4 愛国心教材の欺瞞

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岡倉天心の「弟子」のウォーナーが壁画を剥ぎ取った敦煌莫高窟

虚像としての岡倉天心像

 

 ボストンでは日本美術の整理と紹介をおこなう国際的に著名な美術思想家、帰国の際には五浦で釣りと冥想にふけった風流人。これが一般的な岡倉天心のイメージである。しかし、ボストン美術館職員岡倉覚三は大金を持って日本を訪れ、せっせと仏像仏画を買い集めてアメリカへ発送していたのである。岡倉は美術館長に対して、「日本にいた時は美術品が輸出されることにいつも反対してきたが、アメリカに滞在している間に考え方を変えさせられた」と、日本美術の海外流出に精励する自分を売り込んでいた。

 しかし、「日本にいた時は美術品が輸出されることにいつも反対してきた」という岡倉の言葉は嘘である。東京大学の学生であった岡倉は、本業の哲学教授の仕事をなおざりにし日本美術探求と骨董買い付けに明け暮れるフェノロサの通訳兼助手だった。文部官僚となってからは、岡倉が主体となって国家事業としての寺院調査を企画し、お雇い外国人フェノロサや民間人ビゲローを参加させた。とくにビゲローは仏像仏画の名品を狙っており、日本帝国による奈良京都調査は絶好の機会だった。法隆寺救世観音像の掠取未遂事件としての「夢殿開扉」(1884〔明治17〕年)と、ビゲローによる東大寺法華堂(三月堂)本尊の仏画・法華堂曼荼羅図(11.6120)の入手はいずれもこの時期のことだった。岡倉は職務上の規律に違反してフェノロサ、ビゲローらの外国人コレクターと癒着し、「海外流出」の前段としての古美術品収集活動に便宜をはかっていたのである。

 岡倉が日本美術の「海外流出」を阻止するために活動したというという事実は一切ない。「海外流出」を阻止するために尽力した岡倉天心という一般的なイメージは、事実とはまったく正反対の虚構である。

 

 

「美術品保存につき意見」

 

 文部官僚時代の1886(明治19)年(「夢殿開扉」の2年後)、岡倉が宮内省図書頭の井上毅に提出した意見書がある。奈良・京都のほか高野山と滋賀県内の各寺院に関する調査をふまえて、それら寺院は「(第一)美術のいかなるを知らず、(第二)美術保存の必要なるを知らず、また保存の方法を知らず(第三)美術保存の資力なきをもって大家の製作も破毀損滅するのみならず、往々商売の手に帰するものあり」と、問題点を指摘したうえで、保存のための提言をおこなう。

 第一に、県庁などが寺院に命じて目録を作成させる方法は実効があがっていないので、宮内省・文部省・農商務省などが目録作成をおこなうべきであること。そして第二に、「宮内省にて美術品を採集すること」が必要であること。なぜなら宮内省には「十分に保存修復すべき資力ならびに権力」があるうえ、宮内省に対してであれば寺院は容易に「出品」するからだという。その結果「美術品を最多数の人民に示し全国に裨益し海外に名誉を得」るという。(『岡倉天心全集』第3巻、1979年、平凡社、pp. 344-65, 486. カタカナをひらがなに改めた。)

 ビゲローらにいろいろ便宜をはかって仏像仏画の買い付けと海外流出の手助けをしておいて、「往々商売の手に帰するものあり」と、まるで他人事のように嘆いてみせる。岡倉の言葉は尊大で威勢はいいが信用性に欠ける。岡倉には寺院に対して財政的補助をおこなうなどして保存・修復をはかるという発想はまったくない。むしろ明治政府による仏教寺院冷遇策と明治維新直後の廃仏毀釈運動による寺院の窮状につけこみ、皇室の権威を利用して一挙に仏像仏画仏具を収集する絶好の機会だというのである。帝国官僚岡倉が実施した奈良京都調査(「夢殿開扉」を含む)は、たんなる実態調査なのではなく、日本帝国への召し上げ、帝国博物館への収蔵という目的のための予備調査であった。

