若宮戸における河川管理史

1 4列の畝 (Ridge)

 

Sept., 16, 2021

 

 1965(昭和40)年の河川法改正により、従来茨城県知事が管理していた鬼怒川の茨城県内部分は、建設大臣(現国土交通大臣)が管理することとなり(「直轄管理」)、翌1966(昭和41)年建設大臣は鬼怒川の河川区域を告示しました。その際、建設大臣は意図的に若宮戸(わかみやど)の河畔砂丘( river bank dune )の主要部分を河川区域から除外しました。そして、1960年代から70年代にかけて、河川区域外はもちろんのこと河川区域内をも含む若宮戸河畔砂丘の全域において、土木工事および建築工事の材料としての砂の採取を目的とする、大規模な砂丘掘削が実行されたのです。そのため、若宮戸河畔砂丘全体の形状は大きく変化し、もはや「河畔砂丘だったところ」とでも言うほかない状況になってしまいました。もし、このような河畔砂丘の破壊がおこなわれず、従来の形状が維持されていれば、2015(平成27)年9月の氾濫は起きなかったに違いありません。

 この項目「若宮戸における河川管理史」においては、河川区域境界線に留意しながら、若宮戸河畔砂丘の形状変化の経緯を概観します。最初に、1960年代以前の河畔砂丘の概要を確認したうえで、次ページで1960年代から70年代の掘削状況を、次々ページ以下で2014(平成26)年のソーラー発電業者による最後の砂丘掘削と、2015(平成27)年9月の氾濫から堤防建造までを、航空写真・衛星写真・地図で一覧します。

 なお、別項目の「若宮戸の河畔砂丘」の「12 河川区域外の砂丘掘削」「13 河川区域内の砂丘掘削」「14 旧河川法時代の河川区域」において、〝畝 ridge 〟構造についていったん検討しましたが、この「若宮戸における河川管理史」においては、そこでの部分的検討のうえにたち、基本的に若宮戸河畔砂丘の全域を総体的に分析することにします。図化の手法を改善し、各時期の衛星写真等との重ね合わせもより詳細かつ正確におこなうことにします。

 2015年の鬼怒川水害を機会として開始された治水行政の是非をめぐる議論においては、若宮戸の河畔砂丘における河川区域決定の当否が重要論点になるべきところ、どういうわけか「河畔砂丘 river bank dune 」という当然の地形名で呼ぶことが特段の理由もないのに回避され、そのうえ河川区域設定の当否を論ずるのであれば必要不可欠な地図や航空写真がほとんど示されることがないので、事実の探求が一向に進まない状態になっています。

 若宮戸河畔砂丘については、当初は「自然堤防」と誤って呼ぶのが一般的でした。住民が当初「自然の堤防」という趣旨でそう呼んだのはやむをえないとしても、報道機関の記者や、あろうことか治水の「専門家」と称する人たちまでが(おおくは河川工学者や河川工学を履修した行政官僚)、中学生が学校で習う程度の地理の知識もないまま「自然堤防 natural levee」だと言い張ったのです。それに法曹までが加わり、とうとう裁判所の法廷にまで混乱が持ち込まれてしまいました。国土交通省の素人官僚は当初から語の誤用に気づいていたらしく、批判勢力を混乱させる悪意をもって「いわゆる自然堤防」などと言っていましたが、いざ訴訟がはじまると被告国の指定代理人が突如「砂堆(さたい)」と言い出し、だいぶ経ってから撤回する醜態を演じました。一方の原告代理人も当初の「自然堤防」の間違いを引きずったうえ、なぜか「砂丘林」という趣旨違いの用語をもちだし、「砂丘林の掘削」というおかしな日本語を使っています(「掘削」するのは河畔砂丘であり、「砂丘林」は伐採されることはあっても、それを「掘削」するとは言わないはずです)。

 鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 低地』(1998年、古今書院)から引用します(506ページ)。

 

河畔砂丘は自然堤防と混同されやすいが、河畔砂丘が①その付近の自然堤防より一段と高く急傾斜で、②東岸にのみ発達し、上下流で消失し、③自然堤防と異なって、頂部に複数の尾根と谷や凹地があり、④集落や桑畑、普通畑、果樹園のある自然堤防に対して、それらのほとんどない林地になっていること、などを論拠に区別される。

 

