杉原千畝を歴史修正主義に利用
国粋主義団体である「日本会議」は、杉原千畝が職務命令に違反し独自の判断でユダヤ人数千人に対し日本通過ビザを発給したとする通説を否定し、ビザ発給は杉原の個人的決断による行動ではなく大日本帝国の方針に基づくものであるとする新解釈を提起している。茨城県の必修〈道徳〉の生徒用テキスト(『ともに歩む』2006年)に収録された教材16「六千人の命のビザ」は、通説の根拠となっている未亡人杉原幸子の著書を用いているにもかかわらず、恣意的抜萃によって新解釈に沿った教材に仕立て上げられている。
「日本会議」が提起する「杉原ビザ」の新解釈は、日本史解釈におけるいわゆる「歴史修正主義」の一環である。彼らは、ユダヤ人虐殺をおこなったナチスドイツと、南京虐殺をおこなった大日本帝国とは同様の罪を犯したとする「自虐的」な歴史観に対して果敢に戦いをいどむ。まず、「南京虐殺事件」は根も葉もない捏造であるとしてその事実自体を否認したうえで、大日本帝国は「八紘一宇」すわなち人種平等の精神を国是としていたのであり、ユダヤ人を差別し虐殺をおこなったナチスドイツとは根本的に異なるという。そして、「八紘一宇」の精神に基づくユダヤ人保護の事例として、杉原領事代理によるビザ発給の例が取り上げられる。杉原千畝の行為は、外務大臣による訓令(職務上の指示)に反する個人的な人道的行為なのではなく、大日本帝国の外交官として「八紘一宇」の国是に忠実に従って遂行された職務上の行為だとされる。
したがって大日本帝国はドイツ第三帝国のような侵略と人種差別はおこなっていない、ということになる。大日本帝国とそれがおこなった戦争に誇りをもとう、というのである。
このような趣旨で活動したのが、元三井物産社員で「日本イスラエル商工会議所」会頭の藤原宣夫である。藤原は、杉原千畝の陶板製肖像をロサンゼルスのサイモン・ウィーゼンタール・センター併設の「ホロコースト博物館」に寄贈した(http://postx.at.infoseek.co.jp/sugihara/top.html リンク切れ)。肖像は、1930年代に満州国外交部職員だった時に執務室で撮影された杉原の写真を陶板に焼き付けたものであるが、背景の壁面に掲示してある「満州国」を含む東アジアの地図を、1940年7月に撮影された、在リトアニア日本領事館の柵外に押し寄せたユダヤ人集団の写真にすり替えてある。
そのうえで、藤原は次のようにいう。
「訓令に反してというのは事実ではないのでその部分は削除させていただいた。しかし、夫人の苦労された事実は充分理解できるので内助の功として、supported by Yukikoという献辞の言葉を入れた」。
「削除」したというからには何か元になった文書があるかのようだが、そうではなく、通説から「削除」したということのようだ。「献辞の言葉」などと言っていることからも、藤原の言葉づかいは不正確である。興味深いのは、「supported by
Yukiko」である。夫人が何をsupportしたのか曖昧だが、とにかく「内助の功」を顕彰しようとする古色蒼然たる道徳観念が露呈している。前回見たとおり茨城県教育委員会の「生徒用テキスト」には、杉原幸子について「外交官である夫千畝を助け、ユダヤ人に日本通過ビザを発給することに賛成した」と注釈がつけてあった(51頁)。茨城県で「道徳教育推進委員会」を率いた元文部科学省教科調査官押谷由夫が、杉原千畝の個人的「決断」を抹消したのに、その「決断」に対する妻の「賛成」を削除し忘れたうっかりミスなのだが、それだけではなかった。押谷は、職務に精励する夫に対する妻の「内助の功」を強調したかったようである。「日本会議」の藤原宣夫と、推進委員長押谷由夫は同じ発想なのだ。
なお、藤原の言う「ホロコースト博物館」は誤りで、本当は「寛容博物館」(Museum of Tolerance)である。しかも、「寄贈」を受けた「寛容博物館」では、この肖像を展示していないという(金子マーティン『神戸・ユダヤ人難民 1940−41 「修正」される戦時下日本の猶太人対策』2003年、みずのわ出版、53–56頁)。
八紘一宇精神でユダヤ人救済?
