1 杉原千畝と日本会議

日本会議広報誌における鼎談

 

 「日本会議」の広報誌『日本の息吹』の2008年11月号に、「高校にも『道徳』を!」と題する、記事が掲載された。元最高裁判所長官で「日本会議」第3代会長の三好達、「日本会議」茨城県支部会長の横山亮次、茨城県知事の橋本昌の3人による鼎談である(www.h-masaru.com/library/pdf/200811nihonnoibuki.pdf)。

 「本県の教育行政上の施策とその成果」についての説明を受けた後、三好達は「必修道徳」のテキスト『ともに歩む』に言及し、「大変よくできていると感心しました」と褒めてみせた。普通ならそれで終わるところだが、三好が他と違うのは実際に生徒用テキストの全体に目を通したうえで鼎談に臨んでいることだ。「感心しましたが、ちょっと気になった点が二、三ありました」として、3件の教材について問題を指摘している。

 ひとつめは県内の高校でおこなわれた水谷修の講演の抄録(教材13)である。三好は、“夜回り先生”水谷修が「夜の世界の人間は外見で人を判断します。」「あの格好は夜の街では非常に危険な格好なのです。」と言うのが気に入らず、「形の乱れは心の乱れ、形を整えれば心も整う、と教えるほうが基本」だと反発する。外面を統制することで精神をコントロールしようとする三好達の考え方は、人間の内面性を軽視ないし無視する恐るべき思想である。水谷の言う「夜の世界の人間」の発想とたいした違いがない。横山亮次も「必修道徳」の成果として真っ先に「生徒の服装が良くなった」ことを挙げた。彼らは「人を外見で判断する」点において一貫しており、一切の妥協を排する。彼らは「人を外見で判断する」ことを自分の判断基準にするだけではない。日本会議のメンバーは「人を外見で判断する」ことは人類普遍の行動原理であり、誰もがこの原理を採用しなければならない、と考えている。

 服装は、「道徳」問題として取り扱うべき問題ではない。すくなくとも、「形を整えれば心も整う」などという非人間的主張に立脚して学校教育における「道徳」のテーマとすることは誤りである。しかし、日本会議は服装を「道徳」教育の問題ととらえる。それどころか、服装こそ「道徳」の第一番目の課題だと考えている。日本会議は、服装を第一番目の課題とする「道徳」を、茨城県立高校の「必修道徳」として結実させた。ところが、よりにもよって「必修道徳」の「生徒用テキスト」において水谷修が、彼らの感性が「夜の世界の住人」と同じであることを暴露してしまった。これは到底容認できることではなく、今回、会長直々の削除要求となったのである。

 ふたつめが県内の高校教員の自作教材(教材2)である。三好は「余りにも品のない言葉遣いをしていて、道徳のテキストに載せる教材としては、いかがか」と言う。ひとつめが服装、ふたつめが言葉遣い。三好にとっての「道徳」とは、まずはマナーとかエチケットなどのことである。

 3つめが、マーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」(教材29)である。この「私には夢がある」は、1963年8月の「ワシントン行進」の際のもので、アメリカの公民権運動のひとつの頂点をなす有名なスピーチである。ただし、『ともに歩む』への収録にあたっては、社会的背景についての説明や訳注が一切ないなど、問題がある。しかし三好が問題にするのはそのことではない。

「キング牧師のスピーチが入っていました。結構だと思うのですが、人種差別撤廃問題を取り上げるなら、人種平等を主張した先駆者は日本であること、……も、教えて頂きたいと思いました。」

 三好は、第一次世界大戦の「パリ講和会議で日本の代表が国際連盟の盟約に人種平等の原則を入れることを提案した」ことを、教材として採録すべきだと言う。三好はたんなる思いつきで言っているわけではない。大日本帝国が国家の政策として人種差別に反対したという説は、「日本会議」メンバーが近年力を入れている領域である。「日本会議」の主張は、南京虐殺(1937年)の事実の否認、沖縄での住民の集団自決(1945年)や従軍慰安婦への帝国軍隊の関与の否認、東京裁判(極東国際軍事裁判、1946-48年)の一方的批判を通じての戦争責任の全面否認、などに止まらない。いわゆる「歴史修正主義」は、大日本帝国に対する否定的評価の否認の段階から一歩進んで、「人種平等を主張した先駆者は日本である」などの肯定的評価を提出する段階に進んでいる。