 岡倉の職業上の地位や活動の場は何度か変わったし、途中で放り出す癖もしばしば発揮される。しかし、生涯を通じての岡倉覚三の行動には、美術品の博物館への移転という点で、明確な一貫性がある。「保存」「紹介」のために、仏像仏画を現に所蔵している寺院から博物館へ移転する、ここに主眼があり、移転の際に海を渡る(国境を越える)かどうかはたいしたことではない。奈良京都の寺院をくまなく調査したうえで、仏像仏画を日本帝国の博物館に召し上げるべきだと主張する帝国官僚岡倉覚三と、日本で仏像仏画を買い集めてアメリカ合衆国に発送するボストン美術館職員ミスター・オカクラは、おなじ思考と行動を示しており、そこにはいかなる矛盾も存在しない。「考え方を変えさせられた」という岡倉の言葉は嘘である。

 

 

建築と庭園への無関心

 

 岡倉覚三にとっては、零落した寺院の仏像仏画や没落大名の秘蔵美術品はそのままにしておくべきものではなく、チャンスを逃さず一挙に収集して博物館ないし美術館に移転し、一元的管理のもとに保存・展示すべきものであった。対象物件の社会的意味や宗教性は考慮の範囲外であり、秘仏であるかどうかなど全然問題にならない(「夢殿開扉」)。

 収集対象とするかどうかの分かれ目は、対象物件が「不動産」であるか「動産」であるかという点だけである。岡倉は寺院の建物や庭園にはほとんど興味を示さない。目が行くのは仏画仏像仏具に限られる。物理的に持ち運び(持ち去り)ができるかどうかだけが問題で、移転できないものにはまるで関心を示さない。岡倉の『日本美術史』『泰東巧藝史』『東洋の理想』には、建物や庭園への言及はない。例外的に岡倉が言及する建築は「茶室」だけである(『茶の本』、第4章)。

 なお、フェノロサも同様である。フェノロサの蒐集活動の対象は、掛け軸・巻物・屏風など容易に持ち運べる絵画作品に限られる。著書のEpochs of Chinese and Japanese Artには、京都の東福寺に滞在した際の、伽藍の風景を描写した印象的な場面を除いて(pp. 411-14.)、建築や庭園への言及はない。

 もっとも、移転可能か否かは絶対的なものではなく、建築や庭園がすべて移転不可能というわけでもない。たとえば、京都東山に展開する広大な銀閣寺庭園や、比叡山を借景とする円通寺庭園の移転は不可能だろうが、大徳寺などの塔頭の小庭園の移転くらいならやってやれないことはない。ギザのクフ王のピラミッドは内部構造が複雑すぎて、分解と移築は事実上不可能だろう。しかし、アスワンハイダムによる水没を回避するために岩盤ごと移築したアブシンベル神殿の例もあり、たいていの石造建築物の移築は可能だろう。アテネのアクロポリス全体の移転は、かなり大掛かりな作業になるがやってやれないこともないだろう。それにくらべたらパルテノン神殿だけを移築するのはずっと簡単だろう。

 石造建築にくらべれば木造建築の移築ははるかに容易だ。しばしば解体修理がおこなわれるように、木造建築の分解・組立はきわめて簡単であり、その気になれば法隆寺の金堂・五重塔を上野(帝国博物館)やボストンに移築することも可能である。

 当時の日本帝国政府の組織としての力量、あるいはまた私立ボストン美術館の力量が、岡倉覚三の関心の範囲を、一応「動産」の範疇におさまる美術品に制限していたにすぎない。1906(明治39)年、日本で16体の仏像を買い付けた岡倉は、ボストン美術館の顧客に対して、「掛け物などの小型の美術品のように輸送が容易でなく」「損傷しやすい木彫像」を獲得したことを誇らしげに披露した。2次元の絵画作品から3次元の彫刻作品へと収集の対象を一挙に拡大したのが画期的だったのであり、この時点では建築物の移築は視野に入らなかった。

