新科目「公共」の問題点 2

学習指導要領における「幸福・正義・公正」図式

 

 【要約】「幸福・正義・公正」図式は、現行「学習指導要領」(2009(平成21)年)で重要概念として導入され、すでに一部の教科書で記述への取り込みが進行している。地方自治体の教育委員会や高校教員、教育系大学教員による授業例の作成普及活動もおこなわれている。「正義」概念が「法教育」との関連性があるように見えることもあり、弁護士による普及活動もおこなわれている。「哲学者」を自称する通俗文筆業者や教育行政追随傾向の強い俗流「教育学者」だけでなく、日弁連組織まで巻き込まれる状況となっている。このように、「幸福・正義・公正」図式は、あちこちで歓迎されるばかりで、特段の批判の対象となっていないこともあり、次期「学習指導要領」においても中心的扱いは継続する。今のところ一部の教科書での囲み記事における部分的扱いにとどまっているし、内容に至ってはほとんど支離滅裂であり、むしろ文部科学省など推進者の能力の欠如をさらす結果になっているともいえる。しかし、おかしな図式が批判もされずに浸透していく状況は問題なしとはいえないし、今後ほかの問題点とも共働して教育内容・手法に一層の影響を及ぼすことになるだろう。

 

 

 

⑴ 通俗哲学・通俗法学による「幸福・正義・公正」図式の基礎付け

 

 前節でみたような自己矛盾に満ちた通俗的「正義」概念は、「幸福・正義・公正」図式に組み込まれ、おおいに駆使される。「幸福・正義・公正」図式は、現行「学習指導要領」で導入され、次期「学習指導要領」でも継続することになった。

 現行「学習指導要領」の「解説」は、「現代社会の諸課題をとらえて考察するための基本的な枠組みを構成するものとして『幸福,正義,公正』などがあることを理解させるとともに,これらが社会の在り方を考察する上で大切であることを理解させることを意味している」として、次のとおり説明する(文部科学省『高等学校学習指導要領解説 公民編』2009〔平成21〕年、8−10頁、改行位置を変えて見出しをつけた。ボールド体にしたのも引用者)。

 

【幸福】 一人一人の人間は,それぞれが自分らしく生き,自己の目的が実現できることを求めている。個々人は,自らの「幸福」を願い,充実した人生を求めているのであって,こうした願いができる限り実現できるよう配慮されていることが,現代社会の諸課題を考察する上で大切なことであると言えよう。

【正義】 しかし,自己の幸福の追求は,時として他者や他の集団,あるいは社会全体の幸福と対立や衝突することがある。そこで,このような対立や衝突を調整し,いかによりよい社会を形成すべきか考察することが必要である。そのとき,すべての人にとって望ましい解決策を考えることを,ここでは「正義」について考えることであるとしている。つまり,ここでいう「正義」とは,何か特定の内容があると考えるのではなく,何が社会にとって正しいのかということについて考えることが「正義」について考えることであるととらえているのである。

【公正】 「正義」について考える際に,必要となってくるのが「公正」である。すなわち,「公正」とは,対立や衝突を調整したり解決策を考察したりする過程において,また,その結果の内容において,個々人が対等な社会の構成員として適切な配慮を受けていることである。また,「公正」であるとは,社会の制度や規範,あるいは行為の結果を正しいものとして人々が受容する条件が成り立っていることということもできる。例えば,対立や衝突の調整を図る場合,当事者のうち片方の主張だけを取り上げていないか,少数者にも配慮しながら社会の多数の幸福を図るようにしているかなど,手続きや結果についての「公正」が確保されているかどうかなどを一つの目安として考えることが できる。 

 

 これがスローガン「幸福・正義・公正」の説明なのだが、たいそう混濁した文章である。「正義」には「特定の内容」はないのだとしたうえで、結局「正義」とは「何が社会にとって正しいのか」である、あるいは「公正」は「手続きや結果について」「『公正』が確保され」ることである、と無意味なトートロジー(同語反復)をくりかえす。また、「個々人の幸福」と「社会の多数の幸福」が対立するときには「どうすべきか」と問うておきながら、「少数者にも配慮しながら社会の多数の幸福を図る」べきだと、困難性を度外視したありきたりの回答である。

 インターネット上にあふれている意味不明の言説程度の駄文が、国家教育行政上の強制力をもった文書として、ほとんど誰からも批判を受けることもなく居丈高に君臨している。この稚拙な悪文を真に受けて、多くの教科書が編集執筆され、さまざまの「教育実践」がおこなわれている。そして、それらを教導する哲学や法学の研究者、法曹が大勢いる。

 教科「地理歴史」や教科「公民」の教科書などを発行している帝国書院の高校教員向け資料で、山口大学教育学部の小川仁志准教授が「幸福・正義・公正」について解説している。書き出しはこうである(https://www.teikokushoin.co.jp/journals/society/pdf/201501/02_hssobl_2015_01_p01_04.pdf、ボールド体は引用者、以下同じ)。

 

幸福・正義・公正といった言葉は,よくニュースに出てきたり,政治家が口にするのを聞いたりするが,どうも身近に感じられない。〔……〕はたしてこれらの概念は一体何を意味するのだろうか? 学問の分野でいうと,政治学や政治思想,あるいは倫理・哲学の世界でこれらの概念をめぐって議論がなされている。いずれも抽象的な概念を扱う学問分野だけに,難解な印象を受けるが,本来は実生活の具体的問題を解決するなかで出てきた議論である。そこで,以下では具体的な問題を題材にして,これらの概念の意味を考えていきたい。

 

 「幸福・正義・公正」図式は、文部科学省の「学習指導要領」中の薄っぺらなスローガンに過ぎないのに、「実生活の具体的問題を解決するなかで出てきた議論」などとハッタリをきかせる。そして、まず「幸福」については、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムそれぞれの主張を要約したうえで「あなたはどちらの社会により幸福を感じるだろうか?」と問う。しかし、小川のリバタリアニズムとコミュニタリアニズムの要約は空疎かつ不適切であり、そんな問いには答えようもない。「正義」については、こう切り出す。

 

正義という言葉ほどあいまいなものはない。なぜなら,何に価値をおくかで,正義の内容は変わっ てくるからである。

 

 小川は、「正義」について、さまざまな主張・立場が存在する事実と、客観的・絶対的「正義」はないとする主観主義・相対主義の主張とを混同している。一ノ瀬正樹教授(中教審委員、東京大学教授)の素朴な「正義=復讐」論よりさらに低レベルの幼稚な言説であるが、その先がさらにひどい。

 

そこで「トロッコ問題」とよばれる有名な事例を使って考えてみたい。あなたはトロッコ電車の運転士だとしよう。そのとき,急にブレーキがきかなくなってしまった。そのまま行けば前方で作業をしている5人を殺すことになる。ところが,待避線にハンドルを切れば,前方を歩いている1人を殺すだけですむ。さぁどっちを選ぶかという問題である。まず功利主義によると,数が多いほど幸福の量が増え,正しいとされる。したがって,5人を救うために,あえてハンドルを切って1人の命を奪うことが正義になる。逆に定言命法によると,たった1人でも人間の尊厳を守る必要があるので,わざわざハンドルを切って命を奪うのは正しくないということになる。だから何もしないことによって5人の命が奪われるが,それはしかたないのである。さて,あなたはどちらの立場に正義を感じるだろうか?

 

 マイケル・サンデルが必ず持ち出すのでにわかに有名になった「トロッコ問題」である(ただし、サンデルが発明者というわけではない。サンデルの議論も軽薄で問題だらけだが、それについてはのちほど言及する)。小川によるとベンサムやミルの主張だという「功利主義」や、カントの主張だという「定言命法」の説明はあまりにも雑である。ここでハンドルを切るのが功利主義で、放置するのが定言命法だと言うのだが、ベンサムやカントはこのような馬鹿げたことは言っていない。小川准教授の説明は、まったく問題外である。小川は「哲学者」を自称して通俗本を書き散らし、ときには「いま行われている道徳教育の実態は、ある意味で価値観の押し付けにすぎない」とか、「『道徳』がただのお題目になってしまっている」などと、文部科学省が推進する「道徳教育」を批判して見せたりしているが(『「道徳」を疑え!』2013年、NHK出版新書、3−4頁)、結局は教科「公民」における「幸福・正義・公正」図式をネタに、軽率な解説をしてみせたのである。

 自称「哲学者」のほかに、法曹もまた「幸福・正義・公正」図式にコミットすることで、学校というあらたなマーケットを開拓しつつある。次は、神奈川県内の高校での「法教育」授業の内容を作成した弁護士の報告である(横浜弁護士会法教育委員会『法教育センターニュース No.12』、2012年、http://www.kanaben.or.jp/profile/info/data/centernews_12.pdf 傍線は引用者、以下同じ。なお、横浜弁護士会は2016年、神奈川県弁護士会と改称した)。

 

 

 冬木弁護士は、「新学習指導要領〔現行要領のこと〕における『幸福』『正義』『公正』とは何を指すのか、よくわかっていなかった」のだという。しかし、「学習指導要領」の意味不明な説明を批判しているわけではない。「よくわかっていなかった」のに、突然「学習指導要領」の「幸福・正義・公正」図式を無批判に受容する。そして、ついさっきまで「よくわかっていなかった」にもかかわらず、突然、生徒に「理解させる」ことを決意する。あわてて案出した事例が、整理解雇にあたって誰を馘首するかの優先順位の決定である。選択肢を2つから3つに増やしてあるが、サンデル流の「トロッコ問題」形式である。「学習塾の経営者の立場になって、誰を解雇するのかを真剣に考え」るというまことに空恐ろしい授業となる。社会事象をより広い視野から捉え直すことも、異なった観点から見ることも許されず、与えられた大同小異の選択肢の中から選ぶよう誘導し、そこにこじつけのような理由をつけるよう求める。妙にリアルで冷酷な「トロッコ問題」である。この弁護士の日常業務や職務上の関心がいかなるものなのか、あらかた想像がつく。(http://www.houkyouiku.jp/12011901#more-3312 にこの授業の概要が紹介されている。)