 

 

「杉原ビザ」に言及しない三好達

 

 ここで、ひとつの疑問が生じる。近年の「日本会議」の動向からみて、『ともに歩む』の中でまっさきにクレームのつきそうな教材に、三好が言及していないのだ。「六千人の命のビザ」(教材16)である。

 「日本会議」とその周辺につどう人たちは、南京虐殺事件、沖縄住民集団自決、従軍慰安婦、東京裁判などについて独自の見解を述べ、総じて大日本帝国のおこなったアジア・太平洋地域への侵略行動を正当化しようと、さまざまの主張を展開している。「歴史修正主義」といわれるものである。日本会議はその文脈において「杉原千畝」を取り上げ、従来の評価を根本的に変更しようとしている。ところが、会長の三好達は、『ともに歩む』の教材16「六千人の命のビザ」には、一切言及していない。なぜか?

 1968(昭和43)年8月、在日本イスラエル大使館参事官のジェホシュア・ニシュリが、第二次大戦後に外務省を解雇され貿易会社の社員となっていた、元在リトアニア日本領事館領事代理の杉原千畝を捜し当てた。

 ジェホシュア・ニシュリは、1940(昭和15)年に杉原千畝が発給したビザによりリトアニアから出国し、ソ連・日本を経て脱出した数千人のユダヤ人の中のひとりであった。彼は戦後長いこと、彼らにビザを交付した「センポ・スギハラ」という名の外交官を捜していた(センポは千畝の音読み)。日本の外務省に照会しても「該当者なし」との回答しかなかった。28年を経て、ジェホシュア・ニシュリはやっと杉原を捜し当て再会を果たしたのである。この事実を1968年8月2日付け『朝日新聞』が報道し、「杉原ビザ」の事実がはじめて一般に知られるようになった。翌1969(昭和44)年、杉原千畝はイスラエルのイェルサレムに招かれ、宗教大臣のゾラフ・バルハフティクに面会した。1985(昭和60)年、イスラエルは、杉原に「諸国民の中の正義の人賞」を授与し顕彰した。

 杉原千畝は1986(昭和61)年に86歳で死去した。1990(平成2)年、未亡人の杉原幸子が、記憶に基づいて『六千人の命のビザ』(朝日ソノラマ)を書き上げて出版した。同書によれば、1940(昭和15)年7月、在リトアニア日本領事館(カウナス市)に領事代理として赴任した杉原千畝は、ドイツ第三帝国が占領したポーランドから脱出してきた多数のユダヤ人に対し、要件不備の者に対する査証(ビザ)の発行を禁じた本国政府(外務省)の訓令に違反して日本通過を許可する査証を発行し、総数6000人のユダヤ人のリトアニア脱出を可能にして彼らの生命を救った。

 イスラエル政府や在米ユダヤ人団体による顕彰とその報道、未亡人の杉原幸子の回想を軸とする伝記の流布によって、杉原千畝が社会的注目を浴びるようになった。

 

 

「国策に反した決断」の否定

 

 こうした動きに対抗するように、1998(平成10)年になって、杉原に関して異質な解釈が提出された。ヒルレ・レヴィンの『千畝』(諏訪澄・篠輝久監修・訳、1998年、清水書院)である。

 同書が言及した事実関係については、『六千人の命のビザ・新版』(1993年)の版元である大正出版社長の渡辺勝正が『真相・杉原千畝』(2000年、大正出版)で数百か所に及ぶ過誤を指摘している。さらに遺族の杉原幸子が名誉毀損と出版販売の差し止めを求める訴訟を提起するなど、おおきな軋轢を引き起こした(一審判決は被告に50万円の損害賠償を命令。控訴後、賠償金支払いで和解)。レヴィンの著作は従来の杉原千畝解釈を根本的に転換することを意図して出版されたものとみてよいだろう。

