Mar., 11, 2020
前ページで最後に見た2013(平成25)年6月の衛星写真は水害の2年ほど前のものですが、堤外の高水敷にかつてあった耕地はすべて耕作放棄され、一部でおこなわれていた大規模な砂の掘削もほとんど終わり、堤外の土地はすべて疎林や竹藪まじりの草地となっていました。
その直後、状況は激変します。
三坂(みさか)で砂の掘削がふたたび始まるのですが、それは戦前や、「高度経済成長」期のものよりはるかに大規模なものです。これは下館(しもだて)河川事務所(茨城県筑西〔ちくせい〕市)によるもので、このページの末尾に概略を示しますが、2013(平成25)年7月5日から2014(平成26)年5月30日までの計画で実施されたようです。
すでに県道357号線からのアクセス路(コバルト矢印)が作られています。大型土嚢で脇を固めて堤防天端に上がったところでは、当初の計画になかったヘアピンカーブの造成中です。V字では通行しにくいのです。
衛星写真は工事開始から半年ですが、黄線の多角形と緑線の多角形部分が掘り込まれています。
画面上方が東南東です。黄線の多角形の上辺(あ)に雪が残っています。そこに西北西に下る斜面があるのです。すこし形状が変化しますが、これがのちの第2の段付き(緑線)の上流側半分になります。
黄線多角形の右辺(い)には午前11時頃の陽射しによる影ができています。急斜面になっているので、残っている雪が影に入ってしまい、雪があることがわかりにくいのです。
このように西北西から北向きの斜面には雪が残っているので、写真から土地の傾斜や段差を窺い知ることができます。第1の段付き部分(青線)には草があって、雪が残っています。まだ段付きが残っていることがわかります。
次の3月22日の写真で見るとおり、このあと黄線多角形の窪みと緑線多角形の窪みはつながります。橙矢印は、鉄板を敷き詰めたダンプ用道路です。
黄線多角形の下辺(う)には雪のない斜面があります。このあとの2015年2月2日の写真を見ると掘削が進行して、この東南東に向いた段差はなくなります。つまり第1の段付きの下段の高さまで掘削されてしまうのです。
2か月後の様子を、まず、広い範囲で見ます。
採砂が進行し、上の写真の黄線多角形と緑線多角形の窪みはつながりました(白文字「第1の段付きの上段」)。
これとは別に、黄文字「砂州だったところ」で大規模な採砂がおこなわれています。
工事中だったヘアピンカーブ(コバルト矢印の左)が完成し、ダンプカーの往来が楽になったようです。
上の1月19日の写真の橙矢印は、砂州だったところでの採砂のためのダンプ道路(この写真の黄矢印)です。このダンプ道路の左右の、第1の段付きの下段は、表面の草が剥ぎ取られ整地されています。
他の写真・地図と同じ範囲です。
第1の段付き(青線)の上段(だったところ)に、採砂によって第2の段付きがほぼできあがったようです。
ヘアピンカーブから降りて来たあたりに、バックホウが2台見えていますから、今はこのあたりで採砂をおこなっているのですが、砂の色味が違っています。さきほどの「砂州だったところ」でも同様に、明るい色の砂地のなかに、暗い色の砂地があります。積載が終わってヘアピンカーブへと昇っていくダンプカーの荷台の砂も同じ色です。たぶん、荷台から盛大に水を滴らせていることでしょう。
わざわざ散水しているはずもありませんし、降雨・降雪によるものでもありません。砂を掘ると、水が染み出して来るのです。ここの地盤の状況を推測させる事実です。
上の写真から10か月あまり経過しました。水害の7か月前です。
県道357号線からのアクセス路は撤去され、高水敷に敷かれた鉄板も全部撤去されました。重機やダンプカーの姿もありません。上三坂での採砂は終わったようです。
第1の段付き(青線)があったところが、全部掘削されたようです。多少の傾斜は残ったかもしれませんが、第1の段付きはほぼ消滅したように見えます。
画面右側の4分の1には第1の段付きは残っていますが、それがそのまま第2の段付き(緑線)の下流端に連続するようになりました。
もとの画像が朦朧としているので画像処理ソフトでコントラストと露出を補正したところ、掘削された部分(白文字「上の写真以降の掘削」)の色味がだいぶ違っているのがわかります。
季節からして繁茂している草ではありません。周囲の枯れ草は赤茶のものと薄茶のものと2種類ありますが、それらとも違いますから、枯れ草でもなさそうです。掘削した部分では水が染み出してくるようです。
第2の段付きの崖面(緑実線と緑破線の間)には、いくつかの筋が見えます。とくに、ヘアピンカーブから降りて来たところと、上流側の樹林のところの筋は、かなりおおきな亀裂です(コバルト矢印)。下流側の亀裂は、あとで見る「開口1」の位置です。
(1)本質を外した指摘
三坂におけるこの時期の砂の掘削は、建設業者等から河川区域における採掘の許可申請が出されてこれを許可したというのではなく、鬼怒川の他の区間の堤防嵩上げ・拡幅と低水護岸の工事のために、国土交通省がみずから実施したものです。