日本会議国際広報委員会などが開催した「特別シンポジウム」(2000〔平成12〕年9月13日、サンケイ新聞社ビル)で、コメンターターをつとめた藤原宣夫は、ここでも「訓令に反してというのは事実ではない」と主張した。ところが、この「シンポジウム」で配布された「資料(5)」の著者上杉千年は異なった判断を示している(http://postx.at.infoseek.co.jp/sugihara/top.html リンク切れ)。元高校教諭で自称「歴史教科書研究家」の上杉千年(ちとし)は、著書『猶太難民と八紘一宇』(2002年、展転社)で、犬塚惟重、樋口季一郎、安江仙弘など、戦前・戦中に「反ユダヤ」的信条にもとづいて活動した大日本帝国の軍人たちについて、「親ユダヤ」的であったなどと正反対に描写して賞賛したうえで、「杉原ビザ」について分析している。上杉は、「杉原の『特例ビザ』発給は外務省訓令違反だったのか」(同書、175ページ)と問いを立てたうえで、1940年7月から8月にかけての電報のやり取りを分析し、こう結論づけた。
「杉原は、外務省の訓令を乗り越えて免職をも覚悟してビザを発給した」(179頁)
上杉の判断は、重要な点で藤原宣夫の主張と食い違っている。そのうえで上杉は主張する。
「杉原は外務省訓令を破っても、昭和十三年十二月六日に決定した『五相会議』のユダヤ人保護の国策を破るものではない。そして、この国策の根本精神こそ(……)『八紘一宇ノ我大精神』にあった」(175頁)
「五相会議決定」(1942〔昭和17〕年3月11日廃止)についてはあとで検討するが、上杉は、大日本帝国の国策は「親ユダヤ」的であり、犬塚惟重、樋口季一郎、安江仙弘らの軍人と同様、杉原千畝は国策に従ってユダヤ人保護のためにビザを発給したという。要するに、当時外務省(外務大臣松岡洋右)が国策に反していたため、国策に従おうとする杉原千畝は、外務大臣訓令に違反してビザを発給したにすぎないというのである。
「日本会議」で、ともに「修正主義」的な「杉原ビザ」解釈を推進する両人であるが、一方の藤原宣夫は、杉原は訓令に違反していないうえ「八紘一宇」の国是に従ったとするのに対し、他方の上杉千年は、杉原は訓令は破ったが国是の「八紘一宇」には従ったという。「八紘一宇」というゴールにおいて一致しているのだから、途中の訓令の部分についてはどうでもよいというわけにはいかない。重要な部分で事実判断が食い違うのだから、歴史の「修正」は破綻していることになる。
以下、知らんふりの両名にかわって検討する。
M・トケイヤーのインタビュー
両人は、杉原千畝は「八紘一宇」の国是に従ってビザを発給したというが、具体的にはどういうことか解りにくい。藤原宣夫は特段の説明はしていない。上杉千年もその意味するところを明確に提示していない。ただ、上杉は 滞日経験のあるアメリカのユダヤ人であるマーヴィン・トケイヤー(1936-)の雑誌記事(『自由』1997〔平成9〕年9月号)を引用している。戦後来日したトケイヤーが、杉原千畝に「なぜユダヤ人を助けてくれたのか」と問うたのに対して、杉原が次のように答えたという(『猶太難民と八紘一宇』、173–75頁)。
「それは私〔杉原千畝〕が、外務省に仕える役人であっただけでなく、天皇陛下に仕える一臣民であったからです。悲鳴をあげるユダヤ難民の前で私が考えたことは、もしここに陛下がいらっしゃったらどうなさるか、ということでした。陛下は目の前のユダヤ人を見殺しになさるだろうか、それとも温情をかけられるだろうか。(......)私のすべきことは、陛下がなさったであろうことをすることだけでした」
トケイヤーのこの文章は杉原の死去から10年以上を経てからのものである。また、インタビューがいつおこなわれたのかも不明である。杉原は、死の3年前の1983(昭和58)年に「手記」を書き始めた(ただし未完)。そこに次のような一節がある(杉原幸子監修、渡辺勝正編著『決断・命のビザ』1996年、大正出版、300–01頁)。
「私は考え込んだ。仮に、本件当事者が私でなく、他の誰かであったならば、百人が百人拒否の無難な道を選んだに違いない。なぜか? 文官服務規程というような条例があって、その何条かに縛られて、昇進停止とか馘首が恐ろしいからである。(……)苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に通実にこれを実行したのです。」
