4 現代の人種主義 racism

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奴隷制廃止後の人種隔離政策

 

 南北戦争Civil War後の「再建Reconstruction」すなわち南部諸州の社会改革は中途半端なものに終わった。黒人は奴隷身分から解放されたものの、土地を獲得して自作農民となる道は断たれて小作農民の地位に置かれ、いっぽう新たな生活を求めて北部へ移住した者は大都市の下層労働者として、いずれも貧困のなかにあった。

 とりわけ南部では「ジム・クロウ法」と総称される人種隔離を法定する州法があらたに制定され、学校、食堂、病院などが人種別に設置され、あるいは同じ施設を利用する場合には車両、出入口、トイレ、待合室等を分離することが法律で義務づけられた。それらは人種差別を禁じた1868年制定のアメリカ合衆国憲法修正第14条(前ページ欄外)に明らかに違反するものであったが、連邦最高裁は1896年のプレッシー対ファーガスン判決などで「分離しても平等separate but equal」であると強弁し人種隔離を正当化していた。

 1954年、連邦最高裁はオリヴァー・ブラウン対教育委員会事件判決で、従来の判例を変更し、「分離しても平等」とする原則には根拠がないとし、カンザス州法による白人専用小学校と黒人専用小学校の分離を憲法違反とした。

 判決は、まず「この問題に取り組むにあたり、われわれは、修正条項〔第14条〕が採択された1868年にもどることはできないし、プレッシー対ファーガスン判決が書かれた1896年にすら戻ることもできない」と宣言する。そのうえで、従来の判例を無批判に踏襲するのをやめる。そして、当時のアメリカ社会における学校教育の現状を踏まえたうえで、その役割とそこでの人種隔離の影響について検討し、結論を導き出した。

 

今日、教育は州政府および地方政府のもっとも重要な機能であろう。〔……〕今日、教育は子どもに文化の価値に目覚めさせ、その後の職業訓練に備えさせ、環境への正常な適応を助けるためのもっとも重要な手段なのである。〔……〕

年齢も適性も同じ彼ら〔白人と黒人〕をその人種raceだけを理由にたがいに分離することは、彼らの感情と思考hearts and mindsに対して、これまで受けたこともないような影響を及ぼして、社会的地位に関する劣等意識を生じさせる。

 

学校における人種隔離が現実に悪影響を及ぼすことが明らかである以上、それは正当化できないというのである。

 

公教育の場面においては、もはや「分離しても平等separate but equal」という原則には存在の余地はない。〔……〕われわれは、いまやそのような隔離segregationは、法の平等な保護equal protection of lawの否定であると宣言する。

 

 こうして、 「法の平等な保護」という合州国憲法修正第14条の規定が、本来の趣旨にしたがって解釈される端緒が開かれたのである。

 

20世紀なかばの南部社会

 

 学校における人種隔離は憲法違反とされたが、ただちに学校以外での人種隔離を定める各州の法律が全部違憲で無効となったのではない。それにはこの1954年からワシントン大行進の1963年にいたる人種差別撤廃運動、いわゆる公民権運動を経なければならなかった。

 当時の南部諸州では、公共施設における隔離は人種差別の一例にすぎなかった。「リンチ」すなわち殺人を含む黒人に対する暴力行使が公然とおこなわれ、警察や裁判所がそれを許す風潮が一般的だった。1955年8月、ミシシッピ州で、店員の白人女性に話しかけた黒人の少年が町の白人2人からリンチを受け、殺害される事件が起きた。少年は北部のシカゴから親類の家に遊びに来ていたもので、南部では黒人男性が白人女性に親しげに話しかけることさえ許容されず、簡単に報復としての暴力行使の標的にされることを知らなかった。

 ブラウン対教育委員会事件判決の直後でもあり、公判のようすは北部の報道機関によって報道されて、全国的な注目をあびていた。全員が白人で構成される陪審員団は、わずかな協議時間ののち「無罪」の評決をくだした(ジェームズ・バーダマン『黒人差別とアメリカ公民権運動』2007年、集英社新書)。

 人種主義racismの典型例としてのアメリカ合州国の黒人差別は、経済的格差、一般的な社会生活上の差別としての施設利用上の隔離に加えて、このように男女関係の絶対的禁止を含むものだった。「人種rece」の「純粋性」を維持するためには「混血」を防止しなければならず、婚姻はもちろん性的関係が法律で禁止されたうえ、あらゆる場面で異なった「人種」間の男女の接触が禁忌とされた。施設利用上の隔離を定めた州法には、こうした目的もあった。

 英領植民地時代以来、白人男性が黒人女性と性関係を持つことで「混血」が進行してきた現実があり(典型的には、独立宣言起草者にして第3代大統領トマス・ジェファーソン)、その一方で黒人男性と白人女性の性関係を忌避し、違反した黒人男性をリンチの対象とするのは矛盾している。これこそ人種主義racismに必ず随伴する男女差別sex discriminationの自家撞着的本質である。

 

政治的権利civil rightsの剥奪

 