 地図・航空写真・地上写真をほとんど示さずに、地理用語を間違ったままの抽象的議論に終始していたのでは、治水行政とそれがもたらした結果を具体的にあきらかにすることは到底不可能です。これは批判する側だけでなく、批判される側の国交省にしても好ましからざる状況です。治水行政の過誤が明らかになる心配がないので高を括っているのでしょうが、国交省としてはその正当性について積極的に弁明する機会をみずから放棄しているわけです。こんなことではすべての事実は忘却のかなたに消え失せてしまい、今後のあるべき治水行政の方向性が示されることも到底ありえないのです。

 「河畔砂丘」と正当に呼ぶことすらしないのですから、その範囲がただしく示されることは決してありえないわけで、上下流方向のひろがりはもちろん、とりわけその幅についても各自が錯雑たる思念をいだいたまま、落語「蒟蒻問答」のような遣り取りが延々続いているのです。ましてや河畔砂丘の複列構造のことなど思いも寄らないのですから、どの〝畝〟ridge が上下流側の堤防 bank と接続していたのか、あるいは接続していなかったのかについては、検討すらしないのです。複列の〝畝〟ridge のいずれについて議論しているかすら曖昧であっては、河畔砂丘の〝畝〟と計画高水位や洪水時の水位との関係などは、いかにしても考慮することはできないのです。水害から6年が経つというのに混迷はますます深まり、治水にかんする議論がまったく成り立たないのです。


若宮戸河畔砂丘の外縁

 

 破壊される前の若宮戸の河畔砂丘の構造を読み取ることのできる資料は、きわめて限られています。

 江戸時代の絵地図では、河畔砂丘(らしきもの)が描かれることはあっても、詳細な状況とくに内部構造はほとんどわかりません。明治以降現在にいたる、5万分の1ないし2万5千分の1の地形図では、河畔砂丘は明示されません。ましてや詳細な形状はほとんどわかりません。

 河畔砂丘の全容と細部の構造を伝えるものは、1880-86(明治13-19)年に陸軍参謀本部が国内の広い範囲を測量して作成した「迅速測図(じんそくそくず)」(縮尺2万分の1)が最初にして唯一です。本項目「若宮戸の河川管理史」では、アジア・太平洋戦争後の占領国軍によるものを嚆矢とする数多の空中写真(航空写真・衛星写真)を見てゆくのですが(東京などでは1930年代の写真もありますが、地方は占領軍によるものが最初です)、あらかじめ迅速測図によって概要を把握しておくことが必要不可欠です。

 ただし、河畔砂丘の全容と構造を伝える地図としては迅速測図が最初にして唯一ではあるのですが、「河畔砂丘」の名称は示されていません。そもそもこの時期に、ヨーロッパの地理学において「河畔砂丘」という概念があったかどうかも判然としません。とはいえ、概念・名称の存否は別として、そこに詳細に描出されているのが今日河畔砂丘と呼ばれるものであるわけですから、そこに注目することにします。

 

 

 「迅速測図」が描出した若宮戸の河畔砂丘を、まず、広い範囲で見ることにします(上図・画面上方が西南西。右が鬼怒川上流)。画面中央、鬼怒川左岸(東岸=画面下方)の緑彩色部分が若宮戸河畔砂丘です。上流側に鎌庭(かまにわ)の蛇行流路が見えます。

 下は、少し寄ってみたところです。

 さらにその下に、この同じ範囲を「地理院地図」(https://maps.gsi.go.jp/)の「治水地形分類図・更新版」で表示します(なお、距離表示〔利根川への合流地点を起点とする、河道中央線の延長〕は、正しくは24.25k、24.75、というように小数点以下第2位まで表示するのですが、どういうわけか治水地形分類図は24.2、24.8というように、切り捨て切り上げしています)。

 

 

 治水地形分類図の伏せ半円(地図を回転してあるので向きがかわっています)部分が河畔砂丘です。迅速測図の緑彩色の範囲とほぼ同じ範囲です。というより、国土地理院による現代の地図が明治初期の迅速測図を踏襲しているのです。国土地理院は、ほかに参照するものを持たないということです。明治初期の地図だからといって軽く見てはなりません。迅速測図は、それ以前の絵地図とは本質的に異なる客観的で詳細な地図です。それどころか、現代の2万5千分の1地形図よりはるかに精細なのです。そして、ほかに比べるものがないので立証のしようもありませんが、きわめて正確なのです。

 とくに重要なのは、治水地形分類図では河畔砂丘の外縁しか図示されませんが、迅速測図では河畔砂丘の内部構造も描かれていることです。すなわち〝畝〟ridge が詳細に描き込まれているのです。このような複列構造を呈する点に、河畔砂丘の本質的特徴があるのです。

 複列構造の詳細を見る前に、迅速測図上で、若宮戸河畔砂丘の外縁をはっきりさせなければなりません。

 