これは、「もしここに陛下がいらっしゃったらどうなさるか」というトケイヤーの報告と、杉原千畝自身の回想とは、まったく異質である。トケイヤーの報告では、天皇ならそうするだろうから、天皇の臣民である自分はそうしたのだ、と言ったことになっている。いっぽう手記で杉原は、他人であれば全員がそうはしないであろうことを、熟考のうえ自分で決断した、と書いている。天皇の意思に従うのと、他人の判断にかかわりなく自分で決断するのとでは、まったく異なる行動原理である。
重大な場面に遭遇した場合に、国家神道における神としての天皇の意思に無条件に従うというのは、ギリシア正教派のキリスト教徒であった杉原千畝の言葉としては不自然である。また、杉原には、「温情」をかけるという発想はない。トケイヤーの報告では、杉原は深刻な決断をおこなうにあたって天皇を参照軸にしたことになっているが、杉原の「手記」には、天皇への言及は一切ない。それは、この1940年7月から8月にかけてのことに限らない。杉原幸子の著書『六千人の命のビザ』の中にも、杉原千畝による天皇への言及の記述はない。杉原のいう「人道主義」と「博愛精神」は、天皇制との関連性を有するものと判断することはできない。
天皇制についての無理解
そもそも、天皇陛下であればどうするであろうかという問題設定は内容的に無意味である。領事館に勤務し難民たちからビザ発給を求められる天皇、本省の抑制的な訓令を受け苦悩する天皇、温情をかけることを個人として決断する天皇、などというものは何の意味もない空疎な仮定である。大日本帝国の主権者にして大元帥である現人神天皇。何があっても絶対に責任を問われることのない存在としての天皇が、具体的場面で板挟みになって逡巡するなどということはありえない。
トケイヤーの報告は、天皇というものについて何も理解していない者、たとえば日本人でない者が思いついた不自然な作り話と受け止めるべきだろう。杉原千畝自身が書き残した手記を全面的に退けるのでもない限り、傍証も示されていないトケイヤーのあやしげな伝聞を信じることはできない。歴史「修正」のための根拠は不十分のようだ。
「日本会議」における「杉原ビザ」解釈の中心人物のひとり、上杉千年が引用するM・トケイヤーの記事には、内容上の一層深刻な矛盾がある。トケイヤーによれば、杉原千畝は戦後になって、ビザ発給は外務大臣の訓令には反するが天皇の意思には合致する、と発言したことになっている。直近の権威への反抗を、至上の権威への服従によって正当化する。これは、さまざまの場面でよく使われる論法である。妥当な場合もあるが、あらゆる場合に通用するものでもない。恣意的にいつでもどんな場合にでも濫用される論法だともいえる。この論理それ自体は抽象的であり、あらゆる場合に行為の正当化の論拠にすることはできない。直近の権威への反抗を、至上の権威への服従によって正当化する論法が妥当するか否かは、そのつどの事例ごとに具体的な検討が必要である。この事例では、大日本帝国においてこの論法が成り立つ余地があったかどうかを検討しなければならない。
大日本帝国の軍人の場合は、どうだろうか。
「下級のものは上官の命を承ることは実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」
天皇が与えた「軍人勅諭」(1882〔明治15〕年)の一節である。大日本帝国軍隊にあっては、上官から命令されるということは、直接天皇から命令されているということである。上官の命令は、すなわち天皇の命令なのである。上官への絶対的服従が要求されるのであり、そこには留保条件は一切ない。上官の命令には逆らったが天皇には服従しているという理屈は、いかなる場合であっても、決して成り立たない。杉原千畝は、1920(大正9)年12月10日から1922(大正11)年3月31日まで、志願兵として大日本帝国陸軍に在籍した。杉原は当然、上官の命令すなわち天皇の命令という大日本帝国の論理を熟知していたはずである。大日本帝国の官吏の場合はどうだろうか。
「第一条 凡ソ官吏ハ天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ對シ忠順ヲ主トシ法律命令ニ從ヒ各其職務ヲ盡スヘシ」(官吏服務紀律、明治20年7月30日勅令第39号)