 

 

私的コレクションの誘惑

 

 ここで注意しなければならないのは、岡倉と師匠のフェノロサにあっては、しばしば公私の境界線があいまいになることだ。フェノロサは、その日本美術のコレクションを1886(明治19)年にウェルド先生を通じてボストン美術館に寄付(contribute)したと言っているが(Fenollosa, Epochs, p. 265.)、実際には相当の高額で売却したのだった。しかも一部の美術品を手許に残しておいて、秘書のメアリ・スコット夫人との不倫騒動でボストン美術館を解雇され経済的に困窮していた1896(明治29)年ごろと1901(明治34)年の2度にわたり、それを後輩のフリアーに売って生活の糧にしている。

 岡倉も、東京美術学校校長と博物館美術部長を兼任していた時期に、すでに職務上の地位を利用して仏画・大威徳明王像を私的にコレクションした。その習性をボストン時代にも発揮し、美術館職員として来日した際に購入した快慶作弥勒菩薩立像を美術館の収蔵品ではなく、自分の個人コレクションに加えたのだった(のちに遺族が売却したものを、2点ともボストン美術館が獲得した〔検索番号20.75020.723a〕)。

 放っておけば美術品の「埋没」や「劣化」で、それを他人が買えば美術品の「散逸」や「隠匿」だが、自分が収集すれば美術品の「保存」だというのである。この程度の自己中心的な正当化は、美術品コレクターとしての自己欺瞞にすぎず、社会的には妥当性を欠く。(岡倉の弟子のウォーナーもこの論理で遺跡の壁画の剥ぎ取りを実行する。後述。)

 岡倉にとっての「公」は、「私」が所属する限りでの「公」にすぎない。立場が変われば何が「公」であるかも変わってしまうのであり、簡単に「考え方を変えさせられ」る。日本帝国の中枢にあっては帝国博物館への収蔵を主張するが、ボストン美術館職員としてはボストン美術館への収蔵のために尽力する。ついでに自分のコレクションも充実させる。ただそれだけのことである。

 経済的に困窮し荒廃した寺院に置いたままでは保存もままならず、朽ちるにまかせるしかないが、博物館や美術館で一括管理し、見栄え良く修復をほどこして展示すれば、大日本帝国の急造された栄光を目に見える形で臣民たちの心に刻みつけることができる。あるいは、東洋と西洋の中間に位置する新世界アメリカの、移植された趣向の一端を見せびらかすことができる。権力と財力を露骨に誇示するのではく、高遠な芸術的趣味の形で展示することで、大日本帝国ないしはアメリカ合衆国の奥深い豊かさを、全世界に開示することができるのだ!

 

 

美術品収集のまたとない機会

 

 1905(明治37)年2月23日、岡倉覚三はボストン美術館の美術評議委員会において、中国日本部(現在の東洋部)のコレクション拡充方針について演説した。

 

「競売や業者に頼ることは出来ない。日本と中国の双方における組織的な作業が必要である。中国には多くの機会が存在している。仏教寺院は崩壊しつつあり、運送費を払うだけで美術品を手に入れることが出来る。中国には努力に値する膨大な機会があるのだ。日本にも、戦争によるまたとない機会が生じている。現時点においてさえ、多くの貴重な美術品がその所有者を代える可能性があるのだから、もし日本に天運がなければ、誰も何が起るか分らないのだ。」(『岡倉天心全集』第2巻、平凡社、1979年、p. 229.)