 

 河畔砂丘の範囲は、上流側(北側)は鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ。1928〔昭和3〕年2月着工、1935〔昭和10〕年3月通水)の、旧河道を塞いで作られた左岸堤防の下流端であり、下流側(南側)はアジア・太平洋戦後の1952(昭和27)年に24.63kまで延伸される以前の堤防の上流端です(上の治水地形分類図でいうと、概ね左岸26.00k付近から24.10k付近までです)。

 東側は、どこまでが河畔砂丘なのでしょうか。迅速測図では、農家住宅の屋敷林の緑と繋がってしまっています。というより、この緑の彩色は、そこに樹木があることを示しているのであって、河畔砂丘という地形を示すものではないということです。河畔砂丘はここでは等高線ないし崖を示す記号で示されているのです。緑に彩色された範囲のうち、住宅地・屋敷林を除いた線までが河畔砂丘です。

 現代の治水地形分類図では、大雑把にそこまで含めた範囲に伏せ半円が描かれています。東北東側の人家が建っているところはもちろん、掘削が進んで平坦地になってしまっている範囲にも伏せ半円が記されています。河畔砂丘だったところ、それどころか河畔砂丘に隣接する土地がかなり含まれています。というより、現状にはいささか無関心に、迅速測図作成当時の河畔砂丘を忠実に踏襲してしまったうえ、判別が困難な隣接地まで含めてしまったのです。参照したなどというレベルではなく、そのまま写したのです。現地を見ていないどころか航空写真すら踏まえていないのです。

 迅速測図の彩色では河畔砂丘の東側部分では屋敷林との区別がつかないので、後代の航空写真・衛星写真によって区分し、河畔砂丘の東側外縁を示したのが、上の図中の白線です。

 西側つまり河道側は、どこまでが河畔砂丘なのかを明確にするのは、意外にむずかしいのです。迅速測図では、砂州が記述してあるのか、それとも省略してあるのか、よくわかりません。25.6kあたりに継ぎ目が見えます(少し先に拡大図)。そこで別葉になっていて、かなり描画法がことなっています。河畔砂丘の〝畝〟の描き方もいささか異なりますし、砂州の描き方も違っています。継ぎ目の北側には砂州が描かれていますが、南側には描かれていません。描画法は同じで、違って見えるのは現物そのものの差異である可能性もありますが、継ぎ目のところで左岸の着色がガラッと変わるほか、右岸も含めて描画法はずいぶん異なります。継ぎ目のところで不一致があるなど曖昧な点はありますが、一応河道ないし砂州(あわせて低水敷)の手前までが河畔砂丘の西側の外縁だとみておくことにします。

 


若宮戸河畔砂丘の内部構造

 

 外縁は一応確定しましたので、次に河畔砂丘の内部構造を見ます。内部といっても、地下深くの様子というのではなく、河道に平行する砂丘の縦断方向の形状と、河道に垂直の横断方向の形状ということです。横断方向の構造、すなわち複列構造を見る前に、縦断方向の構造的特徴をみておきます。

 若宮戸河畔砂丘は、迅速測図では二葉の図面の継ぎ目をまたいでいます。さきほど触れたように、二葉には少々のズレがあるだけでなく、描画法の違いもあるようです。しかし、そのことを考慮に入れたとしても、下流側(画面左方、南側)より上流側(画面右方、北側)の方が、砂丘の発達が顕著なのです。

 鎌庭の大蛇行流路を過ぎると左カーブとなり、カーブ内側すなわち左岸側の流れは緩やかになって大量の砂が堆積して寄州(よりす side bar )が形成されます。渇水期(冬季)に大幅に水位が下がり、北西季節風が寄州の砂を吹き上げ、内陸部に堆積させます。砂の吹き上げはせいぜい地上30cm程度ですから、右岸の寄州あるいは中洲から吹き上げられた場合は河道に落ちてしまい、左岸に砂丘を形成することはありません。鬼怒川の「下流区間」ではこの若宮戸のほか、中居指(なかいざし)、中三坂、小山戸(こやまど)に河畔砂丘が形成されましたが(他にもあったかも知れません)、いずれも左岸です。この4箇所のなかでは若宮戸が圧倒的に大規模です。

 ところが、上流部にダムと砂防ダムが多数建造されて以降は砂州の発達も、当然河畔砂丘の発達も一挙に停止しました。そうした全般的な事情に加えて、それ以前に若宮戸の場合は鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)によって河畔砂丘のある左岸がカーブ内側からカーブ外側に転換したため、かえってカーブ外側の強い水流による砂州さらには河岸の侵食が始まっていたのです。それどころか、砂州が消退したあともさらに侵食が進み、河畔砂丘上流側の河道側外縁部の侵食が始まったようです。このため、かなり古くから護岸が設置されていました。

