表を掲げました。釜庭水位観測所の水位データと25.25kの最高水位の公式発表値22.0mから、里程1kあたりの変化量を46cmと見積もって単純に換算したものです。カサンドラ・クロス地点は河道からだいぶ離れていることなど、複雑な要素はすべて捨象していて、いささか杜撰とは思いますが、いまのところはこれで考えることにします。

 さてそうすると、目の前の河道からダイレクトに浸水してきたとすれば、もうすこし早い時間、おそらく5時をすこしすぎたあたりで「ちょろちょろ」が始まっていなければなりません。実際の19.979mの市道東0283号線からの「ちょろちょろ」は午前6時ですから、約1時間分=40cmの遅延が生じているわけです。この点については、以下のとおり推測します。

 河道から河畔砂丘へツーツーで水が入る24kのやや上流から、カサンドラ・クロスまでの約500mを「遡上」するのに要する時間をおおむね30分程度と見積もります。

若宮戸25.35kの溢水開始は、国交省の嘘発表では午前6時ですが、実際にはそれより30分程度早かったようです。直線距離で13km以上離れた常総市役所が水没したのは午後9時以降です。氾濫水の進行速度はおおむね1km/h程度ということのようです。もちろん土地の傾斜によって大きく異なるわけですし、道路の盛り土など途中の障害物による遅延を含めての話ですから、そう単純ではないのですが。

 それと、下流の流入点では水位が20cm程度下がるので、その分を考え合わせると、カサンドラ・クロス地点に遡上してきた氾濫水の水位は直近の河道の水位より40cm程度低くなります。すなわち午前6時には河道近くでは水位は20.4mですが、カサンドラ・クロス地点では20mになるわけです。これは、ちょうど1時間前=午前5時の水位に相当します。

 

 なお、時間が経過して水位が上昇すると、水管橋直下さらには上流側からの流入がはじまり、「遡上」による遅延現象は消滅します。さらにまた、時間が経過して水位が低下すると、上流側や水管橋直下からの流入が止まり、ふたたび下流側からの「遡上」がはじまることになります。 



 

 

 この「地理院地図」内の「自分で作る色別標高図」は、任意の箇所・範囲についてこのように自分で「色」を選択して標高図をつくることができるもので、しかも無料ときていますから、じつに素晴らしいというほかありません。ところがそれも、このページで何回もみた、「段彩図」と比べると月とスッポンです。あの騙し用パワポの小さな図でさえ、いくらでも拡大に耐えるのですから、もとのものの高精細具合はいかほどかと思います。日本放送協会の8Kや、アップルの retina も裸足で逃げ出すに違いありません。

 しかも、各年代の膨大なデータから任意のものを選び、建造物の強調、樹木の有無、光線のあて方による立体感強調などを、自由自在に設定表示できるに違いありません。さいたま市(国土交通省関東地方整備局)の素人官僚が、つくば市(国土交通省国土地理院)の博士たちをアゴで使い、あれを出せこれを出せと言っては何でも好きなものを調理させているのでしょう。

 

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