 

 清朝支配下の中国はアヘン戦争(1840-42年)の敗北以降、本格的な欧米帝国主義諸国の侵略にさらされたが、日清戦争(1894-95年)に敗れ、辛亥革命(1911年)が間近にせまっている時期である。「アジアはひとつ」と訴えてインドのノーベル賞詩人タゴールを感激させた岡倉が、ここでは帝国主義列強のアジア侵略を、美術品収集の「またとない機会」だと言っているのだ。それにしても、「日本にも、戦争によるまたとない機会が生じている」とは、どういうことか。演説のおこなわれた1905(明治37)年2月23日の時点では、奉天会戦、日本海海戦における勝利の前であり、戦況はまだ日本帝国優勢とはいえない。岡倉はこの時点で日露戦争における日本の敗戦の可能性があり、その場合にはボストン美術館による日本美術品収集の絶好の機会が到来すると言っているのだ。

 

「運送費を払うだけで美術品を手に入れることが出来る」! 

 

 アメリカ人コレクターのフェノロサ、ビゲロー、モースらは明治10年代の日本において、こう感じたのだろう。彼らは日本の社会変動に乗じてただ同然で大量の美術品や仏像仏画を買い漁った。こんどは彼らの協力者にして弟子だった岡倉覚三がアメリカの美術館職員として、日本や中国の社会混乱に乗じた美術品収集を目論んでいる。岡倉天心は今日の日本国で「愛国心」教育の代表的題材となっているが、本人は「愛国心」などという偏狭な心の持ち主ではない。まさに岡倉は「超一級の国際人」(『ともに歩む』p. 84.)なのだ!

 仏像仏画の社会的意味、なかんずくその宗教性を無視して単に美術品としてとらえ、博物館・美術館への召し上げと展示を推進するうえでは、革命などによる統治体制の動揺・崩壊はもちろん、帝国主義諸国による侵略戦争が引き起す社会混乱は、平時の安定した美術品保有状況に大きな揺らぎをもたらす絶好の機会である。ただ同然で買収することが可能で、場合によっては掠奪という単刀直入な手段を取ることもできるのだ。

 

 

「日本美術の恩人」ウォーナー

 

 戦争と美術品という今回のテーマに関しては、岡倉の弟子のランドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881〔明治14〕年−1955〔昭和30〕年)について触れないわけにはいかない。太平洋戦争において京都の文化財を空襲による焼失から救うために尽力した人物として、大いにもてはやされた人物である。

 岡倉覚三の弟子であり、日本での仏像調査の経験もあるウォーナーが日本の文化財リストを作成し、アメリカ軍に働きかけたおかげで京都が空襲から守られたという、まことに心暖まる美談が、戦後広い範囲に流布した。ウォーナーの死後、京都市・法隆寺・茨城県五浦など全国6か所に記念碑が建立された。五浦や京都の霊山歴史館にあるウォーナーの胸像は、金銅造天心像の作者平櫛田中(ひらくしでんちゅう)が手掛けた。

 この「ウォーナー伝説」は、吉田守男教授の研究により、事実関係については完全に決着している(『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』朝日文庫、1995年/2002年再刊)。

 すなわち、京都は原爆投下目標の候補地であったために、原爆の効果を測定しうるようあらかじめ焼夷弾や通常爆弾による空襲対象から外されて温存されていた。原爆の衝撃波による建造物破壊の程度を測定するためには、焼夷弾空襲によってあらかじめ焼け野原状態になっていたのでは具合が悪い。また、さまざまの条件下での人体に対する放射線の影響を判定するためには、核爆発の瞬間に、原爆投下地点から半径十数キロメートルの範囲で、数十万の生きた人間に日常生活を営んでいてもらわなければならない。のちに実際に原爆投下地となった広島・長崎のほか、候補地の新潟・小倉も焼夷弾と通常爆弾による爆撃をほとんど受けていない。横浜も同様だったが、原爆投下目標から除外された直後の1945(昭和20)年5月29日、焼夷弾による大規模空襲により壊滅した。