 さらに同書の著者のヒルレ・レヴィンと「共同調査」をおこない、同書に収録された「新資料を発掘」したという藤原宣夫が、「杉原は決して日本政府の訓令に反したわけではない」として、活発に活動をはじめた。元三井物産社員で「日本イスラエル商工会議所」会頭の藤沢宣夫は、「日本会議」の広報誌『日本の息吹』(1999〔平成11〕年9月号、postx.at.infoseek.co.jp/sugihara/top.html すでにリンク切れ)で次の通り主張した。

 

「もともと八紘一宇を唱え、国際連盟発足時には、人種平等案を提起した日本ですから、その趣旨からしてもユダヤ人を平等に扱うのは当然のことでした。」

 

「〔杉原千畝の〕行為が『日本政府に反抗して』というようにことさらに誤って伝えられてしまったことがいけなかった。」

 

 藤沢は、杉原が外務省の命令に反してビザを発行したとする従来の解釈を否定し、杉原は大日本帝国の国是としての人種平等の思想に基づいてユダヤ人を救済したのだと主張する。従来の解釈においては、杉原千畝は帝国官僚としての義務に反し、個人として人道的にふるまってユダヤ人を救済したとされる。いっぽう、藤沢の対抗的解釈によれば、杉原千畝は帝国官僚として大日本帝国の国是に忠実に従って行為してユダヤ人を救済したのであり、個人としての道徳的・人道的問題は一切発生しない。せいぜい、国の方針に従って職務に忠実に励んだという意味で、道徳的に是認されるにとどまる。(この程度では「道徳」の教材にはなるまいが……。)

 

 

「八紘一宇」の礼賛

 

 「杉原ビザ」に関する新解釈の提起は、「日本会議」広報誌における藤原宣夫個人名での記事にとどまらない。2000(平成12)年9月13日、サンケイ新聞社ビルで、「日本会議国際広報委員会」などの主催で「ホロコーストからユダヤ人を救った日本」と題する「特別シンポジウム」が開催された(postx.at.infoseek.co.jp/sugihara/top.html リンク切れ)。

 「開催要項」は、「第一次大戦後のパリ平和会議で国際連盟に対し、人種平等の提唱をし、また満州における五族共和の新国家建設を目指した日本の一貫した思想と政策」などについての研究発表をおこなうとし、さらに「南京事件を捏造して、日本がドイツのホロコーストと同じような虐殺を犯したというような国際的反日キャンペーンに対し、断固たる態度をとる」と謳っている。南京虐殺事件の否認という課題を果たすために、「杉原ビザ」に関する対抗的解釈が論拠として利用されている。すなわち、「杉原ビザ」は、訓令に反してとられた行動ではなく、「人種平等」の国家理念(=八紘一宇)によるものだとの解釈である。

 鼎談において、三好達が以上のような動向を踏まえて発言していることは明らかである。だとすると、『ともに歩む』を舐めるように読んできたはずの三好達は、なぜ杉原幸子の著書『六千人の命のビザ』の抜粋である教材16に一切言及しなかったのだろうか?

 

 

「決断」にいたる「夫の苦悩」

 

 杉原幸子の著書『六千人の命のビザ』には、杉原千畝が苦悩のあげく外務省の訓令に反してビザ発行を決断した様子が描写されている。この第1章第2節の前後11ページにわたる描写こそ、「杉原ビザ」のクライマックスである。領事館の門前に数十人のユダヤ人が集まり、日本通過ビザの交付を求めた7月18日から、交付を決断して発給を開始した7月29日にいたる経過が、詳述されている。

 杉原は、ユダヤ人の集団に対して代表を選出するよう求め、領事館1階の執務室で彼らとの折衝をはじめた。この5人の代表のなかに、1968年に杉原を探し出した在日本イスラエル大使館参事官のジェホシュア・ニシュリと翌年イェルサレムで面会した宗教大臣のゾラフ・バルハフティクがいた。少人数の通過ビザであれば杉原の権限内であったが、多数のビザを一挙に発給する際には本国政府(外務省)の許可が必要である。事情を暗号電報で報告し許可を求めたが、外務大臣の松岡洋右からはこれを否とする訓令電報が返信されてきた。ビザ発給を許可する訓令を求める請訓電報と、それを否とする訓令電報がさらに2度交換された後、杉原千畝はついに決断した。