 ところで、後輩弁護士に作らせたこの急造教材を使って授業をした村松剛弁護士は、この2年後に中央教育審議会の「教育課程部会 社会・地理歴史・公民ワーキンググループ」の委員となり、すでに推進してしまった「幸福・正義・公正」図式について審議することになる。文科省が「ワーキンググループ」に提出した原案中の「幸福・正義・公正」について、村松弁護士が批判的な意見を提出することがなかったのも道理である。

 「幸福・正義・公正」図式にもとづく「法教育」を推進しているのは、個々の弁護士や単位弁護士会にとどまらない。日本弁護士連合会(日弁連)は、選挙権年齢の引き下げに対応する文部科学省の政策についてのコメントを発表している(「あるべき主権者教育の推進を求める宣言」2016年10月7日、https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/civil_liberties/data/2016_1007_02.pdf)。そこでは、中教審における審議提言過程についても批判している。

 

主権者教育においては,政治制度や選挙制度等の社会制度を知識として学習することも当然に必要となるが,新科目「公共(仮称)」の提言過程に鑑みて懸念されることは,そのような知識の獲得自体が目的とされたり,さらには,これを無批判に受け入れるような態度が「規範意識」や「公共心」として指導・教育されることになりかねないということである。このような主権者教育が学校現場に普及すれば,理性的な議論は阻害され,現在の制度を憲法的価値や法の原理原則に照らして批判的に吟味するという市民的資質が育まれることは全く期待できなくなるであろう。 

 

そのうえで、日弁連は、あるべき主権者教育について、総合的かつ具体的な「提言」をおこなっている。以下、それぞれに詳細な説明があるが省略し、項目のみ列挙する。

 

1 学習内容に関する提言

(1) 立憲主義学習を導入すべきこと

(2) 法の基本的な価値に関する学習を充実させるべきこと

(3) 価値観の異なる他者との理性的な議論の技能を育むべきこと

2 教育実践に関する提言

(1) 教師の教育的裁量を尊重すべきこと

①教師が自己の見解を述べることも一定の範囲で許容されるべきこと

②副教材や補助教材の利用を制限すべきではないこと

(2) 弁護士を外部専門家として中心的に活用すべきこと

①弁護士学校派遣事業を十分活用すべきこと

②授業づくりにおいても弁護士との連携を推進すべきこと

3 学習環境に関する提言

(1) 子どもたちの身近な生活の場を民主的な議論の場にすべきこと

(2) 生徒の政治的活動を過度に制限すべきではないこと

 

 全体としては妥当な提言ではあるが、本稿で検討している「幸福・正義・公正」ならびに、弁護士による「法教育」についていささか気になる記述がある。1⑵と、2⑵②について次のとおり提言している。

 

高等学校公民科「現代社会」の現行学習指導要領は,現代社会の諸問題を考えるうえでの基本的な視点として,「幸福・正義・公正」という法の基本的な価値を理解し,これを現実の諸問題に適用して考えることを求めている。〔……〕「幸福・正義・公正」という基本的な価値の学習は,主権者教育の学習内容としても,これまで以上に重視されるべきである。(10頁)

弁護士が専門職として出前授業に出向いたり,専門知識を有する一市民としての立場で授業に参画したりする(いわゆるゲスト・ティーチャー)だけでなく,教師が授業で使えるような副教材ないし補助教材や授業案の作成についても,弁護士あるいは弁護士会と学校現場の連携・協働が推進されるべきである。この点,当連合会が推進してきた「市民のための法教育」活動においては,弁護士と教師による自主的な研究会が各地で活発に活動しており,大阪弁護士会の弁護士と教師で構成される「法むるーむネット」による『法むるーむ』や,横浜弁護士会(現神奈川県弁護士会)及び第二東京弁護士会所属弁護士と教師で構成される 「教師と弁護士でつくる法教育研究会」による『教室から学ぶ法教育』 等,副教材ないし補助教材として利用できるいくつかの成果物が存在する。主権者教育においても,これまでの法教育実践を通じて培われた各地の教師と弁護士の連携・協働を強化し,各地の実情に応じて創意工夫を凝らした教材を作成していくことが推奨されるべきである。 (12–13頁)

 

 「幸福・正義・公正」は、たしかにその字面だけみると、特段の問題性はないように見えないこともないのであるが、「学習指導要領」における「幸福・正義・公正」図式を「法の基本的な価値」とまでいって持ち上げるのはいささか安易である。法曹であれば、「正義」と「公正」があえて併置されることの異様性に気づくべきだった。また、「法教育」ということで、弁護士が直接的・間接的に授業や教材作成に携わることを推進することは一般的にはたいへん良いことともいえようが、上で見た横浜弁護士会法教育委員会の教材についてまで無批判に推奨しているのであれば身贔屓がすぎる。(日弁連の「法教育」活動については、https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/books/data/hakusyo_tokusyu2010_02.pdf

 学校教育における「幸福・正義・公正」図式導入にとりくんでいるということでは、「特別チーム」委員であり、さらに「ワーキンググループ」の主査をつとめた土井真一委員(どい・まさかず、法学、京都大学教授)についても触れなければならない。土井真一は日弁連(日本弁護士連合会)の機関誌『自由と正義』(第62巻第3号、2011年3月号)に、「高等学校『現代社会』における法教育-『幸福』『正義』『公正』を考える」を掲載した。これは、所属大学のウェブサイト上の紹介欄で「主要研究業績」のひとつとしてあげられている(https://law.kyoto-u.ac.jp/kyoin/list/doi_masakazu/)。土井委員もまた法曹のひとりとして、「法教育」に取り組んでいるのである。『自由と正義』の記事はタイトルのとおり、「幸福・正義・公正」図式をテーマとしている。

 

新学習指導要領は、人間の在り方生き方にとって重要な概念あるいは価値を、「幸福」、「正義」・「公正」に限定しているわけではない。その場合には、当然、「愛」や「真理」などが含まれてしかるべきであろう〔……〕「正義」「公正」といった概念が例示されたに留まる。

 

 はじめて「幸福・正義・公正」をとりいれた現行「学習指導要領」が告示されたのが2009(平成21)年3月で、「解説」の発表は同年12月である。雑誌論文はその2年後で、学校での「法教育」の「実践」は緒についたばかりで、「幸福・正義・公正」図式の定型パターンが全国的に広がる以前のようである。土井教授は何もかもを「幸福・正義・公正」図式にあてはめてしまうような乱暴なことは言っていない。むしろ、ほかにも重要な概念があるとしている。とはいえ、あまりそればかり強調するとまずいと思ったか、「様々な考え方があり、唯一の正しい答えがあるわけではない」が、「現段階における私なりの考え方を述べるに留める」と少々遠慮がちに、「幸福・正義・公正」をどう学べば良いのかを述べる。出発点は「憲法」「立憲主義」である。

 

 憲法あるいは立憲主義を学ぶ上で最も重要な問いは、「憲法とは何か?」あるいは「立憲主義とは何か?」という問いである。〔……〕憲法と問う前提として、なぜ人は国家という共同体を形成するのかということを問う必要がある。〔……〕その問いは、究極的には、その国家を構成する人間とは何かという問いにたどり着くはずである。この思考の論理を理解させるということが、まさに「社会契約」という考え方の根幹を理解させることになるのではないか。

〔……〕このような思考の論理を採用するとするならば、まず最初に、一人ひとりが人間として生きていく上において何を目指すのかという問いが現れてくる。これは、重要な倫理的課題である「善く生きる」こと、すなわち「幸福」の問題にかかわる。

〔……〕実際には、共同関係において個人相互間で利害の対立が生じる。ある人の幸福の追求と他の人の幸福の追求が対立・衝突するのである。〔……〕このような衝突の解決の正しさを考えることが、正義の重要な問題であり、その解決を実際に実現していくのが国家の重要な役割なのである。

〔……〕国家はどのような形でこうした衝突を解決すべきなのか。この手続き・方法に関してなによりもまず取り扱わなければならないのが民主主義であり、なぜ民主主義が正しい解決方法なのかを、しっかり考えさせる必要があろう。この点についても色々な考え方があるが、一つの有力な考え方が、「最大多数の最大幸福」を説く功利主義である。しかし〔……〕少数者の多大な犠牲の上に、多数者がその利益を実現するという事態が生じることは看過できない。

〔……〕これが、個人の尊重、あるいは公正な配慮が問題になる典型的な事態である。〔……〕公正な配慮を受けていると言えるためには個人に保障される権利・利益が基本的人権であると観念されるのではないか。

 

 どうにかして三つのお題に辻褄をあわせようとして、いささか飛躍のある論理を展開する。社会契約論は基本的人権(自然権)から出発するのではなく、幸福に結びつけられる。そして幸福同士の衝突を解決するために成立したはずの国家が、幸福の衝突の正しい解決(=正義の問題)をはかるために民主主義、さらにそこから功利主義を援用することになる。しかしそこから多数者による少数者の幸福の蹂躙が生じ(現代日本で実際に起きているのは、少数者による多数者の幸福の蹂躙だと思われるのであるが)、その解決のために各人の基本的人権に対する公正な配慮を説く。

