カイロ市街は、東西250km、南北180kmのナイル・デルタの起点にあたります。カイロからナイル川の左岸(西側)に渡り西に向かうと、7kmあまりで緑地が終わり、丘陵状の砂漠がはじまります。ピラミッドは貴重な緑地をつぶすことなく、この砂漠の縁に立ち並んでいます。(このページの地図は、GoogleMapですが、GoogleEarth ではカーソル位置の標高が表示されるので、起伏のぐあいがたいへんよくわかります。)
ただし、カイロはイスラムのアラビア人が7世紀に建設した軍営都市(ミスル)が起源ですから「ピラミッド時代」には存在しません。エジプト古王国時代(2700−2200B.C.頃)の首都は、ここから15kmほど南、ナイル左岸にあったメンフィスです。
この一帯には、ピラミッドの残骸が何十も点在しています。多くは著しく劣化しており、崩壊したというほかない状態のものも見られます。(これもGoogleEarth で観察できます。 GoogleMap でも可能ですから、このページの地図を操作して、砂漠の縁の部分を見てください。)もっとも、そこにあるとわかるだけまだいいほうで、多くは砂に埋もれ、存在すらわからないようです。
ギザ(カイロの対岸)
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の、いわゆる「三大ピラミッド」の衛星写真です。
クフ王のものが最大で、高さ140mほどです。目の当たりにすると思っていたよりはるかに急傾斜で、「尖って」います。
いずれも表面は平滑な白色大理石で仕上げられていましたが、下のスライドのとおり、構造体となっている茶褐色で直方体の黄色石灰岩がむき出しになっています。7世紀の要塞都市カイロ市街の建設の材料取りのためです。(日本の大手建設会社の大林組が、現代の工法でクフ王のピラミッド相当の大きさの建造物をつくるとして、その工法と費用などを計算しています。ただし内部構造の検討が不十分だと思われます。https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/pyramid/p01.html)
王のミイラや副葬品はすでになく、壁面に盗掘のための穴が開いています。ドロボウといっても、壁に穴をあけるとか、土を掘るなどというレベルではなく、大規模土木工事ですから、夜中にコソコソとやれるようなものではありません。
これもエジプト最大のスフィンクスは、ナポレオンが演説した時には、顎まで砂に埋もれていたので、今でも色が違っています。
サッカラ村(古王国時代の首都メンフィス)
「三大ピラミッド」から直線距離で15kmほど南のサッカラ村のはずれ、「古王国時代」の首都メンフィスのすぐ近く、第3王朝のジョゼル王(2686−2613B.C.)が建造した最初のピラミッド、いわゆる「階段ピラミッド step pyramid」の衛星写真です。ギザの衛星写真と同じ縮尺で表示してあります。
うっすら痕跡が写っているように、南北544m、東西277m、高さ10.5mの城壁で囲まれていました。東南には神殿があるのですが、ピラミッド本体や城壁などの傷み具合とくらべて、その列柱はあまりにも程度良好で、どう見ても最近作ったようにしか見えませんが、コンクリート製の卓状の覆いは別として、当時のもののようです。岩石の材質がことなるのと、砂に埋もれていたので傷が少ないということのようです。
(伽藍配置図は、http://www.arthistory.upenn.edu//zoser/zoser.html。また、早稲田大学の中川・西本建築史研究室のウェブサイトの写真と説明を見ましたが、伽藍全体は当時のものであり「最近作った」わけではないようです。http://www.waseda.jp/prj-egypt/sites/pyramids/saq03/saq03-J.html)
「なぜ第1王朝や第2王朝において初めて、建物の構造部分やその他の重要な部分に石が用いられるようになったのかという問いには答えることができない。真正の石造建築は第3王朝(およそ紀元前2700年)に、サッカラのジョセル王葬祭複合施設として彗星の如く出現した。この形式に先んじた初期のものが別に存在する可能性も考えられるが、それらの形跡は今のところ見つかっていない。」(D. アーノルド『エジプトの建築』まえがき。上記中川・西本研究室による試訳、http://www.waseda.jp/prj-egypt/sites/EgArch/Arnold.htm)