3 ジム・クロウ法の時代

アメリカ憲法の修正条項


 アメリカ合州国憲法は、1788年の制定当初は「権利章典Bill of rights」を欠いていた。このため、1791年の修正第1条から修正第10条までの追加にはじまり、たびたび人権に関する修正条項の追加という形での憲法改正がおこなわれた。キングの演説“I Have A Dream”を聴くうえで必要な範囲で概要を見ていく。

 修正第9条は、「この憲法に一定の権利を列挙したことをもって、人民の保有する他の諸権利を否定しdenyまたは軽視したdisparageものと解釈してはならない。」と規定する。憲法は人民がすでにあらかじめ保有する権利を追認するのであって、憲法が人民に権利を与えるのではないということを誤解の余地なく明言している。

 その上で、例えば、信教の自由、言論・出版・集会の自由(修正第1条)、不合理な捜索・逮捕・押収の禁止(修正第4条)、迅速な公開の裁判を受ける権利(修正第6条)、残虐で異常な刑罰の禁止(修正第8条)など、さまざまの権利が列挙されている。これらは日本では20世紀なかばの日本国憲法ではじめて規定される内容であるが、それに150年以上も先行している。

 さらに、陪審審理(修正第6条)、民事事件における陪審審理(修正第7条)など、近年日本でも重大刑事事件での「裁判員裁判」として導入がはじまった陪審裁判制度が全面的に道入されている。また、修正第5条は「法の適正な過程due process of lawによらずに、生命life、自由libertyまたは財産propertyを奪われることはない。」と規定する。この「デュープロセス」概念は、法学教科書でよく言及される。アメリカ合州国憲法は、今なお日本の法律制度や法学界・法曹界に多大な影響を与え続けている(なお、この修正第5条と、のちの修正第14条の「プロパティー」概念については、ロックについてのページを参照)。


銃の保有と携帯も基本的人権


 ただし、先例として参照するのを躊躇する規定もある。

修正第2条 規律ある民兵well regulated Militiaは、自由な国家の安全security of a free Stateにとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利right of the people to keep and bear Armsは、これを侵してはならない。

日本では銃や刀剣類の所持は法律で規制(基本的には禁止)されているのだが、銃の保有どころか携帯までを基本的人権として憲法が保障するというのは、驚くべきことである。

 ジョン・ロック(1632-1704)は、侵害する他者を処罰する権利について次のとおり言う(『統治二論』II-11、本紙第1078号参照)。

 

〔自然状態natural conditionにおいて〕損害を受けたものは、自己保存の権利right of self-preservationによって、加害者の財貨または奉仕を自分のものにする権力powerをもつが、それは、すべての人間が、全人類を保全する権利right of preserving all mankind、またこの目的のために合理的なことreasonable thingsなら何をしてもよいという権利によって、罪悪が再び行われることを阻止するために罪悪を処罰する権力powerをもつ〔からである。……〕このように、自然状態においては、すべての人間が殺人を犯す者murdererを殺す権力をもつ。

 

国家設立以前の自然状態においては各人が自分のプロパティー(生命life・自由liberty・資産estates)を守るためにすべてをなしうる権利を持つ。各人が侵害者を処罰する権利を行使する状態は戦争状態condition of warであり、かえって自己保存が困難になる。そこで自然権を放棄(=委譲)し国家を設立する。−これが独立宣言と憲法修正条項が拠って立つ社会契約論のロジックなのだが、アメリカ人民は国家設立後も、侵害者を殺す権力としての自然権を原形のまま保持しているのである。これは論理矛盾というほかない。民兵制度が必要だから武器保有の権利を保障するという、説得力のないこじつけを持ち出さざるを得ないのはそのためである。憲法を改正しない限り根本的な銃規制を実行できないというのが、アメリカ社会の現実なのである。


奴隷制・人種差別禁止条項


 2014年8月13日、ジョン・ケリー国務長官は、ハワイ州のホノルルでおこなったアメリカ政府のアジア太平洋政策に関する講演の冒頭で、次のように述べたhttp://archive.benchmarkemail.com/ircjapan/newsletter/20140818_security)。

 