 土井教授は、「学習指導要領」が軽視する「憲法」「立憲主義」から出発して、そこから「幸福・正義・公正」の意義を演繹し、最終的には「学習指導要領」があまり重視しない基本的人権に到達する。出発点と終着点は(順序が逆のような気もするが)法学者として当然の良心の発露であるにしても、学習指導要領」の「幸福・正義・公正」図式に迎合しようとするために、叙述は論点先取のあげく堂々巡りを続ける。だいぶ無理して「幸福・正義・公正」の三題噺を完結させたようで、暇人の教育談義、自称「哲学者」による説教、文部官僚の作文よりはましであるが、京都大学法学部教授の「主要業績」としては、いささか見劣りのする文章である。

 「ワーキンググループ」の会議の際、一ノ瀬正樹教授が「哲学者」らしからぬ通俗的な「正義=復讐」論を披瀝したことで、藪蛇で「正義」と「公正」との分離・併置が問題になってしまったにもかかわらず、法学部教授たる土井委員が「幸福・正義・公正」図式については一切問題視しなかったのには、中教審の分科会の「主査」としての立場に加えて、このような事情もあったのである。

 

⑵ 「指導要領」における「幸福・正義・公正」図式

 

 現行「学習指導要領」で導入された「幸福・正義・公正」図式は、教科「公民」の科目「現代社会」の授業における定型としてかなり普及しているようである。さきに見たとおり弁護士らによる「法教育」事業においても準拠図式として取り入れられているほか、インターネット上にも幾多の授業指導案が公開されている。次は、ある高校教員が作成した例である(http://www.edu-ctr.pref.okayama.jp/chouki/seika/h26/h26seika/kuroda.pdf)。

 

 

 

 ある立場の「幸福」と別の立場の「幸福」との対立を調整することが「正義」であり、その際、双方が適切に扱われることが「公正」だとして、さまざまの社会的事象にこの定型パターンをあてはめる。これは、教科書執筆者や高校教員が案出したのではなく、「解説」に記述された文科省の思いつきに準拠するものである。さきに見た『高等学校学習指導要領解説 公民編』における「幸福・正義・公正」に関する(曖昧な)定義のつづきを引用する。

 

〔……〕「幸福,正義,公正」などは個別に取り上げて理解させるのではなく,現代社会における諸課題をとらえる枠組みとして相互に関連させて扱うことが大切である。現代社会において「幸福,正義,公正」などがどのような形で実現されてきたのか,諸課題を解決していく中で,「幸福,正義,公正」などをどのように実現していくのか,そのためには課題をとらえて考察するための基本的な枠組みはどのようになっているのかということを身に付けさせることを目指しているからである。

 

 「など」と言っているので、ほかにどんな概念・図式があるのかと期待して待っていても、いっさいの例示や説明はない。「幸福・正義・公正」図式は、たくさんある項目の中のひとつ、とりあげられる幾多の話題のなかのひとつなどという位置付けではない。まさしくこれこそが、「諸課題をとらえ」、「解決」するための「基本的な枠組み」だと宣言される。「諸課題」を、ことごとくこの図式に吸収してしまうのである。そしてこの図式を生徒の「身に付けさせる」のだと宣言する。何の遠慮も躊躇もなく、異様なほどに高圧的である。

 以下、「幸福・正義・公正」図式にしたがった「諸課題」とその取り上げ方が具体的に列挙される。

 

 指導に当たっては,先に「現代社会における諸課題」の解説で述べたように,生命,情報,環境などについてそれぞれ取り上げるようにする〔……〕。

 「生命」を取り扱う場合については,近年の生命科学や科学技術の進展に伴い,従来の生命観のみでは対処することが難しい様々な課題が生じてきていることに気付かせ〔る。……〕

 例えば,クローン技術の研究に関して,生命の尊厳を保持しようとする立場と食料増産を実現しようとする立場との対立を取り上げ,科学技術の進歩が従来の倫理観にどのような影響を与えているのか,人類の福祉の増進のために科学技術の活用の仕方はどのようにあるべきなのかについて考察させることが考えられる。

 「情報」を取り扱う場合は,インターネットや携帯電話などが急速に普及し,ディジタル多チャンネル放送が実働している現在,多彩なメディアが伝える情報なしに,私たちの生活はもはや成り立たなくなっていることに気付かせ〔る……〕。

 例えば,生活の安全にかかわる情報の流布について,情報を流布することから生じる個人や組織の利益侵害と,情報を公開しないことによって生じる社会の安全に対する不安や危険性との対立を取り上げ,どのような制度や規範でもって調整すべきかについて考えさせる〔……〕。

 「環境」を取り扱う場合は,環境問題が深刻化する現代社会において,これまでの環境にかかわる政治・経済体制や倫理観について検討を深めることの大切さに気付かせながら,地球温暖化,資源・エネルギー問題などの環境にかかわる諸課題を考察させる〔……〕。

 例えば,熱帯林伐採に関して,経済活動を優先する立場と環境の保全を期待する立場との対立を取り上げ,なぜ地球規模の課題とされながらも国際的な合意が成立しにくいのか,有限な環境と資源という状況の中で,現在世代の利益と将来世代の利益とをどのようにして調和させるのかについ て考察させることが考えられる。

 なお〔……〕ものごとのとらえ方や生き方については様々な考え方があることに留意し,多様な観点や様々な立場からものごとを見ていく姿勢をもたせることが大切である。

 

 最後の部分の「様々な考え方があることに留意し,多様な観点や様々な立場からものごとを見ていく」べきだというのは、なるほどその通り、まさに当然のことである。文科省も(たまには)良いことをいうものである。主体的に考えることを奨励し、一面的で決まり切った見解を押し付けることはしない。まことに結構なことでないか! しかし、これを法的拘束力がある、つまり強制力があるとする「学習指導要領」に関する公式解釈である「解説」に書いてしまった時点で、自家撞着におちいってしまうのである。ほかならぬ「学習指導要領」それ自体が、「幸福・正義・公正」図式にすべてを当て嵌めることを強要し、様々な考え方・立場、多様な観点の存在を承認せず、様々な考え方・立場、多様な観点からみることを妨害・抑圧・禁止しているのである。

 「幸福・正義・公正」図式の恣意性については、さきにも少し触れた。「幸福」「正義」「公正」三概念について、きちんとした定義も説明もない。そのうえで、三概念について曖昧で不明瞭な説明をしたうえで、3つを結合して「幸福・正義・公正」図式をつくりあげる。三概念の特殊な解釈と特殊な組み合わせによる「幸福・正義・公正」図式は、「幸福」「正義」「公正」という語がもつ元の意味を離れて、特定の「観点」のうえに立脚し、特定の「考え方」に基づき、特定の「立場」を表明するスローガンになっている。

 

 これは、「八紘一宇」の場合に似ている。「八紘一宇(はっこういちう)」はアジア・太平洋戦争にあたって用いられたスローガンだった。1940(昭和15)年7月26日、第2次近衛内閣の閣議決定「基本国策要綱」冒頭の「根本方針」で、大日本帝国の方針として「八紘一宇」の語が登場した。

「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り。」

 「八紘一宇」という建国の精神に基づいて世界平和を確立することを「根本」とし、この「根本」の上に、最初に大日本帝国を「核心」として、日本・満州・中国を強固に「結合」し、次にこれを「根幹」とする東アジアの新しい「秩序」をたてる、これが大日本帝国の国家としての方針(「国是」)だというのである。

 この「基本国策要綱」における「八紘一宇」は、近衛文麿ら閣議出席者のオリジナルではない。宗教団体「国柱会」の創始者田中智學(1861–1939)が、日蓮を中心とするひとつの家(「宇」)として世界(「八紘」)を統一するという意味の標語「八紘一宇」を作って使用していたのを、借用したとされる。

 この「八紘一宇」は、『日本書紀』の中の「六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。」という彦火火出見(ひこほほでみ、後の神武〔じんむ〕天皇、当時45歳)の言葉からとられたとされる(「りくごうをかねてみやこをひらき、はっこうをおおいていえにせんこと、またよからずや」『日本古典文学大系 67』、213頁。現代語に翻訳すると「国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家にすることは、また良いことではないか。」〔宇治谷孟訳『日本書紀(上)全現代語訳』1988年、講談社学術文庫、107-08頁〕)。神武天皇がこう述べたのは、皇紀紀元前2年(西暦紀元前662年)とされる。

 「六合」や「八紘」の典拠は、紀元前2世紀、前漢時代の中国の書物『淮南子(えなんじ)』である。紀元後8世紀に完成したとされる『日本書紀』は、紀元前2世紀に書かれた輸入図書の『淮南子』に書いてある語を借用し、紀元前662年の神武天皇の台詞として使ったのである。