 ウォーナーが参加して作成された日本における文化財のリストとは、「戦争地域における美術的歴史的遺跡の保護・救済に関するアメリカ委員会」(通称ロバーツ委員会)によって作成された文書である。紛らわしい名称を与えられた委員会の目的は、戦争中にあっては連合国軍占領地域での文化財の保護であり、戦争後は枢軸国が占領地域から持ち出した略奪文化財を返還させ、ならびにこれらの国が戦争中に占領地域の文化財を破壊した場合に同等の価値のある文化財をもって償わせるために、基礎データとなる文化財リストを作成することであった。リストは、地中海戦線・ヨーロッパ戦線・極東戦線のそれぞれについて作成された。極東戦線のうち日本の文化財リストは、ウォーナーが中心となって作成した。のちに「ウォーナーリスト」と呼ばれる一覧表である。

 ロバーツ委員会設置の目的とリスト作成の趣旨から明らかなように、「ウォーナーリスト」は、そこに記載された文化財への軍事攻撃を差し控えるために作成されたものではない。「古都を空襲から守ったウォーナー」という美談は根拠のない思い込みにすぎない。

 

 

ウォーナーによる壁画剥ぎ取り

 

 ランドン・ウォーナーは、1881(明治14)年にマサチューセッツ州で生まれ、ハーバード大学を卒業した。1903(明治36)年、東トルキスタン(中国西部)探検に参加した帰途に来日し、岡倉と接触した(岡倉の渡米とボストン美術館就職の前年)。さらに1907(明治40)年から翌年にかけての15か月間、奈良に滞在し岡倉の弟子の彫刻家・新納忠之助の指導を受けつつ、寺々をまわって詳細な仏像調査をおこなった。帰国後は、ボストン美術館中国日本部で岡倉の助手として勤務した(ウォーナー〔宇佐美英治訳〕『日本彫刻史』みすず書房、1956年、「訳者あとがき」による)。岡倉はウォーナーをおおいに信頼していたようで、「ラングドン・ウォーナーのような人がもっと欲しい。……ウォーナーには多大な期待をかけているのです」と言っている(中国日本部後援会長ホームズあて書簡)。

 ウォーナーは、1924(大正13)年、再びハーバード大学による東トルキスタン学術探検に参加した際、敦煌の石窟寺院の仏像と壁画を掠奪した。敦煌莫高窟の第328窟にあった仏像「跪座菩薩像」と、第323窟の「アショカ王金像出現伝説図」、第320窟の「樹下説法図」、第321窟の「霊鷲山説法図」などの壁画である。仏像はともかく、洞窟の壁に直接描かれた壁画を持ち帰ることは、普通は不可能である。ウォーナーは、粘着剤を塗った布を壁画に押し当て、それがゼラチン状に固まった頃合いをみはからって壁画を下の壁から一挙に引き剥がし、あとで石膏板の上に転置した。彼は、5日間かけて26か所の壁画を剥がし取ってアメリカに持ち帰った。現在、それらはウォーナーが勤務していたボストン郊外のハーバード大学付属フォッグ美術館に展示されている。(田川純三『敦煌石窟 美とこころ』NHKブックス、1982年、pp. 76-77, 116-20.) 

 アーネスト・フェノロサ、その弟子の岡倉覚三、そのまた弟子のランドン・ウォーナー。三代にわたる師弟は、いずれも日本美術を散逸・荒廃・破壊から救った「恩人」とされている。しかし、美談の当事者たちは、実際には日本などのアジア美術品の海外流出と帝国主義勢力による文化財買収・掠奪の直接的実行者であった。

 

 

「愛国心」教材としての岡倉天心

 

 日本美術の「海外流出」を阻止するために行動したという虚構のうえに、岡倉天心は「愛国心」教育のヒーローに祭り上げられている。岡倉は海外流出の実行者であり、それどころか美術品の私物化までしていたのだが、弟子・関係者・子孫など美術産業に連なる人たちは、都合の悪い事実には一切触れずに偉大な岡倉天心という虚像をつくりあげ、今も各方面への売り込みに精励している。