 「私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする」。訓令違反により免職されたとしても「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」、また「ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」として、自己の地位や安全を危険にさらすことを覚悟したうえでの決断であった。

 必修道徳テキスト『ともに歩む』所収の教材16「六千人の命のビザ」は、杉原幸子の『六千人の命のビザ・新版』(1993年、大正出版)の抜萃であり、ヒルレ・レヴィンの『千畝』や「日本会議」の藤沢宣夫の文章からの引用ではない。教材16には、途中7か所に「中略」箇所がある。まず、ドイツ占領下のポーランドから杉原千畝の駐在するリトアニアのカウナス市にユダヤ人が逃亡してきたことが、7行分引用される。これは、『六千人の命のビザ』の第1章第1節からの引用である(20頁)。

 最初の「中略」の後、突如、杉原千畝が「ビザを発行する」とユダヤ人の群衆に告げる7月29日の場面になる。これは、『六千人の命のビザ』の第1章第3節の引用である(35頁以下)。第1章第2節「夫の苦悩」は完全に省略されている。それ以降は、8月28日の領事館退去まで杉原千畝が昼食もとらず、万年筆が折れ、腕が動かなくなるまでひたすらビザ発給を続けた様子や、領事館閉鎖後に一時滞在したホテルにおいて、そしてカウナス駅でベルリン行きの列車の窓から身を乗り出してビザを書き続けた様子の引用である。

 外務大臣訓令に違反するビザ大量発給の決断に至る10日間の葛藤については、一切引用されない。外務省への請訓電報や外務省からの訓令電報のこともまったく触れられていない。どの部分が引用されたかではなく、どの部分が省略されたかが重要である。こうして教材16は、休む間もなくビザを書き続ける身体的苦痛に耐えたというだけの話になった。

 教材16は、「生徒用テキスト作成委員会」の高校教員10人が作成した教材ではない。かれらがこういう少々手の込んだことをしたとは思えない。村上和雄の「生命はゼロからつくれない」(教材12)や「岡倉天心」(教材27)と同様、当時、「道徳教育推進委員会」の委員長だった元文部科学省教科調査官の押谷由夫の手によるものだろう。必修「道徳」授業開始の前年秋に配布された簡易印刷版(2006〔平成18〕年9月付け)では、杉原千畝についての欄外注で「第二次大戦中、リトアニアにおいて、独自の判断でビザを発給し、多くのユダヤ人の命を救った」としていた。「独自の判断で」といささかもってまわった言い方であるが、「訓令に違反して」と言ったも同然である。ところが、完成版(2006〔平成18〕年9月25日付け「初版」)ではこれを削除し、たんに「カウナスにおいて、ナチスの迫害から逃れるため集まってきたユダヤ人に、日本通過ビザを大量発給した」と変更した。

 外務大臣の訓令に違反してビザを発給する人道的「決断」にいたる過程を描いた第1章第2節「夫の苦悩」を全部省略したうえ、欄外注を書き換える。その意図は明白だ。すなわち、大日本帝国の戦争政策を正当化するため、「日本会議」流の杉原千畝像を教えようとしているのだ。

 ところが、教材16末尾の「作者略歴」には、杉原幸子についてこう書いてある。

 

「外交官である夫千畝を助け、ユダヤ人に日本通過ビザを発給することに賛成した。」

 

 外務大臣訓令に違反するからこそ、杉原千畝は不利益を覚悟してビザ発給の人道的「決断」をおこなうことを余儀なくされたのである。だからこそ妻幸子の「賛成」もあり得た。訓令違反の事実を抹消しておきながら、唐突に妻幸子の「賛成」について書いたのでは何のことかわからない。まことに迂闊である。詰めの甘い元文部省教科調査官で編集責任者をつとめる押谷由夫が、ボロを出したのだ。