 『淮南子』は、宇宙の構造の説明において「六合」や「八紘」の語を用いた。「六合」とは、天地と東南西北、すなわち上下と四方のあわせて6方向に広がる空間を言う。地上世界の中心には、東西に3つ、南北に3つ配列される「九州」(3×3=9。それぞれ千里四方)がある。これが「中国」である。「九州」の外側、東西南北(四方)と、東南・南西・北西・北東の四隅、あわせて8方向にあるのが「八殥(はちいん)」(それぞれ千里四方)である。「八殥」の外側の8方向にあるのが「八紘(はっこう)」(それぞれ千里四方)である。「八紘」の外側にあるのが「八極」(8方向にある極地)である。「八紘」の「紘」とは、「維」すなわち天地を繋いでいる綱のことであり、天と地とはこの綱により、8箇所(4つの隅と東西南北4方向)でつながっている(楠山春樹『新釈漢文大系 54 淮南子 上』1979年、明治書院、210-13頁)。「八紘」は、それ自体は「八殥」の外側の8箇所のことであるが、「八紘」ならびにその内側の領域の全体をも指す。通例は後者の意味で用いられる。

 『淮南子』における「八紘」の語は、大日本帝国による東アジア・太平洋地域の支配のイデオロギーとは関係ない。紀元前2世紀の中国の文書に、20世紀の近隣国家の戦争方針が書かれているはずはない。20世紀中葉の「八紘一宇」という図式は、語(文字)そのものの一般的意味や出典文書における意味をはなれて、特定の政治的意味をもつ。20世紀中葉に特定国家においてその語が案出され用いられた事情を無視して、文字や語から一般的意味だけを読み取り、「八紘一宇」は諸地域・諸民族がひとつになる融和の理想を表したものであり、欧米によるアジア支配に反対する崇高な理想である、などと解釈することは誤りである。同様に「幸福・正義・公正」図式は、「幸福」概念・「正義」概念・「公正」概念それぞれの本来の意味を離れて、特殊な解釈を施され、特定の関係を与えられることで、ある一定の意味を持たされたスローガンなのである。

 

⑶ 教科書における「幸福・正義・公正」図式

 

 「学習指導要領」は、「幸福・正義・公正」図式の普遍的妥当性・絶対的正当性を当然の前提としていて、それについての批判・反対はもちろん許されないし、すこしでも疑問をさしはさむことすら不可能である。「学習指導要領」は、「様々な考え方・立場、多様な観点」から捉えなければならないと言っておきながら、諸課題すべてを「幸福・正義・公正」図式でとらえるように命ずるのである。「解説」の記述が具体的に意味するところを検討する前に、文科省がつくった「学習指導要領」とその「解説」にもとづき、文科省による教科書検定を経て作成された教科書がどのようなものになっているかをみてゆく。現行の科目「現代社会」の教科書のひとつで、冒頭のグラビア見開き2ベージと、各章ごとに「幸福・正義・公正」図式にもとづく記述を置いている例である(『高等学校 改訂版 現代社会』、第一学習社。2016年3月18日文科省検定済、「183、第一、現社321」)。

 

○「熱帯林の伐採」問題における「幸福・正義・公正」図式

 

 第1段落の「『幸福』から考える」と、「『正義』から見る」は、おかしな言い方であるが、「学習指導要領」の言葉づかいそのものである。「『幸福』から考えると」以下の記述と、「『正義』から見ると」以下の記述もまったく意味不明である。「考えよう」などと言っておいて、すぐに「生物種の絶滅や地元住民の生活の破壊、地球環境の破壊につながってはならない」と結論めいたことを言ってしまう。しかし、推進して良いというのか、それとも生活と地球環境破壊につながらない伐採方法はありえないから伐採すべきでないというのか、よくわからない。第2段落の「少数者」「多数者」とは誰のことか不明である。「伐採によってうまれた恩恵を公平に分配するしくみ」というのも具体的にどういうことかも、よくわからない。カネを「公平」にばら撒けと言っているかのごとくである。末尾は、伐採後の裸地に苗木を植えれば伐採を容認するという趣旨のようだが、一度破壊された熱帯雨林の「森林再生」はきわめて困難だろう。こんなものを読まされたのでは、生徒はもちろん授業担当の教員も困惑するに違いない。しかし、こんな意味不明のひどい文章を書いた執筆者を責めるのは気の毒である。「から考える」というおかしな用語法も含めて、次のように「解説」が指定したとおりに執筆すると必然的にこうなるのだ。

 

 例えば,熱帯林伐採に関して,経済活動を優先する立場と環境の保全を期待する立場との対立を取り上げ,なぜ地球規模の課題とされながらも国際的な合意が成立しにくいのか,有限な環境と資源という状況の中で,現在世代の利益と将来世代の利益とをどのようにして調和させるのかについ て考察させることが考えられる。

 

○「クローン技術」における「幸福・正義・公正」図式

 

 「解説」は、次のとおりだった。

 

 「生命」を取り扱う場合については,近年の生命科学や科学技術の進展に伴い,従来の生命観のみでは対処することが難しい様々な課題が生じてきていることに気付かせ〔る。……〕

 例えば,クローン技術の研究に関して,生命の尊厳を保持しようとする立場と食料増産を実現しようとする立場との対立を取り上げ,科学技術の進歩が従来の倫理観にどのような影響を与えているのか,人類の福祉の増進のために科学技術の活用の仕方はどのようにあるべきなのかについて考察させることが考えられる。

 

 教科書の記述は、「クローン技術の研究に関して,生命の尊厳を保持しようとする立場と食料増産を実現しようとする立場との対立を取り上げ」よという「解説」どおりの内容である。そのうえで、教科書執筆者は、クローン技術推進の「幸福」派と、批判的な「正義」派との対立という図式に当て嵌めたうえで、規制を設定したうえで推進すれば、両派ともに受けいれ可能であり、これこそ」「公平」な解決である、という内容にしている。ここでも前の「熱帯林伐採」同様に、配慮したうえで推進すればよいという筋になっている。具体的にどのような「配慮」であるか、とりわけその実効性・限界をどうみきわめるのかについては、曖昧かつ無内容である。

 

○「携帯電話」「スマートフォン」持ち込み問題と「幸福・正義・公正」図式

 

 「解説」は、次のとおりだった。

 

 「情報」を取り扱う場合は,インターネットや携帯電話などが急速に普及し,ディジタル多チャンネル放送が実働している現在,多彩なメディアが伝える情報なしに,私たちの生活はもはや成り立たなくなっていることに気付かせ〔る……〕。

 例えば,生活の安全にかかわる情報の流布について,情報を流布することから生じる個人や組織の利益侵害と,情報を公開しないことによって生じる社会の安全に対する不安や危険性との対立を取り上げ,どのような制度や規範でもって調整すべきかについて考えさせる〔……〕。

 

 教科書会社は、「情報を流布することから生じる個人や組織の利益侵害と,情報を公開しないことによって生じる社会の安全に対する不安や危険性との対立」について適当な例が思いつかずに、携帯電話・スマートフォンの禁止の是非という、いささか行儀のよくない生徒に対する「生徒指導」レベルの問題にしてしまった。「解説」の趣旨からもずれているようにしか思えないし、科目「現代社会」の教科書にわざわざ載せるようなことでもない。しかし、検定意見をつけるわけでもなく、これで検定合格としたところに文科省の定見のなさが露呈している。

 そもそも「解説」の図式におかしなところがある。「流布」して「利益侵害」をひきおこす「生活の安全にかかわる情報」とは何だろうか。そもそも「流布」と言っている以上不適切な「情報」である。正当な「情報」であれば「流布」とはいわない。最初からおかしな問いを設定しているのである。問いの立て方がおかしいこともあり、教科書会社としてもなかなか適切な事例が思い浮かばなかったのだろう。

 だが「生活の安全にかかわる情報」の公開・非公開の問題ということでいえば、最適の事例がある。福島第一原子力発電所の事故に関する、情報隠蔽と情報操作である。行政機関や推進企業・学会などによる徹底した情報隠蔽は、放射性物質拡散状況を予報するはずの文部科学省のSPEEDIシステムのデータの秘匿のように、事故発生時の緊急場面でも顕著だった。第3号炉の爆発映像が現在入手不可能であるなど、多くの重要な情報が抹殺・隠蔽されている。そうしておいて、政府機関・推進企業のほか、放射線医学・原子力工学などの学会が総動員され、報道企業・出版企業を通じて、一方的な安全・安心論が「流布」され続けている。文部科学省は、原子力開発推進部門(旧科学技術庁)だけでなく、教育行政部門(旧文部省)もこの流れに加わり、学校における被曝対策の水準・内容を低下させた。すなわち学校に対して不正確な放射線測定と誤った対策を指示したほか、非科学的な「原子力読本」を編集・配布して児童生徒に「安全」を印象付けた。さらに、原発推進勢力は、これらの情報隠蔽・情報操作に対抗して提出される見解に対しては、「風評被害」をもたらすという的外れの非難を集中して抑圧した。

 このように、事故の規模、被害予測を過少に見積もり、さらには健康被害はないと断言することなどは、「生活の安全にかかわる情報の流布について,情報を流布することから生じる個人や組織の利益侵害」の例であり、事故直後から現在まで続く情報隠蔽は、「情報を公開しないことによって生じる社会の安全に対する不安や危険性」の例である。ただし、「解説」のいうようにこのふたつは「対立」するのではなく、ふたつとも原発推進勢力が遂行してきた行為なのであるが。

 以上、熱帯林伐採・クローン技術・情報の3事例からあきらかなように、「生命,情報,環境などについてそれぞれ取り上げるようにする」というのは、例示とか勧告などではない。必ず取り上げなければならないという趣旨とみて間違いないだろう。「幸福・正義・公正」図式の趣旨に疑問をいだいて取り上げないとすれば検定に際して意見がつく。その是正意見に従わなければ検定に合格しない。だから、教科書会社はすくなくとも「生命、情報、環境」については、「幸福・正義・公正」図式の記述を用意しなければならない。