 「無罪」となったリンチ殺人事件の犯人はこう言い放った。

 

俺が生きているところじゃ、ニガー〔黒人〕に投票なんかさせるもんか。もし投票でもすりゃ、奴ら、政府を乗っ取ることになるだろう。そうなりゃ、どこに立てどこにすわれと、俺に指図してくる。だが、俺の子供と一緒に学校に行かせるなんてことはまっぴらだ。

 

 黒人差別には選挙権など政治的権利の剥奪も含まれていた。修正第15条(欄外)もまた、第14条同様、黒人の投票権を剥奪する州法によって空文化していたのである。したがって、公民権運動は、政治的権利の獲得、その第一歩としての選挙における投票権獲得をもめざすものだった。

 

注 こうしたことを勘案すると、「公民的」という一般的でない日本語があてられているcivil rights movementの「シヴィルcivil」は、「ポリティカルpolitical」と同義ととらえてよいだろう。ラテン語のキヴィタスcivitasはギリシア語のポリスpolisの訳なのであり、ホッブズやロックにとってそうであったように、civilとpoliticalはおなじ意味内容をもつ。civilに「市民的」「公民的」など、どのような訳語をあてるにしても、それとpoliticalとを対立的・排他的なものととらえて、「公民権運動」からpoliticalの要素を排除する必要はないのである。逆に言えば、日本ではpoliticalをきわめて狭い意味での「政治的」な場面に局限してとらえる傾向があるが、本来、日常的な「市民生活」に関する事項という意味あいをあわせ持つのである。

 

 ついでに触れておくと、現代日本における公務員とりわけ教育公務員の「政治的行為の禁止」の意味するところに留意すべきである。国公法•地公法・教育公務員特例法・公職選挙法により、選挙権行使に関連するさまざまの行為だけでなく、政党活動が事実上全面的に禁止されているほか、被選挙権が絶対的に剥奪されている〔公務員は退職しなければ選挙に立候補できない〕。国民の一員である公務員の置かれている状況は、生来保持しており、憲法によって保障guaranteeされている人権が、憲法違反の下位法によって根底的に剥奪される状態なのである。それは人種差別体制下の黒人の状況と通底している。(別ベージ参照)

 

「深南部」と「大移動」

 

 ハーマン・メルヴィルの『白鯨Moby-Dick; or The Whale』において、狂気のエイハブ船長率いる捕鯨船ピークオッド号に乗り組んだ黒人少年ピップは、捕鯨ボートから海に落ちて二等航海士スタッブに譴責される。

 

「もう跳びこんでも、拾ってやらんからな、ピップ、いいな。おまえのような者のために、鯨を逃がすわけにはいかんのだ。鯨一頭を売るとだな、いいかピップ、おまえをアラバマで売るより三〇倍もの金になるんだ。」

 

『白鯨』の出版は南北戦争Civil Warの10年前の1851年、メルヴィルの捕鯨船乗船はその10年前であるが、当時は黒人といえば南部の出身と相場が決まっていた。(なお、「『白鯨』は、一九世紀中葉のアメリカではかんがえられないほど、人種的偏見から自由」なのである」〔岩波文庫版の訳者八木俊雄の解説〕。念のため。)

 アラバマはその南部の中心であり、1860年リンカーンの当選を受けて、アメリカ合州国を離脱したサウスカロライナ・ミシシッピ・フロリダ・ジョージア・ルイジアナ・テキサスとともに州都モントゴメリーにおいて「アメリカ南部連合」を結成した(このうちフロリダとテキサスを除く5州が「深南部Deep South」)。翌年の南北戦争開戦直後、これにバージニア・アーカンソー・ノースカロライナ・テネシーが加わる。モントゴメリー市が当初の南部連合の首都である。

 南北戦争後の南部奴隷制社会の解体と社会の近代化、すなわち「再建Reconstruction」は中途半端におわり、奴隷身分から「解放emancipation」された黒人は分益小作人となり生活は一向に豊かにならないばかりか、「ジム・クロウ法」体制下であらたに作り出された人種隔離segregation制度のもと、しばしば残酷なリンチ殺人の標的とされるようになる。

 20世紀にはいり、第一次世界大戦期に新規移民の減少による北部社会の労働者不足が顕著になると、南部から北部へ向けた大規模な黒人の移住(「大移動Great Migration」)がおこなわれた。北部の都市に流入したアフリカ系アメリカ人は、最底辺の低賃金労働者としてスラム街(「ゲットー」)に押し込められた。こうして黒人に対する人種差別体制は合州国の全体に拡散することになった。

 

バス・ボイコット運動

 

 「公民権運動」は黒人差別体制の中心地モントゴメリーで始まった。1955年12月1日、42歳の縫製労働者である黒人女性ローザ・パークスが、市の「バス人種隔離条例」違反容疑で逮捕される事件が起きた。