日本国憲法のもとでの国家公務員が「全体の奉仕者」(国家公務員法第1条)であるのとは異なり、大日本帝国の官吏は、天皇と、天皇が樹立した国家に対し服従することが求められる。
「第二條 官吏ハ其職務ニ付本屬長官ノ命令ヲ遵守スヘシ但其命令ニ對シ意見ヲ述ルコトヲ得」
本属長官すなわち上司の職務命令は遵守しなければならない。「意見」を述べることはできるが、「意見」が聞き届けられないからといって、その職務命令に従わないことは許されない。軍人勅諭のように、上官の命令はすなわち天皇の命令であるというような直接的な条文ではないが、この官吏服務紀律は「勅令」すなわち天皇の大権により発せられた命令である。上司の職務命令に服従しなかった場合、それは同時に官吏服務紀律第2条違反にあたる。官吏服務紀律第2条に違反するということは、天皇の命令に服従しないということである。
上司の職務命令にしたがわず、個人的な判断で職務上の行為をおこなったとしても天皇の意思には合致する、などという理屈が成り立つ余地はない。軍人であれ、文官であれ、上官・上司の命令への不服従は、天皇への反逆を意味する。上官・上司への抗命が天皇への忠誠のゆえに許されるということは、論理的にありえない。直近の権威への反抗を、至上の権威への服従によって正当化する論理は、他の場合ならともかく、天皇制のもとでは成り立つ余地がないのである。この論理は自己矛盾的であり、反-天皇制的である。この自己矛盾的かつ反天皇制的発言が、杉原千畝のものである可能性は、さまざまの観点からみて低い。トケイヤーのいうとおりの発言を杉原千畝がおこなったとは信じがたい。
この論理には、さらに重大な問題がある。天皇ならばこのように判断しただろうなどとあれこれ考えること、そして実際に天皇自身に聞いてみたわけでもないのに、臣民である者が自分で出した結論を天皇の判断だと断定する。臣民である者の推量にすぎない内容を、神である天皇の意思と称して行動する。これは、天皇に対する態度としては到底許されない発想である。天皇制そのものを根底から否定する態度であって、当時こんなことを広言すれば、「不敬」な言動であるとして処罰されたに違いない。
今でも「もし、○○さんが生きていれば、賛成してくれたと思います。」というようなことを言う人がいる。ある程度までなら許されるだろうが、度が過ぎれば傲慢であり聞き苦しい。相手が天皇であっては、けっして成り立たない論法であり、天皇主義者であれば絶対に許されない発想である。
天皇制を誤解する「日本会議」
「日本会議」は、大日本帝国とその政治的軍事的行動を全面的に肯定する。「日本会議」は、その信念をみずから抱くだけでなく、他人(特に茨城県の高校生)に対しても、それを受容するよう求めて活動している。上杉千年は、「日本会議」のメンバーとして、杉原千畝解釈を「修正」することにより、天皇制国家である大日本帝国の行為の全面的正当化をおこなっているつもりでいる。その一環として、上杉千年はM・トケイヤーの雑誌記事を引用し、従来の「杉原ビザ」解釈の転換を成し遂げようとした。上杉千年は、「杉原ビザ」は大日本帝国政府の方針に反した個人的決断ではなく、天皇の意思に忠実に従った外交官杉原千畝の行為だとする解釈の、唯一の根拠として、このトケイヤーの報告を引用した。上杉が「修正」の根拠として持ち出したトケイヤーの報告内容は、裏付けもなく信用性に欠けるだけではなく、反-天皇制的なものであった。
トケイヤー自身、その反-天皇制的性格について理解していないようである。しかし、しょせんは、外国人(アメリカのユダヤ人)の無理解というだけの話である。だが、「日本会議」で「歴史修正主義」普及活動に携わってきた中心人物の上杉千年が、それを無批判に引用してしまったのではことは重大である。杉原千畝は訓令には違反したが大日本帝国の国是には従った、ということにすれば、歴史の「修正」はうまくいくと思ったのだろう。しかしこの解決自体が形式的にも内容的にも天皇制の論理に背反する。上杉千年ら「日本会議」メンバーは天皇制を擁護しているつもりで、じつは天皇と天皇制を軽んずる考え方、天皇と天皇制に反する思想を正当化し、わざわざ紹介していることになる。
このようなことは、学校における「道徳」教育に介入し、とりわけ「愛国心」教育の重要性を力説している人たちとしては、なんとも不都合なことである。