 そのうえで、それ以外の「諸課題」についてもこの「幸福・正義・公正」図式にしたがった記述を揃えることになる。「幸福・正義・公正」図式にしたがう記述は、必須項目の「生命、情報、環境」だけにとどまらない。あらゆる社会的問題をこの枠組みに吸収するのである。同じ教科書の記述から他の例を拾ってゆく。

 

○核軍縮

 「核保有国」の「幸福」と「核開発を進める国」の「幸福」の対立を調停し、「公正」に取り扱って「一致」させることが「正義」実現の課題だとされる。核保有国」と「核軍縮の動き」との対立ではない。これには仰天するほかない。「核保有国」と「核開発を進める国」が「核軍縮政策のもとで一致」するという、悪い冗談かと思うようなばかげた課題設定であるが、これで教科書検定に合格しているのである。「核保有国」と「核開発を進める国」の双方の立場に共感する、つまりは核武装を容認するよう生徒を誘導することが、文科省の「幸福・正義・公正」図式の目的のようである。

 

○福祉

 

 「雇用保険」と「生活保護」を一括するのも失当であるが、さらにそれらと「積極的な財政政策」をセットにして、それらが必然的に「赤字国債」と「増税」に結びつくことを前提とする問いの立て方である。こんな混乱した設問では、福祉や財政について筋道をたてた議論はできない。社会福祉を財政赤字の主因であるかのごとく描き出すのは、消費税導入や税率引き上げに際しての行政機関の主張と同趣旨である。とても教科書に載せるような文章ではない。この唐突で軽率な文章は、同じ教科書の本文における説明の趣旨にも反する。

 なお、この教科書の記述から「幸福・正義・公正」図式によらないものを2つあげておく。おかしな図式にまどわされることなく、多面的な観点にたって、現実の問題を考える文章となっている。文科省の「幸福・正義・公正」図式の愚かしさが浮き彫りになる。

 

○沖縄の基地問題

 

○原発事故とエネルギー問題


 

⑷ 「幸福・正義・公正」図式のトリック

 

 「幸福・正義・公正」図式は、それぞれの「幸福」をめざすふたつの立場の対立を、「公正」な手続きによって調停することが「正義」である、という定型パターンに当てはめるのだが、そこで定立されるふたつの立場なるものの恣意性が際立っている。一部くりかえしになるが、上記の「解説」や、検定済教科書における具体例に共通する問題点を総覧してみよう。

 ふたつの立場、ふたつの「幸福」とされるものはどれも具体性に欠け、あまりにも抽象的すぎる。いっぽうまたは双方ともに、つたない主観的な思い込みというほかない場合が多い。さらに、ふたつの相反する立場とされるものも、次元のちがうものや、全く異なる事柄に関するものを、無理矢理に対決させている。

 

○ クローン技術

 「解説」は、「クローン技術の研究に関して,生命の尊厳を保持しようとする立場」と「食料増産を実現しようとする立場」とを対決させるのだが、「食料増産を実現しようとする」のは「クローン技術」のなかの限られた部分であり、しかもそれをいきなり「生命の尊厳」派と対決させる。「生命の尊厳」についてもなんらの説明もない。

 「生命の尊厳」という観点から問題になるクローン技術は、たとえば人間の受精卵や臓器を利用する「再生医療」だろう。しかし、小保方晴子博士によるスタップ細胞事件の顛末ひとつとっても、日本の医療体制や医学教育体制、さらにそれらを監督する厚生労働省や文部科学省が、高校生に「生命の尊厳」など生命倫理を説教する資格・能力を有するかどうか疑問である。さらに、今後の「教材化」にあたっては、教育学者や自称「哲学者」などの文筆業者が十分な知識もないまま参入してくることになる。一面的・独断的教材が溢れることになるだろう。

 

○ 情報

 「生活の安全にかかわる情報の流布について,情報を流布することから生じる個人や組織の利益侵害」と「情報を公開しないことによって生じる社会の安全に対する不安や危険性」との対立については、前者の場合の「情報を流布」するという言い方自体が、不適切な「情報」(デマ、誹謗中傷、違法コピー、猥褻物、違法な言説、など)を意味するようにも読める。そうなるとここで情報公開と情報隠蔽との対立という枠組みで論ずることは妥当ではない。

 前述のとおり、情報の開示・非開示をめぐる問題事例としては、福島第一原子力発電所の事故がある。(その場合のふたつの「立場」をどう定立するかが問題で、安易な2命題を立ててそれぞれの「幸福」について「公正」な取り扱いを考えるなどと誘導すると、おかしなことになる。この点は、後述する。)しかし、ここでもSTAP細胞事件同様、監督官庁それ自体の問題性を避けて通ることはできない。原発事故の教材化となると、原子力推進部局によるSPEEDI情報の非公開・不適切取り扱いだけでなく、教育行政部局による近県学校における放射線量の恣意的測定、福島県内の児童生徒の被曝量の恣意的測定、総じて児童・生徒の放射線被曝対策における誤謬を見てきたことを考慮すると、「情報」の選択ないし作成(捏造)や「情報」の公開非公開をめぐる問題に関して、文部科学省にとって容認できる記述はきわめて限られる。これらの事実を指摘することすら、不適切な「情報の流布」として隠蔽圧力をかけるのは必至である。情報隠蔽と不正確情報拡散の当事者たる文部科学省が、法的拘束力があると(僭称)する「学習指導要領」作成、「学習指導要領解説」執筆、実質的に発行禁止権限をもつ教科書検定の当事者でもある限り、原子力発電に関係する情報の取り扱いについての妥当な対応は到底期待できない。

 

○ 熱帯林伐採 

 熱帯林伐採に関して、「指導要領」は「経済活動を優先する立場と環境の保全を期待する立場との対立」という問題の立て方をする。「経済活動優先」を当事者企業の短期的な金銭的利益獲得という通俗的意味で捉えるなら別だが、熱帯林伐採は、原子力事故、化学物質の放出、資源の浪費・乱獲などの大規模環境破壊の場合と同様、当該地域の存立とりわけ周辺住民の経済活動を根底から破壊するのであって、とても「経済活動優先」の活動とはいえない。原子力災害において典型的だが、これらの環境破壊行為は事実上未来永劫にわたって全人類の経済活動に根本的影響を及ぼすことになる。教科書のほかの部分での「経済」に関する叙述と矛盾するような、通俗的な意味で「経済活動優先」とするのは失当である。当事者企業にあっても、たとえ短期的には膨大な金銭的利得を得たとしても、環境破壊活動が当該企業の発展存続に自滅的影響を与えることもある。

 「環境の保全を期待する立場」は、絶対的に優先するものである。それを、たかが営利企業経営者や国家機関の短慮でしかない「経済活動を優先する立場」ごときと対立させ、「公正」な解決策と称して足して2で割るような妥協を正当化し、問題のある営利活動に有利な結論に導くことは許されない。

 

○ 核兵器

 「核保有国」の「幸福」と「核開発を進める国」の「幸福」の対立については、ふたつの立場ともにうけいれることのできない立場であって、その両者がともに受け入れるような「公正」な解決をみいだすことを求めるおぞましい問いは、学校教育における教材としては妥当性を欠く。世界最大の核兵器保有国と軍事同盟を結ぶ国家の教育行政当局にして、同時に核兵器開発の前提となる原子力開発と核兵器運搬手段としての航空ロケット技術の両方を管轄する科学技術部門とともに、ひとつの省を形成する機関であれば、こうした悪魔的な道をさがすのにふさわしいかもしれない。

 「幸福・正義・公正」図式と称して、核兵器保有を正当化する「核抑止論」をいっぽうの「幸福」とし、他方に、核兵器放棄をめざす「幸福」をおき、ふたつの「幸福」の対立を演出するという、ありがちな問いが設定されることも考えられる。そうなると、「核抑止論」についての客観的説明の域を越えて、これに説得の機会を提供することになる。

 

○ 福祉

 社会福祉と増税の問題教育予算や福祉予算の切り詰めを、赤字国債発行や増税とリンクさせる図式化によって、いわゆる「新自由主義」的言説を、教科書にそのまま掲載することになる。巨大企業の税負担の軽減、膨大な補助金投入、巨大企業に奉仕する社会資本整備、さらには所得税の累進率の低減など、財政と税制の問題を全部捨象して(累進税率だけは本文に記載ある)、突然赤字国債・低所得者増税と福祉抑制との二者択一を迫るのは、問題外である。非正規雇用、低賃金・過重労働を推進してきた労働政策・行政行為こそが、国民年金掛金すら払えない膨大な貧困層を生み出したことを忘れて、生活保護費増大を問題視するのは失当である。

 

 こうしてみてくると、「学習指導要領」の「幸福・正義・公正」図式にしたがってつくりだされた「幸福」衝突事例は、例の「トロッコ問題」と似ていることに気づく。マイケル・サンデルが持ち出す「トロッコ問題」では、まっすぐ進んで5人をはねるか、進路をかえて1人をはねるか、いずれとするかという問題が提起される。「哲学者」の小川仁志にいわせると、進路をかえて5人を助けるのが「最大多数の最大幸福」の実現をめざす功利主義の立場となり、ただ1人の命をも奪うべきでないので進路変更行為を否定するのがカントの「定言命法」の立場だということになるのだが、そもそもこの程度の「トロッコ問題」それ自体は、ほとんど無意味な問いというほかない。トロッコの乗客が線路の転轍機を操作して、自由に進路を選べるというのがおかしな話で、そんな都合のよいことができるくらいなら、さっさとブレーキをかけるか、警笛を鳴らせば済む話である。いや、ブレーキは壊れているし警笛もないのだというのなら、大声で叫べばよい。線路上で見張りも立てずに工事しているというのもおかしな話である。非現実的な前提が多すぎる。現実的かどうではなく、ある問題を考えるための仮想的問題だというのかもしれないが、もうすこし現実的でまともな状況設定をかんがえるべきだった。