 1896年のプレッシー対ファーガスン事件では、1編成の列車のなかで白人専用車両と有色人種用車両による隔離を定めた州法に違反したプレッシーが逮捕され、連邦最高裁判決で有罪が確定した(第1087号)。しかし、鉄道にかわって公共交通の中心となったバスの場合、ひとつの車両内で白人と黒人を隔離することは事実上不可能である。

 モントゴメリー市営バスは、前後2つのドアの使用については白人と黒人を区別し(前は白人用、後は黒人用)、黒人は前のドアから乗車して運転手に運賃を支払ったあと、いったん前のドアから降り、後ろのドアにまわってそこから乗車することとされていたが(すでにこの時代からワンマンバスである)、座席は明確には区分されていない。固定した境界線は設定されず、前の方を白人専用、後の方を黒人専用とするものの、中間部はその都度いずれかが座ることとされていた。

 この日、ローザ・パークスは10人分の白人専用席のすぐ後ろの中間部に座っていたが、バスが混んできて白人専用座席が満杯になり、立っている白人がでてきた。運転手が中間部にいたパークスに対して、席を離れて後ろへ移るよう命令した。パークスは立っていた白人1人が座れるよう通路側から窓際の座席へと横に移動したものの、後ろへ行くことを拒んだ。札付きの人種差別主義者の運転手ジェイムズ・ブレイクが警察に通報し、パークスは市条例違反でその場で現行犯逮捕された。

 ローザ・パークスが加入していたNAACP(National Association for the Advancement of Colored People 「全米黒人地位向上団体」 エヌ・ダブル・エイ・シー・ピー)がただちに支援に乗り出し、その晩のうちに印刷された35,000枚のビラが翌12月2日(金曜)に配布され、週明けの5日(月曜)のバス乗車ボイコットを呼びかけた。5日以降、黒人ドライバーのタクシーや個人所有の車による代替輸送、そして徒歩による通勤が実行された。タクシーはバス料金と同額の料金での相乗り運行で協力し、さらに寄付金で購入したワゴン車(「走る教会」)が投入された。

 当時、市営バスの乗客の4分の3は黒人であり、ボイコットは市財政をも直撃した。市当局や人種差別主義者らは、正規料金を守らないタクシーへの罰金やワゴン車への保険付帯拒否、人種差別主義団体KKKによる示威行動や暴力行使などで執拗な妨害を加えた。

 モントゴメリー市の簡易裁判所で10ドルの罰金刑を言い渡されたローザ・パークスの上告を受けた連邦最高裁は、1956年11月13日、人種隔離を定めた州法と市条例は憲法違反で無効と判決した。この日までボイコットは続けられた。(現代日本では1年以内に最高裁判決がだされることは考えられない。)

 

現代の人種主義

 

 このバス・ボイコット運動の中心的メンバーのひとりとして活動したのが、モントゴメリー中心部の「デクスター・アヴェニュー・バプテスト教会」の新任牧師マーティン・ルーサー・キング(26歳)である。

 公民権運動はこのバス・ボイコット運動が端緒となったと言われる。連邦最高裁判決は運動の終結を意味しない。キングの演説がおこなわれた1963年8月28日の「ワシントン大行進」まで、判決から7年近くが経過する。

 キングの演説の後ろ三分の一だけを掲載するよくある引用・紹介(茨城県教育委員会作成の、高校用!道徳テキスト『ともに歩む』も同様)は、こうした経過のすべてを視野の外に置き、「夢」だけを印象づける。それだけでなく、さらに進んで、まるでその「夢」が実現したかのごとき、とんでもない誤解さえ与えかねないのである。

 1964年の「公民権法」制定をもって10年間にわたる公民権運動は終結したとされるが、以来50年が経過したが、人種差別の残存をうかがわせる事件が頻発している(たとえば2014年8月、ミズーリ州で警官が黒人少年射殺した事件 www.huffingtonpost.jp/2014/08/16/streets-of-ferguson-erupt-again_n_5684940.html)。キングの演説の直接的な主題である人種差別の現実は、当の演説の教材化においてさえ視界から脱落させられて巧妙に隠蔽され、「夢」と現実の境界は曖昧化し、事実は希薄化されてしまうのである。

 客観化の容易なはずの外国における人種主義の把握すらおぼつかないとすれば、現代日本における人種主義を把握することは一層困難である。現在のテレビ・新聞・インターネットにおける、反中国・反朝鮮の表象と言説の充溢はまさに目を覆いたくなるほどである。このような現象はたしかに以前からあったが、現在のように公然と呼号されたわけではない。言論・文化の次元にとどまらず、だいぶ以前から大都市などの地方政府において、近年は中央政府において、悪びれもせずに過去の人種主義を正当化したうえで、将来に向けて人種主義政策を強行しようとする政治勢力が跋扈するにいたっているのである。

 彼の地の過去の事象としてではなく、日本社会における今現在の問題としての人種主義と対決することは、われわれの責務である。

ローザ・パークスが逮捕されたバス(ヘンリー・フォード博物館所蔵。レストアされる前の写真)

www.thehenryford.org/exhibits/rosaparks/story.asp