 その成果の一端が小学生向けのあまたの伝記類や小学校「道徳」教材である。危機的状況に置かれた仏教美術を破壊(廃仏毀釈)と散逸(海外流出)から救い出すための岡倉天心の超人的努力という、ありもしないエピソードが創作され、事実と正反対のストーリーが語られている。

 小学校5年生ないし6年生向けの「道徳」の副教材の多くに収録されている「にほんのたから」(神戸淳吉作)を見てみよう。奈良の町を歩いている岡倉とフェノロサを骨董商の男が呼び止め、仏像のセールスを始める。岡倉がこう言ったことになっている。

 

「とんでもない。わたしたちは仏像を買いにきたのではありません。調べにきたのです。わたしは文部省の役人です。」

「まったく、こまったことだ。外国人とみれば、すぐあんなふうに、仏像や仏画を売ろうとする。なんとかしないと、今に日本中の美術品はみんな外国へいってしまう。」

「これではいけない。日本に古くから伝わっているこれらの仏像は、みんな日本のたからなのだ。決して外国のものと比べても、おとるものではない。かえってよいものがあるくらいだ。この日本のたからを守らなくてはいけない。」(『かがやけみらい 道徳6年』学校図書、pp. 140-43.)

 

 これらの岡倉の科白がつくりものであることはいまさら説明するまでもないだろう。それにしてもどこかで聞いたことのある科白である。茨城県教育委員会の 『ともに生きる』の教材27では、「これではいけない。このままでは、日本のたいせつな美術品や文化財が、みんな海外に流出してしまう」とある。おそらく、道徳教育推進委員長の押谷由夫(元文部省教科調査官)が手持ちの小学生向け副読本から剽窃して自分で書いたのだろう。ウソの道徳教材で岡倉天心を学んだ茨城県の小学生は、その4年後、高校でふたたび岡倉天心の同じ科白を読まされるのである。しかも、こんどの教材では歪曲はさらにひどくなり、「夢殿開扉」のおこなわれた1884(明治17)年にいたっても、廃仏毀釈運動がまだ続いていたことになっている。実際には1868年に始まった廃仏毀釈運動は1872〔明治5〕年頃には一応終息しているのだ。

 

 

「岡倉天心」とは何だったのか?

 

 岡倉を「思想家」だと思っている人がいるが、たいへんな誤解である。岡倉は思想の人ではない。日本帝国やボストン美術館など有力な組織の一員であることにこだわり、地位にもとづいて権限を行使することに無上の喜びを見出すような人物を「思想家」ということはできない。組織内で権限を濫用し、反対者や異議を唱えるものを圧迫したり排除するような者は「思想家」ではない。現実に直面し、問題を突き付けられ、自己の「思想」の無力が露呈した時に、現実から逃避して形だけ「思想」を維持し、しかもその危機の時に自国の民衆に向けて語りかけるのではなく、あえて自国の民衆が解さない外国語で書いた著作を出版する者を、「思想家」と呼ぶことはできない。

 さらに度を越したものもある。茨城県教育委員会の『ともに生きる』が「底本」にした『凛たれ! 天を指して輝け』(妙高高原町、1993年)では、「欲の深さからでなく、心の清さや、やさしさから、より深い悲しみ、より深い苦しみ、より深いさびしさに出会い、それを耐えぬき、その清さ、そのやさしさを、生き貫いた人」の例として岡倉天心を挙げ、なんと「お釈迦様」や「キリスト」と並べている(pp. 14-15.)。