 しかし、この非現実性は、「トロッコ問題」の本質をよく表しているのである。乗客である「私」が、5人の生命か1人の生命のいずれかを救い、他方を剥奪する選択権をもつという設定は成り立たない。分岐点を前にして進路を選ぶことは不可能なのである。すなわち「選択の自由」にこだわっているけれども、そもそも「選択の自由」それ自体が成り立たない。「選択の自由」があるがゆえに、その「選択」の結果について「責任」が生ずる、と言いたいのだろうが、「選択の自由」は存在せず、したがって「選択」もありえず、当然「責任」問題は成立するはずがない。「トロッコ問題」そのものがそもそも成立しない。「選択の自由」がないところで、「選択」をせまり、そのことで「責任」を問うことの理不尽さと暴力性は、『ソフィーの選択』を想起させる。非現実的で理不尽な二者択一をせまられる。問いを投げ掛けられた側は、回答を拒絶することも、その理不尽さを指摘することもできない。このような愚劣きわまる二者択一問題をたてたうえで、各選択肢にあれこれの哲学的立場や政治的選択をなぞらえるのは、まったく無意味である。

 「トロッコ」に乗っている「私」は、「選択の自由」を行使する者として設定されているが、じつは何者かの手によって、ブレーキの効かない「トロッコ」に乗せられた被害者に過ぎない。その点で、線路上にいる「5人」ないし「1人」と同じ立場にいるのである。ただし、自らの生命を落とすことになるのではなく、ありもしない「選択の自由」を行使したことで、「5人」ないし「1人」の生命を奪った「加害者」に仕立て上げられることになる。実際には「私」は加害者なのではなく、冤罪被害者なのである。違法な取り調べによる「自白」を唯一の証拠として加害者に仕立て上げられた冤罪被害者に対して、「自白」の任意性を言いたてることでその「責任」を問うことはできない。同様に、ブレーキの効かないトロッコに乗せられた乗客について、ありもしない「選択の自由」のゆえにその「責任」を問うことはできないのである。

 なお、「トロッコ問題」の発想は、古くから存在する。たとえば、アジア・太平洋戦争における連合国軍による原爆投下を正当化する論理として、大日本帝国の降伏の早期実現を実現する原爆投下による死者数と、降伏遅延によって必要となる日本本土上陸作戦による連合国軍兵士の死者数とを比較考量し、死者数の少ない前者を選択することに正当性があったとする主張である。

 中教審委員の一ノ瀬正樹教授は、「放射能問題とは『程度の問題(matter of degree)』にほかならない」としたうえで、「よくよく考えてみれば、原子力発電所だけでなく、化学工場とか火力発電所とか、いわゆる『プラント』というのは、事故を起こした場合には、人が死ぬことがありうる」ので、「原発事故と放射線問題についても放射線被曝の『度合い』を十分に考慮して、『少しずつ』適切な行動へと向けていくしかない」、すなわち「現状の被ばく線量では重篤なことが起こるとは考えにくいという認識を確固として持ちつつ、自宅での生活の復興を果たしていくよう、日本国として支援する、というのが最も自然かつ合理的に導かれる対策である」と主張する(『放射能問題に立ち向かう哲学』、2013年、筑摩選書、70頁、253ー254頁)。全体を捉えることをせず、部分的問題に視野を制限したうえで、程度の問題=数量の多寡に還元してしまうという、「トロッコ問題」的発想がよく現れている。(しかも、「現状の被ばく線量では重篤なことが起こるとは考えにくい」という原発推進勢力の主張を、あたかも客観的主張であるかのごとく採用して、とりわけ、客観的根拠をあげて「重篤なことは起こらない」と主張するのではなく、曖昧に「考えにくいと認識して」と主観的な主張にすりかえることで、事故の過小評価=原発推進政策の続行に都合の良い結論へと誘導するのである。)

 

⑸ 「幸福・正義・公正」図式による視野限定

 

 「幸福・正義・公正」図式は、回答者にふたつの立場・ふたつの主張を提示し、そのいずれを選ぶかを考えさせ、さらにその選択の根拠・理由を考えさせる手法である。「幸福・正義・公正」図式は一種の「二者択一問題」なのであり、その点で「トロッコ問題」との共通点をもつ。二者択一問題の特徴について検討する。

 テレビ番組ではしばしばクイズ形式がとりいれられ、スタジオ内の芸能人らに回答とその理由を言わせたうえで正答を示し、ゲスト解説者が簡単な解説を加える。単純なクイズ番組以外にも、健康・家事・法律などの解説番組のなかにとりいれられる。何らかの「問題」を出されると、ついつい引き込まれてしまい、考えてしまう習性?を利用して、視聴者の注意を惹きつけるために用いられる。番組の途中に入るCMの前に発問したうえで、CM後に正答発表を先延ばしにすることで、チャンネル切り替えを阻止する効果をねらう手法も多用される。

 二者択一ではなく三者択一や四者択一ということもある。なんの選択肢も示さないままで回答を求めるものもあるが、それだと散漫になってしまう。それでも正答が頻発すると、あらかじめ答えを教えていることが露見してしまう。何らかの分野の知識を伝える番組などではいくつかの選択肢をあらかじめ示したうえで考え(るふりを)させるパターンが多い。

 クイズにあっては、「正答」はひとつとなっているから、その点で「幸福・正義・公正」図式や「トロッコ問題」は、それらクイズとは異なるとも言える。すなわち、「幸福・正義・公正」図式にしても、「トロッコ問題」にしても、一見して明らかな正解があらかじめ存在するわけではなく、いずれの選択肢にもそれ相当の正当性があるということになっていて、それらについて考慮させるのが目的になっている。対立する主張を「公正」な取り扱ったうえで、「正義」に合致しうる解決方法を考えさせるというパターンになっている。その点では、単純なクイズと「トロッコ問題」や「幸福・正義・公正」図式とでは差異があるのだが、あらかじめ選択肢が用意されていて、その範囲内において考えることだけが許されているという基本構造の共通性が本質的である。

 選択問題においては、各選択肢の差分にのみ注目する。ほんの小さな差分しかないばあいもあるし、逆にほとんど共通性がないように見えることもある。しかし、後者の場合であっても、共通性はかならず存在する。そして、選択肢の中からひとつを選ぶに際しては、その差分に最大の注意を払ったうえで、いずれを選ぶかを決断しなければならない。もっぱら共通性に関心をいだいてそこにばかり注目したりすると、差分から注意を逸らされてしまい、選択することもその理由を考えることもできない。

 「幸福・正義・公正」図式は、そこが狙いとなる。すべての(たいてい2つであるが)選択肢に共通の前提、共通の条件、共通の環境を度外視したうえで、選択肢相互間の差分にだけ注意を惹きつけ、そこだけに関心をいだいかせる。クイズ番組とは違い、単純な唯一の正答はないことになっていて、立場の違い、思考の枠組みの違いによって、ことなった回答がありうることになっているが、その場合であっても差分にもっぱら注意を向けるのであって、設問が提起されるにあたっての共通の前提、共通の条件、共通の環境については、いっさい考慮の対象とはならない。

 「トロッコ問題」であれば、分岐点で直進するか、待避線に入るかの二者択一、あるいは、となりにいる「太った男」を突き落としてトロッコを止めるか否かの二者択一が求められる。それに対して、「幸福・正義・公正」図式にあっては、同様に二者択一を求める場合もあるが、多くはどちらか一方を選ぶのではなく、双方の「幸福」をいずれも考慮したうえで、「折衷案」を作成するのが基本パターンとなっている。また、さきに見た横浜弁護士会の教材のように、どれかひとつを選ばせるのであるが、二者択一でなく選択肢が3つや4つのこともある。しかし、ここではそれらの差分にばかり注目するのではなく、それら(二者択一・三択・四択、「折衷案」)のすべてに共通する前提・条件が重要である。つまり、それら相互間の差分にもかかわらず、それらすべてに共通する基本構造が重要である。すなわち、「トロッコ問題」や「幸福・正義・公正」図式にあっては、前提条件を度外視しそれについては一切考えない、というのが本質的構造となっている。

 そしてそれこそが根本的な問題点なのである。選択肢間の差分にだけ注目させ、共通の前提、共通の条件、共通の環境については不問に付すことの問題性、それがものごとを考える上でいかに不当であるかは、「トロッコ問題」ではわかりにくい。ブレーキの壊れた暴走するトロッコ上から、前方の転轍機を操作して、自由に進路を選べるとか、太った男を突き落としてトロッコを止めることができるとか、その状況設定があまりにも馬鹿げているからである。そもそも、「太った男」を突き落としてトロッコを止めるというグロテスクな議論を平然とする無神経さにも辟易するが、あえていうなら、その程度で止まるトロッコであれば、5人がいる方へ向かったとしても最初のひとりを跳ねたところで停止するに違いない。この程度の空疎で漫画的な問題を出されて真剣に考えこんでしまう人の良さにつけ込んで、マイケル・サンデルは特定の思考の枠組みのなかに受講者や読者を引き摺り込み、彼らの眼を曇らせておいてからいよいよ具体的問題にとりかかる。ふたつの例をみてみる。