米国では、憲法に奴隷制度が記述されてから、削除されるまでに長い年月を要したことは余りにもよく知られています。そして、それを削除するための困難をよく知っています。ですから、今日、世界を見ると、複雑で、困難で、騒然としており、不安定ではありますが、実は、アジア太平洋地域にとって重要な問題に何十年もかけて取り組んできた私たちの多くにとって、今という時代は、特別に刺激的です。

 

具体的には、議員定数等の算出根拠となる人口統計において、「自由人以外」つまり奴隷の人口を「5分の3」に換算するとしていた憲法第1条第2節第3項が、修正第14条第2節により失効したこと(条文そのものは残存。前号参照)を指している。だが、ケリーのいささか呑気な発言とは裏腹に、1788年から1868年までの80年という「長い年月」を要したにもかかわらず、黒人差別問題は解決しなかった。

 すなわち、憲法改正、具体的には修正第13条による奴隷制度の禁止と、修正第14条による法の平等な保護、修正第15条による投票権に関する人種差別禁止(条文は左下欄)にもかかわらず、黒人差別は解消しなかった。それどころかあらたに黒人差別体制が作り出されたのである。(注:修正第13条・14条・15条はページ下)

 キングが「〔奴隷解放宣言から〕百年の後、黒人の生活はまだstill 隔離segregationの手枷と差別discriminationの足枷によって痛ましく縛られている」と述べる「隔離」について具体的にみていく。


厳密かつ徹底的な分離


 1896年、プレッシー対ファーガスン事件で連邦最高裁が判決をくだした(アメリカの裁判は「原告対被告」ないし「上訴人対被上訴人」で表記されるのが通例。ファーガスンはプレッシーに有罪判決を下したルイジアナ州裁判所判事)。

 鉄道車両における白人と黒人の分離を義務付けるルイジアナ州法(1890年)違反により、白人専用車両に乗車したホーマー・A・プレッシーの有罪が確定した。黒人のプレッシーが白人専用車両に乗車した事実に争いはないから、有罪か無罪かを決定する争点は、白人と黒人の分離を義務付ける州法が合憲か違憲か、だけであった。連邦最高裁は、この州法は合衆国憲法に違反しないこと、すなわち白人と黒人の分離は合憲であると判断したのである。これが、「分離しても平等separate but equal」という原則である。以後、この人種差別原則は、ブラウン対教育委員会事件の連邦最高裁判決(1954年)で否定されるまで50年以上にわたって維持された。

 この人種隔離立法の異常性は、「黒人」の定義をみると一層際立つ。プレッシーは、法に違反した黒人として訴追されたのだが、曾祖父母8人のうちひとりだけが黒人で、のこりの7人は白人であった。しかし、ルイジアナ州法はプレッシーを「黒人」とみなす。ここに人種主義racismの極度の非合理性が現れている。(これは過去のものではない。バラク・オバマは黒人としては最初のアメリカ大統領とされる。彼の父バラク・オバマ・シニアはアフリカのケニアからハワイ大学に留学していた黒人の学生だが、母アン・ダナムは黒人ではなく、祖先はイングランド人・アイルランド人・アメリカ先住民のチェロキー族だとされる。バラク・オバマは祖先の2分の1が非黒人なのに何の疑問もなく「黒人」と表象される。)

 このルイジアナ州法は、「ジム・クロウ法」と総称される一連の黒人差別立法の一例である(「ジム・クロウ」の名称は、黒人奴隷を題材とする芸人トマス・D・ライス〔1808–60〕の芸能ショーの登場人物名に由来するとされる)。これらの人種差別的立法は奴隷制時代の慣習的な分離に由来するのではなく、また南北戦争直後から「再建」期にかけての南部諸州の「ブラック・コード」(解放奴隷に対する規制法)とも異なる。学校・鉄道・船舶・食堂・病院・孤児院・劇場・ホテルなどあらゆる施設での厳密かつ組織的な白人と黒人の分離が法律によって義務付けられる。分離は、エレベーター・トイレ・プール(水の交換直前だけ黒人が使用)・切符売り場・電話ボックス・待合室・車両・教科書(アメリカの教科書は貸与制である)などにも及んだ。小学校は白人専用学校と黒人専用学校に分離され、大学への黒人の入学は許されなかった(パップ・ンディアイ『アメリカ黒人の歴史』2010年、創元社、36頁以下)。