 右上は、2015年9月10日にソーラー発電業者(「B 社」)が掘削した地点からの氾濫が起きた25.35k地点に、氾濫後に急遽設置された大型土嚢3段積みの仮堤防を対岸から見たところです(左が上流、北方向)。その下流端の手前(下に望遠画像)には「A社」のソーラーパネルの残骸が積み上げられています。その手前に見えているのが、蛇籠による護岸です。この部分だけ草が全部剥ぎ取られ、砂や護岸が露出しています。おそらく2015年9月10日の増水の際に、洗掘されたのでしょう(2015年10月4日撮影)。

 

 捷水路建造前の若宮戸河畔砂丘は、鎌庭の旧河道を抜けてすぐの大きな左カーブ地点にあったことにより、相対的に上流側部分の砂丘の発達が顕著でした。迅速測図では、河道近くの細長い丘陵のほか、河道からもっとも遠いところ(内陸側=東側)に等高線も用いて巨大な〝畝〟が描かれています。その頂点に三角点が設置されたようで、「32,25」と標高が記されています(明治初期のことで、のちにほとんどすべてがドイツ帝国にとってかわられる以前は、あらゆる分野でフランス共和国の影響が強かったのですが、地図・測量の分野も同様です。ですからフランス式に小数点は「 . 」ではなく「 , 」です)。ここが最高標高地点だと考えて良いでしょう。

 東京湾平均海面を基準とする標高表記(T.P.)のようです。少なくともその近似値でしょう。現在の利根川水系の標高はY.P.で表しますから、差分の0.84mを加えると、Y.P.=33.09mです(有効数字桁数が一致しないのでいささか不具合ですが)。「地理院地図」の最新の地形図では、現在この地点には、T.P.=18.8m(Y.P.=19.64m)の三角点があります。砂丘が掘削され三角点が垂直に13mほど降下したのです。数十m横にも移動しているかもしれません。「管理基平面図」だとY.P.=20.1m(T.P.=19.26m)です。

 

 次に、横断方向(河道に対して垂直)の構造をみます。

 海岸砂丘と河畔砂丘は、風成の砂丘すなわち、水流(海流・河川流)によって運搬され堆積した砂が風(海風・季節風)によって吹き上げられ風下側の陸地に堆積したものです。

 砂丘の形状はさまざまですが、そのひとつが岸に平行に数列の〝畝〟ridge が形成されるタイプです。水面から離れた内陸側の〝畝〟が最大となり、水面側へ順に小規模な〝畝〟が形成されます(右は、www.sciencedirect.comによって検索した論文の要旨中の図〔リンク切れ〕。下は、さきに引用した鈴木隆介『建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 低地』、490ページの図。いずれも海岸砂丘の例)。


 

 これを若宮戸河畔砂丘について具体的にみてゆくことにします。

 さきほどみたように、河道からもっとも遠いところ(内陸側=東側)に三角点があり、標高値「32,25」の三角点がある高まりと、北側(上流側=右側)の高まりがいずれも、3本の等高線で表現されています。20m、25m、30mの等高線です。すくなくとも10m以上、おそらく15m近い比高差があったということです。

 標高の最高点のある東側の〝畝〟を緑実線で示します。等高線(25mと30m)のうち、高い方(30m)を緑破線で示します。東から2番目の〝畝〟は、1番目の〝畝〟に次ぐものだと思われますが、それを黄実線で示します。そして順に幅の狭くなる東から3番目の〝畝〟を青実線で、河道のすぐそばの4番目の、もっとも小さな〝畝〟を燕脂実線で示します。

 

 

 こうして読み取った〝畝〟の形状を航空写真・衛星写真や近年の精細な測量結果と見比べると、消滅したところは別として、少々のズレがあります。明治初期以降の地形の変化もあるでしょうが、迅速測図の描画それ自体の歪みもあるようです(樹高10m以上の「松」に覆われていたのですから、測量は困難を極めたに違いありません)。これから見る航空写真・衛星写真や測量結果を勘案して、迅速測図から読み取った〝畝〟の形状を、少々補正することにします。下が迅速測図からなぞった〝畝〟を薄色で、補正した〝畝〟を同色の濃色で描いたものです。

 この補正した〝畝〟の形が、1960−70年代の激変以前の、本来の若宮戸の河畔砂丘の形状だった、と想定することにします。