 ひとつは、「アフガニスタンのヤギ飼いの例」である(マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、原著2009年、邦訳2010年、早川書房、36−39頁)。2005年6月、アフガニスタンで軍事行動中のアメリカ海軍特殊部隊の4人が、タリバン指導者の捜索のための偵察中にアフガニスタン人のヤギ飼いに遭遇し、自分たちの存在をタリバンに知らせるリスクがあったので、縛り上げて時間稼ぎをしなければならなかったのだが、「ふとロープを持っていないことに気づ」く。

 

選択肢は、男たち〔大人2人と14歳くらいの少年〕を殺すか解放するかのどちらかしかなかった。

 

 4人の兵士は投票をおこない、ひとりは棄権し、「自分たちの命を救うためなら、あらゆることを行う権利を持っている」として殺害とするのが1票、「キリスト教徒としての心」すなわち、「武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けていた」として解放するのが2票で、結局解放する。それから1時間半後、80人から100人ほどのタリバン兵に包囲され、3人が戦死し、救出にきたヘリコプターも撃墜され16人が死んだ。生存者は著書で「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と書き、サンデルは「いま考えれば、ラトレル〔生存者〕にとって答えは明らかだ。ヤギ飼いを殺すべきだったのだ」としたうえで、トロッコ問題のどの設問に近いか、あれこれ自問自答してみせる。

 

ヤギ飼いを殺すことは路面電車のハンドルを切るほうに似ているだろうか、それとも、太った男を橋から突き落とすほうに似ているだろうか。

 

 アメリカ合州国のアフガニスタン侵攻は、2001年の「同時多発テロ」の首謀者に認定したウサマ・ビン・ラディンの引き渡しを拒むタリバン政権に対する戦争とされるものであるが、サンデルはそれら一連の背景事情についてはいっさい言及しない。アメリカ合州国のアフガニスタン侵攻の正当性・妥当性については、当然の前提なのでまったく考慮の対象外となる。

 もう一つの例は、福島第一原子力発電所事故の例である(マイケル・サンデル『マイケル・サンデル 大震災特別講義 私たちはどう生きるのか』、2011年、NHK出版)。これは、アメリカ合州国、中国、日本の大学生各8人が、インターネット中継によってオフィスにいるサンデルの「特別講義」を受けるというものである。サンデルは「原発事故には、議論すべき深い問題が潜んでいる」として、まず、「危険な任務にあたる人をどのように選べばいいのかという問題」を挙げる。すなわち、事故をおこした現場で放水や瓦礫除去作業の担い手に関する問題である。当初はいろいろな意見が出るが、途中で割って入ったサンデルが設定する問題はこのようになる。

 

皆はどう思うだろうか? 専門的な技術は必要ないが危険な任務に、高額な報酬を提示するのは、正義に反すると思う人。逆に、報酬を与えて募るのは合理的だと思う人は?

 

 実際には、下請け企業の作業員として危険作業に投入された者には低額の報酬しか支払われなかったのであるが、サンデルはそんなことはお構いなしである。サンデル流「トロッコ問題」は非現実性はむしろ当然のものであり、多数者の利益と少数者の利益の対立、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの対立、自由意志か経済的インセンティブか、などの定型的な対立パターンに仕立て上げたうえで選択をせまり、その理由を考えさせることにするのである。

 原発をめぐるふたつめの設問はこうである。

 

完全な技術は存在しない〔……〕それでも安全性を高め続けながら、原子力への依存を高め、原子力発電所を作り続けていくという〔第一の〕シナリオ

原子力への依存を減らす、あるいは完全になくす〔……〕その結果、私たちは生活の水準を下げなくてはいけないだろう。それでも原発は支持しない、そういう〔二つめの〕シナリオ

 

 「第一のシナリオ」は、「完全な技術は存在しない」のに「安全性を高め続けながら」と言うのは、矛盾しているから、端的に虚偽と言うほかない。「二つめのシナリオ」の、原子力の依存を完全になくすと「生活の水準」は低下するという想定は虚偽である。膨大すぎて全部を列挙することはできないが、たとえば使用済み核燃料や廃棄物の取り扱いひとつとっても原発依存がもたらす負荷は半永久的に継続するから事実上無限大であるし、ひとたび重大事故が起きれば、生命・健康に対する影響のほか、国土の喪失という回復不可能な損害が及ぶのであるから、当然、「生活の水準」低下を引き起こすのは原発依存の方である。なにより、現代日本において、原発による発電がゼロになっても、一切「生活の水準」の低下がおきなかったことは実証されている。こうした設問それ自体の虚偽性こそ、サンデル流「トロッコ問題」の本質なのである。

 「経験豊かな」ゲストとして、日本のスタジオに招かれた高田明(ジャパネットたかた社長)は、「やはりこれからはインドやアフリカの皆さんが、私たちの豊かな生活まで追いつくためには、どうしたらいいのかというところまで考えないと、原子力の問題というのは解決できない」と、石田衣良(作家)は、「僕が一番怖いのは、今回の震災や放射能事故のせいで、人が進むことを止めてしまうことだと思います〔……〕自動車や飛行機を作った時、必ず最初は危険でした」と、それぞれ陳腐な意見を述べて原発を擁護する。数十年前であれば、中国の石油需要のたかまりに対応するための必要性がいわれていたのが、今度はインドやアフリカになったようだ。

 しかし、ここで、中国の学生が次のとおり発言する。

 

ジャン 原子力の問題については、災害の規模と範囲が他とは全然違うと思います。飛行機などと比べている人がいますが、スケールが違いすぎて同じには考えられません。これはもう、日本だけの問題ではありません。日本の放射能事故の影響は中国やアメリカにも及ぶわけですから、世界中が関心をもってお取り組まなくてはいけない問題なんです。

 

 他国を後進国呼ばわりした高田明も、「飛行機などと比べ」た石田衣良も完全に論破されてしまい「経験豊かな」ゲストたちの愚かさ加減が暴露されたところで、サンデルが割って入って話を終わらせる。まとめとしてサンデルは「私たちは実に多くの論点があることを知った」といまさら陳腐な感想を述べ、つぎのようにいう。

 

サンデル 原子力のリスクは、飛行機に乗る時のリスクと同様に、そもそも受け入れるべきものなのだろうか。それとも、あのような甚大な被害を引き起こしていることを見ると、やはりそこには異なる種類のリスクがあるのだろうか。

 

 「……だろうか」で誤魔化しているが、サンデルは最後の中国の学生の発言によって完全にうちのめされてしまい、自分が設定した「トロッコ問題」がいかに空疎で欺瞞に満ちたものであったかを思い知ったようである。こうして、サンデルの作為的な「トロッコ問題」は、その作為と矛盾に満ちた選択肢設定の偏狭さを暴露され、サンデルが気の利いた教訓を垂れる余力もなくし、一応疑問文形式にしただけで学生の発言をおうむ返しにするという、いささか格好の悪い終幕となった。

 

⑹ 「幸福・正義・公正」図式における相対主義

 

 以上のとおり、対立するふたつの「幸福」の「公正」な解決という「正義」の実現について考えさせる「幸福・正義・公正」図式自体の問題性は明白であろう。「考えさせる」という押し付けがましさを差し引いたとしても、この三項図式自体にすでに問題がある。「幸福・正義・公正」図式という絵空事、空疎な図式をあえて設定することで、何が起きるかは、これまでの考察でだいたい見当はつく。すなわち、社会的な問題をとらえるに際して、その背景事情、歴史的・地域的なひろがりを考慮することをあらかじめ禁止し、恣意的・無原則的に理不尽な主張・立場を教科書にまぎれこませるのである。

 教科書の記述への干渉を正当化するものとして、教科「地理歴史」においては、「客観的で公正な資料」というキーワードが用いられる。通常であれば、とても教科書に入り込むことのありえない、通俗的だが根拠のない主張、明治国家を賞賛する主張、アジア・太平洋地域に対する侵略行為を正当化する主張、民族差別的主張、人種差別的主張などを教科書に取り入れるために、「学習指導要領」は、「客観的で公正な資料」に準拠することを求めることで、大日本帝国の行為についてのあらゆる批判論を抑制排除し、逆に植民地化の肯定的評価を教科書に持ち込む。すなわち、戦争行為に関する文書焼却や戦争被害の隠蔽などあらゆる記憶の忘却と捏造を前提にして、侵略戦争の実状の叙述については根拠の欠如や数値の不明確を言い立てて客観的叙述を排除し、かわって侵略肯定の主張の取り入れを促進する。

 

近現代史の指導に当たっては,客観的かつ公正な資料に基づいて,事実の正確な理解に導くとともに,多面的・多角的に考察し公正に判断する能力を育成すること。 (次期「学習指導要領」、76頁)

 

 教科「地理歴史」の近現代史にあって「客観的かつ公正」という原則が果たすのと同様の機能を発揮するのが、教科「公民」における「幸福・正義・公正」図式である。どちらも「公正」がキーワードになっている。教科「地理歴史」の近現代史でいうと、皇国史観近現代篇としての明治維新肯定史観、大日本帝国憲法賞賛史観はすでに歴史叙述の中心的なストーリーになっているが、そこに、近年の国粋主義=レイシスト勢力による南京事件の過小評価、朝鮮植民地化の肯定、強制労働・従軍慰安婦の否認ないし過小評価などに呼応する教科書記述を実現する上で、「客観的かつ公正な資料」がキーワードとなっている。教科「公民」にあっては、「幸福・正義・公正」図式によって、環境破壊・開発優先(「経済優先」)・原子力開発=核武装推進・軍備拡張を、それに対抗する生命・健康維持、核兵器廃絶、反戦の主張との「対立」に持ち込んだうえで、「公平」な発言の機会を与える。さまざまの「幸福」であるものを「公正」にとりあつかい解決に誘導することが「正義」に合致するという相対主義論法に流し込む。