〈連邦主義〉と〈州の自治〉


 こうした州法によるあきらかな人種差別立法は、州権主義と連邦主義の相克という建国以来の制度対立を背景に、連邦議会と必ずしも同一歩調をとらない連邦最高裁によって容認され、それどころか憲法上正当化されることになる。

 これに先立ち連邦最高裁は、1873年のいわゆるスローターハウス事件で、修正第14条について最初の解釈を示していた。「いかなる州も合州国市民の特権または免除を制限する法律を制定しまたは執行してはならない」という規定は、「合州国市民の特権または免除」に限定されるのであって、州が〈州の市民の特権または免除〉を制限する州法を制定することは、修正第14条には違反せず合憲であるという驚くべき論理である。この事件は、名称のとおり食肉加工工場の独占権付与をめぐるものであって黒人差別とは無関係であったが、修正第14条の解釈に枠をはめることで、ジム・クロウ諸法に合憲のお墨付きを与える効果をもった(阿川尚之『憲法で読むアメリカ史(全)』2013年、ちくま学芸文庫、266頁以下)。

 1883年の公民権法事件で、連邦最高裁はこんどは、修正第14条が禁じているのは州の行為であって、私人によるほかの私人に対する権利侵害行為は対象とはならないとした。これにより様々の非公営施設における隔離を違法行為として処罰する連邦公民権法(1883年)は、違憲とされた。(憲法における基本的人権保障規定は、国家による人権侵害を禁止し、国家による人権実現努力を義務づける効果を持つが、一方で〈私人間の人権侵害については効力が及ばない〉とする解釈は、アメリカ憲法のみならず、日本国憲法に関しても有力な学説である。しかしこの解釈は実際上の権利侵害の多くを放置する結果を招く。国家の行為と私人の行為の切り分け方も含め、この公私区分論は再検討されるべきだろう。)

 こうした一連の判例の延長線上で、1896年のプレッシー対ファーガスン判決が出されたのであり、憲法修正条項の空文化による人種主義体制が社会をおおうようになった。だとすると、ケリー国務長官のいう憲法の奴隷制条項の削除は、それだけではアメリカ史においては決定的な意味を持たなかったと言わざるをえない。

 ある「世界史」教科書は、「北部主導による南部再建で奴隷は解放されたが、アフリカ系アメリカ人を黒人として法的・社会的に差別する状態は、依然として存続した」としたうえで、注釈で「秘密結社クー=クラックス=クラン」に言及する(世B301、東京書籍、2012年)。しかし、19世紀後半以降の人種主義体制は「依然として」ではなく、新たに形成されたのであり、しかもそれを主導したのは狂信的な私的団体ではなく、ジム・クロウ法を制定し運用する州state=国家stateに他ならなかった。

 

注:

奴隷制と人種差別を禁じたアメリカ合州国憲法の修正条項

 〔1865年〕修正第13条 第1節 奴隷slaveryまたは意に反する苦役involuntary servitudeは、犯罪に対する処罰として当事者が適法に有罪宣告を受けた場合を除いて、合州国またはその管轄jurisdictionに属するいずれの地域内においても存在してはならない。〔第2節略〕

 〔1868年〕修正第14条 第1節 合州国において出生しまたは帰化し、その管轄権jurisdictionに服するすべての人は、合州国およびその居住する州Stateの市民citizensである。いかなる州も合州国市民の特権privilegesまたは免除immunitiesを制限するabridge法律を制定しmakeまたは執行してはenforceならない。いかなる州も法の適正な過程due process of lawによらずに、からも生命life、自由libertyまたは財産propertyを奪ってはならない。また、その管轄内にある何人に対しても法の平等な保護equal protection of the lawsを拒んではならない。

  第2節 下院議員は、納税義務のないインディアンを除いた各州の総人口を計算し、それぞれの州の人口に応じて各州の間に配分されなければならない。ただし〔略〕。〔以下第5節まで略〕

 

 〔1870年〕修正第15条 第1節 合州国市民の投票権 the right of citizens of the United State to voteは、人種race、体色color、または従前の労役の状態previous condition of servitudeを理由として、合州国または州により拒否されまたは制限されるbe denied or abridgedことはない。〔第2節略〕