水害直後の2015年11月8日に、国交省が「三坂地区堤防決壊に係わる補足説明資料」として公表した文書の中に、「【参考】」として、次のとおり概要が記されています(https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000635504.pdf)。三坂から砂を取り(青文字と青楕円)、常総(じょうそう)市羽生(はにゅう)町と中妻(なかつま)町の堤防と護岸の工事(赤文字と赤楕円)に投入したのです。
国交省がわざわざ水害直後にこのような文書を公表した件について、ここですこし検討しておきます。
7ページを、一連の衛星写真と方位を合わせるために倒立させると右のようになります(「注目点1」と「注目点2」は描き加えたものです)。
国交省の文書は、採砂のために堤防を跨いでダンプカーが往来したことで堤防の沈下を引き起こし、それが越水の、ひいては決壊(破堤)の原因になったのではないかという、水害直後に提起された疑問に答えるためのものです。「注目点1」として示したように、赤線のV字道路(実際にはさきほどみたとおり、工事後半にヘアピンカーブに改造)は青矢印2本の「越水」地点とは離れているから、ダンプカーと越水は無関係だ、というわけです。
一般的なダンプカーの車両総重量は20トンをわずかに下回ります。積荷を含む車両総重量の「20トン」が道路法の定める最高限度なのです(https://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/oto/otodb/japanese/faq/qa/q5-2.html)。もちろん20トン以上の車両は存在しますが、道路管理者や警察等の許可が必要で、走行できる道路も大きく制限されます。いすゞ自動車のダンプカーの例(CXZ77CT-KJ-M 5A-S)をあげると、車両総重量は19.96トンで、車両重量(荷物を積んでいない状態でのダンプカー自体の重さ)は10.45トンです。最大積載量は、乗車定員2人分の110kgを差し引き、9.4トンということになります(https://www.isuzu.co.jp/product/giga/lineup/dump/pdf/dump_shogen.pdf)。乗用車同様、大型トラックも車両重量は増加傾向にあり、いわゆる「10トンダンプ」も、実際の最大積載量は10トンを下回るのです。これが30年か40年前であれば、ダンプカーの過積載は当たり前で、とくに茨城県では取締りの緩さもあり、荷台に「差し枠」をつけた10トンダンプに50トン積むのも珍しくありませんでしたが、当今はそのようなことはなくなりました。
いずれにしても、この程度の重量では、一般の舗装道路でもよくあるように、もし鉄板を敷かなければ堤防の天端のアスファルトに轍をつくって波打たせるのがせいぜいのところであり、堤体全体を数十メートルにわたり数十cmも沈下させることはありえないでしょう。
この〈堤体沈下ダンプカー原因説〉は水害直後から提起されていたようで、常総市議会の「水害検証特別委員会」の第12回委員会(2016年2月28日)では、下館河川事務所の所長・副所長のほか、例の関東地方整備局の高橋伸輔(のぶすけ)河川調査官らを召喚して、この点を問い質しています。その際、この資料の7ページ目のコピーが提出され、ダンプが横断した地点と越水した位置がずれているからそういう指摘は当たらない、という説明があったようです(http://kinugawa-suigai.seesaa.net/category/25992532-1.html)。
ただし、国交省の説明はいささか不適切なのです。
「注目点2」として示した掘削予定範囲は8haくらいですが、衛星写真で明らかなように、実際にはそれより広い範囲が掘削されたのです。植生を含む表土を剥ぎ取った面積は、全体で11ヘクタール以上になります(右図)。
また、「高水敷の土砂を掘削し」とありますが、低水敷である砂州(だったところ)でも採砂をおこなったのですから、これも不正確な記述です。
なにより、ダンプが堤防を横断した地点と越水地点がズレていることを示したいのなら、もう少し正確でわかりやすい図面を出すべきなのに、関東地方整備局が鬼怒川水害に際して頻発したすべての広報文書の例に漏れず、小さくてわかりにくく、そのくせ図は大雑把で不正確なのです。
例の若宮戸(わかみやど)の「自然堤防の掘削」の図などは最初から人を欺くためのものですから論外ですが、それ以外の文書はどれもこれもいかにも広報担当の素人役人が描いた、大雑把で正確性に欠けるものなのです。
越水したのは、B, C, E区間と、破堤開始区間であるF区間のうち上流側なのですが(別ページ参照)、この資料7ページの図中の越水箇所を示す青矢印は少々ズレています。縮尺が小さすぎるところに、幅に無頓着な矢印を描いているだけで、ズレていることすらよくわからないのですから呆れ果てます。