 しかも、それらの国民の幸福追求権や平和的生存権を侵害する実態・主張・政策を批判・否認するどころか、「幸福」追求の一態様と位置付ける優遇措置をほどこし、対等の権限を与える。多数者国民の幸福追求権や平和的生存権を侵害する、一部勢力による利潤追求行為や軍事優先政策があたかも少数者の「幸福」追求であるかのごとく描き出す。利潤追求行為や軍事優先政策を批判することが、「公正」な対応ではなく「正義」に反するかのような気分にさせる。

 これを訴訟を範型とする公平としての正義実現のためのシステムであるかのごとく見做すことはできない。あえて訴訟にたとえるなら、国民の幸福追求権や平和的生存権を侵害する一部勢力による利潤追求・覇権拡大を遂行する犯罪加害者に、「幸福・正義・公正」図式によって発言の場を提供する手法は、あたかも国家機関としての検察官が犯罪加害者の側に立つ原告となり、犯罪被害者たる国民を被告人とする訴訟を提起するようなものである。

 

⑺ 行為の結果と動機という図式

 

 「幸福・正義・公正」図式については、中央教育審議会では全面的な検討はおこなわれていないが、「ワーキンググループ」の会議である委員から疑問点が指摘された。次期「学習指導要領」の科目「公共」に関する記述中の「2 内容、A 公共の扉」の「(2) 公共的な空間における人間としての在り方生き方 」は次のとおりである。

 

ア 次のような知識及び技能を身に付けること。

(ア) 選択・判断の手掛かりとして,行為の結果である個人や社会全体の幸福を重視する考え方や,行為の動機となる公正などの義務を重視する考え方などについて理解すること。

(イ) 〔略〕 

(ウ) 〔略〕 

イ 次のような思考力,判断力,表現力等を身に付けること。

(ア) 倫理的価値の判断において,行為の結果である個人や社会全体の幸福を重視する考え方と,行為の動機となる公正などの義務を重視する考え方などを活用し,自らも他者も共に納得できる解決方法を見いだすことに向け,思考実験など概念的な枠組みを用いて考察する活動を通して,人間としての在り方生き方を多面的・多角的に考察し,表現すること。

 

 この点に関して、「ワーキンググループ」の第11回会議(2016〔平成28〕年4月27日)で、岡崎竜子委員(金融広報中央委員会事務局金融教育プラザリーダー)が次のとおり発言した(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/071/siryo/1381962.htm)。

 

「行為の結果として個人の幸福と共に,社会全体の幸福を重視する考え方」という表現がございます。これは前回拝見したように思ったのですが,意見は申し上げませんでしたが,どう考えても,個人の幸福と共に社会全体の幸福を重視する考え方は全く賛成なのですが,その前段,枕詞として付け加わっております「行為の結果として」という表現に違和感があります。幸福というのは,行為の結果として生じたものに対して味わうものなのだろうかというふうに思うところです。この「行為の結果として」というのが要らないのではないかというところです。

 

 この発言について、当日もそれ以降の会議でも誰も何も言及しなかった。事務局の文科省の職員や、土井主査、原田主査代理も何も述べていない。説明も反論もなしに、まったく無視したまま「ワーキンググループ」の審議は終了し、次期「学習指導要領」の文章は先の引用のとおり決定告示された。さきにみたとおり、羽田正委員や大石学委員の意見に対しても同様だった。完全無視が多発した分科会審議を経て、「学習指導要領」本文が文科省の官僚の書いた原案通りに決定されたことは記憶されるべきことである。もちろん一人の委員の発言があらゆる場合に採用され、全部言ったとおりになるべきだというわけではない。しかしながら、一切言及することなく完全無視というのは、審議会設置の存在理由を文科省がみずから否定する行為である。行政機関が審議会をたんに隠れ蓑としていることは今にはじまったことではないから、とくに驚くにはおよばないが、ここまでひどい経過をたどるのは尋常ではない。

 さきの「近代化・大衆化・グローバル化」という教科「地理歴史」における中心的図式と同様に、この「幸福・正義・公正」図式は、教科「公民」の枢要な図式なのであり、委員からそれについての根本的疑念を呈する意見が提起されたことは晴天の霹靂ともいうべき事態である。完全に反論・論破して不採用とする勝算があれば別だが、その望みはない。うっかりすると「学習指導要領」改訂が頓挫しかねない。第2回会議や第10回会議において、事務局の文科省職員はこの「幸福・正義・公正」図式について、「行為の結果」、「行為の動機」という語を何回も用いて延々と原案説明をおこなった。岡崎委員の指摘を受け入れるとすると、単なる語句の修正程度ではすまず、すでにおこなった説明を根本的に撤回し、全部やりなおさなければならないことになる。隠れ蓑を失ってしまった文科省としては醜怪な鎧をむき出しにして、事態の制圧を実行するほかなかったのである。

 内容を具体的に検討する。「ア」の「知識及び技能」の「(ア)」と、「イ」の「思考力、判断力、表現力等」の「(ア)」は、けっきょくのところ同じことを言っているだけである。すなわち、

 

「ア」の「知識及び技能」

=「(ア)選択・判断の手掛かりとして,行為の結果である個人や社会全体の幸福を重視する考え方や,行為の動機となる公正などの義務を重視する考え方などについて理解すること。」

 

「イ」の「思考力、判断力、表現力等」

=「(ア)倫理的価値の判断において,行為の結果である個人や社会全体の幸福を重視する考え方と,行為の動機となる公正などの義務を重視する考え方などを活用し,自らも他者も共に納得できる解決方法を見いだすことに向け,思考実験など概念的な枠組みを用いて考察する活動を通して,人間としての在り方生き方を多面的・多角的に考察し,表現すること。」 

 

 或る「知識・技能」と、それの「活用・考察・表現」が別のことだというのは、意味のない言明である。「イ」が「(ア)」一つだけというのも、まず定型書式があって各教科・科目も全部それに従って書くことを強制されているための不体裁であるし、そもそもその一つでさえ本当は何も書くことがなくて、「ア」の「(ア)」を「活用・考察・表現」することだと、空疎なことを書いただけである。次期「学習指導要領」が新機軸だと豪語する「思考力、判断力、表現力等」なるものの中身の空虚さを露呈しているだけである。

 この形式的上の不具合の原因は、中身に原因がある。あえて、行為の「動機」と「結果」を対にする理由がない。特段の理由もないのに、「動機」と「結果」とセットにしてみせると何となくもっともらしく見えると思ったのだろうが、岡崎委員に不意打ちを受け、とっさに答えることもできず、さらに悪いことに次回の会議で「回答」することもできず、もちろん変更することなどありえず、ちゃっかりと最終「答申」で原案通りにしてしまったのである。

 原案のおかしさは、岡崎委員が指摘した、「動機」「結果」という対句的表現だけではない。「自らも他者も共に納得できる解決方法」を見出せというのだが、これでは上述のとおり、環境破壊・開発優先(「経済優先」)・原子力開発=核武装推進・軍備拡張を主張する「他者」(まさか「自ら」ではないと思いたいところだが、その可能性もある)も「共に納得」できなければならないのである。「思考実験など概念的な枠組みを用いて考察する活動」というのも、妙に具体的である。「トロッコ問題」や、別に言及している「囚人のジレンマ」「共有地の悲劇」などを指すようだが、「大綱的基準」がそこまで具体的にふみこんで特定事項の取り扱いを求めるのは明らかに行き過ぎである。いずれ、「トロッコ問題」ですでにみられるような、一知半解の軽率な取り扱いを蔓延させることになるだろう。

 「公正などの義務」という語も問題である。「など」と、わけのわからないものにも困るが、「公正」が「義務」とは看過できない主張である。「学習指導要領」における「義務」のとらえかたについても検討する必要があるようなので、この件については次節で検討する。

 今になって考えれば、文部科学省はこの時点で岡崎委員の意見を真摯にうけとめて、原案を修正すべきだった。次期「学習指導要領」の実施は2022年からで、しかも学年進行だから完全実施までに3年間かかる。そのころにはその次の「学習指導要領」の改訂作業に取り掛かることになるのだが、かりにそこでこの欠缺を直したとして(あまり期待できないが)、その次々期「学習指導要領」の完全実施は2030年代なかばだろう。これから20年近くも、このおかしな文章が日本国政府の「法的拘束力」を与えられた公定文書として、その姿をさらすことになる。

 以上、「幸福・正義・公正」図式について、「学習指導要領」による規定、教科書の記載例、教員・研究者・弁護士らによる実施例をひととおりみたうえで、ネタ元と思われるサンデルの「トロッコ問題」についても検討してきた。サンデル自身の対話授業の経過からわかることだが、いくらあたらしい授業手法だと吹聴し、作為と矛盾のめだつ偏狭な問題設定で受講者を誘導しようとしたところで、結局のところ提唱者自身の手にも追えない結果を招くのである。安易につくりあげた「幸福・正義・公正」図式を無批判に導入普及したとしても、同様の隘路に入り込んでしまうのは必然だろう。もういちど冷静に考えるべきである。