 後世の追随者たちが岡倉を偉大な人物、神のごとき存在に祭り上げようとしているだけではない。すでに岡倉本人に自己神格化の意志があり、彼はそのためにさまざまの小細工を弄した。岡倉は、みずから「天心」を名乗った。「心」もどうかとは思うが、「天」とは大きくでたものだ。みずからは選べない苗字ならともかく、岡倉は自分自身が「天」における存在だと豪語しているのである。

 もっとも、欧米社会にあって「天心Tenshin」を名乗ったりすると、その由来や意味を尋ねられた際には、天国Heavenと聖霊the Spiritを意味するのだと答えなければならない。キリスト教社会で天国や聖霊を僭称すればたいへんな顰蹙を買う。岡倉は、The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan, London, 1903(『東洋の理想』)やThe Book of Tea, New York, 1906(『茶の本』)を出版したり、ボストン美術館職員として活動する際には、絶対に天心Tenshinとは名乗らず、本名の覚三Kakuzoを使った。こうした変わり身の早さ、使い分けの巧妙さは、岡倉の天性のものである。

 偉大な人物という虚像に惑わされるのをやめ、ひとりの人間としての岡倉覚三を冷静にながめるべきだろう。女性に対するまゆを顰めるような悪癖のほか、岡倉には金銭面でもどうかと思うような行動が目立つ。横浜でかなり裕福な子ども時代をすごし、東大の学生を経て帝国官僚となってからは法外な待遇を受け続けた(フェノロサほどではないが)。東京美術学校校長を解任された後も、給与は支給され続けた。当時の「非職」処分とは、単に職務につかないだけで、俸給は支給されるから生活は安泰である。現行公務員法上の「懲戒免職」でないのはもちろん、「分限免職」ですらない。いわば有給休職であり、岡倉は仕事もしないで高給を受け続けたのである。

 ところが、解任された岡倉のあとを追って東京美術学校を退職してしまった横山大観・菱田春草・橋本雅邦らは突然無収入になり、創作活動どころではなくなる。岡倉は思い付きで日本美術院を設立し(37歳)、ビゲローに1万ドル無心して当座をしのぐが、運営がうまくいかなくなると、困窮した弟子たちを放り出して外国旅行に出てしまう。東京での活動に行き詰まった岡倉は五浦の土地を購入し(42歳)、思い付きで日本美術院移転を強行し、大観・春草・雅邦らを家族ごと五浦に移住させた。岡倉だけは悠々と暮らしているが、弟子たちは「魚の廉い五浦にいて魚を買うことができなかった」という悲惨な生活に追い込まれる(「大観自叙伝」)。大観の妻は結核と痔瘻に苦しんで亡くなり、春草は無理がたたって失明寸前まで追いつめられる。ビゲローが渋々書いた紹介状ひとつをたよりにボストン美術館職員となった岡倉はさらに金回りがよくなり、五浦に茶室や六角堂を建て(44歳)、特注の釣り船を建造したほか、赤倉(現在の新潟県妙高高原町、岡倉終焉の地)に土地を購入してここにも別荘を建てた(45歳)。松本清張は、日本や中国での美術品買い付けのためにボストンから電信為替で送金される豊富な資金の一部を、岡倉が私的に流用していたのだろうと推測している。

 岡倉には、会ったばかりの人たちをその瞬間に心酔させてしまうような魅力があったのかも知れない。また彼の文章はきわめて断定的であり、一見したところ気宇壮大、読む者の気分を高揚させるところがある。異様な服装、いさささかの躊躇も留保もない自信に満ちた口調、カメラの前での仏頂面、弟子たちの前での尊大な態度、そのくせ女性には愛想が良くて妙に親身……。岡倉は、1990年代前半の日本で世間の耳目をあつめた、あのカルトの教祖のような風情を漂わせていたのかもしれない。

 岡倉天心という人物が、児童生徒の「道徳性の発達をうながす」ための教材として、とりわけ「愛国心」を説くための事例として、ほんとうにふさわしい人物なのか、事実にもとづいて冷静に考えるべきであろう。