一番良くないのはB地点すなわち加藤桐材工場裏(B区間)の越水を無視していることです。まさか越水したのに破堤しなかったという不都合な?事実ゆえに無視した、というわけでもないでしょうが……。
躍起になって反論する関東地方整備局・下館河川事務所にしてみれば、ダンプ道路と越水地点がズレていると言いたいのでしょうが、肝心の越水地点の図示が不正確でズレていたのでは話にもなりません。
このとおり、本筋を外した指摘とそれに対する通り一遍のおざなり応答だけがおこなわれる、例によっての落語「蒟蒻問答」状態となり、重大なことはほとんど指摘されないままです。〈堤体沈下ダンプカー原因説〉は燻り続けることになり、いまだに現地でそれを耳にすることがあります。的外れの責任追及のために、重大な事実が隠されたままになっているのです。
こうして、三坂でも「水海道市街地水害八間堀川唯一原因説」の場合と同様に、河川行政を批判する側が本筋から外れた指摘に拘り続けることで、意図したことではないにしても、結局はことの真相が覆い隠されてしまうという、いささか困ったことが起きているのです。
(2)膨大な掘削量
それでは、この三坂における砂の掘削の問題点は何でしょうか。
まず、その掘削量が桁違いに膨大なことに注目しなければなりません。上の国交省文書の6ページの左下に、掘削量が明記されていますので、再掲します。ダンプでの運搬に拘るあまり、「土運搬量」と言っていますが、要するに掘削量です。
1年足らずの期間に、ここから8万㎥の砂を持ち去ったということです。8万㎥と言ってもピンと来ないのですが、縦200m×横400mの土地、つまり8haの土地に、1mの厚さで積み上げると8万㎥です。(野球のフィールドがだいたい1haくらいですから、野球場8つ分です。あるいは茨城県の多くの県立高校の敷地面積くらいです。)
右は東京オリンピック(前回の)の翌年の1965(昭和40)年から1980(昭和55)年までの利根川水系での「砂利採取状況」です(『利根川百年史』1987年、建設省関東地方建設局、p. 1784.)。用語が厳密ではありません。ここでいう「砂利」は小石から砂まで含むようです。ごく大まかにいえば、河川の上流側ほど粒径が大きく、下流側ほど粒径が小さくなります。鬼怒川の茨城県内区間ではほとんどが砂です。
鬼怒川は年間100万㎥から200万㎥が採取されていたのですが、それは利根川本川をも凌ぐほどでした。その全盛期の4%から8%ほどの量が、水害直前の1年足らずの間にこのわずかな範囲から採取されたのです。
計画通りだったとすると、掘削面積は約8haで差し渡し距離が400mあまりですが、衛星写真で見た実際の掘削面積は約11haで差し渡し650mほどです。鬼怒川の茨城県内区間の約40kmの範囲が「下流」とされるのですが(http://www.ktr.mlit.go.jp/shimodate/gaiyo10/h23ijikanri%20kinu.pdf、ただし鬼怒川は利根川の支流であり、単独の河川として「上流」「中流」「下流」部分があるわけではありません)、そのごく一部にすぎない数百mの区間ただ一箇所のしかも左岸だけで、全盛期の年間掘削量の4%ないし8%ほども採掘したことになります。
上流に4つのダムが建造されたことで砂の堆積量が激減するなかで、それにもかかわらず大規模な採砂を継続したために、「下流」部ではほとんど砂資源が枯渇したのであり、鬼怒川はもはや採砂をおこないうる河川ではなくなっていたのです。三坂でのこのような行為は、いかにも過剰であり河川管理上いちじるしく失当であったというほかありません。
なおこれは体積です。ついでに重量だとどうかもみておきます。砂といっても種類・品質はさまざまで、締まり具合や湿り具合で重さもだいぶ変わりますが、概ね1㎥あたり、1.7から2.0トンくらいです(https://www.unions.co.jp/dqs/dynamic/files/03.pdf)。8万㎥は、ざっと15万トンというところでしょう。
(3)高水敷の形状の改変
しかし、抽象的に数値だけ見たのでは、妥当か失当かはわからない、というご指摘があるでしょう。ごもっともです。
大規模な採掘がおこなわれたとしても、砂州を含む河道の断面構造を損なうことがなく、高水敷の安定性に悪影響がなく、堤防と基礎地盤の安定性を損なうこともないのであれば、許容される砂の採掘だといえるでしょう。しかし、採掘によって河道・砂州・高水敷の形状・構造に根本的変更をもたらし、それが結果的に堤防の安定性を損なうことになれば、話は別です。砂の採掘が堤防の決壊・破堤原因となりうるとすれば、ことは重大です。
ここまで、資料が残っている戦後の河道・砂州・高水敷・堤防の形状の変化を見て来たのですが、2013年から2014年の国交省による8万㎥の砂の採掘によって、高水敷の形状が根本的に変化したのです。すなわち第1の段付きが消滅し、新たに第2の段付きが形成されたのです。次ページで、その新たに形成された第2の段付きのまさにその崖面に生じた変化を、同様に衛星写真を時間順に見ることで事後的に確認することにします。